相合傘
のっしのっしと遠ざかる男の大きな背中を見送りながら亜香梨が呟いた。
「オン爺、ホンマに海に出たりしよんかいな? 魚やら捕ったって売るほど捕れるわけやないやろし・・一体、何しょんやろな?」
「オン爺か? 最近、ちょっと呆けかけとるらしいきんの。もしかして事故で死なせてしもた孫の事を捜しに行っきょんやないんかの?」
賢太が亜香梨の呟きを受けてそう応えた。それを聞いた亜香梨が抗議の声を上げた。
「もうやめてよ、そなん可哀想な話せんとってつか(しないでちょうだい)。
そらな、ウチもちらっとそう思たけんど口にするのが怖かったけん黙っとったのに・・・・賢太のアホ!」
亜香梨の非難めいた物言いに玄狼はまた恒例の口喧嘩が始まるのかと気になったが不思議と賢太は何も言い返さなかった。亜香梨の様子が怖がると言うより何処か哀し気に見えたからかもしれない。
「あ、雨や!」
気不味くなりかけた雰囲気を打ち壊すかのように団児が驚いたような大声を上げた。
その言葉通りにパラパラと音を立てて雨が降って来た。
いつの間にか淡黄蘗色の陽光は冷えた大気に溶け込んだかのように薄くなり高く青かった空は黒ずんだ灰色の雲に覆われ始めていた。
小粒ながら冷たい秋時雨に五人は慌てて駆けだした。
一緒に駆けながら玄狼は背中のランドセルを外すと冠を開け中から折り畳み傘を取り出した。開いた傘の柄を両手で握って前屈みの姿勢で風にあおられながら一生懸命走る。
やがて全員が海外通りの陸側に生えている大きな松の木の下に駆けこんだ。
息を切らしながら濡れた額を手の甲で拭っていると賢太が傘を指差していった。
「玄狼、コウモリ傘やらよう持っとったの。まじでグッドタイミングじゃが。
今朝の天気予報でも見とったんか?」
「いや、そういうわけではないんやけどな。ずっと学校に忘れたままになっとって
五年生の美化委員の子から言われたんや。
傘棚に置いたままやとざまく気な(乱雑な)けん持って帰ってくれって・・・・・」
それを聞いてハッハッハと愉快そうに笑った賢太がふと怪訝そうに目を細めて傘を指差しながら言った。
「若、なんぞ、それ?」
賢太が指差したのは玄狼が握っているコウモリ傘のハンドルのすぐ上にある玉留め部分だった。そこから白い光沢をもった提げ紐が伸びてその先にピンク色の楕円形をした小さな物体が付いていた。
一見すると携帯電話のストラップかのように見えるそれは玄狼に身の覚えがないものだった。
「あれ、なんやろ、これ?」
彼はそれを指先で掴むと顔のそばまで近付けてじっくりと見てみた。
桜の花びらを思わせる艶やかなピンク色の薄い板のようなものを光沢のある透明なガラス状のものが包み込んでいる。
片端には小さな穴が空いておりそこに白い提げ紐が通されていた。
提げ紐の片端は傘の玉留めにしっかりと結び付けられていて少々の事では外れたり落ちたりしないようになっている。
よく観察した結果、それが爪のような形をした貴石か何かに透明な樹脂を何層にも塗り重ねた後、磨き上げてアクセサリーに加工したものであるらしいという事は判断できた。だが何故、それが自分の傘に付いているのかまでは判断できなかった。
「何じゃ、若、そなん女子みたいな飾りもん付けてから。
女子っぽい言われとないきん細マッチョになりたいとか言うとったくせに・・・」
「い、イヤ、これ俺が付けたん違うし・・俺、こなんもん知らんし。」
「知らん? ほんなら誰が付けたんじゃ、それ?
あぁー、ひょっとして若の母ちゃんが付けたん違うんか?」
「エッ、母さん? そんなはず・・・あ、いや・・あぁ、そうか・・そうかもな?
うん、多分、そうやろな!
