春の花
春の花 Nash
新学期。
頭のネジを予備校に置き忘れてきた新入生がこの世は我が物とばかりに学内を跳梁跋扈し、神聖な学術探求の場である最高学府を好き放題に荒らしまわる季節。
快適な食事の場は猿の群れに侵され、快適な日向ぼっこスペースは化粧覚えたての女どもが嬌声の大きさを競う場となり、シンカンシンカンとうわごとのように言う学生共が所構わず謎の集会を開きビラをばらまく。
全く以て我慢ならん。
俺は一〇年ものの原付をベベーーッと走らせ、汚れた桜の花びらでリアタイヤが滑るのも構わずハイスピードで学内に滑り込んだ。自分たちの世界に入りこんでる女集団がすぐ側を通りすぎるスクーターにキャーキャー言ったが、知ったことか。
新入生の間を縫って駐輪場へ。6年目だからいい加減目を瞑っても行ける。
見慣れた二輪置き場は新車らしい原付でいっぱいだ。最古参である俺の場所を開けておかないとはどういう了見か。仕方なしに屋根のない土の地面へ原付を駐め、文句を口にし俺は研究棟へ向かった。
夕方、俺は憔悴しきって研究棟から出てきた。
なぜか経済学研究科に呼び出されて、ボスの指示だから仕方ないと行ってみればカザフスタンの資源について考えようの会だという。ふざけるんじゃない、俺は確かに中央アジア近辺をやってはいるが、俺の専門はコーカサスの歴史だ。カスピ海隔てて向こう側の、しかも現代の経済だか政治だかいう世の中のお役に立つご立派な議論なんざさっぱりなのだ。どうぞご勝手にイノベーションでもソリューションでもやってりゃいいのに、どこをどう履き違えたら歴史学科の俺を召喚できる。イノベーション思考ってのは脳みそを使わないで脊髄反射でものを言って人に迷惑をかけるという意味に違いない。
これも春のせいだ。奴らの頭にお花畑が咲いたのだ。春にはキチガイが出るというのは昔からの言い伝えであり、まったくその通りであると思う。
足を組んで顎をつり上げながらどう思うなどと煽られて何度となくちゃぶ台返しをしてやろうかと思ったが、ボスの面子を考えて六時間を耐え抜いた。まったく俺も偉い。そして損な性格だ。皮肉の一発くらいかましておけば良かった。
これが一回ポッキリならいいのだが、これからの少なくとも半年続くというのだから始末に負えない。春の狂気の帰結は春限定で終わってはくれない。
半年の間イノベーション野郎どもにバカにされ続けて我慢するというのも手だが、それでは腹の虫が治まらないし、我慢できるたちなら博士課程に進む決断だってしていない。奴らがウーンナルホドネーグローバルダネーなどと鼻にかかったギロンを楽しんでいらっしゃるうちに知識で圧倒し、論理で武装してギタギタにしてやる。
そのためにはまずは図書館だ。片っ端から文献を集めて読み漁る。その本の重量でもって殴りつける。そうすればお花畑野郎は押し黙り、春は夏に続かず冬に逆戻りするのだ。
エナジードリンクを一気飲みし、図書館へ。まずは戦後の歴史を調べ、しかるのち資源経済だかなんだか奴らの口走った単語に関連するのを棚ごと持ってくるのだ。今の俺は勢いにのっている。他の人から見れば体中に力強いオーラが漲っているに違いない。そのオーラは闇よりも黒く、冷気のように地を這うのだ。
本をごっそりと抱え棚から棚へと移動してタワーを積み上げていると、いきなり声がかかった。
「あ、あのっ」
怯えたような女の子の声に、俺は心臓がすくわれるような思いがし驚いて本をぶちまけてしまった。ドサドサと音を立てて落ちる十数冊の本に自習スペースの人が何事かと顔を上げる。
「……やっちまった」
「あ、ご、ごめんなさいっ。拾うの手伝いますっ」
半分くらいをまとめて積み上げ終わると、もう半分をその女の子が抱えていた。俺のタワーの上に積み上げてくれるのかなと思ったが、そうしない。どうやら一緒に運んでくれるらしい。
言葉もなく俺の占拠した机に行き、既にあった本と合わせる。合わせて三〇冊弱だ。ちょっとやりすぎたか。ボスや他の教授から紹介してもらう分も考えると二週間じゃ無理かも知れない。
「この本、全部読まれるんですか?」
女の子がやっと口を開いた。黒髪で、高校生か中学生くらいに見える子だ。おどおどしているあたり学部の新入生だろうか。感心したように本の山を見ている。
「そうだよ。それより、何か用だったんだろ?」
その子は少しの間もじもじして上目遣いに、
「えと、この本を探してるんですけど……」
と言ってメモ書きを出した。丸っこい字で書かれてる。マクニール、疫病と世界史。
「ああこれか。……蔵書検索のやり方はわかる?」
「え……? ごめんなさい、入学したばかりで……その……」
やっぱりそうか。こんな風に恥ずかしげにしてる学生なんて新入生くらいしかない。基本的に大学の人間は厚顔無恥なものと相場が決まっている。
「そら辺に共用パソコンがあるだろ。あれで検索すると番号が出てくる。本来だったらその番号をたどって探すんだけど……この本なら」
そう言っておれは歩きだした。少し後を女の子はついてくる。3つくらい棚を縫って行くと、目当ての本が見つかる。
「ほらここだ」
「……わあ、すごいですっ! もしかして司書さんですかっ?」
目を輝かせて感心されてしまった。
「いやあ、ちょっと長くここに居るだけだよ。それに、専門に近いしね」
「そうなんですかっ! わたし、歴史に興味あるんですけど……」
どうやら喰い付かれてしまったらしい。こうなったらしかたない、先輩として若い学部生を導いてあげるのは院生の義務だ。
テーブルを挟んでついつい話しこんでしまった。女の子と二人で話すなんて久しぶりだ。勉強相談みたいに本を紹介したりではあるけど、とても楽しかった。
三〇分ほどで通りかかった司書さんに館内で喋るなと怒られたため、追い出されてしまった。積み上げていた本は何冊か諦め、二〇冊ほど借り出してエコバッグに収まっている。
二人ならんで図書館を後にする。すぐ後ろに彼女が付いてきているが、距離がなんだか近いような気がして痒い。
お互いの手が触れあって、あ、と声が出る。おれの顔は赤くなっているだろう。
「よ、よろしければこの後、お夕飯とかご一緒してもよろしいですか……?」
「え……? あ、う、うん」
おれは頭をボリボリと掻いた。なんなんだろうこれは。
「そ、そういや名前聞いてなかったな。その……君なんていうの……」
「と、遠野さくらですっ。先輩のお名前はっ」
「おれは……相葉、孝治」
外はもう薄闇で、そこに桜が舞っている。空気は少し肌寒いが、吹いている風は暖かい気がした。
「春ってのも、悪くないな……」