思わぬ魔物
日没前の午後六時過ぎ、播磨灘と燧灘に挟まれたここ備讃瀬戸の沖合で漁船がドラムから送り出される長い緞帳のような網を海面へと流し込んでいく。網につけられた白い浮が数十メートル置きに並ぶ様はあたかも海面に浮かぶ高速道路の中央線のように見える。
網を流し終わったら後は一時間ほど待つ。船に乗っているのは四十過ぎの二人の漁師であった。やがて陽がとっぷりと暮れて碧かった海面が夜に染まったかのように真っ黒になった頃、男達は最初に流した刺し網の先頭の標識灯へと船を戻すとそこで網を巻き戻し始めた。
成果は良好だった。
たっぷりと肥え太って脂が乗った銀色の秋サワラが次々と上がって来る。
緞帳に似ていると言っても高さ十五メートル、長さは千メートルを超える巨大なものだ。海面側には浮が、そして海底側には沈子と呼ばれる金属製の錘が取りつけられておりそれによって網は海中に延々と続く壁のような状態を形作ることとなる。
それは九月から十一月にかけて行われるサワラ漁の伝統的な漁法である流せ刺し網漁であった。
奥城島の属する本土のK県においてサワラは「春を告げる魚」として知られている。特にサワラの押し抜き寿司は「春祝魚」と呼ばれる独特の文化風習として有名だ。
だが実のところ、春と秋では漁獲高においてそれ程の差は無い。むしろ秋サワラの方が海水温の低下によって脂がのってくるためおいしいとも謂われている。
「おお、こら、ごっつい大漁じゃが!」
「カタクチイワシが海面にようけピチピチと跳ねよったけんの。こら行けるんちゃうかと思いよったらやっぱりじゃ! やったの!」
二人は大漁の喜びに目を輝かせてサワラを網から外していく。時折、混じる外道の魚は甲板下の水槽に放り込む。
これだけの大きさと脂の乗りの良さなら明日のせり場では最高の値が付くことだろう。潮と陽に焼けた男達のいかつい顔に思わず笑みが浮かんだ。
ところがほぼ半分ほども巻き終わった頃かと思われた時、突然、網が動かなくなった。数トンもの荷重に耐える油圧モーターが唸るような声を上げる。
途轍もなく巨大な質量を持った何かに引っ掛かった様にドラムは回転を止めたままだ。やがて・・ビキィ、ビキィッという不気味な音が甲板の上に響き始めた。
漁網が千切れかかっているのか船体が歪みかけているのかどちらかに違いないと考えた二人は慌ててドラムウインチのレバーを引き戻した。
急激な負荷の消失による反動で船体が大きく揺れる。やがて揺れが収まったところで二人は船尾から伸びた刺し網が沈んでいる海面を覗き込んだ。
まだ刺し網が数百メートルは残っている事を示す白い浮達とその最後尾に浮かんだ標識灯の灯火が波の彼方に小さく見える。
「なんじゃ? 何があったんぞ?」
「・・・わからん! 海底の岩場にでも引っ掛かったんかいの?」
「そなんもんがこの辺りの海にあったか? わしゃ聞いとらんぞ? そなな話・・・」
「ほんだら一体何で・・・・おい? あれは何ぞ?」
一方の漁師が船から数十メートル離れた辺りの浮の漂う波の上を指差した。そこには丸くてぬるりとした黒い何かが浮かんでいた。
いや浮かんでいると言うよりもむしろ頭を出していると言った方が正しいのかもしれない。海から見える部分が氷山の一角でしかないことを感じさせるような雰囲気をそれは持っていた。
決して流木や海洋ゴミの類ではない。その証拠にその黒くぬるりとした何かは浮き沈みを繰り返しながらゆっくりと左右に蠢いていた。それは明らかに意思を持った生物の動きであった。
大型の魚類かクラゲの一種であろうかという考えが漁師達の頭の中に一瞬浮かんですぐに消えた。
その理由はそれが余りに巨大であったからだ。波間の上に突き出た部分だけでも優に高さ二メートル、広さ三メートル四方はあるだろう。
視認できる部分がそれ程であれば波の下に隠された部分は想像もつかないほどの大きさである筈だった。
「な、何じゃ、コイツは! アホみたいにおっきょいが!(大きいぞ!)」
「こなんおっきょい言うたら・・クジラか!」
「クジラ? 瀬戸内海にクジラやら居るんか・・そういうたら何年か前にこの辺の島にクジラの死骸が打ち上げられたちゅう話は聞いたような気がするけどの・・・」
