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オリーブの夢

作者: 鷹さんz


 これは僕の夢の話だ。シゲタさんのことに関係しているかどうかはわからない。けれど僕が彼と初めて出会った夜に見た不思議な夢のことを、今だからこそ、少し触れておいてもいいんじゃないかと思う。少なくともそれは、シゲタさんと会わなければみることのなかった夢だ。

 僕はその夜、いつものように夕飯を作って食べ、音楽を聴きながらビールを飲んでいた。前日に酒屋でラムを買っていたので、ビールがなくなると、ラムをコップに注ぎ、氷を幾つか入れ、コカコーラで割って飲んだ。ついでに一週間前に開けてまだ食べきれていなかったミックスナッツを消費するため、酒の肴として食べた。ナッツはすでに湿気り始めていて、ダンボールを小さく丸めて食べてるみたいだった。舌の上でナッツを転がすと、それは僕に砂浜の上に転がる海水で湿った小石を想像させた。しかしラムの方は結構美味しくて、僕はその晩だけでそのラムをボトルの半分くらいを空けてしまった。(もちろんそれは、朝になって気づいたことだった。) おかげで僕は自分でも気づかないままにかなり酔っ払ってしまっていたようで、そのまま床でベッドに背をもたれながら、食器の片付けもせず寝てしまった。その時に見た夢の話だ。


 僕は細い通りに立っていた。ところどころにティッシュペーパーやタバコの吸殻といったゴミが散乱していた。つい先程まで雨が降っていたのだろうか、所々水たまりができていた。左右にはヨーロッパの古い家屋のような、煉瓦造りの建物が並んでいた。その建物は全て同じ形をしていて、それらが壁のように小道を挟み、圧迫していた。窓は全て閉まり、カーテンが下ろされ、建物の中や周辺からは全く人の気配を感じなかった。空は鈍い灰色の雲で覆われ、静寂に満ちていた。時々、その静寂を乱さない程度の、密やかな微風が僕の頭を撫でた。


 僕は唐突に、犬を探していることを思い出した。それは僕がまだ幼い頃、家で飼っていたトイ・プードルで、名前はオリーブだった。オリーブは愛嬌のある顔をしていたが、胴体が長い割に足が短く、ダックスフンドのような体型をしていた。そして、どの犬よりも格好悪く走った。母が家の近所でオリーブと散歩をしている時に、偶然僕が家に歩いて帰ってきているのを遠くに見つけると、必ず彼は突然頑健な陸上選手のように真剣な顔つきになり、けれど相変わらず格好の悪い走り方で僕のところに走ってきた。足元までたどり着くと僕の周りを一周し、「どう?僕の走り、なかなかどうしてクールでしょう?」と言うような顔で、舌を数センチ出しながら見上げてくる。僕は彼の頭を撫で、そのままリードを持ち一緒に家に帰った。そんなオリーブが何らかの理由でいなくなり、僕は何らかの方法で彼の居場所を探し出し、ここまで来たのだった。そしてその場面から僕の夢は始まっていた。僕はこの道の先にオリーブがいるということを、確かな情報筋から得ていた。何を持ってそれが確かな情報なのかは分からなかった。僕はその情報筋に莫大なお金を払っていたかもしれないし、その情報筋を見つけるために日本の南の果てまで旅をしたかもしれなかったが、それらの事は起きなかったことかもしれないし、起きていたとしても僕の夢の外側か、意識の底の、ジークムント・フロイト的な場所で行われていたことだった。とにかく僕はその小道を進んだ。昔観光したケンブリッジの街並みみたいだなと思いながら進んだ。地面は相変わらず濡れていて、コンクリートのくぼみにできた沢山の小さな水溜りが、街灯の光を反射して上海の夜景みたいに光っていた。

 道なりに進んでいると、だんだん左右の建物がまばらになってきて、代わりに林に囲まれ始めた。そのまま美術の教科書に出てくるグラデーションのサンプルように建物が木に置き換わり、建物は消え失せた。木に囲まれた道は薄暗く、街灯も無かった。生き物の気配は全く感じられず、木々が風に揺られ葉が擦れる音さえしなかった。オリーブも僕と同じように一人でここを歩いたのかと思うと、あんなにもちっぽけなのに僕に比べてなんと勇敢な犬だろうと感心せざるを得なかった。


