その日お姫様が出会った、優しい声のその人は
いつの頃からか私は、辛いことがある度にそこへと……王宮の中庭へと足を運ぶようになっていました。
季節の花々が咲き乱れる庭の片隅にドレスのスカートを折りながら腰を下ろし、膝を抱えて塞ぎ込んで……そうして「その人」との会話を楽しむようになっていました。
『……今日は一体何があったんだい?』
私が庭に腰を下ろすと毎回のように響き聞こえてくるその低く響く声は一体何処から響いてきているのか、一体誰のものなのか……。
……いくら探しても、いくら調べてもその答えを得ることは出来ませんでした。
そんな訳の分からない声……恐ろしいと、不気味だとそう言って相手もしないのが普通なのでしょうが、他の人の声には無い温かさと優しさをその響きから感じ取った私は、その声と会話する道を選んだのです。
「……私、結婚しなきゃいけないんだって。
知りもしない男の人と……恐ろしい噂ばかりが聞こえてくる人と。
そんなの絶対に嫌だけど……何度も嫌だって言ったけど、泣き叫びもしたけど、誰も耳を貸してくれなくて、逃げることも出来なくて……。
いっそのこと死んでしまおうかなんて、そんなことを考えているの」
『……』
珍しいことにその人が沈黙してしまいます。
いつもは私が弱音を吐けばすぐに励ます言葉をくれていたのに……。
『それなら……』
と、そう言って一旦息を呑んだその人は、力を込めてゆっくりと言葉を続けます。
『それなら僕が君をここから逃してあげよう。
……その、嫌な人との結婚はいつするんだい?』
「……え、あ……。
えっと、一週間後に顔合わせがあって、それから打ち合わせだって話だったけど……」
『そうか。
なら三日……三日だけ待ってくれないかい。
三日後にここに来てくれたら君を逃してあげるから』
「えっと……逃げるって、その、何処に?」
『僕の国に』
すぱりと、そう即答したその人は、私の返事を待っているのかそのまま沈黙してしまいます。
そうして風音だけが響く中、うんうんと悩んだ私は……、
「はい、あなたの国に連れていってください」
と、いつもよりも力を込めた、はっきりとした声で返事をしたのでした。
姿の見えないその人。
その正体はレイス(幽霊)なのか悪魔なのか……。
あるいは妖精精霊なのかもしれませんが、どちらにせよ同じこと。
その国は死後の世界にあるのですから……。
自分の生命を自分で断つよりもいくらか楽に違いないと考えて、そうして支度を整えた私は、三日後に中庭へと足を進めて……大きなため息を吐いてから、覚悟を決めて腰を下ろしました。
その瞬間、私の意識は闇に包まれました。
……いえ、私を包んだのは闇だけではありませんでした。
むせ返るような土の匂いと、ざらざらと土が崩れるような音と、顔にぱらぱらと当たってくる何かの感触と。
それらに包まれた私は困惑しながら顔にあたってくる何かを必死に払い除けます。
「大丈夫、大丈夫だから落ち着いて」
それはその人の声でした。
いつもとは違う声の響き方。
その主が目の前に居ると確信出来る……とても近いところから響いてくる優しい声。
その声を受けて私は恐る恐る、ゆっくりと……瞼を持ち上げていって……その人の姿を視界に捉えます。
黒い毛に覆われたまんまるの身体。
まんまるのつぶらな瞳。
つんと突き出された犬のような鼻に、その周囲から生える何本もの髭。
大きなハケのような両手には鋭いかぎ爪があって……そしてその人は、とても仕立ての良い白布の服とズボンを身にまとっていました。
「……もぐら?」
その姿を見た私がそう言うと、その人はこくりと頷きます。
「その通り、僕はもぐら人なのさ。
いつもここから……地中の世界から伝声管を掘って、君に声を伝えていたんだよ。
……君と出会ったあの日、地上の世界には不思議な人達が住んでいるという噂を聞いた僕、それが本当かどうか確かめたくなってね。
それでゆっくりと地上を目指して掘り進んでいたら、地上から君の泣き声が聞こえてきて……それで声をかけたって訳なんだ。
いやぁ、それにしても君がそんな姿をしていたとは……青い目に金色の頭だけの体毛!