二人はその不気味な未知の存在に薄っすらと脅えを感じ始めていた。網の回収作業はまだ半分しか済んでいない。早く再開したいところだが先程の異常事態の原因が分かっていない以上、迂闊にウインチを回すわけにはいかない状況だ。
しかし互いに口にこそ出さないがその原因は紛れもなくこの黒くぬらりとした得体の知れない何かであることに気付いていた。
「取り敢えずこの場を離れんか。(離れようぜ。) この後どうするんかは一旦、離れてコイツの居らんところで網を回収してから考えよで。(考えようや。)」
「おお、そうじゃの。ほんだらエンジン廻してゆっくり網を流すようにするか。」
流し刺し網漁は置き網漁とは違い容易に仕掛けの場を移動させることが出来るのが利点である。漁師達はエンジンをかけて海中に張り残した刺し網をゆっくりと引きながら船を進め始めた。
だが船が動き始めて間もなくその黒く巨大な何かはぐらりと巨体を傾けると浮から離れて漁船の右手の海面へと猛然と進み始めた。
巨体に似合わぬ凄まじい速さだった。黒い怪物体は夜目にもそれとわかる巨大な波しぶきを上げて船を追い越すと再度、体を傾けて馬鹿でかい弧形の波紋を描きながら向きを変えた。そしてその勢いを保ったまま漁船の右舷前方目掛けて突っ込んでくる。
黒いぬらりとした塊が荒波の中に立ちはだかるごつい岩礁の如き様相となって迫ってきていた。漁師達の感じていた漠然とした脅えは今や心の臓を押しつぶす恐怖に変わった。
「「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!」」
ズドオォォーンッという途方もない轟音が二人の悲鳴をかき消した。船は衝突の際の衝撃で大きく傾き二人の漁師は海に投げ出された。
この後、二人は自力で船まで泳ぎ戻って無事であったが船の損傷はかなりひどい物だった。
漁船の右舷が大きくへこみ、船縁は千切れ飛び、甲板は大きく亀裂が生じていた。
ドラムウインチは動いたので網と魚はどうにか回収できたが船は自力航行が出来なくなっていた。無線で漁協に連絡を取ったところ近くにいた漁船が助けに来て港まで曳航してくれた。
助けに来てくれたのは顔見知りの六十年配の漁師だった。
彼は二人に訊ねた。
「何にぶつかったんぞ? 相手の船は何処に居るのい?(いるんだ?)」
「それが・・・相手がな、船と違うんじゃわ。」
「ハァッ・・・船と違う? ほんだら何やったんぞ?」
二人はしばらく顔を見合わせた後でその片割れが答えた。
「それが何やったんかはわっしゃ(わしら)もよう分からんのじゃがな。
とにかくおっきょて黒うて(大きくて黒くて)ぬらりとした奴じゃ。
波の上に見えとるだけでも高さ二メートル以上はあったの。横幅や長さはは三メートルいわんかったわ。
そなんでっかい奴が動力付きの船みたいな速さで泳ぎよるんじゃ。ほんでいきなりぶつかって来てこの通りじゃがな・・・
目も鼻も口もある気には(あるようには)見えんかったがなんせ暗いきんな。
魚なんか動物なんかもわからへんが。
まあ、動きからして生き物じゃろうとは思うきんどなぁ・・・」
ぶつかった相手についての説明を聞いた漁師は珍妙な面持ちになると二人に向かって言った。
「そらお前・・・海坊主と違うんか?」
― ― ― ― ― ― ― ― ―
「海坊主! それホンマなん? そなんもんがホンマに出たん?」
亜香梨がまぁるい瞳をドングリを捜す栗鼠のようにくりくりと動かしながら玄狼に訊き返した。
「いやまぁ、そうかもしれんというレベルの話やけどな。」
そう玄狼が答える。すると今度は賢太が言った。
「それのぉ、俺んちの父ちゃんもその話しをしよったわ。夕方から深夜にかけて漁船が何隻か黒い大きょな何かに体当たりされとるゆうて・・・
このままやと危のてじょんならんけん(どうしようもないから)漁が出来んようになるが、て言よったけんど。」
此処は玄狼達の集落と亜香梨達の集落との分かれ道、島の北端から海岸通りの道を僅かに西寄りに進んだ場所だ。時刻は午後四時過ぎ、小学校からの帰り道での会話であった。
