第三章(32)サラの涙
クロルの謝罪は、この展開を意味していたのだとサラはようやく気づいた。
怒りを露にする国王の指示により、挙手をした4人の部門長から一言ずつ釈明があった。
それぞれ立場は違えど、その主張はほぼ同じものだった。
『ネルギは、信用できない』
サラは、その言葉を耳の奥で受け止めながら、力なく椅子にもたれかかった。
腰が滑らずに留まれるのは、隣のルリが椅子を寄せて、ずっと肩を抱いていてくれたから。
ネルギが信用できないということは、サラが信用できないということ。
彼らにとっては、和平など机上の空論でしかない。
「もう、帰れない……」
すぐ傍にいるルリにも聞こえないくらいの、かすれた声が漏れた。
クロルだけが知っている、サラの秘密。
和平が成されない限り、サラはこの世界に留まり続ける。
サラの望みではなく、クロルはこの国の未来を選んだ。
* * *
視界が曇っていくのは、涙が浮かんできたせい。
止まってと命令しても、勝手に出てきてしまう。
サラは、結局元の世界を捨てきれずにいた自分を、ようやく自覚した。
元の世界に帰りたいという気持ちは、あの夜確かに封印したはずなのに。
自分はいったい、この会議に何を期待していたのだろう?
目の前で確かに道が閉ざされない限り、希望や可能性というものは捨てきれないんだ……。
虚ろな瞳でぼんやりと座り込むサラに、クロルが話しかけた。
「……ねえ、サラ姫?」
声に滲んだのは、罪悪感。
サラに近づこうとして一歩足を踏み出し、躊躇したように立ち止まる。
クロルは、サラと同じく泣きそうな顔をしていた。
「僕はね、君のことが好きだよ。だけど少し、君は楽観的過ぎる。見たくないものを見ないようにしている……そんな気がするんだ」
サラは、小さくうなずいた。
この人のこと、やっぱり好きだ。
そんなことは、他の誰も言ってくれなかった。
クロルは、サラのことを真剣に考えてくれる、そして言いにくいことを伝えてくれる、かけがえの無い大切な人。
その指摘が正しいからって、泣いたら失礼だ。
言ってくれたこの人だって、きっと傷ついているから。
サラは眉根を寄せて、必死で涙を止める。
サラの瞳に再び生気が宿るのを見て、クロルは微笑む。
いつものからかうような皮肉げな笑みに、サラも感謝の気持ちを込めて微笑み返した。
「サラ姫に、聞きたいんだけどさ。もし君が”この国”を出たら……ネルギは、何をすると思う?」
クロルの言いたいことは、サラだけに伝わる隠喩。
もしもサラが和平を成し遂げて『この世界』を出るとしたら。
残された世界で、ネルギはきっと……。
サラは真っ直ぐに顔を上げ、クロルを見つめた。
* * *
その表情は、黒騎士のもの。
戦いに挑む者の瞳。
問いかけたクロルも、見守る者たちも、彼女の姿に釘付けとなる。
横一線に結ばれた鮮やかな紅色の唇から、少年のような低い声が漏れた。
「もしも私が、ここから消えたら……ネルギは、いずれ和平を反故にするでしょう」
「サラ姫!」
立ち上がって叫んだのは、リグルだった。
その隣には、興奮する弟の腕をつかみ、サラを労わるような声色で「続けて」と告げるエール。
サラは、2人に一度うなずいてみせた。
大丈夫。
私は絶対に、諦めない。
強く肩を抱いてくれていたルリに、ありがとうと笑いかけると、サラはその温かい手に守られた場所から立ち上がった。
何か思案しているのか、しきりにあごひげをしゃくる国王と、沈痛な面持ちのクロルへと近づいていく。
心の中に、黒い剣を抱いて。
サラは、ドレスの裾を手のひらで撫でながら、ゆっくりと両膝を折り、赤いカーペットの敷かれた床に座り込んだ。
「国王、皆さん、ごめんなさい……」
全員の手を取り謝罪することはできないので、そのまま両手を床に付き、低く頭を下げた。
いつも髪につけられる花の髪飾りが、床とこすれてカサリと音を立てる。
今日は特別な日だからと選ばれた、華やかな白いバラの花。
本当の自分は、こんな風に着飾って、お姫さまなんて待遇を受けるべき人間ではない。
国王や王子たちから大事にされて、ましてや求婚を受ける資格なんて無いんだ。
「私はネルギにとって、1つの駒でしかありません」
サラの脳裏に「バカね」とあざ笑うサラ姫の顔が浮かぶ。
そうかもねと、サラは心の中で返事をした。
それでも、成し遂げたいと思ったから……。
サラは、土下座の姿勢のまま、顔だけを上げて叫んだ。
「私はっ……!」
「サラ姫はねー」
涙混じりの声に重なった、少年の声。
サラが声の方へと顔を向けると、クロルがいつも通りのクールな視線を向けてきた。
冷たいように見えて、本当は優しい、あの視線。
「本当は、僕らと一緒なんだよ。隠された王女……ネルギ国王の落し胤。その秘密を、僕にだけ打ち明けてくれたんだ」
