靴箱レターと待ち遠しくない放課後
旅の木中学校は、ごく普通の公立中学校である。小学校でお受験勉強を頑張らない限り、地域の子供は大抵ここへ通うことになる。福井瑛太も、そんなごく普通の中学校に通う二年生だった。
中学校へは徒歩五分のマンションに住んでいることもあり、部活にも熱心でない瑛太の登校時間は遅めである。あと五分で、ホームルームの始まる時間。瑛太は、自分の靴箱の蓋を開ける。
見慣れた上履きの上に、何かが乗っていた。それは、白い便箋のようにも見える。始業前の下駄箱の周辺には人影は無く、けれども瑛太は用心深く首を巡らせ、視線を向けずに便箋を学ランのポケットへ入れた。
「僕にも、春が来たのかもしれん」
独り言ちて、瑛太は三階にある教室へと向かう。がやがやと騒がしい中に朝の挨拶と共に乗り込んで、机の上に教科書を広げる。一時間目は、国語だったか。そんなことをしていると、前の席の少年が瑛太に椅子ごと振り向いた。
「よう、福井。朝から何気合入れてんの?」
からかうような口調の少年は、剣崎智一という、瑛太の数少ない友人だった。
「僕だって、予習くらいはするんだ。それより剣崎、前、向けよ。先生来たぞ」
「お前って、本当ギリギリに来るよな。朝の小粋な語らいの時間も、取れないなんて」
ぼやきながらも、剣崎は椅子を回して前を向く。担任の体育教師の本田は、礼儀作法にうるさい中年男だった。一分の乱れも、朝礼にはあってはならない。そんなご高説を、初めのホームルームで聞かされた。以来、クラスの朝の空気はしゃんとしている。ほとんど友人のいない瑛太にとっては、どうでも良いことではあった。
ホームルームが終わり、間もなく本田と入れ替わりに国語の教師が入ってくる。授業が始まれば、隙はいくらでもある。瑛太は、ポケットから便箋を取り出し開いて中を見た。
……放カ後、ウラ庭ノ木ノ下デ待ッテイル。
…… …… …… ……
ト・ド……マサミ……
短い文章だった。はっと、瑛太が息を呑んだのはその内容にではない。手紙には、血痕のようなものが付いていた。穏当に、脳内で咄嗟に『……』へと変換したが、白い紙に鮮やかな赤のそれは、衝撃的にすぎた。呪いの手紙だろうか。想定していたものとは、あまりにも違い過ぎる。これは、決してラブを込めたレターでは無い。
瑛太にとって、恋文、つまりラブレターとは神聖なものであるべきだった。丸く可愛く、しかし読みやすい字で明瞭に目的などの内容が書かれていなければならない。まずは、この呪怨に満ちたカタカナ混じりの言語からして違う。
次に、血痕模様である。女の子からの手紙であれば、可愛らしいイラストの一つでも添えてあるべきだ。無地のルーズリーフに、というのも捨てがたいのであるが、少なくともこれは違う。ついでに、ラベンダーだかミントだかの、良い香りもしない。
以上の二点において、これはラブレターでは無い。ならば、この手紙は誰が、一体何の為に瑛太の靴箱へと入れたのか。読みづらいカタカナ文字を、瑛太は解読する。授業は、そっちのけであった。
ヒントとなるのは、送り主の名前である。ト・ドマサミなる人物に、瑛太は心当たりを持たない。もしかすると、血痕の中に名前が隠されているのでは、と思いついたのは、国語の授業が横道に逸れ、あぶりだし文字について教師が熱く語り始めたお陰であった。
窓から差し込む朝陽に透かして、手紙を見る。血痕に、隠されている文字は見当たらない。
「ん? 何見てんの、福井?」
前の席で、剣崎が怪訝な声で囁いた。
「……何でもないよ。前見てろ」
そっけない囁きを返し、瑛太は手紙を慌てて教科書の下へと隠す。幸い、教師はあぶりだしの起源についての演説に夢中だった。
答えこそ得られなかったが、閃きはあった。ト・ドマサミというのは、正解では無い。間に、何らかの文字が入る。そうなれば、あとは類似する名前を思い浮かべるだけだ。呪いの手紙を送りつけてくるぐらいなのだから、きっと思い当たる節はある。明るい顔になって、瑛太は思考を巡らせ、そして固まった。
トドロキ、マサミチ。思い当たった送り主の名前に、瑛太の顔からさっと血の気が引いてゆく。等々力勝道とは、隣のクラスにいる不良の親玉をしている少年の名前だ。間違っても、関わり合いにはなりたくない同級生だった。中学生でありながら、等々力は大人顔負けの上背であり、顔つきも大人びて見える。一年の頃、瑛太は等々力と同じクラスであったが、素行の悪さで停学になっていた時期が多く、あまり顔を合わせてはいない。いま、手元にあるのは、そんな人物からの手紙かもしれない。そう思えば、瑛太の身体は自然と震えた。
