押し寄せる劣等感
新しく蒼空を迎えて3人体制になってからひと月が経過した。楽譜を3人用のものに変えたり、曲目を変更したりといった作業は多少あったが、メンバーが増えてからもほぼ毎日練習するという習慣は変わらなかった。そのせいもあって練習は順調に進み、自分たちのアレンジを加える余裕まで出てきた。
練習の進行とは反対に3人の会話はスムーズにはいかなかった。原因は篤志だ。クラスではほとんど口を開かず、端の方で大人しくしている姿しか見せていない篤志は蒼空の前で話すことに気まずさがあり積極的に発言することをやめてしまった。練習中の会話は美里と蒼空がメインで、話題を振られた時だけ篤志が答える。ただし、美里の方針からお互いの呼び名だけは名前だった。それだけが唯一、篤志とバンドを繋げている証に思えた。
「今日はここまでにしよう」
美里の声で篤志と蒼空はギターを弾く手を止めて顔を上げた。日に日に日照時間が長くなっているので、夢中になっていると夕飯の時間も忘れて続けてしまう。篤志も蒼空も門限が厳しいような家ではないが、美里の帰り道を考えて遅くなる前に解散しようということだけは暗黙の了解だった。
蒼空だけ少し先の駅が最寄りのため、広場で解散となる。蒼空と別れた後、篤志と美里はいつものように途中まで適当な話をしながら帰路を歩いていた。少し歩いたところで、ふと美里が不安そうな口調で切り出した。
「あのさ、蒼空を入れるの嫌だった?」
「えっ? な、何で?」
急な、しかも今の篤志の心境を見抜いたかのような問いかけに、一瞬返答に詰まる。篤志の反応を受けて、美里は少し俯いて話を続けた。
「蒼空入れる時に篤志に相談しなかったから、怒ってるのかと思って。蒼空が入ってから篤志はあんまり話さなくなっちゃったし……もしかして蒼空と仲悪かった?」
「仲悪くはないよ。ただ……」
「ただ?」
一度言葉を切った篤志を不安そうな顔をした美里が下から覗き込む。不意打ちの行動に篤志は一度身を引いてから立ち止まり、自分の身勝手な感情をどう説明したら上手く切り抜けられるかと考えた。
「まあ、見ての通りタイプが全然違うからあんまり教室では話したことがないんだ。それだけだよ」
美里が安心できるように少し笑って見せたが、不自然だったのか美里の表情は晴れないままだった。まだ何か言いたげな様子だったが、諦めたのか「それならいいけど……」とだけ呟いた。
美里にはそう言ったものの、翌日以降も篤志の態度は変わらなかった。時折、美里がやきもきした視線をこちらに送ってくるのには気が付いていたが、どうしてもすぐに蒼空と打ち解けることができなかった。
3人の関係は硬直したまま北条高校は期末テストに入り、練習は2週間近く休止状態になった。篤志の両親は成績を気にする方だったため、勉強で手を抜くわけにはいかない。試験科目も増える期末テストでは中間テストの時以上にギターに触る時間がなかった。少しは練習をしなくては、という気持ちもあったが、ギターを触ると美里と蒼空が親しげに話している姿が頭に浮かんできてしまい、けっきょく机に逃げてしまった。勉強をしていれば自分の中の嫌な感情を思い出さなくて済むことに気が付くと、ますます勉強に傾倒するようになった。
慌ただしく試験期間が過ぎ、中間テスト以上の手応えを感じながら篤志は久しぶりの広場に戻ってきた。試験の間、余計なことも考えずに勉強に没頭していたせいか、篤志の頭はすっきりしていた。あと数日もすれば夏休みに入り、本格的な練習を開始することになる。そのためにも、今日から蒼空との関係もしっかりと築いていこう――そんな決意を胸に刻み込んでいた。
広場にはすでに美里の姿があり、いつものように歌いながら2人を待っていた。見たところ蒼空はまだ来ていないようだった。
「どうだった?」
開口一番に遠慮なく成績を尋ねるのは、篤志の成績が中の上ぐらいではあることを知っているからだ。篤志も「今回は問題なし」と笑顔で答えると、自然と今回のテストの珍問題や昨日見たテレビの話など適当な話題で盛り上がる。しばらく蒼空を待っていたが、いつまでも来ないので練習を始めようと準備を始めたところで、ようやく蒼空が姿を現した。
「遅かったな」
さっそく篤志は声をかけた。蒼空は少し驚いたように篤志を見てから「悪い」と片手をあげて謝る動作を示した。そして下げていた鞄から数枚の紙を取り出すと、二人に渡しながら言った。
「聞いてほしいものがあるんだ」
「楽譜?」
手元の紙には手書きの音符が散りばめられている。2分近くはありそうなれっきとした“曲”だ。
「ちょっと作ってみたんだ」
「作った?」
篤志も美里も驚いて顔を上げた。当の蒼空は2人の反応など見もせずギターを取り出すと、ベンチに座って披露する準備を進めている。篤志と美里はそれ以上何かを言うことは止めて、大人しく蒼空の前に座った。
ギターを構えてから呼吸を整える。一つ息を吸うと、蒼空は楽譜の音符を奏で始めた。曲調はゆったりしたバラード。そのメロディーの中には、今まで知らなかった蒼空の素朴で純粋な感情が込められていた。
歌い終わると、いつも冷静な蒼空からは想像もつかないような恥ずかしそうな様子で、窺うように篤志と美里を見つめてきた。視線を受けて篤志と美里もようやく我に返ると、慌てて賛辞の拍手を送る。
「いい! いいよ! すごくいいよ!」
美里は立ち上がると、興奮して言葉が思いつかないのか少ない語彙で蒼空を惜しみなく賞賛した。篤志も併せて腰を上げたが、内心では再び黒い負の感情が閉じた蓋をこじ開けて湧き上がってくるのを感じていた。
「初めて作ってみたんだ」
「本当に!? いい曲だったよ! ねえねえ、蒼空さえよければ発表曲に加えない?」
その一言で篤志は自分の表情が無意識に強張るのを感じた。また、自分の足場がなくなっていくような不安定な感覚が攻めよってくる。
「俺はいいけど……」
そう言った蒼空の視線は篤志に向けられた。美里もつられて篤志の方を見る。2人の視線を受けて、篤志は何とか顔を取り繕うとできるだけ平常心で答えた。
「俺もいいと思うよ」
篤志の言葉を聞いて、蒼空は明らかにほっとしたようだった。美里も安心したように笑顔を見せると、再び蒼空に向き直って今の曲の歌詞にアドバイスを始めた。その様子を眺めながら、篤志は抑えていた黒い感情がはっきりと“劣等感”という名前を持って、自分の中を支配していくのをもう止めることはできなかった。