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深青の僕

作者: 沢まやこ

五年前、味気ない茶色い枯れ草達が美しく凍てついた夜。神様は僕に

地の底まで落ちても足りないほどの悲劇を与えた。実際僕は戦慄の現

場を目にしたとき、身体が闇に落ちていくような。そんな気分を味わった。


絶望の渦に放り込まれる前、僕は恵まれた子供だった。家が裕福だっ

たとか、容姿がずば抜けていたとかそういう意味でなく、周囲の人々

の愛で満たされていたということだ。だって僕はむしろ、ごく平凡な

容姿であるし、田舎の古い家に住んでいたもの。


僕の家の隣には何軒か同級生の家があり、彼らと僕は親友だった。親

友は彼らだけだったが、友達は違った。クラスメイト全員が驚く程仲

が良かったのだ。鈍くさい僕に負い目を感じさせない彼らは、とても

優しかったのだろう。放課後一緒にアイスを買ったり、こっそり捨て

犬を育てたり。日々そんなことばかりをしていた。


家の扉を開け、少し足を踏み出せば、溢れそうな自然が僕を囲んだ。

そびえ立つように広がる山々は季節によって衣を変え、美しく。風に

撫でられる広大な田地は、なめらかな穂先を波のように唸らせ、季節

を感じることができた。暑いとき足をつけた川は、ごろごろと大きな

石があり、流れも急で危なかった。しかし他にはない澄んだ水が流れていた。


季節折々の臭いで肺を満たし、大好きな人達の笑顔に囲まれ。

いつも僕の瞳は幸せで微睡まどろんでいた。


忘れもしない二月十一日、午後十一時ごろ。僕達家族は、旅行の帰路

についていた。華やかな都会を通り過ぎた僕達の車は、静寂に包まれる

黒い道を滑るように走り、辺りにはエンジンの音が鈍く響いていた。

テーマパークが余程楽しかったのだろう、興奮冷めやらぬ僕は

「楽しかったね!僕ねくまさんの像がね!」なんて取り留めもない事

を喋り続けていた。それに相槌と笑い声を返す父母の顔には、疲れが

滲んでいたように思う。また、父の右足は幾分かアクセルを踏み込み

すぎていた気もする。だがそれは後に付け足した推測であって、幼い

僕はそんなことチリほども気づいてはいなかった。他愛のない話は

いつまでも湧いて出る。突然、それを打ち壊すように爆音が鼓膜を覆

った。時を同じくして、乱暴な衝撃も車に襲いかかる。戸惑いと共に

遅れて湧き出てくる汗。車が左右に激しく揺れ、僕は跳ね上がる心拍数

を感じながらシートにしがみ付いた。母のつんざくような悲鳴がした

と思ったら、フロントガラスには威圧的な壁が僕達に迫ろうとしていた。

その時僕は気づいたのだ。「あ、事故にあったのか」と。車の軋む音

と共に、僕の意識はプッツリ途絶えた。


次に目を開けた時、僕の身体はチクチクとした葉が不愉快な草むらに

転がっていた。どうやら道路下の河原に落ちたらしく、僕の頬を澄ん

だ冷たい水の気配が撫でた。それと共に吹き付ける不自然な程熱い風。

ズキズキ痛む身体を無理矢理おこすと、僕の目には赤黒い炎が飛び込

んできた。さっきまで僕のいた車が、高い火柱に包まれ、ごうごうと

恐ろしい音を立てていたのだ。その赤い炎の中で、黒い身体をよじら

せている両親を見つけたときは、身体が凍りくような思いがした。

まるで氷点下の中に放り出されたように、僕の器官はすべて萎縮し悲鳴

をあげた。特に胃なんかは、不快な物がこみあげてくるのを我慢でき

なかったようだ。僕の口からは、勢いよく吐瀉物が溢れ出た。汚物ま

みれの顔をくしゃくしゃに歪ませて、僕は息荒く泣いていた。僕は苦

しみながら死にゆく両親に何かをすることはおろか、言葉を掛けるこ

とすらできなかった。ただ荒ぶる熱風を顔に浴びていることしかできなかった。


当たり前だけど、僕の両親は死んだ。葬式に出された彼らの棺には

堅く強く釘が打ち込まれていた。重苦しい空気に包まれる葬式、だが

同時に僕の心を逆なでする囁きのはびこるそこ。

『追突事故ですって、可哀想にね。でも三浦さんも速度を出し過ぎていたらしいわよ』