「……ねえ、大丈夫? 福井くん、調子悪そうだけど」
隣の席の、保健委員女子の堀江が心配そうな声をかけてくる。どうやら、呆然としている間に授業は終わっていたようだ。
「あ、ああ、うん。大丈夫。ごめんね、堀江さん。僕も、保健委員なのに」
「大丈夫なら、いいけど。無理しないで、保坂先生に診てもらったら?」
「大丈夫だよ。そう……ちょっと夢見が悪くて、引き摺ってるだけだから」
へらりと笑い、瑛太は何とか取り繕う。
「そうそう。福井が、体調壊すなんてありえないよ。悪いもんでも食わない限りは」
絶妙なタイミングで、剣崎がフォローを入れてくれる。ここだ、と瑛太は立ち上がった。
「ちょっと、僕、トイレ行ってくる」
「大きい方か?」
間髪入れず、剣崎が茶々を入れる。敵か味方か、お前はどっちなんだ、剣崎。そんなことを思いながら、瑛太は足早に教室を出た。向かう先は、もちろんトイレでは無い。隣のクラスの、教室だった。
等々力の姿は、教室の入口からでもすぐに見つかった。長い足を机の上に伸ばし、前の席の背もたれを足置きにした彼の姿は、大変浮いていたからだ。その浮きっぷりは、鯉のぼりの間を舞い上がる熱気球のようだった。のぼりの頂点で風に煽られながら、鯉たちは思うことだろう。あいつ、浮いてる、と。
ごくりと唾を飲み、雑念を吹き飛ばすように頭を小さく横へ振る。そうしてから、瑛太はゆっくりと等々力の席へと歩み寄ってゆく。
「や、やあ、等々力くん」
片手を挙げて、引きつった笑顔で瑛太は声をかけた。ぎょろり、と等々力の眼が、瑛太に向けて動いた。
「……何の用だ、福井」
ドスの効いた、低い声で等々力が言う。ざわり、と教室の空気が一変した。ひそひそと交わされるのは、瑛太の無謀を謗る声ばかりだ。罰ゲームだろうか。あいつ、死んだな。そんな言葉に、耳を貸している余裕は瑛太には無い。
「な、名前……覚えられて、あ、いや、覚えててくれたんだね。ほとんど、顔見なかったのに」
たどたどしい瑛太の言葉に、等々力はふんと鼻を鳴らす。
「同じクラスで、少しばかり世話になった奴の名前だ。忘れるか。それより、用件は何だ」
足を机から下ろした等々力が、座ったまま瑛太に正対する。
「あ、いや、その、てが、手紙、の、ことなんだけど……ですけど」
たちまちに醸し出される暴力的オーラに気圧され、瑛太は足を震わせる。
「手紙……?」
ほんの少し、等々力が思案顔で中空を見つめる。もしかすると、送り主は等々力では無いのかも知れない。ほっと、瑛太は小さく息を吐く。だが、直後、
「ああ。ちゃんと、届いてたか。安心したぜ。それで、来るんだろうな?」
ぎろり、と等々力が眼力を込めて瑛太を見つめてくる。
「は、はひ……」
怯える小動物の表情で、瑛太はうなずくしかできない。
「ククク……楽しみだ。いいか、逃げるんじゃ、ねえぞ。男ならな」
再び瑛太がうなずいたところで、チャイムが鳴った。瑛太は後ろも振り返らずに、等々力の前から駆け去った。
「福井くん……やっぱり、体調良くないのかな?」
「トイレの直後にアレってことは……野菜とか、繊維ってのが足りてないのかな」
ますます顔を青くして戻って来た瑛太に、顔を見合わせ堀江と剣崎が心配そうな声を上げる。だが、今の瑛太にはそれも届いてはいなかった。
僕が、一体何をしたんだ。二時間目の、英語の授業が始まるなり瑛太は頭を抱える。去り際に眼の端に映った、等々力の邪悪な笑顔が頭から離れない。罠にかかった獲物を見下す、強者の笑みだ。
等々力の手紙には、放課後、裏庭の木の下で待っている、とあった。それはきっと、校舎の裏にぽつんと佇む桜の木のことだろう。たまに毛虫などが落ちてくることもあって、滅多に人の来ないスポットである。そんな場所へ不良少年の等々力に呼び出される、とあれば何をされるのかは想像できる。保健室どころか、病院のお世話になってしまうかもしれない。
どうして、どうして。物事には原因に対しての結果、つまり因果がある。何の因果で、こんな目に遭うのだろうか。英語教師のすらすらと読み上げる英文が、右耳から左耳へ滑らかに流れてゆく。
「……腹の調子、悪いのか?」
頭を掻きむしる瑛太に、剣崎が小声で訊いた。
「たぶん、これから悪くなるかも」
「なんだ、そりゃ?」
わずかに首を瑛太へ向けた剣崎が、首を傾げる。教師の声が、止まった。
「ドゥ、しました、ミスター剣崎?」
微妙な英語と日本語の混じった言葉で、教師が剣崎に言う。
