美人な幼馴染を持った私の一生
同名タイトルでムーンライトノベル版も投稿しておりますが、こちらは15禁向けに表現を変えております。
暴力、監禁、妊娠に関する内容が含まれています。
苦手な方は閲覧をお控えくださいますよう、お願いいたします。
※
牡丹と啓太と私は幼馴染だ。
牡丹はその名の通り、大輪の花のような美少女。色んな人間が、蝶や蜂のように牡丹に吸い寄せられていく。
啓太と私はさながら彼女を守る守護者だった。啓太は蜜を求めて群がる男から、私は美しく咲いた花を踏み躙らんと敵意を持つ女から。
私たちはずっと同じクラスで、家が隣同士だから行きも帰りも一緒。
牡丹はあまり頭がよくないのですぐに人に騙される。甘言に惑わされ、知らない人に簡単について行ってしまう。牡丹が攫われそうになった時、私は身を呈して牡丹を守った。牡丹はショックで昏睡した。私は病院に入院し、手当を受けた。
牡丹のところにはお見舞い客がひっきりなしだった。私のところにはほとんど来なかった。啓太でさえ。その時、私の中で何かがひび割れる音がした。
成長とともに、私は牡丹のことが重荷になっていった。
牡丹は学校いちモテる先輩から告白された。私も密かに憧れていた人だった。
だが、牡丹はそれを断った。それで牡丹は先輩のシンパから反感を買ってしまう。トイレに閉じ込められ、水を掛けられたり。そのせいで風邪を引いてしまった牡丹を心配した啓太は、私にもっとしっかり牡丹を守れ、と言ってきた。どうして私が犠牲にならないといけないのか、とその時初めて自分の立ち位置に疑問を持った。
父がしきりに牡丹を心配する姿に違和感を感じる。嫌な予感を振り払う。母がどんな顔をしているのか、怖くて見れないでいた。
啓太が牡丹のことを好きなことは分かっていた。別にそれはいいんだけど。なんだか置いていかれたような気持ちになった。
牡丹といると、私はいつも惨めな思いをする。
お祭りの時、人波から牡丹を守るという大義名分で啓太が牡丹と手を繋ぎ、真っ赤な顔をしているのを見た時、私の胸に去来した感情をなんと呼んだらいいのか。
牡丹は私に手を伸ばしたが、私はその手を取らなかった。牡丹たちは人波に飲まれ、私は取り残された。
啓太から恋愛相談されるようになった。
お祭りの日に告白できなかったようだが、啓太は前向きだった。話を聞く限り、牡丹に上手くはぐらかされているようにしか思えなかったが。恋は盲目というやつか、啓太は益々牡丹のことが好きになったようだ。
啓太は私に、牡丹との間を取り持ってほしいようだった。正直面倒くさいけれど、これも付き合いだと割り切ることにした。
牡丹に、啓太のことどう思ってるか聞いた。牡丹の中では啓太は私と同格の存在のようだった。啓太に対して恋心はないようだ。
それでも、啓太が牡丹に矢印を向けるのを見ているのは居心地悪く、私は牡丹たちから離れようとした。
高校受験、牡丹は成績が悪いので、私に合わせた高校にはとてもじゃないが、行けない。
父が、牡丹と同じ高校にいってやれ、と言う。それだといくつもランクを落とすことになる。牡丹の友達は私だけだから、助けてやれと。どんな高校に行っても、成績がいいなら大学進学はできるだろう、と。
母と父が喧嘩している。
私の進路のことだけでなく、母は父に不満を抱いているようだった。「あの女が」と母が怒鳴っている。誰のことか、脳裏に顔が過りかけ、毛布を被って耳を塞いでぎゅっと目を閉じた。何も聞こえてこないように、イヤホンをして、音楽を最大音量にして。
啓太から、高校でも仲良くしような、と言われた。同じ高校に行くこと前提で笑ってしまう。
私はいつまで、牡丹のお守りをすればいいのか。
牡丹が私に、高校でも一緒にいてくれるよね、と言う。周囲の目が私たちに向いている。
嫌だといえたらどんなにいいか。
外面のいい私には土台無理な事だった。また、親に逆らうこともできなかった。
私たちは同じ私立の高校に進学した。特進と普通と科がわかれており、そこならばあれば私はランクを落とさなくてもいいということで、母は納得してくれた。父だけは、クラスが牡丹と別になることを最後まで渋っていたが、啓太がいるのだから、と説得した。
高校では、牡丹は厄介な人間に目をつけられた。生徒会メンバーだ。特進の人間で固められており、成績も見てくれも家柄もいい。当然人気は高い。