だなんて。どうか黙っていて欲しいと静かに怒りを感じていた。


仲の悪い親戚達が揃いも揃って心配する程に、僕は何も考えてなどい

なかった。とてつもない衝撃をぶつけられ、心も体も弱っていたのだ。

本当に何も考えていなかったのだろう。読経をしている間の記憶はこ

れっぽっちも残っていない。僕の記憶が再び色を灯しているのは、葬

式が終わってから親戚達が話をしている時だ。


僕はお坊さんが帰ったあと、部屋の隅でうずくまるように座っていた。

『疲れたでしょう? もうしょうくんはあっちで寝たらどうかな』

遠い親戚である女性は、赤ン坊にでも話しかけるように、僕を葬式の

会場からおいたてた。見上げた女性の顔には、隠そうともしない哀れ

みが浮かんでいて、悲痛が蘇った僕は立ち上がったのだ。きっと大人

同士腹を割る場に、子供は邪魔だった。それに気付いたのはもっとず

っと後だ。僕は女性に背中をおされるがまま、葬式会場を出て自分の

部屋へと向かった。葬式が自分の家で行われた故の行為である。軋む

体をベッドに叩きつけ、心が凪いだのもつかの間。僕は再び親戚の声

によって、安息から呼び戻された。親戚に連れられる暗い廊下には

静寂が蔓延っていて。自分の家ではないようだった。階段を降りた先

にある葬式会場は、静かな白い光を漏らしていた。薄い障子の先には

張り詰めた空気があるのだろうと。僕はそう予感していたように思う。


スッという清潔な音と共に、障子が開くと、座敷に座る大人達が一斉

に僕を見た。その表情は険しく、曇っており、悪意を含んだ瞳は僕を

睨んでいるかのようだった。そんな中、一人だけ優しげな微笑を浮か

べる男がいた。その男はとても父に似ていて、ハッとした顔をする僕

に力強く右手を差し出した。

「翔くん 私の家に来ないかい?」

そう言って白い歯を見せた。僕は瞳を揺らしながら、思わず彼の右手

をとったわけだが、後にそれを咎めることとなる。思えばこの男の手

をとった瞬間から、僕は後悔に近い感情を抱いていたように思うのだ。

だっておかしな話だろう。この男は僕の父の兄、つまり叔父であるわ

けなのに、僕は彼のことを少しも知らないんだ。会ったこともない

し、父から話を聞かされたこともない。それはつまり、叔父と僕の父

は酷く仲が悪かったということで、更には父と叔父のどちらかに人間

的欠陥があったということだろう。


幼い僕は知らなかった。幸せな日常の裏に、不吉な悪意が息を潜めて

いたことを。僕たち家族と親戚は犬猿の仲だったらしい。原因は僕の

父方の祖父母の遺産をすべて僕の家が受け継いだため。でも、祖父母

の介護を全て請け負ったのは僕の母で、遺言にも僕の家族に遺産を全

て継がせるようにと書いてあった。僕たちが貰って当然だろう。

まったくもって僕の親戚は強欲なのだ。財のためなら汚い言葉をいく

らでも吐いて、それをよこすよう喚くような人なのである。だから

僕の両親が死んだ時、不謹慎にも「ざまあみろ」と思った輩もいるだろう。


ところで、何でこの僕を引き取ろうと思ったのだろう。その時ふと僕

は考えた気がする。自分が、両親から多額の遺産を受け継いだと知っ

たのはもっとずっと後だったのだ。仲の悪い親戚達が僕を引き取ろう

とする理由なんて、それしかないのに。自分は愛される存在だとで

も、その時は思っていたのだろうか。


そうして僕はこの男「坂田仁志さかたひとし」に引き取られることになった。僕の

名前は「三浦翔」から「坂田翔」に変わり、転校もした。初めて坂田家

に足を踏み入れたとき、妙によそよそしい匂いがするな、というのが

第一印象だった。一般家庭に漂う家独自の暖かい匂い、やわらかい洗剤

のにおい。というのがそこでは一切しなかったのだ。新しい車のシート

のような、気取った事務室のような。そんな印象の匂いだった。美し

い義母に連れられ廊下を進むと、そびえ立つ立派な洋家具が僕を出迎

えた。厳かな感じのするそれらのせいで、妙に体が強張ったのは今で

も覚えている。長い廊下を抜けた先、重たい押し扉を開けると、まだ

暖かな感じのする家具があちこちに置かれていて、ああここはリビン

