松賀騒動異聞 第九章
第九章
「木幡さん、どうも訳が判らない事件もありますよ。浅香十郎左衛門事件なんですがね」
小泉さんは、穏やかな微笑を浮かべながら、私に語りかけた。
それは、このような事件であったと史料には記載されている。
内藤侯平藩史料 巻三
延宝七年(一六七九)三月八日 浅香十郎左衛門を牢舎す
按るに十郎左衛門罪状詳かならず
旧記に十郎左衛門儀(知行七百石御物頭役格御小姓目付)御家老職にも仰付らる程の思召なれども若年の折り人を害したる勇気一体強勢に之れあるべくと最初の思召変らせらる
下野守様へ御附けなされたり
然るに下野守様御退身の評議十郎左衛門に心置き同人儀殿様を咒咀奉る様と
品々讒訴を以て罪に随し牢舎申付られ翌延宝八年三月□日牢中に病死し
平久保安養寺に土葬すと又書置の文書あれども年月日なし
姑く此に附記す
一説に十郎左衛門牢中にて指を喰切り聊か無罪の趣血を以て書残し牢の格子にて頭を打砕き相果たり
松賀とは至て不和にて深く恨を含みたる由族之助病中に十郎左衛門麻上下着て玄関より奥へ通りたるを病中伽の諸士まさしく見たりと云う
浅香十郎左衛門書置
一、私事書付にて如申上候少もあやまり無御坐候品々取沙汰御坐候共皆私をにくみ悪しく申候故に御坐候最前申分之書立にせいしに有之通偽無之其書付之外覚無御坐候
一、私事下野様より難題被仰懸候を殿様より御僉さくもなく様子牢へ仰入れ被成事は恨奉存候族介へ一入恨候事
一、あやまり無之身を永く如此被指口候候故無念に存態と牢死仕候無念至極に御坐候
一、母事江戸へ被遣可被下候
右之通被仰上可被下候
浅香十郎左衛門
御目付中
一、あやまり御坐候わば切腹被仰付候□□御政道にて御坐候に士を牢へ御入被成候事吟味之事に御坐候其上あやまり無之を御僉議なく押付牢へ御入被成候事御眼生々尽かたく御坐候
【現代語訳】
延宝七年(一六七九年)三月八日 浅香十郎左衛門を牢屋に入れた
とは言うものの、十郎左衛門の罪状の詳しいところは不明である。
旧記には、十郎左衛門は知行七百石の物頭役格の小姓目付であり、場合によっては家老職にも命ぜられるほど主君の思し召しは良かった人物であるが、若年の頃、人を害したことがあり、かっとなると何をしでかすか分からない者であると当初の思し召しを変えて、殿様は嫡子の下野守様附きとした。
しかし、下野守様が廃嫡となり退身された際のいろいろな評議が十郎左衛門の耳に届き、十郎左衛門は殿様をお恨みし、呪詛しているといろいろと讒訴され、罪人とされ、牢屋に入れられた。
そして、翌年の延宝八年三月□日に牢内で病死し、平久保の安養寺に埋葬された。
遺書はあったが、記載した年月日は無かった。
その遺書の内容はこのようなものであった。
一説に依れば、十郎左衛門は牢内で指を噛み切り、その血で自身の無罪を書き残し、牢の格子に頭を打ち付けて砕き、死んだと云われる。
松賀族之助とは以前から仲が悪く、族之助に深い恨みを持っていたらしい。
族之助が病気になり寝込んでいた際、死んだ十郎左衛門が麻の上下を着用して族之助の屋敷の玄関から入り、奥の座敷に歩いて通っていく姿を族之助病床で伽をしていた侍たちが目撃したと云われている。
浅香十郎左衛門の遺書は以下である。
一、今回、私がこの書き置きで申し上げることに偽りは一切ございません。いろいろと私に関して取沙汰されているところがございますが、全て私を憎み、悪しく申すものであり、この書き置きで書き残すもの以外に申し残すことはございません。
一、私は下野守様からの難題を仰せつかってはおりましたが、殿様からのお訊ねが無いままでこのように牢に入れられたことは残念に存じ、お恨み致しますが、本来は松賀族之助一人を恨んでのことでありました。
一、罪無きまま、このように長い間、牢屋に入れられております。今、このように指を口で噛み切って、書き置きを残して牢死致しますことはまことに無念の極みでございます。
