美里の正体
まだ陽が明るいが、夕飯時の公園は人が少ない。練習に使っていた広場には誰もいなかった。四か月間、ほぼ毎日通っていた場所だが、今日は何だか篤志の知らない顔をしている。
広場に着くなり美里はベンチに腰をかけた。篤志と蒼空もその前の芝生の上にそのまま座る。静かな風が三人の間をそっと吹き抜けた。男二人は美里の言葉を待った。
「何から話そうかな」
美里は空を見上げた。その語り口は静かで、篤志たちの不安をゆっくりと溶かしていく。
「まずはね、二人が察している通り、私はもう死んでる。いわゆる幽霊ってことね」
衝撃的な事実が伝えられているにもかかわらず、二人とも落ち着いていた。様々な混乱が頭の中を飛び交い、驚いたりといった普通の反応はとうに突き抜けている。
「何で見えるんだ? みんなから見えてるし、普通に触れるし……」
足がなかったり、触れなかったりという幽霊像は古典的なのかもしれないが、確認せずにはいられなかった。美里が生きているという可能性を少しでも見つけたいのかもしれない。
美里は優しく微笑んだまま篤志に顔を向けた。
「なんかね、歌ってる間とその前後の一定時間は実体化できるみたいなの。たとえば、突然、公園の真ん中で歌い始めて姿を現すと、周りの人たちの記憶が操作されて、前からそこにいたように思わせるみたい」
篤志は美里のあとをつけた日のことを思い出した。すぐに見失ってしまったのは、実体化している時間を過ぎてしまったからだっただとすれば納得がいく。練習中も暇さえあれば歌っていたのは、ただ歌が好きだからではなく、姿が消えてしまわないように歌い続けなくてはならなかったからだろう。
「でも何で歌なんだ? 美里は歌えないんだろ?」
美里の表情がみるみる曇っていく。篤志から視線を外すと、過去の記憶を引き出そうと遠くを見つめた。
「私の母親ね、音楽の先生なんだ。そのせいか私も小さい頃から音楽が大好きで、特に歌うのが大好きだった」
美里が懐かしそうに語りだす。無邪気に歌う美里の姿は容易に想像できた。
「でもね、私が歌うのが好きだと分かると、お母さんは私をプロにしようと厳しいレッスンをするようになった。筋トレ、発声練習、音感を鍛える練習。歌う曲も自由に選べなくて、練習曲ばかり歌わされた。私は全然そんなの望んでなくて、ただ好きな曲を好きなように歌っていたかっただけなのに。
だから私はお母さんに反抗した。小学校高学年の時ぐらいかな? 一切歌わなくなったの」
今の美里からは想像もつかない過去だった。家族とは円満で、毎日ちょっとしたことで鼻歌を歌っているような、そんな日常しか思い浮かばない。
一旦、話を止めると、美里は目を瞑って一つ深呼吸をした。その様子からも想像がつく。この後、美里に何が起きたのか。
気持ちを落ち着かせてから、美里が再び口を開いた。
「ずっと歌わないでいたんだけど、中学生の時に喉の調子がおかしくなってね。最初はただの風邪かと思って風邪薬だけ飲んでたんだけど、全然治らなくて。だんだん症状が風邪じゃないなって思って病院に行ったの。そしたら喉に腫瘍ができてた」
何事もないように装っているが、そうとうなショックだったに違いない。篤志は込み上げてくるものを、眉間に力を入れてぐっと堪えた。
「けっこう状態がひどかったみたいで、切除するとまともな声は出せなくなるって言われた。すごくショックだったし迷ったけど、このまま放っておいても死ぬだけだって言われて手術したの。それに、全く声が出せなくなるわけじゃなくて、リハビリ次第ではまた話せるようになるかもしれないって言われてたから、それに賭けるしかないって思った。
手術は成功したけど、その後のリハビリはまさに想像を絶するって言葉がぴったりなくらい辛かったな。必死に訓練して、半年後ぐらいには酷い声だったけど少しは会話できるぐらいになったわ。でも、歌は歌えなかった」
そこで美里が顔を上げた。震える声で、必死に涙を堪えているのがわかる。
「その時、初めて気づいたんだ。自分で思っている以上に歌が好きだったってことに。歌わないのと歌えないのは全然違う。
リハビリが終わってからも自分で歌う練習はしてみた。でも全然だめだった。自分でも聞けないような酷いだみ声しか出てこなかった」
上を向いている美里の表情は見えない。篤志は瞼に力を込めた。気が緩めば堪えているものが溢れ出てきそうだった。
美里は涙を飲み込むように息を吸うと、二人に向き合う。
「だから、成仏できてないのはそのせいだと思うんだ。もっと歌いたかったっていう未練があるからこうして存在してるんだと思う」
しばらく沈黙が流れた。篤志も蒼空も声が出せなかった。代わりに鼻をすする音が聞こえる。涙を堪えているのは篤志だけではなかった。
――好きなことなんでしょ? 今やめたら絶対に後悔するから
前に言われた美里の言葉がよみがえる。あれは美里自身の切なる思いだったのだろう。
「お母さんには会ってないのか?」
美里は少し言いにくそうに視線を逸らした。
「家には真っ先に行ってみたよ。でも、お母さんは涙一つ流してなかった。私もお母さんに反抗してからはずっと気まずくて、まともに和解できないまま死んじゃったから当然だと思う。お母さんは私のこと憎んでるんだよ」
だから早く成仏したいんだ、と最後だけ目の前に座る二人を見て言った。
幽霊という存在も成仏という言葉も、頭では理解していても現実のこととして受け止められていない。篤志も蒼空も頷くことも、首を振ることもできず、ただ黙って美里の話を聞いていることしかできなかった。




