第一章(1)天使の娘
春先の爽やかな風を受けながら、Tシャツ姿の少女が走ってくる。
軽やかな足取りだが、実際は相当なスピードだ。
肩から斜めにかけたスポーツバッグが、腰の位置でポンポンと跳ねるけれど、まったく気にするそぶりはない。
ハーフパンツから伸びた細い足は、すらりと長く引き締まっている。
すれ違った人は、一瞬立ち止まり、振り返って彼女をもう一度見てしまうような美少女。
少女は高級住宅街エリアの瀟洒なマンションに駆け込むと、入り口の警備員にぴょこんとお辞儀をする。
ポニーテールに結わえた黒髪が、さらりと横になびきながら通りすぎていく。
そんないつもの光景を、警備員はにこやかに見送った。
* * *
指紋認証でロックをはずし、エレベーターを使わずに非常階段をダッシュで3階まで駆け上がると、階段脇の部屋の玄関チャイムを押した。
「よし!門限クリア!」
ハァハァと大きく肩で息をしつつ、玄関ドアのロックが開くのを待った。
カチリというロック解除音を確認して、重厚なドアを開ける。
満面の笑みで少女を迎えたのは、彼女の母親だ。
「はぁ〜い、サラちゃんただいまっ」
「ただいまは私!お母さんはおかえりでしょ!」
まあいいじゃない細かいことは、と笑った母は、まるで少女のように若く可愛らしい。
少女の名前は、安住サラ。15才。
父親は不明。
母親はいわゆるシングルマザーだ。
しかしサラの家庭は、普通と少し、いやかなり違う。
まずは、母が有名人だということ。
母の名前は安住ハナ。
本名というか、芸名というか、ペンネームというか。
花が好きだからハナにしたと言っていた。
母の仕事は絵本作家で、ときどきエッセイなども書くことがある。
若い頃はタレント業もしていたそうだ。
当時の熱狂的なファンは健在のようで、いまだにバレンタインやクリスマスには、大量のプレゼントが届く。
タレント時代は「天使」というコピーがついていたようだが、天使は年をとらないらしい。
サラが中学生になった頃から、2人は良く姉妹に間違えられるようになった。
最近、通りすがりのナンパ男に、娘であるサラの方が姉と間違えられたのは、さすがにショックな出来事だったが、とうに母の身長を追い越してしまったサラは、この母だから仕方が無いと諦めた。
* * *
「ちょうどお夕飯できたとこよっ」
普段着のジャージにエプロン、そして片手にフライパン、片手におたまという姿の母を、サラはしみじみと見つめる。
こんなに地味な服装なのに、キラキラと輝く少し青みがかった瞳に見つめられると、まあ天使のように見えなくもない。
「わざわざフライパンとおたまもって出迎えなくてもいいから。そもそもフライパンにおたまは合わないし」
いちいちツッコミが必要なほど、天然キャラな母をもったサラは、年のわりにはしっかり者に育ったと自負している。
ローファーを脱いで、ホコリを払って、シューキーパーを入れて、靴箱へ。
手を洗ってうがいをして、汗をかいたシャツを手早く着替えてダイニングへ向かう。
すると、調理の仕上げをしながら、母が声をかけてきた。
「今からパパたちみんな来るって」
「えっ、全員?」
「そうなの。珍しいわね」
サラに父親はいないが、父親もどきなら居るのだ。
しかも5人も。
* * *
1人は、安住パパ。
特殊な事情の母を引き取り、後見人として16年も見守ってくれている。
このT市の市長を16年続けるほど、市民から絶大な人気がある。
そろそろ国会議員になってはと勧められているが、本人にそのつもりはないらしい。
毎回サラにお菓子を、母に花をもってくる、笑顔の爽やかな天然フェミニストっぷりが人気の理由だろう。
1人は、馬場先生。
パパと呼ぶと語呂が悪いと怒られるから、先生と呼んでいる。
市内の大きな総合病院の先生をしていて、男性の患者さんからも目の保養と言われる美人さん。
いつも怠けているようで、実は凄腕らしく、遠く海外から患者さんがやってくるくらいの名医だ。
