捨てられたら、私は生きていけないそうです
「コリンナは、俺に捨てられたら生きていけないからな」
ディルク様が笑った。何人かが、それにつられて笑った。
「少しくらい待たせても、文句言わないんだよ」
雨の中で一時間待っていた日のことだ。
靴の中まで冷えて、帰りの馬車で何度も足の指を動かしていた、あの日のこと。
翌日には、風邪を引かなかったかと心配してくださった。忙しいのに気にかけてくれたのが嬉しくて、大丈夫ですと返事をしたのに。
それが笑い話としてこの場で話されるとは。
今日はディルク様の友人たちとの食事会で、来月の結婚式が話題に上った。私がどんな花嫁になるのか楽しみだと言われて、ドレスのことを少し話そうとしていた。
だけど、そんな話をする前にディルク様は私をネタに場を盛り上げようとしている。
「そういうお話は、やめていただけませんか」
隣に座る彼にだけ聞こえるつもりで言った。けれど、彼は大きな声で聞き返した。
「冗談を言ってるだけってわかるだろ? なに怒ってんだよ」
「その冗談が私には不愉快です」
席の向こうから、アレクシス・ローデン公爵が「もうやめろ。嫌がっている」と声をかけてくださった。
助かった、と思ったのは一瞬だった。ディルク様は私を廊下へ連れ出し、皆の前で恥をかかされた、と怒り始めた。
「戻って、今のは私が悪かったと言ってこい。あんなことで場の空気を悪くして、君は何とも思わないのか」
なぜ私が謝らなければならないのだろうか。
「謝るまで結婚してやらないぞ」
目頭が熱くなった。
笑い話にして欲しくなかっただけだ。
それなのに、機嫌を悪くして結婚まで取り消すと言ってる。
これも冗談なのだろうか。
たぶん、戻って謝れば何事もなかったかのようになるんだろう。
特に何事もなく食事会は終わり、来月結婚式が行われ、そのまま幸せな生活を送る事が出来る。
だけど、それが本当に幸せな事なんだろうか。
謝った先を想像した。
あの席に戻って、私が悪かったですと、笑ってた人達に、頭を下げて。
そうするとこの人は、ほらやっぱり別れたくないと笑うんだろう。
私が黙れば、また拗ねてると言われるかもしれない。だから笑うところまでやらないといけない。
もう無理だ。
そんな顔は作れない。
「……今日は、帰ります」
「は? 話を聞いてないのか? 謝らなければ結婚はしないと言ってるんだぞ」
「なら、結婚はやめます」
言った。ついに言ってしまった。
その言葉を口にするだけで、膝が頼りなくなった。
彼の事が本当に好きだった。三年前に婚約してからずっと。
両親には何て言えばいいんだろう、配ってしまった招待状は。
「勝手にしろ。 泣いて戻ってきても、すぐには許さないからな」
彼はそう言って食堂へ戻っていった。
入れ替わるように公爵様が出てこられる。
「馬車を呼ぼうか」
良かった。何も聞かれなかった。
今説明したら泣いてしまう。
「お願いします。それと……もしお時間が大丈夫なら、玄関までご一緒していただけないでしょうか」
「もちろん」
差し出された腕につかまり、私は扉から離れた。
家に帰って、私は一晩中泣いた。
*
翌朝、両親に事情を話し、私から婚約解消を申し入れた。
一週間後、ディルク様からは、署名済みの書類と手紙が返ってきた。
『こんな真似をしても、俺が折れると思うな。結婚してほしければ、君が謝りに来るんだ』
書類には、彼の署名と両家の承認も揃い婚約は解消された。
なのにこの手紙。
私が泣きついて謝ると本気で考えているのだろうか。
手紙は破り捨てた。
そんな事より婚礼の取りやめを進めるのは気が重い。
式場への連絡や、招待状の取り消し。ため息が出るばかりだ。
準備していたドレスの事を伝えるのが一番つらい。着るのを本当に楽しみにしていた。
何度も試着をして、わがままを言って。
せめてお礼だけでも直接伝えようと、店まででかけた。
