回収船
水上バイクの男達は恐怖に慄きながら逃げていた。
” 密漁行為が見つかった ” そんなことはどうでも良かった。見つかったのは普通の民間漁船だ。海上保安庁や水産庁の船と違って逮捕されるわけでも臨検されるわけでもない。
例え見つかったのが取締船であったとしても水上バイクなら確実に振り切れる。どこかの島の入り江の岩陰にでもバイクを隠して潜んでいればGPSの位置情報を頼りに組織の回収船がやって来てくれるだろう。
民間漁船程度なら海上で直接に回収船とランデヴーしてそのままバイクをトランサムステップに積み込んでしまえば後は知らぬ顔で港に戻ればよいだけの話だった。
だが後ろから追って来るモノはそうした見通しを吹き飛ばしてしまうほどの異様なものだった。
追いかけて来るのは只の中型漁船だ。だが海を割ったかのように立ち上る巨大な白い水煙がその周囲を怒涛の如く覆いこんでおり後方には海水を含んだ気流が猛烈な渦を巻いている。
ゴゴゴゴォォォ―と地響きのような轟音を海上にとどろかせながらそれは彼らの後を驀進して来ていた。
何より凄まじいのはその速さだった。時速80キロを超える速さで疾走しているはずの自分達を凌駕するスピードでそれは迫りつつあった。
ドーム状を呈した水煙の陣の中心に坐する漁船はエンジンパワーで波を蹴散らすのではなく未知の力で海面を押し開き平滑化しながら宙を浮くように滑走していた。
バイカー達はさながら幅三十メートル、長さ百メートルを超える馬鹿でかい無人のサーフボードに追いかけられているような錯覚すら覚えていた。
そして仄暗い波間のはるか彼方に小さな白い船灯とボウっと浮かび上がる船影らしきものが見えた時、水上バイクを運転していた男が叫んだ。
「有了! 是朋友的船!」
それは異国の言葉だった。
― ― ― ― ― ― ―
一方、七宝丸の船長の池田は思わぬ事態に焦っていた。
密漁者の乗った水上バイクを視界に捉えたのは数分前の事だった。後部のジェットノズルから白いジェット水流を噴出して猛スピードで疾走するそれをさらに上回る弩級のスピードで七宝丸は追い上げていった。
その水上バイクが不意に速度を弛めた。見れば黒い波の彼方に大きな船影らしきものが停船しているのかと見まがう様なゆっくりとした速度で水上バイクの進路と交差するように航行していた。。バイクはスピードを今までの七割ほどに減速しながらその船影に向かって進んでいく。
ナイトビジョン機能付きの双眼鏡でその船影を覗いた彼はそれが大型のプレジャーボートもしくはクルーザーであろうと判断した。そしてそれが密漁者達の乗った水上バイクの回収船であるらしきことに気付いた。
その回収船らしき船は七宝丸の進路を横切る形で航行していた。
海上衝突予防法では相手船を右げん側(船の右側)に見る方の船が相手船を避けるように定められている。そして現在、その船は七宝丸の右舷側のはるか先の海面をゆっくりと進んでいる。
池田は即座に船の進行方向を左にずらすよう機関長に指示した。機関長の岡崎は彼より三つほど年下で船乗りとしての経験豊富な頼りになる男だ。ところがその岡崎から返って来たのは驚くべき言葉だった。
「船長・・・舵が上手く利かんのじゃけんど。」
「ハァッ! 舵が利かんちゃどしてぞ?!」
「多分、ペラ以外の異常な推力が働いとるけんじゃないかと・・前に進む力が強すぎて舵が利かんのと違うんかと思うんじゃが?」
「そなんアホな! ほ、ほんならエンジンを逆転させいや! 向きが変わらんのやったら船を止めるしかないが!」
陸上の乗り物と違い船舶にはブレーキという物が存在しない。止まる際はエンジン出力をゼロにして波の抵抗によって止まるのが普通である。更にスクリューの逆転機能を持った船はそれを使って逆推進力を発生させて減速する。
エンジン出力の小さな小型船ならば自動車と同じクラッチ機構でスクリューを逆回転させ、何百馬力ものエンジンを載せた大きな船ならばエンジンそのものを逆転することでスクリューを逆回転させるのである。
但し、スクリューを逆転させた場合、ペラから発生した水流は船の前方に流れる事になる。そのため後部にある舵に水流が触れることが無くなるので船の操舵は効かなくなる。
つまり進路変更をせずにスクリューを逆転させて制動距離を短くするか、操舵によって進路を変えて衝突を回避するかのどちらかを状況に応じて選ぶ必要が出て来る。
だが状況に応じてと言われても今の七宝丸の状態は航海士の資格を持つ池田にとっても理解を超えた異常なものであった。
彼の船乗りとしての常識において総トン数三十トン以上の中型漁船が時速90キロを超える速さで航行するなどあり得なかった。
只、はっきりしているのはこのままの速度で進めば数分後には最大出力で逆推進を掛けても密漁者達の船に衝突する距離に到達してしまうという事だった。
「勿論、そうやってはみるけんどの。それでもこの異常な推力を止めんことにはおんなじ事じゃと思うがの。」
それを聞いて池田の顔が青くなった。
〈 ッ!・・・まずい! 〉
池田は少し離れた場所に立っている紅狐に近寄ると慌てた様子で話しかけた。
「鵺弓さん、直ぐにこの船に掛かった海神のご加護とやらの法術を解いてくれ!