ちょっと毒舌なので、たまに母を固まらせているときがあるが、サラにとっては大人の事情ってやつを教えてくれる良い先生だ。
1人は、千葉パパ。
芸能事務所に勤めていて、元役者だった安住パパと、うちの母のマネージャーをずっとしてくれてた。
母の恋人と一時噂されたこともあるくらい、2人並ぶとお似合いだが、本当のところは不明。
この間専務になってからは現場を離れて、いつも偉い人とお酒を飲んでいる酔っ払いオヤジ。
酔っ払うと、母には「タレントに戻れ」サラには「役者になれ」としつこいけど、話が面白いのでたまに晩酌につきあってあげている。
1人は、大澤パパ。
市内にある出版社で、雑誌の編集長をしている、一番インテリなパパ。
見た目は細身で繊細なイメージだけれど、世界各国、ときには戦地へも取材へ行くほどタフだ。
校了後は必ずうちに遊びにきて、しかも大量のお土産をもってきてくれる。
とくに本のお土産は楽しみで、お勧めの本についてとか、いろんな話をするのが楽しみで仕方ない。
母の絵本の一番のファンでもあり、新作が出ると必ずべた褒めな評論をして、母を照れさせている。
1人は、遠藤パパ。
市の警察署につとめる刑事さん。
実家が道場で、小さい頃からずっと、遠藤じいと一緒に武道を教えてくれている。
悪いことをしたときは厳しく怒ってくれる、でも普段は優しい、一番パパらしい人。
サラの門限を決めたのも、実は遠藤パパだ。
母は遠藤パパの脅しに弱いので、1分でも過ぎると告げ口して、その翌日の練習はかなり厳しくなる。
おかげで同年代の女子……どころか男子にも負けないくらい発達した運動神経と、カニ割れした腹筋はサラのヒソカな自慢になっている。
* * *
サラはこの5人が一堂に集まることを考えて、冷蔵庫を開けてみた。
案の定、お酒の買い置きが足りなさそうだ。
「お母さん、ビール足りないから買ってくるよ」
「本当?じゃあよろしくね」
お財布をもらって、近くのコンビニへダッシュ。
サラは、普段の移動でもダッシュしている。
それは、遠藤パパの徹底的な指導のたまものだ。
鍛錬にもなるし、実際1人でいるときはよく変なヤツに声をかけられるから、ダッシュが便利だ。
小さい頃から、サラの容姿は母に良く似ていて、本当に天使のようだと何度も言われた。
ただ成長するにつれて、父親の遺伝子が台頭してきたのか、眉がしっかり目元はキリッと、意思の強そうな顔立ちになってきた。
それはそれで「カッコイイ」と、今度は女子からモテるようになった。
武道で鍛えられた体と、すっと伸びた背筋、正義感の強い性格もあり、中学時代のバレンタインはモテる男子を抑えて記録的な数のチョコをもらってしまった。
母との共通点は、少し青みがかった瞳の色。
まっすぐコシのある黒髪は、たぶん父親の影響だろう。
* * *
どこの誰かも分からない父親のことを考えると、サラは少し憂鬱になる。
母が「安住パパを暴漢から守る」という事件のせいで記憶を失ったとき、すでに私はおなかに居た。
結局、いまでも母の記憶は戻らないままだから、どんな人が本当の父親なのかは全くわからない。
母がその経験を本にしたり、タレントとして有名人になっても、母の身内や、父親が名乗り出ることはなかった。
少し海外の血が混じっているような瞳だし、もしかしたら母は日本人ではないのかもしれない。
何事にもポジティブな母は「きっと海外に住んでる家族のところまで、情報が行き届かなかったのよ」と言っている。
パパたちもずいぶん探し続けてくれたけれど、サラも母もそれほど気にしていない。
記憶喪失だった母にとって、辛い時期を支えてくれたパパたちが、本当の家族のようなものだ。
もちろん、サラにとっても。
誰の子か分からないサラのことを、実の子のように愛してくれた。
サラは、周囲から多少奇異の目で見られても負けないくらい、強い心を得たのだ。
