第一章 プロローグ2 〜5人の男、恋に落ちる〜
T駅前病院。
集中治療室から出たばかりの少女は、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
今日は良い天気だ。
T駅前には、この病院が入っている商業ビル以外に高い建物は無く、絶景とは言いがたいものの、そこそこ遠くまで見渡せる。
遠くの山には緑が生い茂り、特に高い山の頂付近には白く靄がかかっている。
彼女はその様子を間近で見てスケッチしたいと思った。
目覚めてから、彼女の世界は、この狭いけれど快適な病室だけ。
彼女は、記憶を失っていた。
* * *
最初の記憶は、病室で目を開けたときに、優しそうな医師に顔を覗き込まれたことだ。
「目が覚めましたか?痛いところはありませんか?」
そのとき彼女は、軽い頭痛と、吐き気と、だるさを覚えた。
なのについ「大丈夫です」と答えてしまった。
彼女の表情が痛みを訴えていたのを見つけた医師は、ごまかしたってわかってるんだぞとばかりに、彼女の前髪をくしゃっと撫でて苦笑した。
「あなたは一週間も眠り続けていたんですよ」
彼女は、そう言われて驚いた。
確かにずっと同じ姿勢でいたせいか、身体を動かそうとすると、関節がきしむような痛みを感じる。
「私はあなたの担当の医師で馬場といいます。少しお話ができそうですか?」
馬場は、今度こそ正直にうなずく少女を見て、ほっとため息をついた。
細いシルバーフレームのメガネをくいっと上げて、やや長めの前髪をかきあげる。
そのしぐさが、細く長い指が、男性なのにとてもキレイだと、彼女はすこし見とれた。
「君にはこれからまた少し検査をしたり、入院をし続けてもらわなきゃいけないんだけど、その前に先日の事件について聞かせろと警察がうるさくてね」
今までの口調とはガラリと違う、ぶっきらぼうな言い方に、彼女は目を見開いた。
一件、知的で優しそうに見えるけれど、性格はそうではないのかもしれない。
それとも、よほど警察が嫌いなのだろうか。
もう少し待たせちまえばいっか、と言いながら、馬場は彼女の顔を覗き込んできた。
馬場のメガネの奥にある、少し奥二重で、長い睫毛が見える。
その奥の黒い瞳は、好奇心のためかキラキラと輝いている。
なんだか少女が目覚めて嬉しいというより、面白いおもちゃを見るような視線だ。
「とりあえず、君の名前から聞かなくちゃ。君は持ち物が何もなかったからね」
彼女は、少し目線をあげて考える様子を見せたあと、首を振った。
「わかりません」
「は?」
「名前……というか、何から何まで全部わかりません」
その後、馬場は慌てて「とりあえずもう一回寝ろ!いや、眠ってください。また来ます」と言い、病室を飛び出していった。
* * *
その後の入院生活は、楽しくもないが、たいくつでもなかった。
この病院で若先生とも呼ばれている、28才の馬場は案外面白い人だ。
容姿は知的でクールで、眼鏡が似合う、まさに医師そのもの。
笑顔は優しいけれど、少し人をからかうような、皮肉っぽい笑い方をする癖がある。
なにより、問題というか面白いところが、毒舌発言だ。
どうやら看護師さんや患者たちの中には、馬場先生に会うと一目惚れする人が定期的に現れるものの、大半は性格を知ると去っていくらしい。
過去、キレイな看護師さんに好きだと告白されたとき「俺ブス専だから無理。ブサイクに整形してくれたらいいよ」と言って断ったというのは、この病院のベテラン看護師さんから聞いた馬場先生武勇伝の1つだ。
この”ブス専”というのも、彼女が記憶している貴重な現代用語である。
馬場先生や看護師さんは、彼女にたくさんの話題を持ってきてくれる。
不安定な立場の彼女へ向けられた好意でもあるが、いろいろな話題を通じて、彼女の失われた記憶が刺激できないかとたくらんでいるようだ。
今のところ、その効果は芳しくない。
かろうじて日本語が理解できるものの、読み書きもおぼろげだし、社会常識にもうとかった。
まだ鈍い痛みをはなつ頭の後ろのたんこぶと一緒に、ごっそりと大事なものが抜けてしまったのだろうか。
しかし、彼女の淡くブルーがかった瞳に映る花は、とても美しい。
花を見ていると、それだけでなんだか安心する。
生きているって、幸せなことだ。
こうして美しい花や風景を眺めて、優しい人たちと会話をして、病院の美味しいご飯も食べられる。
だけど、このままずっと入院しているわけにもいかないだろう、と彼女は思った。
生きていくには、お金というものが必要だ。
お金は働いて稼ぐもの。
しかし彼女は、普通の人ができることが、何もできないのだ。
今のところ彼女は、ある人の好意でここにいる。
それは「T市市長」の安住だ。
さっぱり覚えていないものの、一応安住を守ったという形になるその事件。
確かに彼女のおかげで、安住は暴漢から逃れられたと、新聞や雑誌の記事でも読んだが、記憶が無いせいか実感はわかない。
