静寂の種類
団体戦のメンバー集めには、それほど苦労を要さなかった。
もう5年以上連絡を取っていなかった学生時代の友人や、ずいぶん前に通っていた囲碁教室で親しかった人など、それぞれ快く参加表明してくれたことは有り難く、狭いながらも深いネットワークを持っていることが大切だと改めて感じた。私という存在とともに戦うことに価値を見出だしてくれたのか、あるいは単純に大会というシチュエーションに惹かれたのかは分からないが、自身の感情を思うままに表出する機会を与えられ、思わず脳内で快哉を叫んだ。
強い相手と対局するだけなら、なにも大会である必要はない。
それこそネット碁のほうが手軽に味わえるが、碁はやはり対面で打たなければ物足りないと感じる。
画面越しと対面とで、感じる静寂の種類は異なる。
前者は言わば無機質だ。刻々と持ち時間が減っていく様を目の当たりにするだけで、そこに感慨や妙味は無い。後者が前者とまるで異なる様相を呈するのは、対面することにより相手の表情や仕草――双方の着手に反応してぼやくようなこともままある――が窺えるからである。
碁は単に互いの着手だけを捉えるのではなく、着手していない時間を含めて咀嚼することが醍醐味だと、少なくとも私は信じている。だから、対面であることが望ましいのだ。特に、大会となると一局一局の重みが増し、普段以上に緊迫感のある対局を楽しめる。
大会の二週間前から、特例としてネット碁の対局数を一日三局に増やし、調整期間とした。
ネット碁はネット碁で、強い相手と手軽に練習できるという利便性があるので、必要に応じて使用する。ネットでも対面でも、碁に没頭している間は余計な雑念が払拭されるのがよい。
今宵も散歩帰りに購入したハイボールを片手に、見知らぬ韓国人と熱戦を繰り広げた。