 その道を数十分歩き続けて、僕は木だらけの山を貫通する古ぼけたトンネルの前にたどり着いた。その場所は今まで以上に静寂に満ちていて、世界の終わりみたいにみすぼらしい場所だった。あたりには落ち葉が散乱し、雑草は遺伝子の突然変異が起きたかと思われるくらい、長く太く伸びていた。雑草の中には花は一本もなく、恐ろしく緑色だった。その雑草を縫うように木が生えていて、林の奥は真っ暗で何も見えなかった。そのトンネルは石でできたもので、人類の歴史から完全に忘れ去られたみたいに老朽化していた。ところどころの壁は砕け、蔦が張っていた。地面近くの壁は完全に苔に覆われ、明治時代から建ち続けている家みたいな匂いが微かにした。上部には木でできた看板があり、なんらかの漢字らしき字が書かれていたが、読めなかった。腐敗と蔦が看板のかなりの部分を蝕み、かつてこのトンネルの名を背負っていた栄光はとうに消え失せ、一生の役割を終えた身として、後は静かに時間の流れに身を委ねているようだった。トンネル内は暗く、遥か先に一番星のように強い光が見え、おそらくあそこがトンネルの出口なのだろうと推測できた。その光以外にトンネル内を照らすものは一切なく、それ以外は完璧に暗かった。その様子は僕の歩みを躊躇させたが、強風に背中を押されるみたいにして僕は無意識的に前に進んだ。トンネルは予想通り果てしなく暗く、進むたびに僕の身体は闇に侵食され、恐ろしく黒い墨汁で塗りつぶされてるみたいに感じた。足音は土を踏んだ時のようにジャリジャリしており、その音の妙な響き方とトンネル内の肌寒さが僕の恐怖を助長した。僕は目の前の一点の光以外は見ないようにして歩いた。その光は確実にそこに光っていて、神秘的だった。その神聖さは僕に妙な安心感を与えた。それでも僕は時々手で自分の太ももを触って、自分の実在を確かめながら一歩一歩入念に歩いた。

 トンネルの中腹を超えたあたりで、今度は出口の光によってだんだん視界が明るくなっていった。今度は僕の身体の色が、キャンバスに水彩絵の具の色を足していくように生き返っていった。僕は駆け足気味で闇から逃げた。視界はどんどん明るくなっていって、歴史は再び始まろうとしているみたいに見えた。僕はオリーブの顔を思い出し、母親が淹れてくれるペーパーフィルター・コーヒーの味を思い出し、サカナクションの曲を思い出し、日本の夏の狂おしいほどの暑さを思い出していた。


 僕は眩しさに目を細めながらトンネルを出た。トンネルの先は、広大なアネモネの花畑になっていた。様々な色の花弁をつけたアネモネが所狭しと生えていて、一本一本が非常によく手入れされ、力強く咲いていた。歩くスペースはほとんどないみたいだった。前も左右も、地平線の先まで花畑は続いていて、僕の来た道以外に山や丘は見受けられず、ある種の永遠性を僕に感じさせた。空は相変わらず曇っていて、古い公立中学校の校舎の壁みたいに宿命的な灰色をしていた。教室の窓は全てカーテンで遮られ、太陽の覗き得る隙間は一ミリさえ無い様子だった。その景色は僕に、初めて一人暮らしをした時の、感動と寂寥の混ざった独特の感情を想起させた。


