舟幽霊
備讃瀬戸大橋。全長13.1キロメートル、K県とO県を結ぶ鉄道道路併用橋としては世界最長の橋である。
この橋の管理を請け負っているのは本四連高と呼ばれる会社であり365日、24時間パトロールを実施している。
瀬尾浩一はその会社員の一人であり今日もパトロールカーのハンドルを握っていた。
地元の高等専門学校を卒業したのと同時に新卒として入社して十年近くになる。
一昨年結婚して去年娘が生まれた。学生時代のようにワクワクする毎日ではないが陽だまりの中に座っているようなゆったりとした幸せを日々感じていた。
やっと親を認識し始めた赤ん坊が歯のない口を開いてニッコリと笑う様子を想い出して思わず口元を綻ばしかけたそのときであった。
橋のガードレールの近くに茫っと立つ人影らしきものを見かけて彼は驚愕した。橋梁灯であるLED照明のオレンジ色の光の中に蒼い背広姿の背の高い男が立っていた。
夏の夜というのは人を開放的にさせるものである。暑さに浮かれた若い連中が本来、進入禁止である筈の場所に入り込んでしまったりする事はよくある話だ。
とは言え真夜中に近いこの時刻に自動車専用道路である瀬戸大橋の縁に人が立つことは異常であった。
乗っていた車が故障したか何かで仕方なく歩いて渡ろうとしているのだろうか?
浩一はパトロールカーを路肩に止めるとドアを慎重に開けて素早く路面へと降り立った。小走りに駆けながら立っている男に声を掛けた。
「何かあったんですか? 車はどうしたんです?」
だが男は彼の声が聞こえていないかのように何の反応も示さなかった。黙って橋のガードレールの向こうを見つめたまま動かない。
そこには橋脚灯や橋梁灯の灯に照らし出された暗い海面が果てしなく続いているだけだった。
再度、声を掛けようとして浩一は奇妙なことに気付いた。今宵は満天の星空だ。雨などは降っていない。
なのに男はずぶ濡れの服を着ていた。まるで今しがた、海の中から橋脚をよじ登って来たかの様に・・・・・
そう考えた時、浩一の胸の中に霜が降りたような冷たい感覚が生じた。それは恐怖であった。
この橋の上から飛び降り自殺と思われる事件があったのは二週間ほど前の事だ。
思われるというのは自殺なのか誤って転落したのかがはっきりしないからであった。
目撃した大型トラックの運転手の話によると橋のガードレールを乗り越えるようにして人が落ちたということだった。落ちたのは青っぽいスーツ姿の若い男のようであったという。
警察や本四連高が調べた結果、与島インター付近の車道路肩に乗用車が乗り捨てられているのが見つかった。車の持ち主は坂出市に住む三十歳の会社員で三日ほど前から出社していなかったらしい。
借りていたマンションには鍵が掛かったままで誰も出入りした形跡がなかった。
新聞によると男には妻と三歳になる娘がいたらしいが半年ほど前に離婚しており現在は一人暮らしだった。
離婚の原因についてまでは書かれていなかったがそれ以降、酷く落ち込んだ様子であったことからそれを苦にして自殺をしたのではないかというのが警察の見解だった。
更に彼が眼の前の不審な男に恐怖を覚えたのは他にも理由があった。
二ヶ月ほど前に瀬戸内海で150トンクラスの小型タンカーと4000トンクラスの外国籍貨物船が衝突するという事故が起きた。
この衝突により小型タンカーは船体左舷部に破口を生じ海水がエンジンルームに浸水したことにより積み荷である液体を流出させながら漂流する事となった。
幸い、沈没は免れたが積載していた300キロリットルの液体の約六割が付近の海域に流出する結果になった。
小型タンカーが積んでいたのは重油ではなく液状精霊鉱だった。
液状精霊鉱は各種の念能を発現するための触媒物質を造る際に元となる物質である。
これに他の元素を加えたり様々な加工を施すことで斥力能、引力能、発熱能、吸熱能等の念能を発現する合金類を製造することが出来る。
それ自体は銀灰色のドロリとした形状をしているが中性の水溶物質であることから大量の溶媒の中に長時間放置されれば透明になって消えてしまう。
よって重油のように養殖業や海の生態系に甚大な被害を与えるという事はない。
では何の被害も影響もないのかというとそうとも言い切れない。海には多種多様の生物が住んでいる。それらは生物である以上、下等ではあっても念を持っているはずである。
つまり人間のそれのように緻密かつ高等なものではなくとも海域全体においては計り知れない膨大な量の原始的な念が満ちていることになる。
そこに精神感応物質である精霊鉱が大量に散出されればどうなるか?