「えっと……ボブ少年は、チキンと自転車が好きだって一年の頃習ったんですけど、ケンとメアリーと出かけるときは、なんで徒歩なんですか?」
「……細かいことは、気にしてはいけません。そういうものです」
教科書の挿絵から、無理やりな質問をひねり出す剣崎に教師は呆れたように肩をすくめる。
「……すまん。事情は、後で話す」
教師に代わって英文を読まされる剣崎に、瑛太は手を合わせて小声で言った。
チャイムが鳴り、休み時間になると同時に瑛太は剣崎を教室の隅へと連れて行った。
「なんだ、人目があっちゃ、まずい話か?」
きょろきょろと周囲を見渡す剣崎に、瑛太は黙って手紙を見せる。
「……呪いの手紙?」
血痕模様の手紙から顔を上げ、剣崎が不思議そうに顔を上げる。
「呼び出し状、とでもいうのかな。差出人は、等々力だ」
瑛太の言葉に、剣崎がげえっとうめき声を上げる。少し大きな声だったので、瑛太はしっと指を口の前に立てた。
「等々力からって……福井お前、あいつに何したんだ? もしくは、一年の時に因縁が……?」
「あるわけないだろ。大体、一年の時はお前とずっと一緒だったんだ。接点も何も無いのは、よく知ってるだろ」
「そっか。確かに、等々力とは何も無かったな。噂は派手だったけど、手出しはしてこなかったし」
「噂って、あれか? 高校生のグループと喧嘩して、ボコボコにしちまったって」
「大体、そんなのだな。その界隈じゃ、畏れを込めて『エムズ』って呼ばれてるらしい。チーム名か何かだろうな。勝道の、エムだ」
すらすらと言う剣崎に、瑛太は少し目を丸くした。
「よくそんな事まで知ってるな、剣崎」
「お前と違って、俺は登校が早いんだ。新鮮な情報ってのは、朝に集まるもんだぜ奥さん」
「誰が奥さんだよって、それはいい。等々力についての情報、他に無いか? 俺に、恨みがあるとかなんとか、そっちの方向で」
剣崎が、腕組みをしてしばし押し黙る。
「……わからん。クラスも隣だし、あいつの活動範囲は学校の外が多いからな。聞き込みでも、してくるか」
剣崎の出した答えに、瑛太は目を輝かせる。
「いいのか?」
「ああ。それなりのツテはある。お前と一緒だと等々力の目に留まるかもしれんから、お前は動くな。教室で、等々力との関わりで何か心当たりが無いか、よく思い返してみるんだ」
「ありがとう。お前が、そこまで頼りになる奴だったなんて」
「いいってことだよ。代わりに、また今度お前の家に遊びに行かせてくれ。もちろん、オヤツ付きでな」
「善処するよ」
笑みを交わし合い、握手をしたところでチャイムが鳴った。聞き込みは、次の休み時間になりそうだった。数学の教師が、教室へと入ってくる。瑛太は、剣崎と一緒に慌てて自席へと戻った。
公式を、当てはめれば答えは出る。三角形の面積だろうと、円錐の体積だろうと。喧嘩の場合も、そうだった。どこかに衝突の原因があり、それを解き明かせば和解はできる。
瑛太にとっての公式は、原因に対して自責がどれほどあり、そしてどの程度の譲歩、つまり詫びを入れればいいのかを導き出すものだ。早く言えば、土下座外交。暴力沙汰は、苦手であった。
必要なのは、情報である。等々力は、一体何に対して怒っているのか。それを知るためには、等々力の人となりを知るべきであった。剣崎が、それは担当してくれる。なれば、と瑛太の考えることは、数少ない等々力との過去のやり取りで、過失があったかどうかを思い返すことだ。
公式を覚え、無機質に問題を解く。数学の単純作業じみた問題を相手に、瑛太の意識は過去へと飛ぶ。出席番号は、少し離れていた。だから、席もそれほど近くでは無かった。夏休みの終わりごろ、問題行動を起こしたらしく二学期の前半に等々力の姿は教室には無かった。目立った会話も、無かった。瑛太は一年の頃は文化委員という謎の委員会に所属しており、ここでも何の接点も無い。一年の頃には、何の心当たりも見つからなかった。
ならば、と二年からの記憶を探ってみる。クラス替えがあり、等々力は隣のクラスになった。接点など、あるわけが無い。等々力がどんな学校生活を送っているのかは知らないが、瑛太はいたってごく普通の、当たり前の学校生活である。不良少年と関わることなど、そうそうあるものではない。夏休みが終わり、文化祭の始まる今の時期まで、ずっとそうだったはずだ。
いや、と瑛太は頭の片隅に、記憶を見つけた。たった一度、等々力を最近見た記憶があった。ちらりと、通り過ぎる等々力が頭を過ぎる。どこだっただろう。そして、三角形の内角の和は、いくつだっただろう。人間は、二つの物事を同時に考えられる頭は持っていない。少なくとも、瑛太にそのような天才的頭脳は無い。差し迫った問題から、片付けるべきだった。