 その時、今までの静寂を巨大な鈍器で叩き潰したような勢いで、強い風が後ろから僕の両脇と股の間を抜けていった。僕はその場に立っていられないほどの圧力を後ろから一気に受けて、少し前にかがみ、倒れるまいとこらえた。結果的にそれは成功したのだが、僕の身体とシャツの間に勢いよく風が入りこみ、シャツはパタパタと激しい音を立てて波打った。その風はそのまま花畑を貫通し、アネモネの花たちを勢いよく揺らし、散った花弁を回転させながら竜巻のように空中へ拡散させた。僕は呆気にとられてその様を眺め、それから一体この風はトンネルを通過してきたものなのだろうかと後ろを振り返った。すると驚くことに、山とトンネルは初めからそこに存在してなかったかのように消滅しており、代わりに無限に広がるアネモネの花畑と、そして僕の真後ろに直径十メートルぐらいの円形のくぼみがあった。そのくぼみは周りの地面より一センチほど陥没しており、その部分だけ切り取られたみたいにアネモネが生えておらず、ただ雑草が生えていた。そしてその円形の真ん中には、背が低く細長いポプラの木が一本生えていた。僕は本能的にそのポプラの木の後ろにオリーブがいることを確信した。そのくぼみへ足を踏み入れ、ほとんど無感動にその木の後ろへと回った。するとやはりオリーブがそこに座っていて、かくれんぼでオニにみつかった子供のような無邪気な顔をして、僕の方を見ていた。いや、正確には僕を見ていたのではなかった。僕の右後方を、彼は見ていた。僕は彼の視線に従って振り返った。そこには中学生か高校生ぐらいの、女の子が立っていた。どこかの学校の制服を着ていた。真っ白な、綺麗にアイロンがけされたブラウスに紺のリボン、そのリボンと同じ色の、なお皺一つないスカートが膝の半分が見えなくなるくらいまで彼女の足を隠していた。足には白い靴下と、同じく真っ白な上履きを履いていた。顔には薄く化粧がしてあるように見えた。唇は紅に近い、濃いピンク色をしていた。大きな目と綺麗にまっすぐ伸びた鼻は、彼女の自然な美しさを僕に感じさせた。髪は微かに茶色に染められて、まっすぐと頭の中心の分け目から左右に伸び、それが胸のあたりまでまっすぐに、一片の乱れもなく伸びていた。毛先はやや中心に向けてカールしていた。

 彼女は僕を見つめながら、映画の重要なワンシーンみたいに何かを神妙な顔で呟いた。けれど僕には彼女の声が何も聞こえなくて、まるでボリュームをゼロにしたテレビで何かのドラマを見ているみたいだった。やけにリアルに、発された声の部分だけが切り取られているように感じた。彼女はその後もなんとか僕に何かを伝えよう必死に口を動かしていたが、やがて諦めたのか、彼女は軽く頭を左右に振り、俯き、その後腕をまっすぐ僕に向けて伸ばし、人差し指を僕の顔に向けて差した。その指は白くて細く、銀色の無装飾の細い指輪がはまっていた。爪はわざわざそう鑢にかけて作り上げられたみたいに尖って、博物館に飾られた日本刀のように鋭く輝いていた。そのままこの指が伸びて、僕の右目から頭蓋骨、脳までを突き抜けていくイメージが頭に浮かぶほどだった。けれどやはり彼女は僕を指差していたのではなく、僕の左後方を指差していたのだった。僕がそれに気付いて振り返ると、やはりそこにはシゲタさんが立っていた。丁度ポプラの木が立っていたところに、木の代わりにシゲタさんが立っていた。交差点に信号機が立っているみたいに、彼は必然的に存在していた。そして、オリーブを両手で大事そうに抱いていた。

 「初めまして。私、シゲタと申します。」と、シゲタさんは僕に初めて会った時と同じ調子で言った。彼の挨拶は僕の自由を奪い、まるで自分の意思で答えたかのように、けれど実際には僕の意識を介さずに僕に返事をさせる。

 「ええ、存じております。」と僕は言った。けれどそのぼんやりとした声は僕の声ではなかった。どこかで聞いたことのあるような、匿名的な若い男の声だった。


 僕が目覚めた時、時計の針は五時丁度を指していて、外はまだ薄暗かった。僕は激しい二日酔いに犯されていたみたいで、脳の中心に炎で熱された小さな鉄球が埋め込まれてるみたいに頭が痛かった。僕は台所にふらふらと向かい、コップ一杯の水を飲んだ。それから、机の横の引き出しに入っていた頭痛薬を取り出して、二錠口に放り込み、コップに残った少量の水を使って飲んだ。それだけしてしまうと僕はベッドに潜り込み、携帯電話の電池が切れるみたいに呆気なく眠った。その後僕が起きたのは昼の三時で、僕はぼんやりとした頭のまま、それでもオリーブの顔を一目見たくて、実家にテレビ電話をした。スクリーンに映ったオリーブは僕と同じように、昼寝中突然たたき起こされたみたいな眠そうな目をしていた。


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