グなのか。と僕は思った。その中にある家具の一つ。大きな赤茶色の

ソファーの上に少女がちょこんと座っていた。てっきり子供はいない

と思っていた僕は驚き、更にその少女の端麗な容姿にもハッとさせら

れた。その少女。僕の義姉にあたる人は、その時おそらく12歳だった

だろうか。幼児独特の華奢な体は、芸術家が作り上げたもののように

美しい曲線を描いていた。パッチリとした目が僕の顔をしっかり捉え

ており、深い茶色の瞳がときおり水面のように揺れていた。瞬きをす

るたびクリンと揺れる睫毛、スーッとのびる造り物のような鼻と、桜色

のひかえめな唇。卵形の輪郭にそれらはバランスよく調和し、収まっ

ていた。人形のような顔を飾り立てる髪の毛。それは瞳と同じ色をし

ており、つやつやと高貴な光を放っていた。透き通るように白い肌を

していたから、触ったら突き抜けてしまいそうだと。まるで夜明けの

水脈のような子だと。僕は感嘆の溜息をつきながら、思っていた気が

する。両親に促されて、挨拶をしたその子の声には何か仄暗いものが

含まれていて。『小夜子』その名前がぴったりだった。瞳もそうだ。

まるで水深の深い湖のような瞳だった。重たい枷のような、そんな過去

でも背負っているのかと僕はひっそり思ったのだ。


華やかすぎて人によそよそしさを与える家具も家の造りも。飾り立

てられて隙のない家族の人達も。ネオンの煌めく都会の街並みです

ら、僕の心には上手く馴染んでくれなかった。その微妙な違和感の

ようなものは『嫌い』という感情なのだと、僕は後に分かるのだ。


坂田家の人達は、借りてきた猫のような僕を、この家に馴染まそう

と躍起になっていた。本当はそこまで好きではないだろう芸能人の

話題に花を咲かせたり、屈託ない笑顔の蔓延るテーマパークに連れ

て行ってくれたり。心の内で、その行為は僕のためだと分かってい

ても居心地の悪さが先立って仕方なかった。僕は元からクラスの端

で笑っているような子供だったし、知っている者の内でないと自分

を出せない性格だったのだ。


僕の子供らしくない引きつった笑顔に、向こうも愛想が尽きたのだ

ろう。坂田家に来て五ヶ月が経ったころ、僕の存在はただそこにあ

るものとして定義されてしまった。学校でもそうだ。生徒達はそれ

こそ最初だけ僕に話しかけてくれた。しかしそれ以降は無視。

僕はうだつ上がらない感じがするし、クラスの隅に追いやられたの

は必然だったのかもしれない。僕の掃除当番の回数が異常に多くな

ったり、揚げ足を取って笑われたりするのも仕方なかったのかもし

れない。僕は、教室の隅でいつも息を殺していた。


孤独でいられることに僕は安心したのだけど、同時に義父の僕を見

る目に、暴力的な感情が含まれるようになった。生徒達の目もそうだ。

隙があれば吊し上げてやろうと、僕を監視していた。厚い雲に覆わ

れた空を見たような、そんな暗鬱感。そして、獣が側にいるような

不安感。義父が僕に抱く殺意にも似た嫌悪感も、生徒達が僕に抱く

残虐性も。子供の僕は敏感に察知していたのだ。いつか、僕はその

嫌悪感をぶつけられるのではないか、そう予感しそれは杞憂ではおわらなかった。


始めて暴力を振るわれた日、僕の頬は痛々しく腫れ、膝には赤黒い

染みができていた。余程義父がおそろしかったのだろう。義父が立

ち去ってすぐ、僕は逃げるようにその場を離れ、物置に飛び込んだ。

手をついた床は凶器のように冷たかったから、季節は冬だったのだ

ろう。襲い来る鈍痛は、僕の奥歯を軋ませていた。何となく予感し

ていたとはいえ、やはり実際に暴力を振るわれたとなるとショック

は大きい。そのせいなのか、それとも寒さのせいなのか、僕の体は

ちっとも落ち着かなかった。いつまでも小刻みに震えていた。引き

つった瞼は上手くひらかず、ぼやける視界に映る窓は白くあやふや

な輪郭をしていた。そこからは神聖な光が差し込んでいて埃っぽい

物置がやけに厳かな雰囲気に思えた。いつしか行ったグラマー園の

協会と重なるものがある。何をしたらいいのかも分からず、僕は身