聞き込みへ向かう剣崎の背を見送り、瑛太は机の木目を眺める。舌打ちする等々力。それが、どんな状況で、何に対しての舌打ちなのか。それを、思い出す必要があった。思い出したくない記憶には、無意識が蓋をする。強すぎる感情の動きに、本能が防衛反応を示すのだ。何かの本で、そんなことを読んだ記憶があった。
ならば、するすると手繰れば出てくるこの記憶は、それほど悪いものでは無いのかもしれない。瑛太の頭の中に浮かんでくる記憶は、学校の外だ。近くの公園へ、美術の授業で行ったとき。一本の木を、瑛太は写生していた。
「おい、福井。ちょっと、まずいかもしれん」
記憶の中を彷徨っていた瑛太の意識が、ふいに現実へと引き戻される。苦い顔をした剣崎が、息を弾ませて瑛太の前に立っている。
「まずいかもって……聞き込み、上手くいかなかったのか?」
「そっちはばっちりだ。だから、ヤバイ状況だってわかった」
首を振り、器用に剣崎が指で丸を作る。
「ヤバイって、何がだよ?」
「等々力の奴、チームに召集かけたって噂だ。今日の放課後、例の場所を見張らせるって」
「例の場所? まさか……」
「そうだ。お前を呼び出した、裏庭の木のあるところだ。等々力の『エムズ』には、三年のごっついのもいるって話だぜ。行ったら、たぶんお前は戻って来れない」
「物騒なこと言うなよ。一応、学校の中だぞ?」
「学校の中に、等々力がフィールドを作るってんだよ。一応、先生への報告も考えたんだが、等々力の息のかかった奴が職員室を見張ってる。そんな感じがした」
徹底した、追いつめ方だった。瑛太は背筋の底からぶるりと寒気が上がるのを感じた。
「……なあ、福井。お前、本当に何やったんだ? どう考えても、等々力の奴は本気でお前を潰そうとしてるぞ?」
「それを思い出そうとしてたら、お前が話しかけてきて忘れちゃったんだよ、剣崎」
「そりゃ悪かった。でも、こっちも緊急だと思ったんでな」
「ああ。知りたくは無かったけど、値千金の情報だったよ。もし僕が無事に帰って来れたら、いつでも遊びに来てくれ。基本的には、暇だから」
「マジか? 毎日だって、行っちゃうぜ?」
「毎日は……さすがに、勘弁してくれ」
瑛太が肩をすくめて言ったところで、チャイムが鳴った。四時間目は、歴史だ。初老の女教師が、教室へと入ってくる。数学の教科書を机に仕舞い、歴史の分厚い教科書を出した。
応仁の乱以降の、戦国時代。喧嘩になれば、謝ってもゴメンで済まない時代だ。切腹したり、近くの農民に首を刈られたりとバイオレンス極まりない。下手を打てば、今日の我が身である。暴力的な歴史から、瑛太は目を逸らして記憶を探る。まだまだ、首を獲られるわけにはいかない。美術の授業で、外へ出た。そこからの記憶へ、意識を飛ばす。
画板を抱えて色を塗る瑛太の方に、ひらひらと何かが舞い落ちてきたのだ。それは、白いレースの綺麗なハンカチだった。画板を置いて拾い上げ、瑛太は周囲を見渡した。緩やかな坂の、中腹あたり。腰を落ち着けるには、良い場所だった。
小走りで、少年が坂の上に姿を見せた。何かを探すようなそぶりに、瑛太は手の中のハンカチに目を落とした。
「ねえ、君の探し物って、これかな?」
少年へ声をかけた。少年の見た目は、小学生の高学年くらいだったろうか。いきなり、中学生の瑛太が声をかけたので、びっくりしてしまったのかもしれない。少年は、ぎくりと身体を硬直させていた。
「びっくりさせちゃったかな。ごめんね。これ、さっき飛んできて……すぐ後に、君がやってきたものだから。あ、君、手から血が出てるよ」
瑛太が寄ってみれば、少年の右手の皮がわずかに裂けて、血がにじみ出ているのが目に映った。保健委員の血が騒いだのだろうか。瑛太は、少年の手を取って自分のハンカチで血を軽く拭いた。
「あ……」
「こっちのハンカチは、綺麗だから使うの勿体無いよね? これは僕のだけど、洗濯したてのだから、汚くは無いよ」
傷の上にハンカチを結び、レースのハンカチを手渡した。呆然とする少年に軽く手を振って、瑛太は写生へと戻る。木の葉に、色を付けてやりたかった。置いた画板を持ち上げると、少年の駆け去る気配があった。子供は、元気が一番だ。そんな感慨にふけりながら、自分も子供じゃないか、と心の中でツッコミを入れたそのとき。坂の上に、等々力が現れた。
画板を持ったまま坂の上を見つめ、瑛太は固まった。授業中であるのに、しかも等々力のクラスは美術の時間では無かったはずなのに、等々力はそこにいた。学ランではなく、私服らしいグレーのシャツを着て。