一、母に関しては、江戸へ行かして下されたくお願い致します。
右の通り、仰せ上げられ下さるべく
浅香十郎左衛門
御目付宛
一、過ちがあれば、切腹を仰せつかるのが御政道というものであり、侍を牢に入れたならば取り調べがあって然るべきところ、過ち無き者を牢に入れて取り調べも行わないということは論外のことであります。
四家文吉著「磐城古代記」の記述
浅香竹右衛門不運の事
下野守殿の家来浅香竹右衛門は、忠義の士也、族之助が下野殿を退ぞけ、内藤の家を奪い大蔵に相続さすべしと巧みし事を聞くより無念骨髄に徹し族が振舞推参なり、此上は大蔵父子を手討にし、主君下野殿の残念をはらすに如くはあらじと思い立ち、俄に江戸を出立して岩城に下り、病気と偽り族が父子をねらいけり、族之介此よしを傳え聞き出仕他行もせず昼夜引き籠隠れ居けり、頃は三月三日上巳の御祝儀に族之介登城して帰りける所を、浅香竹右衛門大手の表門の側に待ち設け、時分はよしと切り掛くれば、族は早く身を反し跡へと直ぐに逃げ行くを、竹右衛門やっきとなり、何処までもと追駆たり、かかる所に大手の張番足軽彦右衛門と云える者、此体を見、後の方より飛びかかり、矢庭に竹右衛門をぞ組留ける、竹右衛門太刀取直し面倒なりと一打に彦右衛門を突き伏せ、更に族を追駆けるを、彦右衛門は追駆させじと突棒を以て又後より駆け付きたり、かかる所に、族が若党四人一度にどっと飛びかかり浅香をねぢふせ、高手小手にいましめける。
族は此よしを聞て、中門まで逃げけるが立帰りて浅香に向い何の意趣にて我等にはむかい箇様の振舞をしけると云えば浅香聞て無念の声を張上げ、汝覚えあるべし、君恩をわすれ、下野守殿を讒言し、己が子大蔵を下借腹と偽り御家を奪わんと謀る、我此たび下郎め等に妨げられ討そんじ本意を遂げざるは無念此上なし然はあれ生返り死変り必ず一念をはらさんと、無念の涙を流し、族をにらんで立けるは、身の毛もよだつ許りなり。
族もおそろしくや思いけん、浅香を獄屋へ押込めよと云捨て、我屋へこそは早々逃げ行く。
雨野彦右衛門出世 忠臣浅香横死の事
族之介は彦右衛門の働にて漸やく危き所を遁れたりしかば直ちに御前に罷出で、此度のことに付彦右衛門の働きは侍も及ばぬ遖の振舞、足軽には惜しき者也、御召使然るべきかと申たれば、左京太夫殿能きに計るべしと仰せける、依て雨野彦右衛門と名を改め、十人扶持を下されたる。
彦右衛門は有難く頂戴仕り、族が家へ急ぎ行き此度の御恩辱なき仕合せと一礼を述べたりけり、又浅香をば別に獄屋を立て押込けり。
竹右衛門は無念の歯がみをなし、此度仕損じたりとて何の時かは族の一家の者共並に彦右衛門を取殺し無念の思いを晴さざるべき嘻口惜しやと罵り狂うより、今は四方に近付く者もなし。
族之介此の由を聞くより山野井茂右衛門、同八右衛門、両人を呼び、汝等も竹右衛門が悪口するをば聞きたるべし、汝等兄弟二人宜しく雨野彦右衛門と一所にしめし合い、今夜獄屋にて浅香を槍にて突殺すべしと云いければ畏まり候と三人黒き頭巾黒装束にて、獄屋を指して忍び入り、三筋の鎗をしっかと持ち一度にどっと突込けるに暗さはくらし真のやみ、又も揃て突かくれば水もたまらず突留ける。
浅香は無念大音あげ突き通したる鎗を両手に握り、いかなれば浅香程なる侍を声をもかけず不意打するは武士道にはあらざるよ、かかる下郎の手に掛り死せんは末代迄の恥辱なり、死替り生替り恨を晴さで置くべきか、我死するも十七日の其の間に今の無念を己等に思いしらせん思いしれやと、三十一歳を最期として終に空しくなりしかば、一家中を始め皆々一同におしまぬものはなかりけり。
浅香死霊の事
既に浅香死して三日目になりければ、族之介が家の天井に生首出で、眼を開き大音上に恨らめしやと云う声は家も崩るる許りなり。