その生徒会長に、牡丹は目をつけられた。それだけでなく、普通科に通うヤクザの跡目と噂される番長にも。
頭が悪い牡丹だが、黙っていれば誰もが振り返り、見惚れる美貌を持つ。16になり、女らしく成長した牡丹は百花の女王の如く美しかった。
大輪の花の芳香に惹かれない蜂はいない。牡丹は瞬く間に生徒会長を虜にした。牡丹を傍に置く大義名分なのか、牡丹は生徒会の補佐という肩書きを与えられた。そしてなぜか、私にも。
牡丹が1人では無理だと泣きついたのだ。そして、牡丹がやるはずの仕事はすべて、私に降りかかった。私は特待生で入学したので、成績を維持しなくてはならないのに、生徒会の仕事までさせられ、その両立は厳しく辛かった。
番長は牡丹を囲うため、部下をけしかけた。私と啓太と牡丹、3人で帰っていた時だった。誤って私が攫われた。番長の怒りは凄まじく、私を脅した。牡丹をつれてこい、と。そうしなければ私を部下の慰み者にするという。顔は避けて体を殴られた。
家には帰して貰えたが、体のあちこちに暴行の跡が残った。蹴られた跡が紫色になっていた。親には言えない。相手はヤクザなのだ。きっともっと、酷い目に遭う。
啓太と牡丹は私が攫われたことを生徒会長に相談したようだ。翌日、私が体の痛みで休んでいると牡丹が電話をしてきた。昨日からずっとメッセージや電話がかかってきていたが、出る気にならなくて寝ていたのだ。
翌日、牡丹からの電話を無視しているのも疲れたので出ると、開口一番に「家に帰ってきているなら無事なことを知らせるべきでは?」と、牡丹ではない男の声がした。生徒会長だった。
無事。この有様を知っていれば、無事などと言えるだろうか。医者が見れば、暴行を受けた跡だと分かるだろう。警察に通報されることで奴らを逆撫でしたくなくて、病院に行くことさえできず、痛みを市販の鎮痛剤で堪えているというのに。
生徒会長はこの件を大事にはしたくないようだった。だからか教師にも報告はしていないようだった。私は「無事」だったのだし。番長の目的は私ではなく、牡丹なのである。これ以降は私が危険に晒されることは無い、と考えているのだろう。
私は喉の奥で低く笑った。
もし牡丹が攫われたなら、彼らはすぐに大事にして、皆が必死になって探したのだろう。私のときは、目的の人間では無いからきっと無事だろう、と判断され、誰からも探されなかったのに。
生徒会長の興味は終始、私が奴らから何を言われたのか、に尽きた。本当のことなど、どうして言えるだろうか。
母と父が離婚することになった。
父は牡丹母と不貞を働いていた。そして、家の金を彼女たちに渡していたのだ。母は家を出ると言う。もうあの母子の近くにはいたくないと。父が私の親権を主張した。一粒種の子供と離れ難いからではない。私が離れて行けば、牡丹が悲しむからだ。父親にとって、私は娘という価値すら牡丹に劣るようだ。
牡丹を誘いだそうにも、うまくいかない。生徒会長は牡丹を1人にさせないように立ち回っていた。私にも釘を刺してきた。もしかしたら、勘づかれているのかもしれない。
痺れを切らした番長から連絡が来た。明日、牡丹を誘い出さないと地獄が待っている。
牡丹に、一緒に帰ろうと誘った。久しぶりにアイスを食べに行こう、と。牡丹は飛び跳ねて喜び、誘いに乗ってきた。
帰り道、牡丹があまりにも嬉しそうにしているので、どうしたのかと問うと、私と一緒に帰れたのが嬉しいのだという。
最近はずっと生徒会長が牡丹に貼りついていた(暇なんだろうか……?)から、私と絡むことが少なくなっていた。休日も生徒会長たちが家に来ては色々なところに連れ出されるらしく、私と遊べなかったと牡丹が言った。
話の端々に生徒会長の執着の深さが窺い知れる。よっぽど参っているのか、牡丹を姫のように扱っているらしい。牡丹は、どうしてもと請われて入った生徒会だったが、今は後悔しているという。それは、私との時間が取れないから。
真意が分からず思考が止まる私を見て、牡丹は照れたように笑って手をつないでいいか、と聞いてきた。
少し迷って、頷く。
牡丹は頬を染めてはにかんで、白くて細い指をそっと私の手に絡めてきた。そうして、ぽつりぽつりと言う。
自分には色んな人が寄って来て、色んな甘い言葉をかけてくるけど、本当に大好きなのは、一番大好きなのは私なのだと。