ま、それやったらそれで別にこのままでもええか・・・」
自分が傘を学校に持ってきた時は何も付いていなかったと思う。それからずっと今日まで学校に置いてあったのだから母がそれを付けれる筈がなかった。
だが、そう言ってしまうと では誰が? という話になって五月蠅く詮索されるのは間違いない。
誰がどういうつもりでこのアクセサリーを付けたのかは知らないが別に困るものでもないし変な噂を立てられる方が鬱陶しい気もする。だから玄狼は賢太の勝手な憶測をそのまま利用させて貰う事にした。
「ハッ、若は相変わらず母ちゃん児じゃの。そんなん除けてしもたらどうぞ? 」
「えっ・・いや、除ける言うてもなぁ。かなり緊に縛っとるけん解くんが面倒そうやしなぁ。別にこのままでもかまんのと違うか・・・?」
「ああ、それやったら団児がカッター持っとるきん借りたらええが。なんぼ緊に縛っとっても切ってしもたら関係なかろが。
団児、玄狼にカッター貸してやれや。」
賢太にそう言われた団児がランドセルから小振りなカッターを取り出して玄狼に渡そうとする。仕方なく玄狼が手を伸ばしてそれを受取ろうとした時だった。
「皆、雨も小降りになったし早よ帰ろ。
玄狼君、ウチも一緒に傘の中に入れてくれん?」
亜香梨が突然、慌てたように大きな声でそう言うと玄狼の傍にぴったりと寄り添った。彼女の突然の予期せぬ言動に玄狼は勿論、残りの三人もハァッ?といった感じで声が出ない。
「ウチ、昨日から風邪気味でな。ちょっと熱っぽいんや。そやきん、あんまり雨に濡れとないんよ・・・イカンかな?」
「えっ、い、いや、イカンことないで・・・なんやったら傘貸してあげよか?
俺は濡れてもなんちゃかまへんきん。」
「ううん、それは流石に悪いわ。服が濡れん程度に入れて貰えたらかまんから。」
亜香梨はそう言うとゆっくりと足を進めだした。仕方なく玄狼も彼女に傘を差し掛けた状態で追随する。
他の三人は何やらぶつぶつと小声で呟きながら二人の後ろ姿を見詰めていた。
「こら、驚いたわ・・・なんと相合傘じゃが! ヒュ~♪ ヒュ~♪」
「雨に濡れながらカッター持っとったら俺は危ない人と違うんか?
それにしても亜香梨と若とはのぉ・・・意外な展開やの!」
「 亜香梨ちゃん、ホンマは肉食系やったん!? それ要注意やん・・・」
― ― ― ― ― ― ― ― ―
小雨の降る海岸通りを玄狼は傘を差して歩いていた。その傘は彼自身よりも隣を歩く人物を気遣う様に差し掛けられている。
彼の隣を歩いているのはややふっくらとした頬とクリッとした眼を持つ愛くるしい顔立ちの少女だ。
百五十センチをどうにか超える程度の小柄な少女だがその体は大人の女性へと変化しつつある事を充分に意識させる雰囲気を持っていた。
小学生とは言え思春期の扉を潜り始めた男女にとって相合傘とは胸の奥に甘い疼きを感じさせるものである。
互いに初々しい緊張を押し隠しながら黙って歩く二人だったがその静寂を破ったのは少女の方だった。
「なぁ、玄狼君。」
「ン、何や?」
「その傘に付けとるストラップな。」
「・・・ストラップ? ああ、これ、これがどうかしたんか?」
「それな・・・切って除けたりしたらいかんで。」
「え、なんで?」
「除けたら・・それを付けた人が可哀想やない? そう思わん?」
亜香梨はそう言って玄狼の顔を横目でちらっと見た後、小さな声で呟いた。
〈 この間、姫が用事がある言うて学校に残ったんはその為やったんやなぁ。 〉
その呟きが殆ど聞き取れなかった玄狼は思わず亜香梨に訊いた。
「え、何? 今、なんて言うたん?」
「ううん、なんちゃでないよ。ウチの独り言や。気にせんとって。
それより玄狼君、そのストラップのアクセサリーに見覚えないん?」
「この薄い爪みたいなピンク色の石の事か?
うーん、そう言われたら何かどっかで見たような気はするんやけんど。ま、それも気のせいかもしれんしな。」
「・・・・・」
〈 はぁ? ほんの数日前の事っちゃのに・・・ボケ老人か、あんたは・・
オン爺とええ勝負やがな。
恋愛沙汰には疎い方やろとは思うとったけんどそれだけと違て記憶力が欠如しとんやん。こら、志津果も苦労するわな・・・
でもまぁ、それはそれでかまんかな。
ウチもちょっぴり、ドキドキさせてもろたし・・・アハ、ごめんな、志津果。 〉
「へ? 又、なんか言うた?」
「ううん、何にも。
あ、ウチ、此処からは走って帰るきんもう傘はええよ。
玄狼君、ありがとな。相合傘、楽しかったわ。」
亜香梨は呆気にとられた表情の玄狼を置き去りにしてそぼ降る雨の中へ脱兎のごとく駆けだした。暫く走ったところで足を止めてくるりと振り返ると彼に向かって大きな声で言った。
「玄狼君、相合傘のお礼にヒントあげるわ。
それな、石と違うよ。それ、さくら貝の貝殻や。
胸に手を当ててもう一回、ように思い出してみてご(よく思い出してごらん)。
そしたら誰がそれを付けたんか分かるかもしれんで。
ほんなら、バイバーイ!」
亜香梨はまるで幼稚園児のように無邪気に手を振りながらパシャパシャと水しぶきを跳ね上げて灰色にけぶるコンクリート路の彼方へと消えて行った。