「色のついた飾り帯を合わせれば、夜会でも着られますよ」
やっぱりそれを前にすると諦めきれない、これだけは。
このまま着たい、裾を引いて歩きたい、ヴェールも合わせたい。
「……仕上げていただけますか。すぐには着られないのですけれど」
女主人は、仕上げてからも、お召しになる日までこちらでお預かりしますよと言ってくれた。
それだけだったけど、なんだか気分が晴れたみたいだ。
婚約解消から十日ほどして、ディルク様から花が届いた。
『もう怒っていない。戻ってきてもいいぞ』
なんだこれ、もう終わったことなのに何を言ってるのだろうか。
花も捨てた。
*
その数日後に、公爵様から手紙が届いた。
婚約が解消されたと聞いて、改めてお会いしたい。私が嫌でなければ、これから二人で過ごす機会がほしい、とあった。
これって、そういうお誘いなんだろうか。
思い違いだったら恥ずかしいな。
ずっと婚約中だったのもあり、そういう手紙の返事の仕方も忘れてしまったようだ。
余計な事は書かずに、お会いしたいですとだけ返しておこう。
会って話したら分かる事だ。
ところが、当日迎えに来てくださった公爵様は、馬車へ乗る前に言った。
「あなたに、交際を申し込みたい。……食事のあとに言おうと思っていたのだが」
用意していた挨拶を忘れてしまった。
「えーと、急すぎませんか」
「そうだね。順番を間違えた」
会うまであれこれ考えてたのだが、最初の一言で全部変わってしまった。
そういう感じなのかな、この方は。
「そのドレス、とても似合っている」
「嬉しいです、三回着替えた甲斐がありました」
なんで着替えた回数を言ってるんだ私は。
でも、公爵様は笑ってるのでよしとしとこう。
「まずは、お互いを知るところから始めてもらえると嬉しい」
「……はい。私も、公爵様のことを知りたいです」
「では、アレクシスと呼んでくれ」
呼んでみると、嬉しそうに笑ってくれた。
こんな表情も見せてくれるのね。
馬車へ乗り込むと、彼は今日行く店の話を始めた。最近できた店で、すっかり気に入ってしまったのだそうだ。
「茸の煮込みがおいしくてね。最後に残ったソースをパンにつけると、つい食べ過ぎてしまう」
楽しそうにそう言ってくださるので、私も笑顔で相づちを打っていた。
そして、なかなか言い出せない。
私は茸が苦手なのだ。
言いそびれていると、とうとう皿に盛られる量を解説し始めた。
食べられないことはない。口へ入れて、噛む回数を少なくすれば飲み込める。でも、その量は少し厳しい。
こんなに楽しみにしてるのに、行きたくないとは言えない。
でもソースだけ食べて、茸を残すのはどうなんだろう。
おいしいと言ったら、また連れて行ってくださるかもしれない。
そして何度も茸を食べることになり……。それはまずい。
「アレクシス様。私、茸が苦手なのです」
「……それは、先に聞くべきだった」
「ほかのお料理があれば、私はそちらをいただきます」
「いや。今日は別の店にしよう。あそこへは、また一人で行く」
おいしいのに、と言われると思ったけど良かった。
どれくらい苦手なのか説明する準備をしていたのだけど、それ以上は聞かれなかった。
「コリンナの好きな店はある?」
それならすぐに思い浮かべられる。
肉の包みがおいしい店。
でも大衆向けで、個室もないような店なんだけど。
「肉の包み焼きが好きなのですが……。お昼は混んでるかもしれません」
「いいね。どこの店?」
聞かれるままに場所を説明すると、彼は窓を開けて御者に行き先を伝えた。
彼もおいしいと思ってくれるといいな。
あの店には何度も行っているけれど、誰かを連れていくのは初めてだ。すぐに座れるといいのだけど。
店の扉を開けると、焼けた脂と胡椒の匂いがした。窓際に二人分の席が空いていて、運ばれてきた包み焼きからは、まだ湯気が上がっていた。