安住は傷ついた彼女をいたわってくれた。
そして、彼女の記憶が戻るまでの後見人を名乗り出てくれた。
なんだか少し過保護なところはあるけれど、とても良い人だ。
例えば、彼女のいる病室は個室なので、普通の部屋よりお金がかかると聞いて、せめて普通の部屋にと言ってみたが、即却下されてしまった。
どうやら安住は、お金に困っている人ではなさそうだ。
だからといって、いつまでも甘えていられるほど、彼女の神経は図太くない。
* * *
「おっ、今日は起きてるか、よかった」
ちょうど考えていたときに、その人がやってきた。
丁寧な2回のノックと、いつもシワ1つ無い紺色のスーツに、ビシッとしたネクタイ。
笑顔がとても爽やかな、好青年だ。
寝ていることが多かった彼女にとって、きちんと起きて安住と会話をするのは、まだ両手の指に足りない。
安住も先日見事市長に当選したばかりの忙しい立場で、ちょっと立ち寄っては花を置いて帰る、ということが続いていた。
安住は毎回見舞いにくるたびに、豪華な花束やお菓子を抱えてくる。
いただく花は見事だったが、やはり3日ほどで枯れてしまうのがさみしい。
彼女は少し長く起きていられるときは、花をスケッチして過ごしていた。
さっそく見せてあげなくちゃ、でもその前にと、彼女はベッドの端に膝を揃えて腰掛け、ぺこっとお辞儀をした。
「いつもお花をいただいて、あと……ここの支払いもしてくださって、ありがとうございます」
「当たり前だよ。そんなことで、気を使わなくていい」
くしゃくしゃっと笑顔になりながら、彼女の頭をなでる。
大きくてごつごつした手は温かい。
役者だったころに、剣を握ってのスタントシーンもあったとのことで、彼の手には豆がいっぱいできている。
「これからは握手ダコができそうだ」と苦笑していたが、今はとにかくたくさんの人と会い、握手をしまくっているらしい。
「君は俺の、命の恩人なんだからね」
事件のことは、警察からも何度か聞かれたが、彼女は覚えていないとしか言えなかった。
馬場先生含め目撃者が多数いたため、彼女の証言はそれほど大事ではなく、最近はほとんど現れなくなったが。
記憶が無いということは、自分の存在の土台がぐらついているような、奇妙な感覚だ。
目を閉じたら、全てが消えてしまうような気がする。
自分がここに存在していることが不思議でたまらない。
会う度に「君のおかげ」と言ってくれる安住の言葉は、彼女に存在意義を感じさせてくれる、嬉しい言葉だ。
頭をなでられた彼女が嬉しさを表情に表すと、安住は照れたように視線を外した。
耳の先が少し赤くなる。
彼女はまだ、自分の特別な容姿に気付いていない。
安住は、自分を暴漢から守った彼女を初めて間近で見たとき、言葉を失った。
天使が自分を守ってくれたのではないかと思ったのだ。
背中の真ん中まである髪は栗色で、ふんわりとやわらかい。
透き通るような白い肌、大きな瞳、すっと伸びた小さな鼻と、口紅をつけているような赤くつややかな唇。
まるで全てが高級な人形のように整っている。
そして、彼女を人形ではなく魅力的な人間へと変えるのが、その瞳だった。
少しブルーがかった、グレーの瞳が、長いまつげに彩られて、くるくると変わる感情を伝える。
安住もそれまで美しい女優をたくさん見てきたが、こんなに魅力的な女性にあったことはない。
いったい彼女は何才なんだろうと思う。
素の表情だと18〜20才くらいに見えるが、笑顔になるともう少し幼さを感じる。
会話はまだおぼつかないようで、しゃべるとより幼く見える。
内面的にはしっかりしているし、こんな状況でも不安な様子を見せない、いや見せまいと気丈に振舞っているところから、いわゆる箱入り娘ではなく、それなりの経験をしてきたのだろうが。
なぜ、あの瞬間に彼女があの場所に現れたのかは、彼女の記憶が戻らない限り、誰にも分からない。
もしかして、自分を守るために天界から降りてきた天使ではないかと、安住はときどき少年のような空想をしてしまうのだ。
* * *
そのとき、病室のドアがガコンと音を立てた。
彼女に見入っていた安住は、思わずチッと舌打ちした。
「今日は、君に会いたいってヤツを連れてきたんだ。入れていいかい?」
彼女がうなずくのを見て、来いよと声をかけると、2人の男が入ってきた。
元マネージャー千葉と、雑誌記者の大澤だ。
「初めまして。会えるの楽しみにしてました」
と微笑んだのが、大澤。
きちんとしたスーツを来て、手には小さく可愛らしい花束をもっている。
背が高く少し華奢な体格だが、適度に日焼けした笑顔とさらさらの黒髪の、優しげな青年だ。
花が似合う男性というのも珍しいなと、花束を受け取りながら彼女は思った。
続けて大澤の名刺と雑誌を1冊渡されたが、その雑誌を見ても彼女にはピンと来なかった。
どうやら人気のある大衆向けの雑誌らしい。
「おおっ!安住の天使ちゃん!」