又台所の釜鳴り出すこと甚だしく、平の城下中へぞひびきける、又水瓶の中より火燃え出で炉の中に竹の子生いたり、家内の男女恐れをなし、気を失いて逃げ失せるもあり、祈祷よ医者よと騒ぎける。
族は大に驚き恐れ、近辺の名僧を集め大般若経を読ませけれども更に止む事なかりける。
薬王寺の円知坊と申す者智僧の聞え高かりし故特に之を頼み祈祷したり、族之介は円知坊に向い申けるは、死霊未だ止む事なし、何卒筒取くれ給うべしと請いければ、円知坊は如何にもして筒取申候えども筒を張り切り取ること叶い難くと答えけり。
かかる有様ゆえ円知坊もあきれ果て右の筒を縄にて巻き七ヶ年の間、筒取ければ、夫より死霊出でざりける。
程なく大蔵病気に罹り色々薬用しけれども更に快気なし剰さえ癩病なりければ、江戸より三浦意伯と云う医師を招きける、此医師薬を調合すれば、大蔵起ち直り胸をさすり歯をむき出し、大音に、汝薬を以て百病を治すとも、我れ槍を以てやみ突に四十八ヶ所突通されける程に、其疵跡を顕わし癩病と成たれば、此疵より毎日血を流し取殺して亡念をはらさんと其の声恰も雷の如し。
三浦意伯も医術叶わずして江戸に立帰りける。
大蔵病むこと三年にして、終に空しく死失せけり、浅香を殺したる天罰也と後に悔ゆとも是非なし。
大蔵の死骸は山崎山に埋めしとかや。
【現代語訳】
浅香竹右衛門 不運の件
下野守殿の家来、浅香竹右衛門は忠義の士である。松賀族之助が下野守殿を退身させ、内藤家を簒奪し、大蔵に相続させようと企んでいることを聞いて、無念骨髄に徹し、族之助の振る舞いはまことに無礼千万である、この上は族之助・大蔵父子を手討ちにして、主君である下野守殿の無念を晴らさなければならないと思い立って、突然江戸を発って、磐城に下り、病気療養のためと偽って、族之助父子を狙っていた。
一方、族之助も浅香竹右衛門が自分を狙っていることを伝え聞いており、殿様の御前に出ることも外出することもしないで、昼夜自宅へ引き籠もって隠れるように暮らしていた。
しかし、時は三月三日上巳の節句(じょうしのせっく。桃の節句のこと)ということで、族之助が登城
して帰るところを浅香竹右衛門は大手門の側で待ち受けて、丁度良い時とばかり、族之助に斬りかかれば、族之助は素早く身を翻し、今来た道を真っ直ぐに逃げ戻っていくのを、竹右衛門もやっきとなり、何処までもと、追い駆けて行った。
このようにしている時、大手門の番人をしていた足軽の彦右衛門と云う者がこの様子を見て、竹右衛門の背後から飛びかかり、やにわに竹右衛門にしがみ付いた。
竹右衛門も刀を取り直し、面倒であるとばかり、彦右衛門に一太刀浴びせて地面に打ち倒し、さらに族之助を追い駆けて行こうとするところを、そうはさせじ、追い駆けはさせないと彦右衛門は突き棒を持って、再度背後から竹右衛門を追い駆けたのである。
そう、こうしている内に族之助の若党四人が竹右衛門目掛けて一度にどっと飛び掛かり、浅香をねじ伏せ、高手小手に縛り上げた。
逃げていた族之助もこのことを聞いて、中門まで逃げていたのであるが、大手門の方に立ち帰り、縛られた浅香に向って、どういう意趣で私に対してこのような振る舞いに出たのかと訊けば、浅香は族之助の言葉を聞いて無念の声を張り上げて、汝も心当たりがあるであろう、君恩を忘れ、下野守殿を殿様に讒言し、自分の子である大蔵を下借腹であると偽って、御家を簒奪しようと企らみおる、自分は今回は下郎たちに妨げられ、汝を討ち損じ、本意を遂げることが出来なかったことは無念この上無いところである、しかし、死んでも何回でも生き返り、必ず汝を殺すという一念を貫くつもりだ、と無念の涙を流して、族之助を睨んで立っているその姿は、まさに身の毛もよだつ姿であったと云う。
族之助も恐ろしくなったのであろう、浅香を牢に閉じ込めよ、と命じて早々に自分の屋敷に逃げ帰って行ったということであった。
雨野彦右衛門の出世と、忠臣浅香の横死の件