端を切ると、薄い皮がぱりっと割れる。私はここが好きなのだけれど、アレクシス様は中の肉を気に入ったようだった。
「これは、もう一つ食べられるな。コリンナも食べる?」
「私は一つで十分です」
「では、二つ目は私が全部いただこう」
本当に追加を頼んだので、やっと安心できた。
彼の皿が空くまでは、好きでもないものを無理に食べさせていないか、気になっていたのだ。
なら、甘いものも勧めたい。この店は焼き菓子もおいしくて、特に檸檬のケーキは、午後になると売り切れてしまう。
まだあるかと尋ねると、店員は、今日はもう終わってしまったと申し訳なさそうに答えた。
「残念。あれも召し上がっていただきたかったのに」
「次に来る理由ができた」
次も、と思っていいのね。
だったら、今のうちに約束してしまいたい。家に帰ってからお誘いの手紙を考えるより、ずっと簡単だ。
「では、今度はもう少し早く来ませんか。取り置きをお願いできるか、聞いてみます」
「ぜひ。あなたの好きなものを、もっと教えてほしい」
次も食べ損ねたら悔しいので、その場で次に来る日を相談し、取り置きを頼んだ。彼のお勧めの店を聞くのは、ケーキを食べてからにしよう。
*
約束した日にケーキを食べた彼は、一口目で黙った。
「……酸っぱいですか」
「少し。いや、結構」
蜂蜜の焼き菓子を追加で頼み、残りの檸檬のケーキは私がもらった。
私にはちょうどいい酸っぱさだったし、彼も焼き菓子を食べて、ほっとしたような顔をした。
気を遣って無理に食べられたら、私はまた檸檬のお菓子を勧めるところだった。聞いてよかった。
それからも何度も会った。
彼から誘われるのを待ちきれず、自分から手紙を書いたこともある。
返事が来ると、玄関まで受け取りに行った。侍女に笑われたけれど、部屋まで持ってきてもらうより早いのだから仕方がない。
ディルク様からも、何度も手紙が届いたがもう読まずに捨てた。
アレクシス様には、その手紙のことも話した。
嫌な顔をされるかもしれないと思ったけれど、話すべきだと思った。
「私はもう、お断りしています」
「分かっている。困ることがあったら、隠さず話してほしい」
彼はそこで言葉を切り、私の顔を見た。
「私からの手紙は、迷惑になっていない?」
「なっていません。昨日の分には、今朝お返事を書きました」
「そうか。では、帰るのが楽しみだ」
彼にも楽しみにしてもらえるのなら、今日伝えるつもりだったことも書いておけばよかった。けれど、今話せば、どんな返事が返ってくるのか、その場で聞ける。
もう少し一緒にいたくて、私は彼を庭へ誘った。
その庭の薔薇が咲いた日だった。
「コリンナ、私と結婚してくれ」
返事をする前に涙が出た。
ああ、困った。ちゃんと顔を見て答えたいのに。
「はい。私も、アレクシス様と結婚したいです」
差し出した左手を取られ、指輪をはめてもらった。
彼が私の指に口づけたので、とうとう俯いてしまった。泣いている顔を見られるより、そちらの方が恥ずかしい。
*
ディルク様と顔を合わせたのは、婚約を公表したあとの、王宮の夜会だった。
アレクシス様と二人で挨拶をしているところへ、彼が来た。
あの食事会にいた友人たちも一緒だった。こちらへ来るまでに、どんな話をしていたのだろう。また、私が戻るとか戻らないとか、そういう話だろうか。
顔を見ただけで、せっかくの夜会から帰りたくなった。
けれど、今日はまだ挨拶をしたい方がいる。
アレクシス様がお世話になっているご夫婦に、会わせてもらう約束なのだ。
さっき、ようやく姿を見つけたところなのに帰るのは嫌だ。
「コリンナ。少し話がある」
「こちらで伺います」
ディルク様はアレクシス様を見て、声を落とした。
「いつまでこんなことを続けるんだ。俺はもう怒っていないと、何度も伝えただろう。もう謝らなくてもいいんだ」
「私、結婚が決まったのです。アレクシス様と」
