02 こま 第1パート
大河の村。七月二十日、午前五時。
シャッ、シャッと竹ぼうきの音を立てながら、神社の参道を掃除する少年がいた。名をルーヤ、ようやく十三歳になった、この神社の跡取り息子である。
またの名を、馬鹿といった。
「ふわああ――ったく、眠いったらありゃしねぇ! 何が楽しくて、こんな朝っぱらから毎日毎日掃除なぞせにゃならんのだ!」
などと、神主である父の前で言おうものなら、即答が木桶と共に飛んでくる。
『神社の子どもは特別なんだ、つべこべ言わずに掃除しろ』
言われ続けて早や十年、今も空耳で聞こえてきたような気がした。ここまできたら病気の域だ。立ったころから毎日掃除そうじソウジ。遊び盛りのカワイイ息子に対して何たる仕打ちだバカ親父!
と、ルーヤが竹ぼうきを折らんばかりに握りしめたとき、人の足音と小枝の踏み折られる音が聞こえた。不機嫌顔のまま振り返って見れば、そこには老人が一人。鳥居をくぐり、神社の長ったらしい階段を弱った足腰で上っていた。
カチリ。
ルーヤのどこかで電源が入った。
ルーヤには、苦労しているものを見ると、老若男女犬猫鳥牛構わず助けに行くという、単純で明快な習性があった。ぽーんっと竹ぼうきを放り出し、参道を駆け降りる。親父への腹立ちはといえば、とうに忘却の泉の水底に沈んでいる。
さて、ここにルーヤが馬鹿と呼ばれる由縁がある。ルーヤの習性には重大な欠陥があった。電源が入ったルーヤの足は、人外の俊足である。そして、心臓の弱ったご老体がその俊足を目の当たりにしてどうなるか、そこに気を回せるほど、この少年は器用ではない。
かくしてルーヤは老人と出会った。漆黒の服に身を包んだ翁は、村の者ではない。しかし、この神社は淤加美神とかいうものすごくえらい水神様にご祈祷できるありがたい場所だそうで、他村からの参拝客も珍しくなかった。そして、遠路遥々やってきた老人があんぐりと口を開けているのを見て、ようやくルーヤは気づくのである。
あ、やっべ。
しかし、今回は何かが違った。老人は、おろおろしつつも尋ねてきた。
「そなた、神の窓の守り子か?」
「え、まど?」
訊かれたならば、答えねばならないだろう。それが親切というものだ。
老人への心配心を捨て去り、ルーヤはフムと考えた。窓という言葉には聞き覚えがあった。親父が言うには、神社や神殿は神様がいる場所などではなくて、人が神様と会うための窓にすぎないんだとかなんとか。それならば、神社の子どもの自分は神の窓の守り子である、といえなくもない、気がする。
「うん、たぶん」
「――内に傷負う人の子よ
神の窓の守り子よ
代価を払い、心に描け
関わり深しもののすべてを
さすれば夢は現となる――」
意味不明な老人の言葉にルーヤの首がさらにひねられ、ひっくり返るのではないかと思われた時、ついにと言うべきか、先に老人の方がひっくり返った。
「えっ、ちょっと、おじいちゃん!」
ルーヤは慌てて手を差し伸べ、危うく老人の頭部打撲を防いだ。
「……うわちゃー」
ルーヤは拝殿を掃除する父を呼ぶべく、老人を寝かせて参道を駆け上がった。はてさて、参拝客を気絶させてしまったのは何回目だっただろう。
息子から事の次第を聞いた神主は、息子の頬をみょーんと引っ張った。
「これ以上参拝者を驚かして気絶させるんじゃない」
三十回ほど言い聞かせた言葉のはずなのだが、まだ懲りんのか。しかしあくまで親切心なので責めることはできないか。
神主は参道まで行くと、ひょいっと老人を担ぎ上げた。まったく、息子のおかげでオヤジな歳になっても筋肉が衰えない。これは果たして喜ぶべきか悲しむべきか。
神主は神社の隣にある住まいまで老人を運び、客間に寝かせた。そこに現れた彼の妻は「あら、また?」と微笑みつつ、こちらも異様に慣れた手つきで看病をし始める。すでに日常茶飯事化している光景を見届けると、神主は息子に言った。
「そら、掃除に戻るぞ」
父の言葉にルーヤはうなり返した。
「もう掃除なんていいじゃん! 俺、おじいちゃんの看病する!」
「掃除が終わってからだ。神社の子どもは特別なんだよ。黙ってやれ」
神主は馬鹿息子の首根っこをひっつかみ、問答無用でポイッと参道に放り戻した。
結局丸々二時間掃除をさせられたルーヤは、朝食も終えてぼてぼてとあぜ道を歩いていた。向かうは村にある大河だ。豊作をもたらし、子どもたちに遊び場を提供している。
「おーい、ルーヤ、遅いぞ!」
遊び仲間にそう呼びかけられて、ルーヤの足が駆けた。
「ごめん! また気絶人出しちゃって」
「またあ? お前がいる間だけ神社封鎖した方がいいんじゃないの、本当」
