馬鹿げた空間
3つ目のルートは、マンションを出て右へ進む、通勤の際に用いる経路だ。
閑静な住宅地を、時折右や左に方向転換しながら15分ほど進むと、人通りの多い商店街に入る。商店街は夜間でも盛況を呈しており、じゃかじゃかと耳障りなパチンコ屋や、やる気のなさそうなアルバイトが常駐しているコンビニエンスストアや、通りすがりの女子大生のかしましい無駄話などが主力となり、ひとつのネットワークを形成している。
それは無論、私が住む住宅地とは対極の存在である。静寂を噛みしめることができない空間は、すなわち嫌悪感をもたらす。嫌悪は諦念へと形を変え、さらに無関心へと昇華する。
感情は凶器だ。はからずも脳内を支配し、そこから何かを生成しようとして疲弊する。それはナイフのごとく鋭利で、俊敏に私や誰かの奥底に大小さまざまな傷を植えつける。
あらゆる感情を取っ払えるものならそうしたいと思ったこともある。しかし、それは現実的に不可能であり、また哀しくもある。それでも、余計な感情を抱かないように努力することはできる。私は、だから週に5回この道を通らねばならない苦行を、今では顔色ひとつ変えずにこなしている。
このルートをわざわざ選択するのは、亮也を思い起こしそうになったときだ。あの馬鹿げた空間に身を投ずれば、亮也の付け入る余地はない。亮也は私には賢すぎたのだ。
亮也は私を至極誠実に愛してくれた。私も、同じくらいの誠実さをもって亮也を愛した。亮也も静寂を大切にしていた。彼にとって、静寂は自己を見つめ直す鏡のようなものだった。静寂と真摯に向き合うことで、自身の知性が手厚くなる様を感じたと言う。
「静寂よ、あな尊き静寂よ」というのが彼の常套句で、その言葉を耳にするたびに私はふふ、と微笑をみせた。
亮也は何事においても明確な持論を持ち合わせており、それはいつも私に新鮮な興奮をもたらす。博学多才な彼の――慶應大の法学部を首席で卒業している――脳内を垣間見ることは大変に興味深く、また、私は彼が持論を展開するときの珍妙なほどに真剣な眼差しを――やはり左眼を働かせて――捉えるのが好きだった。自分の考えや意見を、自信を持って表出することに消極的な私とは、まるで異なる種別の生き物。
亮也を確かに愛していながらも、その愛の中に様々な感情がほんの微量ずつ蓄積され、いつしか関係は終局へと手数を伸ばした。亮也の明晰さへの嫉妬心か、あるいは、彼の思考についていけないもどかしさか、はたまた、セックスの後のえも言われぬ寂寥感か。一番は、静寂の捉え方の相違だった。