左手を上げて、指輪を見せた。
今日も馬車の中で何度か見た。石の色が窓から入る光で変わるのが嬉しくて、隣のアレクシス様に見せたら、気に入ってもらえてよかったと言っていた。
今は、ディルク様によく見てもらわなくてはいけない。
「……本気なのか」
「はい」
彼はアレクシス様へ向き直った。
「公爵、これは俺たちの喧嘩なんです。コリンナが意地になっているだけで」
「婚約は解消されたと、君自身から聞いたが」
「あれは、少し頭を冷やさせようと」
なにを言ってるのだろう、この人は。
まったくもって意味が分かりません。
「私は戻りません。もう、お待ちにならないでください」
アレクシス様の腕に手を添え、足を進めようとした。すると、ディルク様が前へ出た。
「待て。……分かった。あの日のことは、俺が悪かった」
足が止まった。
「皆の前で、あんな話をするべきじゃなかった。謝る。これでいいだろう」
そう言って、私へ手を差し出した。取るまで待つつもりらしく、引っ込めない。
私はアレクシス様の腕から、手を離さなかった。
「結婚はしません」
「謝ったじゃないか!」
曲の終わりに、その声が重なった。拍手をしかけた方がこちらを見て、隣の方も振り返る。
ディルク様は口をつぐんだ。差し出していた手で上着の裾を引き、友人の方を見たが、誰も笑わなかった。
「……何が不満なんだ。君は、俺と結婚したかったんだろう。あんなに楽しみにしていたじゃないか」
そんな事は覚えていたのか。楽しみにしていた、確かに。
だけどもう忘れてしまいました、何が楽しみだったのか。
「今は、アレクシス様との結婚を楽しみにしています」
ディルク様は黙った。
彼の目が、アレクシス様の腕に添えた私の手へ落ちる。私はそのままでいた。アレクシス様も何も言わず、私の手に触れた。
「コリンナ」
ディルク様の声が、さっきより小さくなった。
「本当に、俺でなくていいのか」
私が答える前に、彼は続けた。
「待て。違う。……俺は、君がいい。君と結婚するんだと思っていた。君だって、俺を好きだったじゃないか」
後ろにいる友人が、彼の袖を引いた。ディルク様はそれを振り払い、私を見た。目の縁が赤くなっていて、言おうとした言葉を一度飲み込んだ。
「頼む。あいつと結婚しないでくれ。俺と結婚してくれ」
いい加減にしてください。
「行きましょう。ご紹介いただきたい方がいるのです」
アレクシス様は私の手を取り、歩き出した。
後ろから名前を呼ばれたけれど、戻らなかった。
*
結婚式の日、仕立て屋の女主人は、鏡の前で私のドレスの裾を整えてくれた。
小さな花の刺繍が裾を一周して、歩くたびに薄布が重なった。
ヴェールを留めてもらい、鏡の中の自分を横からも見ようとしたら、まだ動かないでくださいねと、女主人に止められた。
前の結婚式のために作り始めたドレスだったから、アレクシス様が嫌な気持ちにならないか気になって聞いてみた。
「あなたが着たいと聞いて、ずっと楽しみにしている」
そう言ってもらえたので、今日は、存分に見てもらうつもりだった。
祭壇まで歩きながら、アレクシス様の顔を見ていた。
初めは笑っていたのに、途中で口元を押さえてしまった。どうしたのかと思ったら、私が着くまでに何度も瞬きをしている。
「……綺麗だ」
すぐそばへ着くと、彼が言った。
嬉しくて、少しだけ裾を持ち上げてみせた。花の刺繍まで見てほしかった。
「もっと見てください。今日のために、何度も試着したんです」
「見ている。さっきから、ずっと」
私は笑ったまま、彼の手を握った。
明日の朝も、一緒にいられる。
起きたばかりの彼は、どんな顔をしているのだろう。身支度を整えて迎えに来てくれるときの顔しか知らないから、それもちょっと楽しみだった。
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