第1話 月収22万、推しへの投資は18万
くたびれたパンプスを脱ぎ捨て、私は玄関の床に崩れ落ちた。
「……疲れた」
今日も今日とて、理不尽な上司の叱責と、面倒なクライアントの修正依頼のコンボ。小さなデザイン会社で働く私の日常は、灰色で埋め尽くされている。クリエイティブな仕事に憧れて入ったはずが、現実はただのDTPオペレーター。私じゃなくてもできる仕事。そんな無力感が、ずっしりと肩にのしかかっていた。
だが、この憂鬱もあと数時間で終わる。私には、この灰色の日々を鮮やかな虹色に変える、魔法の時間が待っているのだから。
そのための軍資金が振り込まれる、特別な日。それが、今日。
ピロン、とスマホが軽快な音を立てた。
毎月25日、午前0時1分。世界で一番心待ちにしている通知だ。液晶画面には、私がこの社会で生きている証──そう、給与の振込通知が表示されている。
「よしっ……今月も、生き延びた……!」
ベッドから飛び起きた私、田中美咲、27歳。都内の小さなデザイン会社で働く、ごくごく平均的なスペックのOL。しかし、その金の使い道は平均から著しく逸脱している。
私はスマホの電卓アプリを起動し、神聖な儀式を始める。
手取り、223,480円。
そこから、まず命を繋ぐための固定費を引いていく。
家賃、72,000円。
光熱費および通信費、約15,000円。
奨学金返済、16,000円。
食費、10,000円。
今月も、もやし様と豆腐様、そして納豆様のお力添えをいただく所存です。また親友のアカリに『あんた、仙人にでもなる気?』って呆れられちゃうな。
そして最後に、最も重要な項目を入力する。
『推し活費:100,000円』
残りは予備費と貯金……という名の、突発的な推しの記念グッズ発売や、誕生日ボイスの購入に備えるための軍資金だ。
「完璧な配分……!」
我ながら惚れ惚れする資金計画に頷き、私は今夜のディナー(白米に卵と醤油を垂らしただけのTKG)をかき込んだ。
虚構の付き合いで5000円を溶かすくらいなら、その金で推しに5000円の投げ銭。それこそが、金の、命の、正しい使い方なのだ。
午後10時。私の本当の一日が始まる。
シャワーを済ませ、部屋の隅に設置した祭壇に手を合わせる。去年の誕生日記念で発売されたアクリルスタンド、必死で交換してコンプリートした缶バッジ、抽選で当たったサイン入りチェキ風カード。そこに鎮座するのは、大人気VTuberグループ『ルミナス・スカイ』のクールな王子様担当、夜空かける様。私の神であり、仏であり、生きる理由そのものである。
「かけるくん、今夜もよろしくお願いします……」
祈りを捧げ、なけなしのボーナスで買ったゲーミングチェアに深く腰掛ける。配信が始まる。ベルベットのような低音ボイスが、安物のイヤホンから鼓膜を震わせた。
『やあ、待たせたね。今夜も星空の下で、君に会いに来たよ』
──ああ、尊い。この一言で、灰色の日常が浄化されていく。コメント欄が「カイトくんとのコラボまだ?」「レン先輩の歌枠も待ってる!」なんてコメントで流れていく中、私はまっすぐに「こんばんは!」と書き込み、すかさず1万円のスパチャを投げた。虹色の帯が画面を流れ、私の名前がハイライトされる。
『……美咲、こんばんは。いつも一番乗り、ありがとう。嬉しいよ』
「ひゃっ……!」
名前を、呼ばれた。
全身の細胞が沸き立つような感覚。じわりと頬が熱くなり、心臓が大きく跳ねる。脳内にドバドバと幸せホルモンが溢れ出すのがわかる。これだ。この数秒間のために、私は毎日もやしを食べ、3シーズン同じ服を着回しているのだ。私の人生、間違ってない。
配信が最高潮に盛り上がり、彼が新曲の話を始めようとした、その時だった。
ゴンッ!!!!
