不思議な少女
近年の都市開発で切り開かれた横浜市のこの一帯は、若い夫婦や単身者が多いせいか帰宅ラッシュを過ぎると人通りがほとんどなくなる。昼間は親子連れで賑わうポート南駅前も、夜になると道を照らすのは橙色の外灯のみで出歩くには危険な場所だ。
特に危険と言われているのが、南口のそばにある”ふれあい公園”だ。昼間は子供の声で賑やかだが、夜になるとうす暗く、死角も多いため近所の学校では夜に通らないよう指導がなされている。住民たちによって改善の要望が出されているが、いまだに進展していない。
辺りがすっかり闇に包まれた問題のふれあい公園を、村上篤志は足早に通り抜けていた。ポート地区で育った篤志も当然のことながら夜のふれあい公園が危険なことは知っている。実際に不良と思しき高校生ぐらいの男たちがたむろしているのを見たこともある。この春に同じ高校生になったとはいえ、遭遇して上手くかわせる自信もない。いち早くこの場所を通り抜けることだけを考えて足を急がせた。
不穏な声が聞こえてきたのは、公園の出口に近い小さな広場の横を通りがかった時だった。
「やめてください!」
必死な女性の声に嫌な予感がしつつも思わず足を止める。恐る恐る振り返ると、予想した通りの光景が目に映った。
捕まっているのはブレザーの制服を着た少女。彼女を挟むようにして学ラン姿の二人の男が立っている。二人ともパンツをだらしなく腰の位置まで下げ、髪も茶色く染めて遠目からでもはっきり分かるほど立てている。
男たちの言葉は聞き取れないが、時折聞こえる少女の「嫌です!」「どいて下さい!」という台詞から危険な現場であることは容易に想像できた。だが、篤志が駆け付けたところで状況が好転するとは思えない。篤志がやられて終わりだ。
「助けて!」
少女の悲鳴が上がった。篤志がもたもたしている間に、男の一人が少女の腕を掴んで無理やり連れて行こうとしていた。
――これはさすがに見過ごせないだろ……!
男に引きずられて、倒れるように少女が一歩踏み出した瞬間、篤志は勇気を振り絞って叫んだ。
「何やってんだ!」
男たちが篤志の方に顔を動かした。捕まっていた少女も同じように篤志の方を見つめる。
「何だてめえ?」
手の空いている方が篤志に向かってゆっくりと眼をつけながら近寄って来た。怯みそうになる自分を拳を握って奮い立たせる。そして出口の方に向かって手を振りながら大声をあげた。
「お巡りさん、こっちです! 早く!」
「ちっ、行くぞ」
男たちは少女から手を離しそのまま公園の奥へと走り去っていった。男たちの姿が見えなくなったのを確認すると、篤志は盛大に安堵の息をついた。緊張が解けて鼓動が早くなる。一か八かの賭けだったが上手くいった。
篤志は鼓動を落ち着けると、少女の方に歩み寄った。少女も少しずつ篤志の方に近寄って来た。
「大丈夫ですか?」
遠目では分からなかったが、少女は意外と背丈が大きく篤志と同じぐらい身長があった。お互いの姿がよく見える白い外灯の下で2人は向き合った。
少女は美人だった。肌の色は透き通るように白く、唇の健康的な薄紅色が際立って印象的だ。後ろで結ばれた流行りにのらない漆黒の髪と、その瞳からは少女の芯の強さが滲み出ている。しっかりした雰囲気から年上だろうと判断した。
一方、見た目も中身も平平凡凡――どちらかというとクラスでも目立たないような地味系の篤志なんかが関わりを持てるようなタイプではない。
「ありがとう」
少女から礼を言われて、篤志は急にむずがゆくなって俯いた。
普段は通らない夜のふれいあい公園で、普段の生活では絶対に接点がないような美人を助けた――そんな普段では考えられないような体験が篤志の気持ちを大きくさせたのかもしれない。人見知りのはずの篤志が気がつけば少女に話しかけていた。
「この時間は人通りもなくなるし、明かりも少ないから女性が1人で歩くのは危ないですよ」
「わかってたんだけどね。夢中になりすぎて、気づいたらこんな時間になっちゃってたの」
悪戯が見つかった子どものように照れ笑いを浮かべた少女は可愛かった。しかし、少女の周りには何かをする道具はおろか鞄すらない。
「何をしてたんですか?」
不審に思って尋ねると、いたってシンプルな答えが返ってきた。
「歌ってたの」
「は?」
「だから、歌ってたの。路上ライブをするのが私の夢だったから……」
「そ、そうですか……」
少女が寂しげな表情で話すので篤志は素直に相槌をうった。だが、このふれあい公園は路上ライブの場所として適切ではない。この公園は昼間に親子連れが集まるぐらいで、彼らが帰ってしまえば、あとは学生や会社員が家に帰るための通り道だ。たまにお年寄りや散歩の途中で犬を遊ばせている人がいるが、立ち止まってわざわざライブを聞こうとはしないだろう。それに何より、看板も立てないで歌っていたのでは路上ライブだと誰も思わない。
「たぶん、ここは路上ライブには向かないと思いますよ。やるなら北口にある駅前広場にした方がいいと思います。あそこは時々路上ライブをやってる人がいますから」
そう指摘すると、少女は急に明かりがついたように顔を輝かせて「そうなんだ!ありがとう!」と嬉しそうに言った。そして突然何かを思い出したように「あっ」と声をあげた。
「そろそろ行かなきゃ。ごめんね。色々ありがとう!」
「あ、はい……」
篤志が何かを言う前に少女は手を振りながら足早に去っていった。
不思議なところはあったものの、せっかく美人を助けてもその後に繋がらないのがやはり自分の運命なんだな――そう諦めにも似た悟りを開いた篤志は、そのまま自分の帰路についた。ただ、路上ライブをやりたかったと言った時の少女の寂しげな表情だけが気にかかっていた。