一筋の光
碁は往々にして読みと感覚という二つの要素で語られるが、私の場合は圧倒的に感覚に重きを置いている。
この布石も、4つの白石が織り成す平行四辺形の芸術性に惹かれたという、もはや理屈もなにも関係ない主観的な理由だけで打っているのだから、対局相手も驚きだろう。私は、でも本気で勝ちを目指していた。
ふと、今まで私は亮也の知性に知らず知らずのうちに依存し、自身の情熱を胸に仕舞い込んでいたのかもしれないと思った。そしてそのことが、亮也を傷つけていたのかもしれない。だから、勝って亮也を楽にしてあげたいと思った。なんて突飛な妄想だろう。大事な対局の最中に、何を考えているのだろう。それでも、この一局を制する筋書きを構築できた気がして愉快な気分になった。
手練れと打つほど、一秒は短く感じる。ましてや今大会は持ち時間40分(時間切れ負け)なので、のんびりと静寂を楽しむ余裕はない。でも、だからこそ静寂を味わうべきだと思う。
一秒たりとも無駄にせず、盤面や相手の表情に意識を向ける。静寂は、奔放で読みが甘い私の碁に、冷静さという一筋の光を灯してくれる。
首から汗が垂れ、乾いた長髪を微かに湿らす。序盤から中央で乱戦になったが、黒に先手の利を発揮され苦しく感じる。攻めようにもとても攻められそうもない中央の黒一団にプレッシャーをかけようと熟考し捻り出した42手目の肩ツキは、私の長い囲碁ライフの中で忘れられない一手となった。
良い手ではないかもしれないし、私より強い人から見れば、こんな手は悪いと嘲笑するかもしれない。
明確な読みの裏付けがあった訳でもなく自信はなかったが、なんとしても黒を分断しようと思い、勇を鼓して打った一着だ。
この手から局面は新たな展開となり、更なる大乱戦に突入。さすがに全勝中の主将ということで容易に崩れず一進一退の攻防だったが、幸運にも中押し勝ちを収めた。
局後、亮也に似た男性はたいへん愛想よく、一局を振り返って自身のこの手がまずかったとか、こう打たれて困ったなど感想を述べていた。
「いやあ、布石で面食らいました。実はだいぶ動揺してたんですよ」
彼は笑って言った。
「僕にはとても真似できないしやろうとも思わないけど、ぜひこういう打ち方を極めて下さいね」
相変わらず笑みを浮かべながらも、真剣な眼差しをよこす。
この言葉が、私の胸に深く突き刺さった。どうして気付かなかったのだろう。
碁を愛する者同士でもこれだけ棋風が異なるように、同じ対象を好んでいても、考え方は違って構わない。いや、むしろ違って当然である。どうしてこんな当たり前のことに気付けなかったのだろう。
亮也は多分、気付いて欲しかったのだろう。だからあのとき、「わからない」とだけ答えたのだ。亮也はやっぱり私には賢すぎた。おまけに、優しすぎたのだ。
その日の夜は特別に疲れたので散策は控え、自宅のベランダで赤ワインを堪能した。
夜風の心地よさに打たれて、静寂は私と同化する。ドライヤーをあて忘れた髪の冷たさに、私はぽろぽろと涙を落とした。