体を床に接着し続けた。このまま一体化してしまうんじゃないか。

と感覚のない尻に不安を覚えたりもしたが、立ち上がろうとは思わ

なかった。先ほど述べたように、どうしたらいいか分からない。と

いうのもあったのだが、ちっぽけな僕の義父への訳のわからない反

抗でもあった。そして僕を探し謝罪の辞を述べてくれるのではない

か、という期待を含んだ行為でもあった。だが結局義父どころが義

母すら探しには来ず、窓の外は藍色に染められて行った。


悲しい瞳の奥で『これを諦めというのか』との感情が生まれていた。

映像にしてみたら何でもない一場面でも、それを体験した本人にと

ったら、人生の転機の原因だったりする。例えば、お偉い大先生に

直接諭してもらった言葉より、電車の中で読んだ本の言葉のほうが

よっぽど身にしみて、価値観が変わった。とか、そういうこと。僕

の人生の転機、というか人格の形成に大きく関わったのがこの日の

出来事だったと思う。頭がどんより重くて、まるで白昼夢の中に放

り込まれたような。その時感じたそんな感覚が、ずっと僕に付きま

とうこととなる。ポロポロと惨めな涙を流し続ける僕の、その視界

の切れ端に白い人影がうつった。目元を擦りながらそちらを向く。

僕の視線の先に立っていたのは義姉だった。彼女は潜むように、ご

く自然な佇まいでそこに存在していた。白いニットのワンピースが

夕刻に映えていた。何時の間に入ってきたのだろう。と閉ざされた

扉を見て僕は疑問を零した。義姉は僕と目が合っているのを確認す

るように目を細め、こちらに歩み寄った。ゆったりした足音も、僕

を見下ろす瞳も、無造作に放られた手も、義姉がするからなにひと

つとして嫌味なものはなかった。義姉の唇が割れているな、とそう

認識できるまでに二人の距離が縮まると、彼女は僕の横に腰をおろ

した。ファッと舞い上がるような埃の匂いの後、義姉の纏う香りが

僕の鼻腔に届いた。それは森の雨上がりのような匂いで。自然なの

に、清潔で恋しく思うような。そんなものだった。この時、義姉の

イメージが僕の頭に定着していく最中であった。イメージとはそれ

こそ抽象的なものだから、言葉で説明するのは酷く難しい。けれど

それを言葉にして何かに例えてみるなら、秋の夕空。それに近かった。


ずっずっと鼻を啜る音がだらしなく響く。義姉の存在を横に感じて

いたのに、僕は何も喋らず。口からは白い蒸気が漏れるだけだった。

沈黙は長きに渡って及び、僕は時折義姉の顔を横目で伺っていた。

いつ視線を滑らせても、彼女の唇はそっと閉じられていて目は伏せ

られていた。何のために来たのだろう。僕はそう思い、そこには少

しの毒が含まれていた。結局その日、義姉が始めて言葉を発したの

は1時間ほど経過してからのことだった。


「ねぇ翔くん、今どんな気持ち? 」

 義姉の口からは意地悪く白い筋が立ち上っており、少しだけその美

しさが憎たらしく感じられた。

わかりきった問いではないかと。そう思ったのだ。

「どんな気持ちって… …、それは、悲しいような。そんな気持ちです」

 僕のうつろな目と義姉の目がつながる。彼女の鼻は少しだけ赤くて

どうやら寒さを感じているようだった。

「もしかしたら翔くんは、自分の性格とか器量とか、負い目に感じてる?

 もし感じてるなら、それは違うの。そういうのはちっとも悪く思わなくていいのよ

 悪いのは私のお父さん。彼はね、貴方のような小さい命な助かったこと。

 そのことに喜ぶべきなのよ」

 その時は話の意味がよく分からず、ただ義姉の横顔を見ているだけ

だった。けれど、僕を肯定してくれているのだなということはなんと

なく分かった。うんともすんとも言わない僕に、義姉は家の中に入る

よう促した。外から見た僕の家は大層立派で、暖かい光の漏れる窓が

心寂しい人々を呼んでいた。けれど、僕はこの家に望まれてなどいな

いのだ。悲しい事実だが、他人を変えることはできない。


家の玄関に向かう途中、義姉は悪口を零すように囁いた。

「あのね、私の父とあなたのお父さん。兄弟なのは知ってるでしょう?