族之助は彦右衛門の働きにより、辛うじて危ないところを脱し、すぐに、殿様の御前に罷り出て、この度のことに関して、彦右衛門の働きは侍も及ばぬほどの天晴れな振る舞いであり、足軽のままにしておいてはまことに惜しい者であるとして、お召し抱えあるべきと申し上げれば、殿様の左京太夫殿は善きにはからえとおっしゃり、これにより、彦右衛門は雨野彦右衛門と名を改め、士分に取り立ての上、十人扶持を賜った。
彦右衛門はこのお取り立てを有り難いものとし、族之助の屋敷に急ぎ赴き、この度の御恩はまことにかたじけなき幸せでございますとお礼を申し上げた。
そして、浅香を別なところに獄舎を建ててそこに押し込めた。
竹右衛門は無念残念とばかり歯噛みして、今回は仕損じたが、いつの日か、族之助の一家の者、並びに、彦右衛門を執り殺し、無念を晴らす、ああ口惜しいことだ、と狂ったように罵り続けたので、その獄舎に近付く者は誰も居なくなった。
族之助はこのことを聞いて、山野井茂右衛門・山野井八右衛門の二人の兄弟を呼び、お前たちも竹右衛門の悪口雑言を聞いたであろう、お前たち兄弟二人、雨野彦右衛門と宜しく協同して、今夜獄舎で浅香を槍で突き殺せと命じたので、山野井兄弟は畏まりましてございますと答え、彦右衛門共々三人して黒頭巾・黒装束で獄舎に忍び込み、三本の槍をしっかりと持ち、どっとばかり牢屋の中に突き入れた。
獄舎の中は真っ暗闇であり、ふいに同時に突かれたから堪らない、竹右衛門の体は三本の槍に貫かれた。 浅香は、無念という大声を上げ、体を貫いた槍を両手で握り、どういうことであるか、浅香ほどの侍を声も掛けずに不意打ちにするとは武士道にあるまじき振る舞いである、このような下郎の手にかかり死ぬことは末代までの恥辱である、何回でも生まれ変わり、恨みを晴らさずにおくものか、自分が死んでも十七日の間に今のこの無念をお前たちに思い知らせてやるからそのつもりでいよ、と三十一歳を最期として終に空しく息絶えた。
家中一同、その死を惜しまぬ者はいなかった。
浅香の死霊のこと
浅香が死んで三日目となった。
族之助の屋敷の天井に生首が出て、眼を見開き、恨めしや、と大声で言う声は家も崩れるばかりの大きな音であった。
また、台所の釜が鳴り出す音も甚だしく大きな音で、磐城平の城下中に響き渡るほどであった。
他、水瓶の中から火が燃え上がったり、炉の中に竹の子が生えたりして、家中の男女は恐れをなし、気を失ったり、逃げ出す者もおり、祈祷よ、医者よ、と騒ぎ立てた。
族之助は大いに驚き、且つ恐れ、近辺の名僧を集め大般若経を読ませたりしたが一向に止むことは無かった。
薬王寺の円知坊と申す者は智僧との評判が高かったので、特別にこの僧を呼んで祈祷して貰った。
族之助が円知坊に向って申したことは、死霊は未だ止んでいない、なにとぞ筒取りをして戴きたいとお願いしたが、円知坊の言うことには筒取りはしているものの、どうにもこうにも筒を張り切り取ることが出来ませんということであった。
このような有様であったので、円知坊も呆れ果てて、右の筒を縄でぐるぐると巻いて七ヶ年の間、筒取りをしたところ、それ以後は死霊は出なくなった。
まもなく、大蔵が病気に罹り、いろいろと薬を飲んだりしたけれども、一向に病気が治る気配が無く、あまつさえ、癩病にもなってしまった。
江戸から三浦意伯と云う医師を招いた。
この医師が薬を調合したところ、大蔵が起き上がり、胸をさすりながら、歯をむき出しにして、大声で、汝は薬で百病を治すということだが、自分は槍でむやみと突かれ、四十八ヶ所も突き通されたのだ。
その疵跡が現れて、癩病となったものであり、この疵から毎日血を流し、執り殺すことにより恨みを晴らすものである、と雷のような大声で語った。
三浦意伯も医術の効が無いとして江戸に立ち帰って行った。
大蔵は病気になって三年後、終に空しく死んでしまった。