その上体毛がくるくるしているなんて……本当に不思議なんだねぇ、君達は!」
私の身長の半分ほどの身体を、一生懸命に動かしながら揺らしながら、そんな声をあげるもぐらさん。
その最高に愛らしい姿を見た私は、望まぬ結婚から開放された安堵と、死から開放された安堵を合わせた大きな笑いを上げてしまいます。
お腹を抱えて、バタバタと足を振り回して……笑って笑って喉が枯れるまで笑って。
「……君の笑い声、始めて聞いた気がするよ。
ま、ともあれまずは僕の国に行くとしよう。
……ここは地上と近すぎる、君を取り戻そうと地上の人たちが追いかけてくるかもしれない」
その言葉に冷静さを取り戻した私は……笑い声をどうにか飲み込んで、そうしてから改めて周囲の状況を確かめます。
周囲を土で出来た大きな通路、天井には私が今落ちてきたらしい大穴、壁にはいくつもの宝石が埋め込まれていて、それが光を放つことでこの通路を照らし出しているようです。
そして通路の先は下る形でまっすぐに、何処かへと続いていて……ぺたぺたとその先へと歩きながらその人は、
「こっちだよ」
と、優しくそう言って、その手をこちらへと差し出してくれます。
ゆっくりと立ち上がり……膝と腰を曲げながらその手を握った私は、その人と共に通路の奥へと足を進めていきます。
歩いて歩いて……「もぐっもぐっ、ぐもっぐっ」と歩きながら声を上げるその人の後についていって……。
そうして辿り着いたのは、予想もしていなかった世界でした。
ガラス製と思われる大きな曲がり屋根。
大きな石を切り出して作ったらしい台座。
その台座の上にあがる為の大理石の階段があり……また、台座の横には何の為なのか長い鉄の棒が敷かれています。
そして屋根にも台座にも階段にも、地上では見たこともない複雑な細工と、装飾がなされていて……それだけでももぐらさん達が私達よりも優れた技術を……いえ、文明を築いていることが分かります。
その光景に驚愕し何も言えなくなってしまっている私を「こっちだよ」と優しく誘導してくれるもぐらさん。
そして何で作ったのかも分からないカラフルな椅子へと私を座らせて……その隣にもぐらさんもちょこんと腰を下ろします。
「すぐに来るからね」
「……え? 何が来るのですか?」
突然のもぐらさんの言葉に私がそう返すと、もぐらさんは一言、
「車だよ」
と、そうとだけ言って黙り込んでしまいます。
車? 馬車が来るの? と、私が首を傾げていると、突然柱に引っ掛けてあった鉄細工が『ジリリリリリリ!』と大きな音を立て始めて……その音に続くように、ガタンゴトンと響いてきた大きな音がこちらへと近付いてきます。
立て続けに響いてきたそれらの音に驚いた私が立ち上がり、音の正体を確かめるためにと視線を彷徨わせていると……もぐらさんが言っていた『車』が向こうに見えてきます。
そしてそれを見た瞬間、私は先程の長い鉄の棒が何であるかを理解しました。
その車……馬を必要としないらしい車の車輪が、鉄の棒の上を、凄まじい轟音と火花を上げながら走っていたのです。
その火花がそうさせているのか、鉄の棒がそうさせているのか、馬車とは比べ物にならない速度で走ってきたそれは、ゆっくりと速度を落とし、私達の目の前で停車します。
「さぁ、これに乗れば僕の国はもうすぐそこだよ」
もぐらさんがそう言った瞬間、車の扉がひとりでに開き……私はその中へと恐る恐る足を進めます。
鉄製なのか石製なのかよくわからない作りのその車の中には、通路でみたあの宝石がそこかしこに散りばめられていて……とても明るくてとても温かくて、ただの車ではない特別な空間であることが分かります。
更に車の中には上等なソファ顔負けのふかふかの座席までがあって……そこに腰を下ろしたもぐらさんが、私に隣に座るようにと、大きな手を使っての仕草でもって促してきます。
そうして私が腰を下ろすと……車がゆっくりと動き出して、ガタンゴトンと音を立てながら何処かへと向かって走っていきます。
そこから私は驚きの連続に包まれることになりました。
まずは車の速度、とっても速い。
そして車の揺れ、驚く程に揺れない。
馬車の揺れを知っている私は、本当に本当に驚いてしまって、何も言えなくなってしまって……そんな私に対しもぐらさんは、車の外……車の壁につけてあるガラスの窓の向こうを見るようにと促してきます。
そこにあった世界は、まるでおとぎ話のような世界でした。
何人ものもぐらさんが歩いている姿。
王宮が小さく見える建物が並び立つ姿。
見たこともないような物に、見たこともないような生き物に、見たこともないような建物に。
広くて大きくて圧倒的な世界。
私は今まで私達の住む地上こそが世界のすべてだと思っていましたが、この世界こそが、この地中こそが、本当の世界だったのだと思い知ることになります。
そんな風に私が本当の世界を見るのに夢中になっていると、もぐらさんが「そろそろ到着だよ」と、声をかけてくれます。
それから車はゆっくりと速度を落としていって……キィキィと音を立てながら停車して。
そうして車から降りると、車に乗った時のような場所が私を出迎えてくれて……そしてその場所の目の前には大きな湖が広がっていました。
その湖は何が光っているのか真っ青な光を放っていて、その光が周囲一体を照らし出していて……そしてその中央に、私の知る王宮を10個程重ねて、金貨数万枚を投じても無理だろうというくらいに豪華にした作りの、お城がそびえ立っていました。
「ここが僕の国で、あれが僕のお城だよ」
その光景を見て何も言えなくなっている私に、もぐらさんがそう言うと……いつのまにか周囲に立っていた別のもぐらさんが「王様、おかえりなさい!」と声をかけてきます。
「王様!?」
悲鳴のようなそんな声を私が上げると、もぐらさんはにっこりと微笑みながら、
「ようこそ、僕の国へ」
と、そう言って私を歓迎してくれるのでした。
余談。
それから少しの時が経った頃。
地上の王国はもぐらと結婚したもぐら姫の……後に地母女帝と呼ばれる彼女の侵攻を受けて、あっさりと降伏し滅ぶことになるのだが、そのお話はまた別の機会に。
お読み頂きありがとうございました。