視線が、ぶつかり合った。等々力は瑛太をじっと見つめ、しばらくそうした後で舌打ちをひとつ、残して踵を返した。身じろぎもせず、瑛太はその場に立ち尽くしていた。
等々力が去ったあと、瑛太はそっと坂の上に出た。等々力が歩いて行った方向と、逆の方へ目を向ける。大きなマンションの裏通り、一方通行の道路わきに、髪を染めたいかにも不良といった見た目の青少年たちが多数倒れていた。保健委員の血は、凍り付いてしまった。関わり合いになりたくない一心で、瑛太はそこを離れた。
思い出した後、瑛太は頭を抱えて机に突っ伏した。
「何であんなショッキングなことを忘れているんだ、僕」
誰にも聞こえないように、小さく呻く。あれは、夢だったのだろうか。否、そうでは無い。ハンカチは確かに無くなっていて、父親には目の玉が飛び出るほどの拳骨を戴いたのだ。古い気風を重んじる父親は、モノの大事さをそうして教えてくれる。もしかすると、拳骨で記憶が飛んだのかもしれない。
瑛太が我が家の教育方針に不安を覚えていると、チャイムが鳴った。
昼休みになった。立て続けの頭脳労働で疲れていた頭を、弁当の栄養で癒す。瑛太が机の上に広げた弁当を、横合いから剣崎が突いてきた。
「んで、何か思い出せたのか?」
剣崎が日の丸弁当に瑛太のハンバーグを乗せ、言った。
「まあ、一応。等々力と、最近顔を合わせたことはあったよ」
「いつだ?」
「……こないだの、美術の授業で外行ったとき。お前が、公衆トイレの裏のオミナエシを一生懸命描いてたときだよ」
「ああ、あれか。我ながら見事な出来栄えだった。俺、美術部に入ってたら画家デビューできてたかもしれん」
もぐもぐと、だし巻き卵を口に頬張りつつ剣崎が言う。当然のような顔で食べているが、それも瑛太の弁当のおかずである。
「そのときに、見ちゃったんだよ。歩き去って行く等々力の姿と、凄惨な犯行現場を」
「そういえば、近くの高校の不良たちが、誰かにボコられて倒れてたって、噂があったな……ごちそうさま」
イタリアンドレッシングのかかったプチトマトを口へ放り込み、剣崎が瑛太に手を合わせる。短い時間で、白飯と梅干はとっくに食べ終わってしまったらしい。
「だから、等々力はたぶん……目撃者を消そうとしてるんじゃないかって、思うんだ。りんご、食べるか?」
「もちろん! しゃっきりしてて美味しいよな、お前んとこのりんご」
「……僕の家で、栽培してるわけじゃないんだけどね。そうとなれば、話は簡単だ。土下座して、あの時のことは決して口外しませんって、言えばいい。別に、誰かに言うつもりも無いんだけど」
「もう俺に言ってるよな?」
「これで、お前も共犯だ……って、冗談だよ。お前が、誰にも言わなきゃ大丈夫ってことで」
にっと笑う瑛太に、剣崎が肩をすくめた。
「そこまで信用されちゃ、仕方ないな。けど、本当にそれで大丈夫なのか? 相手は、あの等々力なんだぞ?」
「なんとかなるさ。万が一のために、保険もつけとくし」
「保険?」
ふしぎな顔をする剣崎に、瑛太は真顔を向ける。
「そこは、知らないほうがいいよ。本当にね」
「あ、ああ……まあ、健闘を祈るよ。何なら、終わるまで校門で待ってようか?」
「やめてくれ。どうせなら、可愛い女の子が待ってたほうがいい」
「……わかった」
苦笑して、剣崎は引き下がる。もし、何らかの手違いで剣崎が巻き込まれてしまうことがあるかもしれない。それを避けたい、という瑛太の思いは、どうやら伝わったようだった。
五百円玉を握りしめ、瑛太は学食前の自販機へとやってきた。弁当は持ち込みだが、飲料は現地購入である。なぜなら、水筒は重たくかさばるからだ。コイン投入口に、瑛太は五百円を入れる。カラン、と硬貨が釣り銭口へと落ちた。
「あれ?」
もう一度入れても、同じだった。よくよく見れば、釣り銭切れのランプが光っている。
「あちゃー、ツイてないな。剣崎に、百円借りようかな」
自販機へ向けて瑛太が息を零したとき、横合いからぬっと太い指が割り込んで百円を投入した。
「え?」
顔を向けると、等々力がいた。固まった瑛太の顔から、血の気が引いてゆく。
「どれだ」
低い声で、等々力が瑛太に問いかけてくる。
「え、あの」
「どれにするんだ。早くしろ」
わずかに苛立った声音に、瑛太はびくんと全身を跳ね上げる。選んだのは、三割がたミカンの入ったジュースだ。
「えっと、僕、その、細かいの、無くて……」
恐る恐る、五百円玉を差し出す瑛太の手に等々力がジュースのパックを乗せる。