 私の父はね、あなたのお父さんに劣っていたのよ。容姿も器量も勉強も何もかもが。

 だからきっとあなたに辛く当たるの、そう思っておくといいわ」


それから義父の暴力は僕を苦しめ続けた。クラスメイトのイジメもだ。

その二つは同時に僕の精神を蝕んでいった。傷は治る暇もなく、まだ

生乾きのうちに次の傷を加えられた。学校で痛めつけられ、家でも暴

力を振るわれ、それがもはや日常となっていた。特に学校でのイジメ

は酷かった。異臭を放つ便器の中に顔をつっこまれたり、服を脱がさ

れたり。大衆の蔑むような冷笑を浴びて、醜態を携帯で撮られて、た

だ苦しかった。夜眠る時、便器の胸糞悪い刺激臭が蘇って、笑われて

体が火照る感覚を思い出す。その度に消えたいと思った。


教師はイジメに気付いていたが、それをやめさせようとはしなかった。

クラスメイトが、縮こまる僕に足をねじ込む場面を見ても、目線を逸

らすだけだった。僕は去りゆく教師の背中を追いながら『死ね』と初

めてその言葉を用いた。そして、湧いてくる殺意の毒を知った。


日常はドブ川に浸っているようであった。僕はその中で藻掻くように

息継ぎをして、ついに15歳となった。その心はグジャグジャに歪め

られていたが、徐徐に固まりつつある。僕は、大人になろうとしていたのだ。


中学生3年生になり、僕は逃げることを覚えた。辛いことなど放り出し

てしまえばいいと、そう考え、そうしないと壊れてしまうとも思った。

中学校にはあまり行かなくなったし、義父との接触もなるべく避けた。

不登校を咎められぬように、深夜は街を徘徊した。哀れなはぐれ犬を

慰めるように、夜の風は僕を撫でた。伝わってくる荒れた人々の様が

ところどころ立ち昇る饐えた匂いが僕に居場所を与えていた。そうし

て徘徊の末、僕は一つの廃墟に辿り着いた。そこはかつてマンション

だったようで、建物の形状は縦に長く、頂点には月に寄り添う屋上が

あった。錆びて赤茶色になった扉を蹴り飛ばすと、それは呆気なく吹

き飛んだ。犯罪意識なんてものは忘れてしまっていた。カビ臭いよう

な埃臭いような空気に巻かれて、中に足を踏み入れる。コンクリート

の地面はジャリジャリと嫌な感触がして、これは寂寥の蓄積なのだな

と一人で思っていた。僕の足は屋上を目指していた。途中であまりの

視界の悪さに携帯のライトを付けた。僕は想像して、酔っていた。

錆びに囲まれたあの屋上のスペースを、一際淋しく見える月の姿を。

そして、そこに存在するであろう廃退的な空気を。


屋上の扉は重たい枷がはめられており、開きそうもなかったので、近

くの窓を叩き割った。ガシャンッと神経に障る高音が響いた後、僕の

頬には冷たい夜の空気がふれた。すぐ目の前には澄んだ夜の空気が、

憂いを含んで僕を待っていた。窓をくぐり抜ける際に鋭いガラスの欠

片で腕を切ってしまったが、気にならなかった。それほどに僕は夜の

静寂を待ちわびていたのだ。


軽い衝撃と共に地面の冷たさが足の裏に伝わると、僕はしばし静止した。

両方の瞳は、吸い取ろうとせんばかりに、この景色を洞察した。屋上

の周りは錆びたフェンスで囲まれており、手を加えたらすぐ壊れてしま

いそうな、そんな脆さが感じられた。フェンスに巻きつくツタはやけに

密集していて、この場の荒廃を感じずにはいられなかった。上には深い