これは馬場先生からこっそり教えてもらったのだが、中には母の容姿が人並み以上に整っていることから、何らかの犯罪によってできた子ではないかという嫌な噂を流す人もいたそうだ。
大澤パパや遠藤パパは、まったく根拠が無い妄想だと一蹴してくれたし、そんな噂をサラに教えた馬場先生を殴ってくれたが、千葉パパは「ありえないことも無いな〜。俺も何回か酔った勢いで……いや、嘘だけど」と笑っていた。(そして馬場先生より多く殴られていた)
その後、噂を流した悪意のある人物を、安住パパがつきとめて報復したらしいとも、こっそり馬場先生が教えてくれた。
実は一番怖いのは、安住パパかもしれない。
* * *
そんな感じで、このT市は、母とサラにとって強い味方がいる、とても住みやすい街だ。
母が1人で外出するときには、こっそりSPがついているということも、馬場先生から教わった。
母は気付いていないようだけれど。
サラ自身も、ときどき監視の気配を感じている。
長く武道をやっているせいか、意思をもった視線には敏感なのだ。
過保護だと反発したい気持ちもあるが、まあ特殊な家庭環境だし、パパたちが心配性になっちゃうのは仕方が無いかもね、とサラは素直に感謝の気持ちで受け止めていた。
しかし、これから高校生になるサラが、もし恋愛でもしたらいったいどんな騒ぎになるだろう。
よほど根性のある彼氏じゃないと、舅軍団なパパたちの攻撃に耐えられないかもしれないな。
コンビニでお酒をカゴに放りこみながら、そんな想像をしてクスッと笑った。
「あの、ここのコンビニには良く来るんですか?」
唐突に、見知らぬ男子から話しかけられて、サラはぴくっと体を緊張させた。
もし何かされそうになったら、相手に反撃できる態勢をとる。
ファミレスのトイレ前で、いきなり男に抱きつかれた経験もあり、明るい店の中だからと安心はできない。
「はい?」
相手の顔を見ると、いきなり抱きつくようなヘンタイには見えず、サラは少し警戒を解いた。
こざっぱりした制服姿に野球部らしいアルファベットロゴ入りのスポーツバックを抱えた、こざっぱりした身なりの男子学生だ。
少しニキビのある、日焼けした顔は、なかなか整っている。
しかもどうやら、サラが春から通う学校の人らしい。
これは失礼にならないように逃げなければ。
「いや、ごめん。前にも1度ここで見かけたことがあって」
彼は顔を赤くし、短い髪をバリバリっとかきながら「何言ってんだろ、オレ」と呟いた。
イイヒトだけに困っちゃうな、とサラは思った。
こんな展開も、今までに無かったわけではない。
小学校高学年から、中学3年間、学校で知らない男子から告白もされたし、街でもよく声をかけられた。
普段着だと、大人びた顔立ちから、少し年上に見られるようだ。
小学生のときは「私小学生ですけど」というのが、簡単で痛快な撃退法だったが、すでにその手は使えなくなっている。
「T学院の方なんですね?」
サラが話しかけると、男子学生はうなずいた。
よほど照れくさいのか、サラとは目線を合わせないまま。
「春から後輩になるので、よろしくお願いします」
サラは「では急いでいるので」と一礼して、会計を済ませ、コンビニを出てダッシュした。
猛スピードで走り去っていくサラの後ろ姿を、男子学生は「中学生だったのか……」と呟きながらぼんやり見送った。
来週には、学校で再会できる。
桜の下に立つ、制服姿の彼女をイメージして、彼は胸をときめかせていた。
しかし、どんなに探しても、彼が学校でサラの姿を見つけることはできなかった。
↓次号予告&作者の言い訳(痛いかも?)です。読みたくない方は、素早くスクロールを。
サラちゃんはモテモテです。こんな子いねーがーとなまはげが探しても見つからないと思います。
次回はサラちゃん運命の日。天使ママンにも頑張ってもらいます。
けっこう誤字脱字文体間違いあるかも・・・もし見つけたら基本スルー推奨、愛情たっぷりな方はどうぞ遠慮なく愛のムチ(ご指摘)ください。