「いらん。お前には、一度同じことをして貰った」
等々力の言葉に、瑛太は大きく目を見開く。
「そ、そんなこと、ありましたっけ?」
「忘れていたのか? まあいい。俺は、恩も仇も、返すまでは忘れん。覚えておけ」
にやり、と厳つい笑みで等々力が言う。
「は、はい。出来れば、仇のほうは、忘れたほうがいいこともあると思いますけど」
「……俺は、執念深いんだ。性格でな。それより、そこをどけ。俺も、咽喉が乾いている」
「はいっ、ただいま!」
残像ができるくらいと自己認識するスピードで、瑛太は自販機前から駆け出した。頭の中で、等々力の言葉がぐるぐると回っていた。恩も仇も、返すまでは忘れない。そして一度、瑛太は等々力にジュースを奢ったことがあるらしい。それは、思い出せない。もしかすると、恩も仇も、まだまだあるかもしれない。戦慄を抱え、教室に戻った瑛太はジュースを一気に飲み干した。チャイムが、鳴った。
身体を動かしていれば、大抵のことは考えられなくなっていく。健全な魂は、健全な肉体に宿るとかなんとかいうのは、余計なことを考えなくて済むよ、といった意味合いの言葉なのかもしれない。ともあれ、五時間目は体育だった。
グラウンドを小走りで周回する瑛太の顔には、余裕など欠片も無かった。小刻みに呼吸を繰り返し、酸素を送り込まれる脳内には、等々力の顔がちらついて離れない。隣を走る剣崎の表情には、まだ余裕があった。
体育の担当は、担任の本田だった。ジャージを着て腕組みをし、走る生徒を睥睨するように目を細めたしかめっ面だ。走ることは身体づくりの基本、と言わんばかりにランニングをさせる教師だった。準備運動からのグラウンド十周で、授業の半分くらいは潰れてしまう。
本田に、瑛太は顔を向けて走る。じろり、と厳しい目が、瑛太を睨み付けてくる。それを確認してから、瑛太は小さくうなずき、そして転倒した。列の最後尾を走っていたので、接触して大惨事、という結果にはならない。
「福井っ!」
どすどすと大股で、本田が駆け寄ってくる。瑛太の膝が、小さく擦りむけていた。
「大丈夫か、歩けるか?」
本田の手に掴まり、瑛太は立ち上がる。剣崎とクラスメイト達が、その場へ留まり瑛太と本田に目を向けている。
「先生、肩を、貸してくれませんか?」
瑛太はじっと本田を見上げ、小声で告げる。おう、と本田がうなずき、足を止めた生徒たちへ顔を向けた。
「お前たちは、そのまま走り続けていろ。さぼるんじゃないぞ」
言いながら、本田が瑛太の脇に肩を差し込み、持ち上げるようにして歩き出す。心配そうな剣崎に見送られながら、瑛太は本田とともにグラウンドを離れた。
「それで、何か話でも? 福井の坊ちゃん」
グラウンド脇の水道へ瑛太を運び、本田が言った。
「先生、学校でその呼び名はまずいんじゃないんですか?」
少し慌ててグラウンドを振り向く瑛太に、本田がにやりと笑う。
「ここには、他に誰も居やあしませんよ。それより、何か困りごとでも?」
丁寧な言葉遣いで、瑛太の傷口を洗いながら本田が聞いた。瑛太は、小さく息を吐く。
「……もしかすると、今日の放課後、ちょっとした暴行事件が起こるかもしれません」
「……詳しく訊いても?」
ニヒルな笑みを浮かべていた本田の表情が、引き締まったものになる。
「可能性がある、というだけで、まだなんとも言えない状況なんですけど……」
瑛太は、本田に等々力からの呼び出しを受けていることを話した。
「なるほど。それで、俺は何をすればいいんです」
「出来れば、等々力の手下たちを、現場から引き離していただければ。後は、僕が何とかしますから」
そう言った瑛太へ、等々力がちょっと驚いた顔を見せる。
「それだけで、いいんですか? 等々力は、見た目どおり相当に喧嘩慣れしています。一対一になったところで、坊ちゃんに勝ち目はありませんよ」
あっさりと言った本田に、瑛太もうなずく。
「うん。僕も同じ見解です。だけど、これは僕と等々力との問題ですから。最終的な折り合いは、当人同士で付けなければいけないんです」
「なるほど。男とは、そういうものですね。坊ちゃんも、大きくなられた。父君も、さぞ喜ばれることでしょう」
感慨深げに、本田がうなずく。瑛太は、苦笑を浮かべた。
「どうでしょう。父には、未だに拳骨を落とされますよ。まあ、お陰で等々力に殴られるのは、大したことが無いと思えます」
「父君の拳に比べれば、確かにそうかもしれませんなあ。ですが、教育のための拳と、喧嘩のそれとは違いますよ、坊ちゃん」
「ええ。ですから、出来るだけ暴力的な方面へは行かないようにしたいと思っています。あくまで、僕の方は、ですけどね」