藍色の空が広がっている。その中には、不穏な気配をまとって雲が渦を

巻いていた。その奥に光っているのは月だ。透き通るような光をまとう

それは、フェンスのもっとずっと先にポッカリと浮かんでいた。


僕はゆっくりと足を月に向かわせた。地面がとぎれる、その瀬戸際まで

行きたいと思ったのだ。靴の裏には散らばる砂利のような感触があって

地面に視線を這わすと、コンクリートの小さな欠片が散らばっていた。


幾分か強くなった気がする風がうなっている。僕の髪の毛は扇がれて

宙で遊んでいた。錆び付いたフェンスに触れると、チリッとした冷たさ

が指先を痛めつけた。フェンスを掴みながら、夜の町をぐるりと見渡す。

真っ先に群集する光が目に入ってきた。その背景にあるのは、眠る建造

物達だ。それは山のように連なり、日の出をじっと待っている。彼らは

世の人々は、社会の歯車となり生きているのだ。


『彼らは正しくて、満ち足りてもいるんだろう』そんな何気ない思いが

ふっと頭をかすめ、突如、異常な程の悲しさに襲われた。胸がグッと苦

しくなったが涙は出なかった。まるで鼓動のような感情の起伏は、暗闇

を濃くさせるようだ。僕を覆う闇は、ゆらりと僕の目に口に耳に傾れ込

んでくる。それに触れて、「ここには僕と同じ寂しさがある」そう気付

いた。誰にも触れられない寒さ。朽ち果てていく身体。一人きりで耐え

ねばならない孤独。ここにはそれらがあったのだ。


ゴオオッという重い轟音が僕の耳の奥に届いた。風の音は、風の強さは

だんだんと増していく気がする。吹き付けるように押される背中。

まるで『ここから飛び降りろ』と言わんばかりだ。すっかり冷えた掌で

ぐっとフェンスを握りしめた。僅かに動いたフェンスからは錆がこぼれ

落ち、それは風に流されていく。

虚しく力を入れ続ける僕の拳は、フェンスの頑丈さを知った。


_結局、僕が肉片を散らすことはなかった。


ただ僕は足繁く、その廃マンションに通い詰めた。自虐にも似た酷い孤

独感が、まるで煙草のように癖になったのだ。きつく染みいる孤独感は

黄色い火花を散らすように、僕の頭ではじけ僕に快楽を与えてくれる。

僕はおかしくなったのかもしれなかった。


狂ったように通い詰め、気付いたことがあった。夜の街は、孤独ではな

い、闇に呑まれたわけではないということだ。僕は時間を吐き捨てるよ

うに街を見続けていた。闇の中から零れたように出てくる車。点滅する

光。時折、聞こえてくる話し声。そういったものは、掛けられた魔法を

解くように、この場所が「特別」ではないんだと僕に知らせた。そして

この場に対する僕の執着心を薄れさせた。それを知って、僕は投げやり

な、落ち込むようなそんな気持ちになっていた。


僕は思った。もしかしたら、居場所とは減っていくものなのかもしれな

いと。僕の場合、あと残っているのは、この廃マンションだけ。そこで

すら、じきに無くなってしまうんじゃないだろうか。

最近ではそんな考えさえ浮かんできた。


今、僕の心は荒れ果てていた。崖っぷちにいるのに橋がない。そんな状

況に置かれているからだ。僕はあと数ヶ月で中学校を卒業する。だがそ

の後、僕はどうしたらいいのだろうか。虐められるために高校に行くし

かないのだろうか。それとも思い切って就職をするべきなのか、だがそ