どうして?と問うと、
私だけは、牡丹がきれいでもそうでなくても、態度を変えない唯一の人だからだと、牡丹は言った。
私たちがまだ小さい頃。牡丹母娘が隣に引っ越してきた。その頃の牡丹は、今では想像が出来ないほど不細工だった。
愚図で鈍間で、おまけに醜かった牡丹。頭も悪くて、会話を満足に成立させることもできなかった。幼稚園に入った頃くらいから、そんな牡丹は子供たちからイジメのターゲットにされた。
ガキ大将をはじめとした男子からはからかわれたり、意地悪をされ、女子からは嘲笑され、一緒にいるメリットなし、と判断され無視されていた。
私は牡丹と共に育ち、愚図で鈍間な牡丹に慣れてしまっていたから、態度が変わることがなかったたけだ。
啓太はそこに途中から加わった。小一のときに引っ越してきた啓太と私のウマが合い、私は男子たちとの遊びの方が面白く感じるような女子だったので、すぐに仲良くなった。啓太が他の男子と違ったのは、牡丹を虐めたり、邪険にしたりしなかったことだ。
啓太には障害を持つ姉がいる。お姉さんは常に誰かの手を必要とする要介護者で、啓太は忙しい親をよく手伝っていた。だから、牡丹に対する態度は他の子と違ったのだ。
牡丹には、名のつくような病気や障害はなかったけれど、同世代の子より劣ることは誰が見ても明らかで、啓太はお姉さんと牡丹を重ねていたのかもしれない。
牡丹のいい所は、善良であることだ。私は牡丹のそういうところが好きだったのだ。
年を経るごとに、成長とともに牡丹は美しくなっていった。まるで蛹が蝶に羽化するように。ぽっちゃりしていた体は、身長が伸び始めるとするすると細くなっていった。目はパッチリとした二重になり、いつの間にか顔の痘痕も消え、綺麗な肌に。
会話が成り立たなかったり、頭が悪いことはあまり変わらなかったが、容姿だけでいけば、まさしくみにくいアヒルの子が白鳥に成長したかのようだった。
牡丹の容姿の変化と共に変わったのは、周りの牡丹への態度だった。顕著だったのは牡丹を虐めていたガキ大将だ。牡丹が美しくなっていくと、ガキ大将は益々牡丹を構っては意地悪し、泣かせていた。
ある時、牡丹が真珠のような涙をポロポロと零し、私の背に逃げ隠れながら、ついに「ユウキくんなんて大嫌いっ!」と言ったとき、私は、人間はあそこまで絶望を表情で表せられるのかと、変に感心してしまった。
それからというもの、ガキ大将は憑き物が落ちてしまったように大人しくなった。それを機に、牡丹をちやほやする男子が増えた。係をかわってあげたり、重いものをもってあげたり、給食の量を優遇したり。
優しくされると、牡丹は嬉しそうに「ありがとう」と微笑むから、気づけばクラスの男子が皆、牡丹になにかしてあげるようになって言った。
失墜して地にめり込んだ名誉を挽回しようとしているのか、ガキ大将すらも牡丹をチヤホヤしだすのに、時間はかからなかった。
女子は態度を一変させた男子たちを睥睨しつつも、牡丹にますます反感を抱く一派と、様子見のその他に分かれた。
私は牡丹の味方をした。牡丹を1人にはしなかったし、やられたらやり返した。相手が親に泣きついて、大きな問題に発展することを予測して、家にあったボイスレコーダーを用意して、会話を録音してやった。
呼び出された校長室、保護者と教師の居並ぶ場所で、被害者ヅラした女子にそれを出し、完膚なきまでに叩きのめしてやったりもした。
牡丹には敵も多かったので、私は啓太と共に、あらゆる方法で牡丹を護ったのだ。
なぜそうまでして、牡丹を護ったのか。
私は強く、牡丹は弱い。だから私が牡丹を護った。それだけだ。理由と呼ぶような大それたものでは無い。なぜナマコを食べるのか?と聞かれて、食感が楽しいから、という理由以外ないのと似ている。
だから、牡丹がそんな私に、感謝と崇拝の念を抱き、誰よりも私のことが好きなのだと言われると、私は戸惑ってしまった。
そして、私がこれからしようとしていたことに、大きな罪悪感を芽生えさせた。
まるで氷水を頭からぶっかけられたようだった。
私――私、なにしてるんだろう。
あんなに牡丹を護ってきたのに。
今から牡丹を傷つけようとしてる。
もう1人の私が言う。
だって、牡丹を護って私に得なんてあった?
