11:00-11:40 防衛
ジェームズが『魔の森』と称したそこには、多数のオーク達がひしめいている。
しかし彼らは元よりそこに棲んでいた者達ではない。数年前までは、森の奥深くの集落で、周辺から得られるわずかな糧を頼りにひっそりと暮していた。
ところがある時から『食べる』事に関し、飢餓的な衝動に駆られるようになった。そうした衝動に突き動かされた結果、オーク達は周辺の糧を全て食べつくし、新たなる糧──獲物となる生命を求めて集落の外へと彷徨い始める。
訪れた土地に棲息する生き物を食べ尽くしてはまた新たなる地へと移動する。その繰り返しを経て、オーク達は強く、大きくなっていった。死亡率の低減により着実に個体数を増やし、やがて『王』と呼べる存在までをも生み出したのである。
そして現在、森に潜むオーク達は妖しげに赤く目を光らせて『王』による号令を待っている。
森にもうもうと煙が立ち込めてきたのは、そんな時であった。
目鼻口から吹き込まれる煙たさに、そこかしこからオーク達による不満の声と苦しげな咳が鳴り響く。
「ブゥモオオォォォッッッ!!!」
沈黙を保っていた、つい先程まで昼寝をしていた『王』が怒号を発する。立込める煙に苛立った彼は、ついにオーク達に一斉攻撃の命令、もとい許可を下したのである。
「ブヒーーッ!」「ブヒ、ブヒッ!」「ブッヒーーッ!」
全てのオーク達が一斉に沸き立った。その場に集うオーク達にとって、これからの時こそが、その身に巣食う衝動を解き放てる唯一の救済の時なのである……。
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《煙での燻り出しはの、屋内では有効じゃが外だとどうしても拡散するんで使い物になるかは不安じゃったが。いやはや、魔法っちゅうのは便利なもんじゃの》
「いやガイア魔法ってホントに『魔法』っスか? これってただの扇風機じゃないっスか! しかも人力発電って……意味分かんないっスよ」
悠馬はペダルを漕ぎながらガイアへの文句を口にする。
現在、悠馬と自転車は『田んぼ』の手前に設置した焚き火の前にいる。火が焚かれる事によって生じた煙を、ガイアの『魔法』で生み出した風で前方の森まで送っているのである。
自転車の前かごに古めかしい扇風機が嵌まり、その羽が回ることで前方に煙を送っている。悠馬はスタンドを立てた状態でペダルを漕いでいる。後輪が回転する事によって扇風機に電力を供給しているらしい。
その扇風機によって流される煙は、なぜか拡散することなく『魔の森』まで到達している。
さらに他にも幾つかの地点で火が焚かれ、各地点で風魔法を使える騎士達が煙を送っている。そこでは詠唱する騎士達の両手から風が生み出されており、ガイアのと違って『魔法』らしく見える。
いずれにしても『魔の森』へと集められた煙によって、オーク達が燻り出されたようである。悠馬の耳にもオーク達と思しき鳴き声と無数の足音が、煙で覆われる視界の向こう側から聞こえるようになってきた。
「けどこれじゃ、煙で何も見えないっス。近づいてる気配はするっスけど」
《煙で何も見えんのは、あちらさんだって同じじゃ。そのための煙じゃからの。……うむ、かかり始めたようじゃの》
ガイアがそう述べた時、オーク達の足音に、バシャバシャといった水音が混ざり始めた。
《煙で何も見えんから警戒しながらも真っ直ぐに進むしかないわけじゃな。んで、そこに待ち受けているのが》
「我々が作り上げた『田んぼ』。すなわち、彼奴らにとっての死地になるわけですな」
「全ては計画通り」
ガイアの解説に、作戦を見守るジェームズとアネリアが加わる。こうして彼らが会話を繰り広げているうちに、激しく水面を叩く音や、「フギィ!?」とか「ピギィィッッ!」などとの野太い悲鳴のようなものが聞こえるようになってきた。