海上における液状精霊鉱の漏出事故など殆ど事例が無いためどのような影響が起きるのかは分かっていない。更に海水に溶け込んでしまっているから回収は不可能だ。
膨大な量の海水に希釈されるため影響は殆どないだろうという専門家の意見もある。
ところが数日前に浩一は漁師をしている中学時代の友人の藤本和樹から奇妙な話を聞かされていた。
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瀬戸内海では古くより一月から九月にかけて込瀬網漁と呼ばれる漁が行われる。
これは潮流に乗って回遊するイカナゴ、フグなどを一隻又は二隻の船を使ってⅤ字状に開いた袋網で待ち受け、採捕する漁法である。
特に水温の緩む五月以降は夜間に操業することが多くなる。
藤本和樹も六月の初旬、漁船に乗って夜間の込瀬網漁に参加していた。
潮の転流後に網を設置してから次の転流前に引き揚げるまでの約六時間は待ち時間である。その間、船はその位置を動くことは無くそこに停止したままとなる。
後、数十分で潮の流れが変わるというその時、彼は暗い海面上の彼方に奇妙なものを見つけた。ユラユラと蠢く青白い火影のようなものが行列のように並んで船に向かって近づいて来るのだ。
最初は他の船の灯火かと思ったが数が多すぎるし海面すれすれを漂うマスト灯などあり得ない。
「おっちゃん、あれは何なんじゃろ?」
彼は近くに立つ初老の漁師にそう訊ねかけた。それはこの船の持ち主で彼の叔父であった。それまで反対側の海面を見ていた叔父は頭を回して彼の指し示す方を見た。
数刻後、船灯の明かりの下でその表情が凍り付いたように強張ったのが分かった。やがて叔父は低く嗄れたような声を出した。
「和樹、今から何があったって決して声を出したらいかんど。
何が見えても見えんふりをせぇ。分かったの・・・」
漁師仲間の内でも豪胆な性格で知られる叔父の声が慄えていた。
時間にして五分程が過ぎた時、その正体不明の光は船のすぐそばまで近づいていた。
人間大の大きさを持った怪光の集団が彼らの船の横をユラユラと通り過ぎてゆく。
鬼火ような青白い光が波の狭間を茫っと暗く映し出していた。
船の右舷を揺蕩うようにゆっくりと進むその不可思議な光に瞳を凝らした時、彼は心臓が凍り付くような光景を眼にした。
それは暗い海面の上を並んで歩く人の集団だった。僅かに大人の男性や少年も混じっているがその大半は小学生もしくは中学生と思しき少女達であった。
彼女達は乱れたおかっぱ髪を額に張り付けたまま背中を丸めて潮の上を進んでいく。
ぐっしょりと濡れたセーラー服の袖口や首元から覗く冷たく青褪めた肌の白さが彼女達が既にこの世の者ではないことを感じさせた。
和樹は恐怖の余り金縛りにあったように動けないでいた。それが数分であったのか数十分であったのかは覚えていない。
只、自分の立つ甲板から僅か数メートルを隔てた波の上を進む死者達の行進を慄えながら視ていた。
死者達は足を動かしてもいないのに滑るように無言で夜の闇を進んでいく。そのうちの一人の少女がフッと首を回して彼の方を見た。
和樹の眼と少女の眼がピチャッと音を立てて合ったような気がした。まるで暗い海の水をそのまま眼窩に流し込んだような眼の色だった。
「ヒィッ!」
和樹は思わず喉の奥で叫び声を上げた。
途端に黒い海面を渡る死者達の行進が歩みを止めた。そして一斉に頭をゆっくりと巡らせると彼の方を見た。
次の瞬間、彼女達は獲物を見つけたサメの如くワラワラと船の右舷へと寄り付いてきた。何十年も昔の旧い造りを漂わせたセーラー服の袖口から伸びた無数の白い手が甲板の船縁を掴んで揺さぶり始める。
小型船舶とは言え二十メートル近い長さと十五トン以上の総重量を持つエンジン付きの船だ。それが荒波にもまれる木の葉の如く激しく揺れた。
和樹は恐怖で声すら出せなかった。
『このままだと船が転覆する!』
もし船がひっくり返ればどうなるか?