牡丹が側に居るせいで、私は誰からも見向きもされない。不良たちに暴行されて、酷い目にもあった。
お父さんとお母さんは離婚。
全部全部、牡丹のせいじゃないか。
がんがん、と耳鳴りがする。
2人の私が、左右の耳から相反することを言ってくる。
もういやだ。私は耳を塞ぎたくなった。でも、2人の私の声は、益々大きくなるばかりだ。
私の葛藤は牡丹に勘づかれることもなく、時間は過ぎていく。
アイス屋でアイスを買って、公園に向かう。
適当なベンチでアイスを食べながら、私は刻一刻と迫る運命の瞬間を、ただただ静かに待つしかなかった。
私は牡丹の話に、うんうん、と頷き、適当なところでトイレに向かった。牡丹は1人きりだ。
草木が茂る、あまり人気のない公園。奴らが動くなら今だろう。
牡丹の悲鳴が聞こえてきた。私はハッ、と顔を上げ、踵を返す。走ってベンチまで戻ると、そこには番長がいた。牡丹は既に、奴の腕の中だ。ぐったりとしていて動かない。
カッと血が燃えるような熱を、胃の底に感じた。その熱で、脳みそが痺れる。
足早に歩きながら、流れるような動作で私はカバンから警棒を取り出した。完全に油断している番長の背後から、手下の不良の注意が私に移るより速く振り下ろす。
番長はよろけたが、流石に気を失わせることは出来ない。それも計算済だ。左手に素早く警棒を持ち替え、右ポケットから取り出したスタンガンを振り向いた番長の心臓付近に当て、MAXで電流をぶち込んだ。
「ギィアッ!」
びくんびくんと痙攣し、番長はどぅむ、と地面に沈んだ。抱えられていた牡丹が投げ出される。私はすぐに近寄って、背中に牡丹を隠した。
「テッテメェ!こんなことしてどうなるか分かってんのか!?」
手下たちが唾を飛ばして喚く。お前らみたいな馬鹿と一緒にするな。分かってるよ。
ひょっとしたら起きてくるかもしれないと思い、足元の番長の頚椎に念の為、スタンガンを当てる。びびび、と耳障りな音と共に、びくんびくんと番長の足が跳ねた。これでしばらくは大丈夫なはず。市販のスタンガンは、相手を怯ませるだけで気絶させたりましてや死に至らしめるような威力などない。けれど、改造して威力を上げたスタンガンにその保証は効かない。もしかしたら、死んだかもしれないが、正当防衛だ。
三下とはいえ、相手は男でしかも複数だ。ここからが勝負だった。警棒とスタンガンを持ち直す。
睨むと、不良共は気圧されたように息を飲んだ。だが、女相手に、という矜恃が勝ったのだろう。「舐めんなクソアマァ!」と唾を飛ばしながら殴りかかってきた。
私は精一杯戦った。けれど、打撃には弱い。喧嘩慣れした男の拳は重く痛い。相手にも一泡吹かせてやったが、体が言うことを効かなくなるのは早かった。
「クソアマが…手こずらせやがって…テメェ、覚悟しろよ?」
地面に転がった私は、チンピラたちに代わる代わる殴る蹴るの暴行を受けた。
口の中が鉄臭い。ぷっと口に溜まったものを吐き出すと、血混じりの唾と共に折れた歯の欠片が飛び出した。足も手も痛い。意識が朦朧とする中、「そこ!何やってる!」と第三者の声がした。ようやく、誰かが現れてくれたらしい。
「牡丹!」
霞む視界で捉えたのは、血相を変えた生徒会長が倒れている牡丹に駆け寄るところだった。
ヒーローのくせに駆けつけるのが遅すぎやしないか。まぁでも、彼が現れたのならもう牡丹は大丈夫。私はふう、と息を吐いて、意識を失った。
私の意識は三日三晩、戻らなかったらしい。全身打撲と歯の欠損、特に顔は擦り傷や打撲痕などで酷い有様だった。
目を覚ました時、傍には憔悴しきった母がいた。そしていつの間にか母と父の離婚が成立しており、私の親権は母が持つことになっていた。
それにしてもたった3日で全てを終わらせ、家まで出たという母には脱帽した。父は私の親権を主張していたが、どうやら折れたようだ。父は見舞いにはついぞ来なかった。以降、父には一度も会っていない。
母は私が目を覚ました時、感情を振り乱して泣きついてきたが、それが落ち着くと説教モードになった。私が不良とやり合ったというのを、警察から聞いたらしい。ただ、母が怒りをぶつけたのは不良ではなかった。
「あの子の為に、どうしてあんたがそんな目に合わなきゃいけないのよ!」