浅香を殺した天罰であると後で悔やんでもせんないことであった。
大蔵の死骸は山崎山に埋葬したということである。
高萩精玄著「岩城史」
浅賀竹右衛門のこと
ここに下野の侍者に竹右衛門と申すものこの趣を聞くよりも無念骨髄に徹し、何卒して族と大蔵を打ち殺し、主君の無念を晴さばやと、荊軻が勇を振い、義を豫襄に比してぞ、竊かに江戸を立ち出て国に下りける。
族之助之を聞き、出勤もせず居たりしが、三月三日上巳の御祝なりければ、族之助登城したりしを、表門の傍に侍りける、族と見るよりもひらりと飛びかかりたり。
族見るよりも跡をも見ずに逃げ行けり。
浅賀は「何国まで逃げ行くとも普天の下にあらん限りは殺さでおくべきか」と追い行きしに、張番所の足軽彦右衛門なるもの、竹右衛門の後より抱き止めければ、浅賀「めんどうな奴輩、一打ちに」と切り懸けるところに、族が若党一度に四人飛びかかり、なんなく浅賀を押し伏して、高手小手にいましめてけり。
族之助之を見て立ち帰り「如何なる儀にて下郎我に手向いしぞや」と申しければ、浅賀無念の声をあげ、「にくき汝かな。主君を騙して私欲を恣にして飽くを知らず、剰さえ嫡子下野殿を狂乱と造言して、我が妾の子を取り立てて主家を奪わんとすること、天下の大罪人、我、天に代って汝を打たんとしけるに、下郎めに妨げられ打ち損じたるぞ口惜しや」
と、あたりを睨んで立ちにければ、族も恐しく思い、浅賀を獄に引立ててけり。
族之助、山野井茂右衛門、同八右衛門を召し、「汝等雨野彦右衛門と三人にて、今夜しのび獄に入り、竹右衛門を突き殺し給え」と、いいければ、「心得たり」と、三人の者ども黒装束にて獄屋に至り、槍先を揃えて突込みければ、いかでたまるべき、浅賀胴を突きとめられける。
浅賀大音上げ、「敵を打たず、却って敵に殺さるること、後の世までの恥辱なり。いかで生き替り死に替り、恨をなさで置くべきか」と、無念の歯を喰いしばり遂にはかなくなりにけり。
概説「平市史」記述
浅香十郎左衛門牢舎の事
延宝七年(一六七九)三月の藩史料には次のように、浅香十郎左衛門牢舎の事が述べられている。
磐城史料にある浅香八右衛門なる忠臣があって、松賀父子の逆謀を憎み、大手門にて登城中の松賀族之助を討たんとして却って雨野彦右衛門に捕えられ、牢舎にて討たれたとある人物と、同一人ではないかと思われる。
いずれにしても松賀父子の不忠を憎んでいたのである。
「木幡さん、以上がこの浅香十郎左衛門事件に関して記載されている史料です。あなた
は、この事件をどう読み解きます?」
小泉さんが私に訊ねてきた。
「これらの史料がいつ書かれたかに依りますね」
「なるほど。要するに、木幡さんはこれらの史料が松賀騒動の後に書かれたものと考えているのですね」
「ええ、そうです。なぜならば、これらの史料でははっきりと松賀族之助を悪人と決めつけて記載していますから。松賀騒動で松賀家が断絶してからでないと、このようには書けないと思います。一番古そうに思われる内藤侯平藩史料も松賀騒動の後で、松賀族之助を悪人にするために意図的に書かれたものだと思います」
「なるほど。内藤侯平藩史料とは異なる他の史料の出処は同じだと思われますね。浅香十郎左衛門、浅香竹右衛門、浅賀竹右衛門、浅香八右衛門と名前は少しずつ違いますが、同一人物だと思われますし、平藩史料の藩士録に記載されている浅香十郎左衛門という名前を採用すれば、彼を槍で突き殺したとする山野井茂右衛門、山野井八右衛門、雨野彦右衛門の三人は三人とも、これからお話をする翌年の小姓騒動の際、全て非業の死を遂げています。勧善懲悪の立場から言えば、悪人は全て自分で蒔いた種により、因果応報、因果はめぐる火の車というわけで、滅びていかなければなりません。その観点で、松賀騒動が落着した時点で以前に起こった浅香十郎左衛門事件、小姓騒動も全面的に捏造かたがた、書き直された可能性が強いですな」