れほどの器量が僕にはあるのか疑問なのだ。そんな重苦しい不安が目を

閉じても、僕の頭の中にあって、心をめちゃめちゃに掻きむしった。


夜の川の水のように、重苦しい日常が僕の足をとる。一度踞ってしまう

と、立ち上がるのは至難の業だった。水の気配が顔に近づくのを感じ

僕はふと思ったのだ。「死ねばいいんじゃないか」と。「死にたいな」

などという人は自分とは無縁のものだと思っていたし、軽々しくそう言

う人は軽蔑さえしていた。けれど、日常が辛いなら死んでしまえばいい

じゃないか。と閃くように、思ったのだ。日常から零れた休み時間。

そこでしか息を付けないなら、死んでいるのと同じなのだ。意識がなく

なってしまっても、何が恐いのか。死んでしまったら、ホッと息が付け

るような永遠の安息が訪れるような、僕はそんな気がしてならなかった。

それに「辛いなら、死ねばいい」そう思いついた時、心の塊が解けたよ

うな。そんな気がした。だからこれはおそらく正解なのだ。


僕はまさに今、錆び付いたフェンスに腰掛け、夜の街を眺めていた。

少し体を傾ければ、地面に真っ逆さまに落ちてしまう。それは、恐いこ

とだろうか。僕はかぶりを振る。いや、恐くはない。フェンスを握りし

める力は、一層弱まった。奇妙な不安定さが心を鮮明にさせて、僕はと

ても冴え渡っていた。強く吹き付ける風は、僕の足の間をすり抜けてい

く。裸足であるせいだろう、風を爽快に感じた。僕の体は軽々としていた。


目を閉じ耳を澄ますと、ひそかに息をする廃墟の気配が感じられた。風

の合間に伝えられるそれ。まるで僕に何かを言っているような気がした。

なんとなく、呼ばれている気がして後ろを向く。


そこには屋内に入る扉が建っているだけだった。いつも通り沈黙を続け

じっと止まっている。何でもないか、と前を向こうとしたその時。闇の

中に溶け込んでいる白に気づき、僕の心は不穏に波打った。恐怖、考え

る前に沸き立った原始的感情だ。よく目を懲らすとそれは人間で、割ら

れたガラス窓の近くに立っていた。


「… …小夜子?」


僕がそう声をかけると、その人物は僕に近づいてきた。徐徐に鮮明にな

る体の線、顔のパーツ。あまりに出来すぎたこれらは、義姉で間違いな

かった。なんでここが分かったのだろうと驚く。僕の後をついてきたに

しろ、何故今日に限って、僕の命日となるであろう日に限ってきたのだ

ろう。姉のタイミングの良さ、ある種の鋭さを感じずにはいられなかった。


「久しぶりね」


姉はそう言って僕の隣に腰掛けた。更なる負荷をかけられ、フェンスは

小さく悲鳴をあげた。そういえば義姉とは二ヶ月近く会ってなかったな

と気づく。風を切る長細い足から徐々に視線を上げ、彼女の顔を見つめ

た。風の中で舞い踊る細い髪は、少しだけ伸びた気がした。


「余計な話をするつもりは、ないの」


義姉はそう言って目を伏せ、一度口を閉ざした。その僅かな沈黙の間に

すら、割り込んでこようと風は鳴き続けていた。その音に巻かれる義姉

を見ていると、何かを奪い去られそうだと思ってしまう。


「翔は死にたいんでしょう? 不躾な質問で悪いけれど」


義姉が確認を求めるようにこちらを見たから、僕はコクリと頷いた。肯

定していいのだろうか。という迷いもあったが、今更彼女に隠し立てす

ることもない。それに彼女に嘘を隠し通せるとも思えなかった。