海に投げ出されただけなら泳いで近くの島に行くか他の船が通りかかるのを待てばいい。泳ぎには自信がある。
幸いこの時期であれば海水の温度も高いし航行する漁船も多い。助かる可能性は充分に高い筈だ。
だがそれは《彼女達》が何もせずに去っていけばの話であった。
彼の脳裡には無数の冷たく濡れた青白い手に掴まれたまま暗く深い海の底へと引き摺り込まれる自分と叔父の姿が浮かんでいた。
和樹はうろ覚えの浄土真宗のお経を必死に唱えながらマストにかじりついた。叔父は甲板室に蹲ったまま動かない。
そのまま船体を揺らす激しいうねりが数分も続いただろうか。いつの間にか船縁に取り付く《彼女達》の姿は消え船の揺れも収まっていた。
ぽつんと残されたマスト灯の白い光が彼らの船の周辺の海面を照らし出しているばかりだった。
「潮の流れが変わったきんやな。丁度、潮目の変わり時やったけん・・・」
甲板室から這い出して来た叔父が白く血の気の引いた顔でぼそりと呟いた。
和樹は叔父に訊ねた。
「おっちゃん、あれが何か知っとるんか?」
叔父は軽く首を何度か縦に振って頷くと答えて言った。
「ありゃー、舟幽霊じゃろの・・多分」
「舟幽霊?」
「おう、海で溺れ死んだ人間の魂が彷徨い出て来たもんじゃ。わしも小さい頃に爺さん連中から話に聞いたことがあるだけじゃがの。
実際に見たんはこれが初めてやが。子供を揶揄うための作り話じゃ思うとったんやがホンマにおったんやのぉー・・・」
「そら、どなん者なんな?」
「夜に漁をしとるとの、船の外から誰かが声を掛けて来よるんじゃと。その時にうっかり声を出して応えてしまうとの、船を沈められてしまうちゅう話じゃ。
海で死んだ者の霊が生きとる人間をあの世に引き摺り込もうとしてそうするらしいわ。ほんだきん(だから)夜に漁をするときは人の声や姿が船の外から聞こえたり見えたりしても絶対に応えたらいかん。
聞こえんふりして見えんふりして知らん顔で朝が来るまで魚を獲るんや。
そしたら知らん間に何処かへ消えておらんようになるらしい。」
和樹は自分が恐ろしさで思わず漏らしてしまった小さな悲鳴が舟幽霊たちを引き寄せてしまったのだと知った。
だがあの古風なセーラーの制服を纏った少女達はなぜ舟幽霊などになったのか?
彼はそれを叔父に訊ねた。
「今から六十五年以上も前にこの海域で客船と貨物船の衝突事件があったんじゃ。お前の親父が赤ん坊で未だわしは生まれとらんかった頃の話やけん多分お前は知らんやろうけどの。
客船の方には運悪く修学旅行中の生徒がようけ乗っとっての。百名ほどが犠牲になったんじゃ。うち八割ほどが女生徒やったらしい。
ひょっとしたらさっきのはその女生徒たちの霊かもしれんの・・まだ成仏出来とらんのじゃろか? そやったら可哀そうな話じゃな。」
「あれが舟幽霊やとしたら何で急に消えたんじゃ? まだ朝も来とらんのに・・・」
「さぁの、それはわしにもよう分からんが潮目が変わったんが理由のような気がするがの。
転流が始まったことで舟幽霊も潮と一緒に別の場所へ流されてしもたきんやないか?
もしそうなんやったら偶然、転流が始まったお陰で命が助かったちゅうことかもしれんわの。お陰でコマセ網の回収と再設置が出来なんだきん、漁の方はサッパリになってしもたけんどの。」
和樹の叔父はそう言ってまだ血の気が引いた感が抜けやらぬ顔色で薄く笑った。