このまま行っきょったら七宝丸は彼奴らの母船に衝突してしまうが!」
「母船に衝突する? だったら舵を切って進行方向をずらせば回避できるのでは?」
「その舵が利かんようになっとるらしい。たとえ利いたとしてもこのものごっつい速さでは船を躱すのも止めるのも間に合わんわ。」
池田の引き攣った表情から事態の重大さと緊急性を理解した紅狐は急ぎ足で舳先近くの甲板に仁王立ちしたままの玄狼に近寄って声をかけた。
「くろう君・・・・玄狼君? ちょっと! 玄狼君!」
少年は硬直したかのように前方を睨んだままで反応らしきものを示さなかった。思わずその華奢な肩に手を掛けようとして彼女はハッとしたように思いとどまった。そして伸ばしかけた手をそっと引いた。
〈 これってまさか・・狂戦士状態になりかけてる?
という事は・・・・ひょっとして狂戦士症候群を
発症しかけているって事?
えっ、そりゃ不味いわ! 〉
紅孤は玄狼の首筋と額に左右の掌を密着させると薄く整えた和魂の気をゆっくりと送り込んだ。
すると石で出来た彫像の様に硬く無表情だった少年の顔が生気を吹き込まれたかのように温かみを帯びた柔らかいそれに変わっていった。
彼女はそこで少年の肩をゆすりながら再度、大きな声で呼びかけた。
「玄狼君! しっかりして!」
その途端、玄狼はビクッと身を震わせるとポカンと口を開けて紅孤を見た。
「ヘッ・・・紅孤さん? あれ? 俺・・何を?」
「それは良いの! 後で説明してあげるから!
とにかく今すぐ荒脛巾の術を解いて船を止めて頂戴!」
紅孤の見幕に驚いたのか、玄狼は慌てて舳先の方に向かい右手の人差し指と中指で結んだ刀印で空を袈裟懸けに切りながら短い含み気合を発した。
「哼っ!」
その途端、船はドォーンと前後に大きく揺れた。荒脛巾の術を解いた事によって舳先の前方に発生していた低圧領域が消失したことで海水を含んだ巨大な大気の壁が船の先に立ち塞がったためであった。
前方に舳先を遥かに超える高さの水柱が立ち上り、船首に激しく激突する。その衝撃で船体がギシギシと不気味な音を上げて軋んだ。
もし玄狼が段階的に制動を掛けて負荷を分散するポンピングブレーキと呼ばれる制動技術を知っていたならもう少し穏やかで安全な停船が出来たであろう。
尤もABSが普及した現代においてはこの時代遅れの運転技術は既に必要ないものとなってしまっているが・・・
しばらくして荒脛巾の術の中断が引き起こした物理的負荷による反動はどうにか治まったが船の前進はまだ止まらなかった。何十トンという重量を持った船が時速50ノット(約90キロ)を超える速度で驀進していたのだからその慣性エネルギーは莫大なものだった。
今や右舷方向に見えるクルーザーは既に肉眼でもはっきり見えるほどに近づいてきていた。
これは少しばかり対応が遅すぎたと紅孤が後悔し始めたその時であった。
濃密な深青色の帳がゆっくりと七宝丸を包むように舞い降りて来たのは・・・・・
その蒼い帳に呑み込まれた七宝丸はまるで高粘度の機械油の海に飛び込んだかのようにゆっくりと減速し始めた。
やがて七宝丸は完全に止まった後、今度は後ろに向かってゆっくりと動き出した。エンジンの逆転によって発生した逆推進力のせいであった。
事態の急激な変化に呆然としていた船長の池田が慌てて機関長の岡崎にエンジンの停止を命令した。