気弱に笑った瑛太の肩を、本田がバシンと叩いた。
「それでこそ、坊ちゃんです。大丈夫、骨は、この本田が拾って差し上げます……ですので、何卒父君には、よろしくお伝えください」
にこやかに言う本田に、瑛太は再び苦笑する。
「はい。普段から、父には可愛がっていた後輩の本田先生の奮闘ぶりは、伝えてますから」
ハハハ、と笑う本田の朗らかさに、瑛太の心も少し軽くなる。傷口を洗ってみれば、ほんのかすり傷だった。話を終えて、走る生徒たちへ大声を上げながら本田が戻ってゆく。元通りの足取りで、瑛太はそれを追いかけた。
身体を動かしていると痛みも忘れ、やがてチャイムが鳴った。
体育の後の着替えで、休み時間は潰れた。六時間目は、生物だ。一寸の虫にも、五分の魂。無脊椎動物の断面図を眺めながら、瑛太の頭にそんな言葉が過ぎった。等々力との接触の記憶については、思い出すことは出来なかった。だが、瑛太の心は揺らぎなく、落ち着いていた。等々力が急な腹痛に襲われて早退でもしないかと、呪詛めいた念を送るくらいには、平静だった。
時間は、待っていれば長く、そして来ないでくれと思えば短く感じる。人事は尽くし、あとは天命を待つばかり。出来れば来ないでくれ、という瑛太の願いもむなしく、六時間目の終了を告げるチャイムはあっという間に訪れた。隕石召喚の呪文も、異世界転生の祈祷も、意味は無かった。
短いホームルームが終わり、教室からクラスメイト達が出てゆく。うきうきとした皆の表情とは対照的に、瑛太の顔は青く、暗かった。
「福井……」
剣崎が、何かを言おうとしたそのとき、教室の後ろの扉が開く。
「福井、行くぞ」
ずかずかと教室を横切って近づいてくるのは、等々力である。
「等々力、あのな」
剣崎が立ち上がり、瑛太を庇うように等々力との間に割り込もうとする。
「剣崎、大丈夫だ」
瑛太が言って、剣崎を手で制する。
「お迎え、ありがとう、等々力くん。それじゃ、行こうか」
静かに告げる瑛太に、等々力は厳つい目をぱちくりとさせた。
「……何だか、神妙な様子だな、福井。覚悟、決めたのか」
「僕なりに。さっさと行こう。あまり、時間をかけると日が暮れるから」
歩き出す瑛太の横を、等々力が並んで歩く。カバンを持った生徒たちの間を、通り過ぎてゆく。平和そうな、顔を皆していた。
「ずいぶんと余裕じゃないか。昼休みのときとは、別人に見えるな」
道すがら、等々力が面白がるように口にする。
「そうかな」
落ち着いて、前だけを見て歩き瑛太は答える。
「少なくとも、ビビッているようにゃ見えねえ。俺が、怖くは無いのか?」
「虚勢っていうやつだよ。足が震えそうになってる」
「口で言ってるってことは、そうでもねえってことだな」
「まあ、今すぐどうこうされるってわけじゃ、なさそうだからね。裏庭へ着くまでは、僕の身の安全は逆に保障されてるってことだし」
学校一の不良少年である等々力と一緒にいれば、他の者からちょっかいをかけられることは無い。また、等々力の目的は、裏庭の木の下へ瑛太を連れて行き、そこで凶行に及ぶことだと推測できる。つかの間ではあるが、それまでは安全なのだ。下手に騒いで等々力の機嫌を損ねる真似を、しなければの話ではあるが。
「……ちっ、面白くねえ奴だな」
「ご期待に添えなくて、申し訳ないね。だから、今からでも心変わり、してくれると嬉しいんだけど」
舌打ちする等々力の声を聞きながら、瑛太は言ってみる。
「そうはいくか。それより、靴、履き替えろよ」
玄関口に、到着していた。瑛太は靴箱を開き、スニーカーを出す。今朝の、この小さな箱から全ては始まった。長い距離を、歩いてきたような疲労感があった。学業からの開放感は、微塵も無い。靴に足を通すだけなので、思索の時間は一瞬で終わった。
「じゃあ、行くぞ」
ゴトリ、と瑛太の背後で重い靴音が鳴った。等々力の靴は、鉄板の仕込まれた安全靴だ。靴先で蹴られれば、骨くらいは折れるのだろう。想像して、瑛太は身震いをひとつする。それでも、今逃げるわけにはいかない。きっちりと、けじめはつけなければならない。
無言のまま、裏庭へ着いた。行く道には本田の姿も、等々力の手下の生徒たちの姿も無い。本田が、うまくやってくれた、ということだろうか。心中で手を合わせる瑛太に、一本の桜の木を背にした等々力が振り返る。いよいよ、そのときが来た。