と言って、すぐ安住から頭を叩かれたのが、千葉。
大澤と違ってポロシャツにジーパンと、ラフな格好をしている。
茶髪の髪は短く刈り込んでいて、明るい印象だ。
そして、彼も俳優になれるのではと思うくらい、顔立ちが整っている。
やはり名刺をもらい、少し仕事の説明を聞いた。
千葉の話は、仕事のネタからすぐ脱線して、彼の日常の小話になってしまった。
「ここ2日寝てないから、頭まわんなくてゴメン」とのことだったが、彼女は面白くてくすくす笑ってしまった。
2人とも、安住とは同学年で仲の良い友人とのこと。
だから信頼していいと言われて、ちょっと人見知りがある彼女は肩の力を抜いた。
ひととおり自己紹介を聞いたあと、3人は病室のイスに腰かけた。
彼女は「私、まだ名前が無いんで、君とかお前とかテキトーに呼んでください」とシュールな自己紹介をして、3人を苦笑させた。
「君は働きたいと思っているらしいね」
安住が切り出した。
彼女が戸惑いながらもうなずくと、安住は彼女から視線をはずして、両脇に陣取った友人2人をチラリと見た。
千葉にわき腹をつつかれて、しぶしぶ切り出す。
「僕は、君1人くらい働かなくても食べさせられるから、無理しなくてかまわないんだよ?」
とことん優しい口調の問いかけにも、彼女は首を横に振る。
「というか、働くなら僕の秘書という立場でも」
そこで「違うだろ!」と千葉、大澤両者からツッコミが入り、安住は苦い顔で告げた。
「君がもし働きたいなら、この2人が協力したいそうだ」
うんうんと、大げさに首を振る千葉と、ぜひと頭を下げる大澤。
2人も、すでに彼女のファンだった。
天使のようだと言われてもうなずける彼女の容姿と、目の当たりにした勇気ある行動、そして記憶喪失というショッキングな状況。
どれもが刺激的だった。
彼女のような逸材を見逃すわけにはいかない。
大澤は、社会的意義のある企画になるのでぜひ取材させて欲しいといい、千葉は、うちの事務所に入ってくれたらガッポリ儲からせてやるよと言った。
どちらの話も良く分からなかったが、少しでもお金が稼げるならと、少女は承諾した。
千葉と大澤がやったと声をあげ、安住がやれやれと肩を落とした。
本当は彼女を世間の好奇の目にさらしたくなかったが、もしかしたらマスコミに露出することで彼女の身内が名乗り出るかもしれないという説得に負けたのだった。
* * *
「こら、病室で騒がないように」
ノックもせずにドアが開けられ、馬場が入ってきた。
続けて警官の遠藤もやってくる。
そんなに広くは無い病室が、最後に体格の良い遠藤が入るともういっぱいだ。
遠藤は、見舞いもかねてときどき彼女に会いにきていた。
自分が事件を止められなかったことに責任を感じているらしく、主に非番の日に訪れては、何度も彼女に謝罪の言葉を告げる、律儀な性格だった。
実は、遠藤が彼女に会いにくる行動には、律儀さとはまったく別の感情もあったのだが、そのことに本人はまだ気付いていない。
彼女が初めて遠藤に会ったとき、非常に貫禄があるため30代半ばかと思ったが、実はこの5人の中では最年少の25才と聞いて驚いた。
そのリアクションが失礼だったとすぐに謝ったのだが、本人は言われなれているし、仕事柄年上に見られたほうが好都合だからと笑ってくれた。
普段笑わない感じの強面な男性が笑うと、とても魅力的だなぁと、そのとき彼女は思った。
この5人の男たちは、彼女の見舞いを通じてすでに顔見知りになっている上に、同年代ということもあり、なんだかんだ打ち解けているようだ。
馬場はちらりと遠藤を見てから、彼女のそばによって「例の件で話がある」とささやいた。
ベッドに腰かけていた彼女は、例の話ね……と考えながら、5人の男性の表情をじっとみてみる。
皆それぞれ、彼女のことを真剣に気にかけてくれている。
信頼できると、心の中で再確認した。
「先生、安住さんは私の後見人になってくれるし、千葉さんと大澤さんはお仕事をくれるっていうんです。だからみなさん揃っているときに、ちゃんと伝えておきたいんです」
馬場は眼鏡の位置を直しながら、何も言わずため息をついた。
彼女はそれを肯定と受け取り、5人の男性を前に、天使のように微笑んで言った。
「どうやら私、おなかに赤ちゃんがいるみたいです」
彼女の病室は、しんと静まり返った。
↓次号予告&作者の言い訳(痛いかも?)です。読みたくない方は、素早くスクロールを。
天使というか天然な母の話は、いったんコレでオシマイ。まだ可愛くてボンヤリしてお花が好きな良いコ、という程度しかキャラ出てないんですが、実際そんだけで殿方に惚れられるかね?大黒マキ様的には「選ばれるのは結局何にもできないお嬢様」と言っているので、きっとそうなのでしょうということで。
次回は、もう娘産まれてます。すくすく美少女に育ってます。思春期モテシーンもありで。対して男性陣、一気にオッサンになってます。