夜の散策
夜が深まり本領を発揮し始めるころに外へ繰り出すのが私の日課であり、もっとも心穏やかになるひとときだ。
腰まで伸びたロングヘアにはひと通りドライヤーがあてられてはいるものの、まだ方々に水気が残っている。完全に乾き切っているよりも、私にはその方がしっくりくる。夜気の涼しさと相まって、首筋に鋭い冷気を受け止める感触が好きだ。子どものころからそんなことを繰り返していたので当時はよく風邪を引いていたが、免疫ができたのか、高校進学以降はほとんど体調を崩した記憶がない。
都区内といえども駅からしばらく離れた住宅地だと、人通りは少なく閑散としている。特に深夜などはほとんどゴーストタウンの如き様相で、道々に設置された薄暗い街灯が静寂へともてなしてくれる。
静寂は孤独だ。でも至極公平で、脳に確かな潤いをもたらす代物である。夜道の散策は、ごく自然な形で副交感神経を活性化させる。
歩くルートは3通りあり、1つ目は約10分コースで、自宅のマンションを出て左へ進み、その先の丁字路で左に折れて一周して戻る。時間に余裕のないときや、疲れているときに利用する経路だ。
2つ目は先の丁字路を直進し、先へ進んで迂回して戻るコース。これが約25分で、入浴後の軽い運動にはちょうど良い距離なので定番と化している。
途中にこぢんまりとした公園があり、そこの年季の入った木製のブランコに腰かけて小休止する。
ブランコに座ったまま月を仰ぎ、深く呼吸して静寂を体内に取り込む。静寂は何も問いかけず、ただそこに存在し受容してくれる。
受容はわれわれ人間にとって、 往々にして一定の努力や忍耐を要するものだ。それらは、時として虚無や憎悪にもなり得ることを知っている。私は、だから静寂がどのような感情を抱いているのかと、ごく稀に思うことがある。
両眼をぱっちり開きながらも左眼を駆使して――右眼外斜視のため、両眼視不十分と指摘されたことがある――満月や半月を見つめながら、Superflyの「輝く月のように」を想起する。イントロの力強いピアノや、終盤の「泣き」を誘うギターフレーズ――もちろん、ソウルフルなボーカルも魅力的だ――を脳内で噛みしめると、いくらか感傷的な気分になる。
そういう瞬間は頻繁に訪れると滑稽になりがちで、時々だからこそ感情のスパイスになる。以前、亮也が言っていたことだ。私は毎日だって構わないと感じるが、でも時々で収めている。