そうだろ? とウインクするクロル。
言葉を失ったサラは、クロルの愛情に満ちたその瞳を、ただ見つめ返すしかできなかった。
* * *
事の成り行きを見守っていた国王が、サラの体を強引に抱き起こす。
「サラ姫、今の話は本当か?」
サラは、その眼力に魅入られるままに、うなずいていた。
国王は鳶色の瞳を見開き、絶句した。
それでも、サラを支える腕の力は緩まない。
クロルは、自分を守るギリギリの嘘をついてくれたのだ。
国王の落胤であれば、和平の条件である『王族』の枠にギリギリ入る。
もしも赤の他人と分かれば、サラは罪人となるだろう。
国王の書状はあるが、あれが偽造ではないかと疑われたら、証明する手段は無い。
改めてネルギ国に身の上の保障を求めたところで、サラ姫が守ってくれるはずがないのだ。
サラ姫の名を騙った者として、切り捨てられるに決まっている。
かといって、サラ姫に召喚されたのだと正直に言ったところで、ここにいる全員が説得するとは思えない。
サラ姫の手先として、この国を騙したことには変わりないから。
むしろ、身代わりを立てるなんて、巧妙な罠を仕掛けたネルギへの憎悪も膨らむはず。
せっかく抱き起こしてもらっても、サラの体には力が入らなかった。
そのまま国王の腕にもたれかかりながら、サラはふっと自嘲した。
なぜ自分は、和平が成ると信じていたんだろう。
こんなにも危うい立場で……。
『君は、見たくないものを見ないようにしている』
今言われたばかりの、クロルの言葉が胸に蘇る。
そう、きっと見たくなかったんだ。
私が欲しかったのは、偽装結婚と、表面上の和平締結。
望んでいたのは、自分がこの世界から解放されることだけ。
だから自業自得だ。
クロル王子の言うとおり、見たいものだけ見て、信じたいことだけ信じていれば、不安は消えた。
私の心にも、不安という名の確かな闇があったのに。
それをしっかり見つめていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに……。
今にも泣き出しそうなサラを見つめていたクロルが、そっと歩み寄る。
「サラ姫、僕の質問に答えて?」
国王の腕に抱かれたまま、サラは無条件にうなずいた。
「本物のサラ姫は、今もネルギ国王宮に居る……そうだね?」
「はい、そうです」
サラの返答に、会場はざわつく。
向けられる数百の視線は、驚きから非難へと変わる。
国王は、崩れ落ちそうになるサラの体を支えながらも、冷酷な瞳を崩さない。
サラは国王からも、優しく問いかけるクロルからも、目を逸らした。
「ではもう1つ質問。和平を成立させたいという、君の気持ちは本当なの?」
折れかけていたサラの心に、再び黒騎士の魂が蘇った。
今にも零れ落ちそうな涙を目の縁に留め、サラは声の限りに叫んだ。
「もちろんですっ! 私は、そのためだけにっ……!」
そのとき、サラの言葉には、魔力に似た何かが宿った。
* * *
少女の叫びは、会場にいた全員の心を飲み込んだ。
ざわめきは消え、サラに向けられた疑惑と敵意の目は、同情へと変化していく。
彼らは、その目で見てきたのだ。
砂漠を越え、男として戦い抜き、国王への面会権を勝ち取り……たった1つだけ『和平』という望みを打ち明けたこの少女を。
「だったら僕は、君に協力する。君の望みを、叶えてあげるよ」
サラが涙をいっぱいに溜めた瞳でうなずくと、堰を切ったように溢れた雫が頬を伝った。
雫はサラの頬を通り抜け、国王の袖へポタリと落ちる。
その瞬間、サラの体を支えている国王の腕に、力が込められた気がした。
↓次号予告&作者の言い訳(痛いかも?)です。読みたくない方は、素早くスクロールを。
会議も佳境に入ってきました。だからシリアスのみ! はー、しんど。サラちゃん伝家の宝刀を抜きましたが、さすがに土下座で切り抜けられる内容ではなく……そのピンチを救ってくれたクロル君。良い子です。最初からそういうことで口裏合わせとけば良かったのにと思った方、ゴメンナサイ。こういうぶっつけ本番な勝負どころで臨機応変に対応するためには、事前のすり合わせが邪魔になることもあるのです。作者がサラちゃん泣かせたかったということではありませんよ……。しかしクロル君、何気にサラちゃんに迫りまくり? 可愛いフリしてあの子割とやるもんだねーと思いつつ。(←待つわ)国王様もかなりイラついてます。もちろん、大人しくしてるエール君、リグル君も……。
次回、第三章ラストです。さっさと進めるはずが、結局第二章より長くなりましたが……トキメモ編と銘打ったからにはそれらしい結末をご用意しました。どうぞ皆さま、サラちゃんの底力にご期待ください。