「さっそく【アースクラック】の地割れに嵌る者が出始めたようですな。そういえば、オークが泳げるとは聞いた事がありませぬ」
「仮に泳げたとしても、いきなり足の付かない所に入ったら誰でも慌てて溺れてしまうっス! 自分にも経験があるから分かるっスよ」
「地割れに嵌らず進めたとしても、地面がぬかるんでいて足を取られる。それだけでも体力的に辛いはず」
《それに煙だって辛いはずじゃ。確か『一酸化炭素中毒』じゃったか。儂には分からんがの》
彼らの推測は概ね正しい。今まさに、オーク達は『田んぼ』という名の巨大な罠で、辛酸を嘗めている。
「―――ブヒ」
それでも、オーク達の数は多い。
やがて疲労困憊になりながらも、何とか『田んぼ』の対岸に到達する者が現れた。
「ブヒ?」
しかし、さらにそこで待ち受けていたものがある。対岸に張り巡らされた鉄柵──大量のリアカーを積み上げてできた、巨大なバリケードである。
「……ブヒィ」
先へ進むためにはこれをどかす必要があるらしい。オークの心は折れる寸前であったが、それでもしぶしぶと重い足を持ち上げてバリケードへ近づいて行った。
「ブヒッ!?」
オークが一台のリアカーに手を掛けたとき、ようやく向こう側の存在に気が付いた。煙のせいで視界が悪く、疲労で注意力が散漫になっていたために気付くのが遅れた。その遅れが、そのオークにとって致命的なものになる。
「フッ……!」
「ブゲッ」
バリケードの隙間からオークの喉元に向けて、真っ直ぐにシャベルが突き出された。バリケードの向こう側に潜んでいた騎士による急所を狙った一撃である。
突き飛ばされたオークは喉から大量の血をこぼして水面に倒れ込む。声無く足掻いたが、間もなく動きを止めた。
種明かしをすると『田んぼ』を挟んだバリケードのこちら側には塹壕が掘られており、その中に、シャベルを携えた騎士達が潜んでいるのである。塹壕内には風魔法で新鮮な空気が送られており、煙による一酸化炭素中毒の懸念も解消されている。
「……ブッ!」
「……プギョッ!?」
その後も散発的に岸に到達したオーク達がバリケードへ近づくも、騎士達によるシャベルでの突きを受けて先のオークと同じ運命を辿ることになった。
そうしていくうちに、やがて『田んぼ』の岸には、血にまみれ苦悶の表情を浮かべたオークの死体が散在するようになったのである。
疲労困憊になりながらもバリケード前にたどり着いた後続のオーク達は、同胞の無残な死体と対面し、次々に心を折られていく。そこかしこで「……お前行けよ」「いや、お前が行けよ」というような罵り合いの鳴き声が響くが、前に進み出るオークは一向に現れない。
かくして、オーク達の前線はバリケード付近を先頭に、完全な硬直状態に陥った。後続のオーク達による渋滞が発生し、多数のオーク達が『田んぼ』の中ですし詰め状態になったのである。
地面を叩く乾いた足音は、既に聞こえない。
《……そろそろかのう?》
「ですな。頃合いかと思います」
ガイアの呟きにジェームズが応じると、前かごの扇風機からバチンとコードが外れて地面に落ちる。扇風機の羽が、ゆっくりと止まる。
《悠馬よ。予定通りじゃ。扇風機はもう使わんので外して構わんぞい。それから……すまんが誰か、このコードの先を『田んぼ』に放り込んできてくれんかのう》
ガイアの声掛けに、一人の少年が近づいてきた。先に自らの失言により空気を凍らせた、あの少年である。
「これ、ですか?」
《そうじゃ。おっと! 先っぽには触らんようにの。危ないかもしれんでの》
「分かりました。それじゃ行ってきます!」
《うむ。煙を吸わんように気をつけてのう!》
少年の駆けて行く背中にガイアは声をかける。敵には情け容赦無い自転車だが、子供には優しいらしい。
───入れましたーーっ!