そんな会話で始まって、今日もまた気がつけば太陽は空のてっぺんまで昇っていた。腹の虫が鳴ると、子どもたちは母親が持たせてくれたおにぎりを食べて、また夕方まで遊ぶ。びちゃびちゃになっても、誰も何も気にしないし、怒りもしない。皆そうやって育ってきたのだ。
「うわ、もうこんなに影長いぜ!」
「早く帰んないと! 夕飯食いっぱぐれちまう!」
そして、いつも通り、帰って来いと言われた時間よりもちょっとだけ遅い時間に、皆一斉に帰って行く。
ルーヤもいつもの帰り道。軽い鼻歌を歌いながら、住まいへと続く神社裏の階段へ足をかけた――その時だった。
母親の悲鳴がルーヤの鼓膜を打ちつけた。何かを思考するよりも先に、体が階段を一段飛ばしに駆けあがる。家に着くと、夕日に照らされて赤くなった玄関が開けっぱなしにされていた。ルーヤは靴さえ脱がずに家に入り、そして居間に入って絶句した。
母が死んでいた。切られていたのは、首。
ルーヤは座り込みかけた。だが、状況はルーヤにその暇を与えてはくれなかった。奥の間から別の悲鳴が上がった。親父の声だ。ルーヤは一歩ずつ慎重に、音を立てないようにふすまに向かって足を踏み出した。
家は古い。ふすまには初めから隙間があいている。そこからのぞけば――。
隙間から、親父が床に倒れているのが見えた。その腕と足からは血が流れている。目はまだ瞬きをしている。そして、その親父の横に誰かがいた。人相に見覚えはない。その顔が、ゆらりとルーヤに向いた。
ルーヤはその場に尻もちをついた。男がふすまに近づいて来て、勢いよく開けた。バンッと派手な音がする。だが、縛られでもしたかのように、ルーヤの体は動かなかった。男は歪んだ三日月を口元に浮かべた。
「親父さんは今から殺すけど、君のことはどうしようか?」
男がルーヤに向かって右腕を伸ばすと、ルーヤの首に何かが絡みついた。糸だった。ルーヤはとっさに指をかけたが、切れる気配はなかった。ルーヤの顔が引きつった時、親父が声を上げた。
「俺の息子に、何をしている」
すると、男はルーヤの首に糸を絡めたまま、左手から糸を放ち、神主の胴をすぐに締めた。親父の胴から鮮血が舞い上がった。男はすぐさま親父の首を狙った。
このままじゃ、親父は母さんと同じになる。嫌だ――だめ!
ただひたすら強く思った刹那だった。ルーヤの右目に刃物を突き立てられたような痛みが走り、次いでそこからぱたぱたと赤い滴が落ちてきた。それが血なのだと認識した時、ルーヤの脳内にさわさわと水の流れる音が響いた。
聞きなれた川の音。澄みきったこの村の大河の音。
ルーヤは何気なく川の水を思い浮かべた――瞬間、ルーヤの両手から水が溢れ出てきた。その水は床に落ちることはなく、ルーヤの手のひらにとどまった。
驚くルーヤが何かをする前に、異変に気付いた男がルーヤの首の糸をついに締めた。ルーヤは顔を歪め、その圧に耐えきれずに目を閉じた。
この水が、あいつの糸みたいになればいいのに。そうなれば、きっと同じ透明の糸になる。ついでにあいつの首に巻きついたなら、もっといい。この手のひらにある水がだんだんと細くなって、男の首に向かって俺の右手から――。
俺の右手から。
俺の、右手。右手に、違和感がある。
ルーヤは、酸欠とうっ血で重いまぶたを持ちあげた。水は、ルーヤが思い描いた通りに糸の形になり、ルーヤの右手から男の首に絡みついていた。男は水の糸に手をかけたが、その拍子にルーヤの首の糸が緩んだだけで、水の糸が緩むことはなかった。
ルーヤには二つの選択肢が与えられていた。糸を締めて男を殺すか、殺さずに逃がすか。男を逃がした場合、ルーヤが殺されることは確実と思えた。
「やめてよ……。俺、馬鹿なんだよ。こんな二択問題を、迷わないくらいには」
ルーヤは、右腕を引いて糸を締めた。
ルーヤは男の死体をまたぎ、水糸が消えてなくなった手で親父を抱き起した。親父の首は赤かった。ルーヤは唇を強く噛んだ。――遅かった。
力の入ったルーヤの目が、父の首に下がっている守り袋をとらえた。ルーヤが幼い頃から、父親が大切そうに下げていたものだ。神社で売っているお守りとは違うものだったから、ルーヤは過去にこれは何だと聞いたことがあった。すると、俺が思うに一番効力が高い特製のお守りだと返された。
一体どのツラ下げて効力が高いと言い張る気だ。守ってくれてなんかいないじゃないか。お前がもっとしっかりしたお守りだったなら、親父だって助かったかもしれないのに。
中に入っている御札を一度拝んでやりたくなり、ルーヤは守り袋を開けた。大げさな仏頂面を作り、丁寧に折りたたまれた紙を広げてにらみつけてやった。しかし、その不機嫌顔はいとも簡単に崩されることになった。肩を震わせたルーヤの口の端から、ついに嗚咽が漏れた。ただ、悔しくて、悔しくて、悲しかった。守り袋には、ルーヤが三歳の時に描いた、ぐちゃぐちゃでへたくそな三人家族の絵が入っていた。