「こ、これは?・・・!」
紅孤は突然、自分達を包みこんだ深い海の中のような深青色の世界に驚きの声を上げた。この蒼い空間の中ではまるで重力が何倍にも増えたかのように体がゆっくりとしか動かせなくなっていた。
蜂蜜の詰まった瓶の中に落ち込んだハエになったような気持ちで彼女は必死に状況を確認した。真っ青な色ではあるが海中ではない。空気はあって呼吸は出来る。但しこの船の上でそれが見えているのは彼女と玄狼だけだった。
他の船員達はスローモーション再生を思わせるゆっくりとした奇態な動きを繰り返している。
〈 これは・・ひょっとして・・・饑神の術?
確か無動領域とか言うやつよね?
※ 饑神【第13話 無動領域】参照
話に聞いたことはあるけど実際に見るのは初めてだわ。それもこんな大きな
漁船を止めてしまうほどの広範囲で強力な饑神の術なんて。
いくら何でも生体念能だけでは無理な話の筈・・・・
その前の荒脛巾の術と言い、何処かに念能媒体を持っていなけれ
ばおかしいわ。一体、どこに隠しているのかしら?
それらしいもので彼が身に着けているものと言えば・・・・
アッ、まさか? 〉
紅孤が色々と推理を巡らしたり船長達が前代未聞の異常事態にオロオロしている内に密漁者達の回収船は七宝丸の左舷側へと通り抜け水上バイクの回収を始めていた。
水上バイクが回収船のスタン部分に横付けすると海面より沈んでいた油圧式のトランサムステップがゆっくりとせりあがって来る。
そのまま荷締めバンドでバイク本体を固定すると密漁した魚介類を入れた釣袋と一緒に二人のバイカーはクルーザーへと乗り込んでいった。船の中には他にも何人かの人影が見えた。
船は三十フィートクラスのサロンクルーザーだ。中型サイズのサロンクルーザーは一隻六千万から一億を超えるものまである高級船舶である。そのため一見するとナイトクルージングを楽しむ金持ちの道楽にしか見えない。
まさかこの船が密漁者達の母船だと見抜く者は少ないだろう。
回収船が高価なクルーザーであることや水上バイクを使っている状況から推察して彼らのバックには豊富な資金力を持った集団、例えば反社組織またはそれと組んだ華僑、中国マフィアなどが噛んでいるらしい事はほぼ間違いあるまい。
そして回収船は動き始めた。恐ろしく速い。恐らくエンジンを含めた各所に違法な改造を施してあるのだろう。あっという間に小さくなっていく。
連絡した巡視船はまだ見えない。どうやら運悪く近くの海域にはいなかったらしい。
「まぁ、あのまま衝突するよりはずっとましじゃけんどの。竜王さんの加護まで貰うて折角、此処まで追い詰めたのにのう。残念じゃ・・・」
池田が悔しそうにそう言った時であった。
突如、暗い海面を割って黒く大きな何かが逃げていくクルーザーの右手に浮かび上がった。海上に現れた部分だけで五、六メートルはあるヌラリとしたそれは巨大なくらげのようにも見えた。
そしてその奇怪な何かは逃げていくクルーザーの右舷に凄まじい勢いで衝突した。
「「「「「・・・ ! ・・・」」」」」
池田をはじめとする船員達が目まぐるしく連続する異常な出来事に付いて行けず息を呑んで立ち尽くしている中で紅孤がニタリとした妖しい笑いを浮かべて呟いた。
「出たわ・・・海坊主よ。」