「〝死なないで、生きてたらいいことがある 〟なんて言いはしないわ

だってそんな言葉、無責任だもの。

 ハズレくじを引く人は最後までそれを引き続けるのかもしれない」


そこで一旦口を止めた姉は、優しく僕の手に触れた。それに応えるよう

にその手を握る。姉の手はか細く、冷たかった。きっと寒いのだろう。

だって十一月だというのに、今日の姉は白いチュニックしか着ていない。


「上着、貸そうか?」


そう声をかけても、義姉は「いらない」と呟くだけだった。義姉の体は

頼りない程細くて、いらないわけないのになと思ったが、断ったのだか

ら不要なのだろう。姉はそういう人だ。正直だがあつかましくないのだ。

姉の視線は街のネオンを捉えていた。彼女の瞳の中には光達が息づいて

いる。僕も街の全体を見渡した。義姉がいるからだろうか、街並みから

は欠片ほどの寂寥も読み取ることができなかった。ただ、綺麗な夜景だと思う。


「翔は十分に辛い思いをした。だから、もう辛い思いはしなくていいと思うの

 好きなことをすればいい」


「… …そんなこと、出来ないんだ

 僕は小夜子とは違うんだよ。見えない制限がたくさんかかってるんだ」


僕の声を聞く義姉は、何だか寂しげで。

心には悲痛が浮かんでいるんじゃないかと予想できた。


「私は辛いわ。貴方みたいな人が社会から零れ落ちて、そのまま消えてしまうことが

苦痛を遠ざける事は簡単なの

 嫌なものから逃げてしまえばいいのよ、壊してしまってもいいのよ

 どうか気づいて欲しい、その行為はごくごく簡単なものなんだってことに。

 自分は絶望の海に沈んでいるんじゃないってことに」


義姉は目を伏していた。相変わらず義姉のいう事は曖昧で、僕は上手く

理解出来なかった。でもやっぱり義姉は優しいんだと、彼女は慈愛に満

ちているんだと。そのことだけは感じ取れるのだ。


僕らをすり抜けていく風は一層冷たさを増して、背中を押すかのようだ

った。無意味なほど吹き続けるこの風。もしかしたら僕を満たせる場所

へと、ヘヴンへと連れて行ってくれるのかもしれない。


俯く僕を義姉はそっと抱きしめた。彼女の両手は今、僕の背中にある。

もし僕が下に傾けば、彼女も共に落ちて行くのだ。義姉から伝わる体温

が沁みるように心地よかった。


「ねえ、落ちるよ。 小夜子は」


〝死んだらダメでしょ〟そう言おうとしたけれど、言えなかった。胸に

詰まった言葉は代わりに涙となって、僕の両目から溢れ出た。ほぐされ

た僕の心からは、様々なものが溢れ出て、収集がつかなくなった。長年

の孤独が、僕の胸の痛みを強める。悲痛の蓄積が、僕の嗚咽を荒ぶらせる。

僕は両手を義姉の背中に回した。気遣いなど忘れて、強く彼女の体を抱

きしめる。両目をおしつけた肩からは、僕の知らないピリッとした香水の匂いがした。


「私が側にいることを忘れないで

 貴方がいなくなったら私が悲しむことを覚えておいて

お願いだから、苦しまないで」


僕の頬に落ちた水滴はきっと義姉の涙で、僕らの上には銀河が果てしなく

荘厳な美しさを纏って広がっている。


僕は生きていける気がした。


僕は、きっと小夜子がすきだ。

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