間もなく、煙で閉ざされた視界の先から少年の声が聴こえた。
《よし。総員退避じゃ!》
「総員退避ーーッ!!」
ジェームズが大声で号令を放つ。これを受けて、塹壕に潜む全ての騎士達が後方へ下がる。
煙に騎士達の影が浮かび上がったタイミングで、ガイアは次の指示を発した。
《それじゃあ悠馬よ、締めじゃ。思いっきり漕いでおくれ》
「……………………」
《……悠馬?》
ガイアの声は確かに悠馬に届いている。しかし、悠馬は青ざめた顔で固まっている。
「……本当にやんないとダメっすか?」
《悠馬よ。気持ちは分からんでもないが、早うやらんと自分達がやられてしまうぞい?》
「それは分かってるっス。分かってるっスけど」
作戦の全容として、悠馬もジェームズ達と共にこの後に起こるであろう事を聞いている。頭では割り切ったつもりの悠馬だが、事ここに至って怖じ気付いてしまったのである。
「全ての責任は私にあります! ですから、どうかこの場はッ!」
「私からもお願い。どうかこの通り」
動かない悠馬にジェームズとアネリアが深々と頭を下げる。その姿は、現役のサラリーマンである悠馬よりも遥かに社会人らしく見える。
「どうかお願いします、ユウマ殿!」
「お願いします。勇者様……」
「ユウマ様ッ!」
上官二人の様子を目にしたキレス砦の人々は、彼らに倣って頭を下げ始める。
ふと悠馬が顔を上げると、煙の間から薄っすらと『田んぼ』の様子が伺えた。果たして、人々の動揺を察知したのか、先頭のオークがゆっくりとバリケードに近づいてきたのである。
悠馬は顔を伏せてため息をつく。頭を振り、その決意を固めた。
「…………始めるっス」
硬い表情のまま、全力でベダルを漕ぐ。
《よし……来た来た、来たッ! 行くぞいッ!!
───【サンダーボルト】ッッ!!!》
ガイアから伸びているケーブルの先端は、『田んぼ』に張られた水の中にある。
本来、純水とは電気を通しにくい物質である。一般的に水道水が電気を通すと言われているのは、この中に含まれるカルシウムやミネラルなどの電解質が作用しているためと言われている。
現在、『田んぼ』の水には、土から溶け出したカルシウムやミネラルが多量に含まれている。
そこへ雷魔法による大電流が流れたら、果たしてどのようになるか
「「「「「「ブッギャァァア……ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッッッッッッ!!!!!」」」」」」
水面にはブクブクと不気味な泡が立ち昇るが、その他に表立った変化は見えない。しかしその水がいかに危険なものであるか、オーク達の絶叫が物語っている。
特に被害が大きかったのは最前線のオーク達である。筋肉や内臓、血管、神経が大電流によって食い破られ、口や鼻から大量の血を吹き出してその場に沈んでいった。
大多数のオークが死亡又は失神し、『田んぼ』の後方で意識を残す少数のオーク達も痺れと恐怖により腰を抜かした。
「火を落とせーーッ!」
ジェームズの号令によって全ての火が消され、充満していた煙が徐々に晴れる。するとそこには、死屍累々とした光景が広がっていたのである。
《こちらに向かってる奴は……いないようじゃの?》
「私達の勝ち?」
「ッ! 勝鬨を上げよッ!!」
ジェームズの号令により、騎士達を始めとするキレス砦の人々が歓声を上げる。
「やった! やったぞーーッ!!」
「俺たち、生きて帰れるんだよな?」
「これでやっと、故郷に残してきた彼女と結婚できるんだよなッ!?」
誰もが互いに抱き合いながら盛大に喜びを表す。中には涙を流す者もいる。
「…………え?」
喜びに沸き立つ人々の中で、一つの声が漏れた。光彩が欠けた瞳でぼんやりと遠くを眺めていた人物、悠馬によるものである。
《どうした悠馬よ。何かあったかの?》
「ガイア。あれ、見えるっスか? あ、ジェームズさん。あれって、何っスかね……?」
「ユウマ殿? あれ、とは……ッ!!!」
悠馬の視力は検査の最高値を誇る。その悠馬の目は、森からのっそりと姿を現した怪物の姿を捉えていたのである。
「……ブモ」
それは、とてつもない巨体であった。
オーク達と同様にでっぷりとした腹を持ち、オーク達よりも遥かに凶悪な豚の相貌を浮かべている。丸太のような腕を組み仁王立ちしているそれは、明らかに強者の気配を放っている。
「オーク……キング……ッ!」
ジェームズが震える声で叫ぶと同時に、その怪物による雄叫びが木霊した。
「ブゥウ……モォォオオオオオオオッ!!!」
雄叫びは、紛れもなくその怪物の敵意と害意を伝えるものである。これを聴いた全ての者が、自らの頬を引きつらせた。
人々の存亡を賭けたオーク達との戦争は、未だ、終結を迎えていなかったのである……。