壁が、揺れた。隣の102号室からだ。何か重い家具でも倒したような、暴力的な衝撃音。
その瞬間、プツン、と。
部屋の明かりが、PCの画面が、全ての電気が一斉に消えた。
「――え?」
停電。
状況を理解した瞬間、PCの冷却ファンが止まる音が静寂を支配する。かけるくんの配信も、当然中断。スマホのライトでブレーカーを確認するが、落ちてはいない。アパート一帯の停電らしい。最悪だ。
その、腹立たしいほどの静寂の中、私のイライラは頂点に達した。
「なんなのっ!?もしかして、さっきの隣の音が原因?」
私はスマホの画面だけを頼りに、スウェット姿のまま玄関のドアを開けた。
ピンポーン、と102号室のチャイムを鳴らす。中から現れたのは、金髪ピアスにヨレヨレのジャージ姿の男だった。
「隣の田中と申します!今、すごい音がしましたけど、何か倒されたんですか!?」
「はぁ?うるせーな。こっちもいきなり電気落ちて迷惑してんだよ……」
「うるせーって、すごい音をさせたのはそっちじゃ……!」
私が食い下がろうと部屋を覗き込むと、男はそれを遮るように言った。
「あのさ、俺今仕事中で急いでるんで。帰ってもらっていいすか?」
男は心底どうでもよさそうに言うと、私の目の前でピシャリとドアを閉めた。
なんなの、アイツ……!
怒りで肩を震わせながら自室に戻り、ベッドに倒れ込む。
数分後、パッと部屋の電気がついた。停電が復旧したのだ。私はベッドから飛び起き、急いでPCを再起動する。お願い、配信、戻って……!
PCが立ち上がり、配信ページを開くと、コメント欄が凄い勢いで流れていた。そして、見慣れた彼の姿が映し出される。
『ごめんごめん!なんか俺のところ、急に停電しちゃって。焦って物音立てたら隣の人に怒られちゃった。ここのアパート、壁薄いのかな?』
かける君のとこも停電だったの?でもよかった、戻った……!私は安堵して配信終了画面をニヤニヤと覗き込んだ。
『……はは。まあ、トラブルもあったし、今日はこの辺で。』
「…………え?」
さっきイヤホンから聞こえてきたのと、寸分の狂いもなく、同じセリフが廊下を越えて隣から聞こえた気がした。
……そんな、まさか。
焦りもあって、私は自室のドアを閉めずにいたようだ。
イヤホンをはずしてみる
すると、廊下を挟んだ向こうから、声が聞こえてきた。さっきの隣人とは似ても似つかぬ、甘く、耳に馴染んだ声だった。
『おやすみ、僕だけの星たち♪』
間違いない、さっきイヤホンから聞こえてきたのと、寸分の狂いもなく、同じセリフが廊下を越えて隣から聞こえてきた。
……そんな、まさか。
全身の血の気が引いていく。私は椅子から転げ落ちるように立ち上がり、震える足で廊下に出た。
102号室のドアに、そっと近づく。さっきの彼も慌てていたのか、ドアが完全に閉まりきっておらず、ドアは空いていた。
私は、そっとその中を覗いた。
部屋の中。ゲーミングチェアに座り、ヘッドセットを外そうとしている男の後ろ姿が見える。金色の、髪。
そして、彼が見つめるモニターの画面には、「配信は終了しました」という文字の上で、優しく微笑む王子様──夜空かけるのアバターが、煌々と映し出されていた。
その、瞬間だった。
何かを察したのか、男が、ゆっくりと、こちらを、振り返る。
眠そうで、気だるげで、不機嫌そうな、猫のような目が私の、目と。
―――合った。
息が、止まる。時間が、止まる。
私の口から、か細く、震える声が、こぼれた。
「…………か、かける……くん?」
時が止まったような静寂の中、男の──山田航の目が、驚きに見開かれる。
さっきまでの面倒くさそうな色が消え、すべてを見られた子供のような、純粋な動揺がその顔に浮かんでいた。
画面の中の王子様と、目の前の金髪の大学生。二つの姿が、私の脳内で火花を散らしながら、一つに重なっていく。
私の神様は、隣に住む、最悪な男だった。