媒介役
夜の散歩から帰宅し、軽く酒――缶ビールだったりワインだったり、特に規則性はない――を楽しんだ後、翌日が早番でなければパソコンを開き、一局勝負することにしている。小学校高学年のころに始めた囲碁は、今でも一番の趣味だ。
これといって秀でたものはないと自認していたが、ハイレベルと言われるネット碁サイトで6段を維持しているのは、一応の特技と言えるのかもわからない。
そういえば、亮也は碁はやらなかった。さすがの彼にも知らないことはあるようで、私の趣味が囲碁だと聞くと「それはまた渋いねえ」と感心していた。「子どもの頃、祖父がやっているのを横目に見ていたけど、さっぱりわからなかったなぁ」と感慨深そうに言った。平凡な自分が知性豊かな彼に優るものは、おそらく囲碁ぐらいしかないだろう。
ネット碁は、基本的に勝敗に関わらず一日一局のみと決めている。負けたからと言って勝つまで粘るというのは、いかにも品性に欠ける行為だ。勝っても負けても一局で終わり、その碁を見つめ直す。負けた碁は、悔しさが先行して静寂に入り込めないことも多いが、一瞬でも省みることで、対局に費やした時間を無に帰さないよう努力する。
無を払拭することで感情は醸成され、やがて活力へと姿を変える。静寂は、無から生への媒介役を担うのだと思う。碁を打つと、感情は生を満喫するために不可欠な要素であることを思い知らされる。
各人が打つ碁の特色、すなわち棋風は人それぞれに異なるものだ。堅実に実利を稼ぐ現実主義者もいれば、大風呂敷な大模様を好む浪漫派など様々で、それらの善悪など言えたものではない。棋風はその人の性格や考え方が表れやすい傾向にあり、だから碁は単なる娯楽にあらず、心と心の勝負だと言える。
午前1時の静寂を纏い、改めて自身の棋風について反芻する。
静寂を愛する自分、感情の揺らぎに敏感な自分。
これまでに蓄積した何百、何千という碁を瞬間的に回顧すると、碁を打つ中で、普段の自分とは異なる感情を投じていることに気付いた。いや、それだけを目指して碁を打ってきた、という方が正確かもしれない。
そんなこと、わざわざ思い返さずともわかっている。
辛口のモスコミュールで喉を潤し、徐にネット碁サイトにログインした。