ぐっと拳を握り締め、瑛太は膝を軽く曲げる。戦いにおいて、何よりも重要なのは先手を取ることである。達人であれば、後の先、つまり相手を動かしその後に素早く対応することも可能である。だが、瑛太はまったくの素人であり、そして今回はそれは通用しないだろう。先手必勝、一回で終わらせる。決意とともに、瑛太は地面へ手を突き深く頭を下げる。
「おい、出て来いよ……って、福井!?」
木の裏に呼びかけるような姿勢の等々力が、困惑した声を上げる。瑛太はこれを、隙ととらえた。ならばあとは、一気にやるだけだ。
「どうか、許してください! あのときのことは、決して誰にも言いません! それと、他に何か失礼なことがあったなら、それも謝りますから! 殴るならせめて一発くらいで勘弁してください!」
芝生の匂いを感じながら、瑛太は一気に言い放つ。添えた手の上に額を乗せて、決して頭は上げない。
「ま、待て、福井。いったい何のことだ」
慌てた等々力の声が、聞こえる。それでも、頭は上げない。許す、の言葉が出るまで上げてはいけない。地面にへばりつく瑛太の耳に、柔らかな声音が届いてきたのはそのときだ。
「勝道、これ、どういうこと?」
その声は、爽やかなソプラノボイスであった。
「い、いや、俺も、どういうことだか……おい、福井。お前は何をしているんだ?」
「見ての通り、土下座ですが。そこに、誰かいるんですか」
「土下座は見りゃわかる。どうして土下座してんだって話だよ。とりあえず、顔上げてくれ」
言われるままに、瑛太は顔を上げる。木の前に、等々力の隣にいつの間にか制服を着た女の子が立っていた。髪は短く、細身で小柄な身体つきは服装がなければ小学生高学年くらいにも見えなくはない。
「……は、初めまして」
とりあえずの挨拶に、少女ははにかんだ笑顔でぺこりとお辞儀をする。
「は、初めまして……ですよね。覚えて、ませんよね。ちゃんと、挨拶もしてなかったし。私、東堂雅美っていいます。一年生、です」
顔を赤くして、少女は名乗る。その口ぶりから、どこかで会ったことがあるのだろうかと瑛太は記憶を探る。
「二年の、福井瑛太です。もしかして、どこかで会いました?」
瑛太も名乗り、聞いてみることにした。少女がスカートのポケットから、一枚のハンカチを取り出す。
「これ、お借りしたままで……」
そのハンカチを見て、瑛太の頭に理解が訪れた。
「もしかして、君は」
あのときの少年の、お姉さん? そう続けようとした瑛太に、東堂がうなずいて右手を見せる。
「手当てしてもらったお礼、きちんとできていませんでしたから」
お姉さんではなく、当人だった。うかつに口走らなくてよかった、と瑛太は胸を撫で下ろす。
「別に、気にしなくてもいいよ。それで……君はどうしてここに?」
瑛太が問うと、東堂はじとりとした横目を等々力へ向ける。
「勝道、ちょっと、話がずれてるみたいなんだけど……?」
「……そ、そうか?」
額に汗を浮かべ、そっぽを向いて等々力が言う。
「そうよ。どうして、福井先輩が土下座してんのよ。演出は、俺に任せておけって言ってたけど、私、こんなシチュエーション頼んでないわよ!」
少女の身体が、軽やかに一回転をする。細くしなやかな足が、吸い込まれるように等々力の横腹へ叩きつけられる。鈍い、音が鳴った。
「ぐお、す、すまねえ! 謝るから、蹴りはやめてくれ! ちょっとした、つり橋効果ってやつを、ぐあ!」
二発目の蹴りを受け、等々力は悶絶して地面へ転がった。見た目は可愛い小動物系少女の突然の凶行に、瑛太はぽかんと大きく口を開ける。
「……何事?」
首を傾げる瑛太に、ふんっ、と鼻を鳴らした東堂が振り向く。
「先輩、とりあえず、立ってもらえますか?」
言われるままに、瑛太は立った。この場で今最も発言力があるのは、東堂だ。逆らえはしなかった。
「手紙、読んでくれたんですよね、先輩」
もじもじと指を合わせながらの東堂の問いかけに、瑛太はこくりとうなずく。手紙というのは、あの呪いの手紙じみたアレだろうか。目の前で恥らう少女と文面が、ひどく乖離している。
「あ、あの手紙って、君が書いたの?」
恐る恐る、聞いた瑛太に東堂が小さくうなずき、うつむいた。確定だった。
「この間のお礼と……それから、どうしても伝えたいことがあって。聞いて、くれますか?」
潤んだ瞳で、上目遣いに東堂が言う。どきり、と瑛太の心臓が跳ね上がり、顔が熱くなる。倒れた等々力のことは、意識の外へと飛んでいった。
「うん……聞かせて」
瑛太は、なるべく穏やかな声音を意識して、言った。
夕日の中で、桜の木が静かに揺れる。風が、吹き抜けていった。
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