つい先日、玄狼の母の理子が鵺弓師としての仕事を本土の漁協組織から依頼された。その仕事の内容とは最近、瀬戸内海に現れ出した怪異の調伏であった。
そしてその怪異というのが驚いたことに《海坊主》であったのだ。
海坊主・・・それは海の仕事に携わる者でなくても知らぬ者は居ないであろう海の妖怪である。
夕方から夜間の海において突然、波を割って現れる黒い坊主頭の巨人でその巨大な体躯で船を襲い海の中に沈めてしまうと言われている。
今のところ、海坊主らしきものによる被害が出ているのは備讃瀬戸海域のみである。西寄りの燧灘や備後灘、東寄りの播磨灘には現れていない。
それも四国に近い海域ばかりで山陽地方に近い海域には目撃情報すらなかった。
つまりK県において中讃と呼ばれる地域に面した沖合にのみ発生している怪異現象という事になる。そこでK県漁業協同組合連合会、略してK県漁連が動いて複数名のハンターに海坊主退治を依頼する事になったわけである。
と言っても海洋生物を専門に狩る猟師などはいないので雇われたのは猟友会のハンターや山猟を生業とする猟師達だった。
ただ被害に遭った漁師達の話から判断すると船を襲ったのは生身の動物ではない可能性もあった。
小型漁船やプレジャーボートを半壊させるほどの大型生物が突然に現れて衝突した後、煙のように消える事。
その衝突前後にそれらしい生き物を視た者がいない事。
そして襲われた漁船やボートは全てその怪物体による体当たりを受けているにもかかわらず損傷部分に体組織、血液、鱗、体毛などの痕跡や残留物が一切、残っていなかった事。
それらの事から考えるとこれは数か月前に起きた例のタンカーと貨物船の衝突事故による念能性物質海洋汚染が引き起こした一連の怪異現象である疑いがあった。
そこで漁連の上層部はそれとは別に祓い師も何人か雇う事にした。
玄狼の母もその祓い師として雇われた一人だった。
一昨日の午後六時頃、漆黒の水干に紫檀色の袴という鵺弓師の衣装に身を包んだ母は島の魚港から漁師達と一緒に船に乗り込んだ。そのままサワラ漁に同行するのだと言う。
帰りは早くても夜中、多分は明け方になるから夕食は弁当、朝食はパンを食べてね、と玄狼に言い残して母は茜色に染まった海の上を波に揺られながら出港していった。
「ほんでどうなったん? 玄狼君のお母さん、海坊主をやっつけたん?」
亜香梨が勢い込んで訊ねて来た。他の四人、賢太と団児、郷子と佳純も息を凝らして彼の返事を待っている。
志津果は何か用事があるらしく少し学校に残るとの事でここにはいなかった。
「いや、調伏は出来んかったらしい。明け方、船長さんに車で送って貰って帰って来たけどな・・・半病人みたいな蒼い顔でフラフラやったわ。」
「「えっ!」」
同じ発声が二つ重なった。佳純と郷子が同時に声を上げていた。
そして二人とも玄狼に詰め寄るかの如く問い掛けて来る。
「お母さんが海坊主に敗れたの?」
「理子姉さんが海坊主に負けたん?」
「あのな、郷子。お母さんだけやと誰のお母さんか分からんきん理子を上につけてくれ、ややこしいんじゃ。
それから佳純ちゃん、その姉さん設定まだ活きとったんか?
もう普通に理子おばさんでええやろが・・それ聞くたびに何か重い罪を犯しとる様な気持ちになるけんもうやめよう、なぁ。」
ちょっとげんなりした顔つきでそう言った後、彼は二人の問いに答えた。
「ああ、母さんは負けた。ほんでも海坊主に負けたんとは違うけどな。他の魔物にやられたと言うとった。完敗やったらしい。」
「海坊主・・・じゃない?」
「他の・・・魔物?」
二人がそれぞれ訝しむような声で呟いた。暫くして郷子が得心がいかない表情で玄狼に訊ねた。
「巫無神流神道の鵺弓の中で開祖の再来とまで言われた人が敗れたなんて一体どんな魔物なの?
海にまつわる妖怪って言えば・・濡れ女、牛鬼、海座頭あたり?
その中のどれかなの?」
「どれも違うな。そいつはよう船の上におってな、荒魂の気打ちも式神も神器も祓い詞も一切が通用せん魔物や。」
「一切が通用しない?! ねぇ、教えてよ、 それなんて言う魔物なの?」
玄狼があっけらかんとした声で答えた。
「その魔物の名前は・・・・《船酔い》って言うんだ。」