母にとって、当たり前ではあるが、牡丹は鬼門だ。夫を奪われ、娘は不逞の輩に暴行を受け。全ての元凶は牡丹親子である、と母は断定していた。牡丹と啓太が見舞いに来た時も、入口で烈火のごとく怒りをぶつけ、追い返していた。そして、私に懇願した。
「もう二度と、あの親子に関わらないで」
そして私の退院を待ってから、引越し先を誰にも告げずに引っ越した。
私も、引っ越すことは牡丹たちには伝えなかった。引っ越す前、1度だけ生徒会長が私を訪ねてきたことがあった。どこからか私が引っ越すことを知ったようだった。もう二度と会うこともないだろうから、牡丹をよろしくお願いします、と言うと複雑そうな顔をされた。
「君は、それでいいのか?」
生徒会長は窺うように聞いてくる。私は皮肉げに笑う。どうにかして欲しいと言っても、手助けする気などないくせに、敢えて聞いてくるなんて本当にいい性格をしている。
生徒会長は有名企業の御曹司で、大臣を輩出するような家柄でもある。彼が望んだことで、不可能なことはほぼないとされる。けれど、自分にメリットの無いことをやるほど、彼はお人好しではない。好意的でない者が相手なら尚更だろう。
生徒会長が私のことを敵視している事はわかっていた。理由は勿論、牡丹である。多分、私が消えることを誰よりも喜んでいるのはこの人かもしれない。生徒会長は牡丹に並々ならぬ執着をしている。そんな牡丹は私を誰より好いてくれている。つまり私のことが邪魔なのは、番長も生徒会長も同じということだ。精々、頑張って牡丹を囲えばいい。私にはもう関係ないのだから。
生徒会長が去り、1人残された病室で私は少しだけ泣いた。
――牡丹。
憎くいと思ったこともあったけれど、素直なところやひたむきに私を信じてくれることは可愛いと思えたし、牡丹のことは好きだったのだろうと思う。でもそれももう、おしまい。
もう二度と会うことはない。
※※
それから時間は瞬く間に過ぎて、私は36になっていた。
東京出張の折り、たまたま通りかかった銀座の高級ブランド店の入口前の路肩に、黒塗りの高級車が停車した。黒服の運転手が恭しく後部座席のドアを開けると、ひと目で上流階級と分かる出で立ちの女性が降りてきた。まるでドラマのワンシーンを見ているような光景だった。
降り立った女性は、サングラスをしているが、抜けるような白い肌、整った鼻梁と唇、フェイスラインの美しさと高級ブランドの服を着こなすスタイルを見れば、間違いなく美人だと分かった。
お付の人から日除けの傘をさっと翳され、颯爽と歩く彼女を暫し眺めたが、私とは無縁の人間だわ、と自嘲しながら通り過ぎようとした時――。
「光梨ちゃん?」
懐かしい呼び名と声に、私は振り返った。そこには、こちらを見つめる先程の女性が。サングラスを外した彼女の黒檀の瞳が大きく見開かれている。そんな状態でも、女性は美しかった。けれど直ぐに花のような顏をくしゃっと歪ませたかと思うと、周囲をかき分け、呆然と立ち尽くす私に向かってきて飛びつくように抱きついてきた。
「会いたかった!会いたかったよぅ!光梨ちゃんがいなくなってから私、ずっとずっと光梨ちゃんを探してたんだよ!?なんで、何も言わずにいなくなっちゃったの!?」
周囲の目を気にもせず、女性はグシャグシャに泣きながら私を揺さぶった。道行く人々も何事かと私たちを見ている。
「お、奥様、奥様いけません!その方からお離れ下さい」
お付の人が我に返って駆け寄ってきて私から引き離そうとする。女性はいやいや、と首を振って抵抗して、私に益々強くしがみついてくる。
「いや!もう光梨ちゃんと絶対離れないんだから!光梨ちゃん!光梨ちゃん!」
往来の人が何事かと足を止めて見ている。
私は諦めたように息をついて、興奮しきったその女性が落ち着くように、肩をポンポンと叩いた。ここは銀座のど真ん中だし人目に付く。場所の移動を提案すると、泣き濡れて色気を増した目で私を見つめた牡丹が、機嫌を一転させてまるで少女の頃のような満面の笑みを浮かべた。
いいところがある、という牡丹に促され、彼女の車に乗った。連れていかれたのは、日本で最も格式高い老舗ホテルだった。
どうやら御用達のホテルらしく、表ではなく別入口に乗り付けると支配人自ら案内してくれる。人目につかないようにとの配慮らしい。
通された部屋はロイヤルスイートで、信じられない広さと優美な内装をしていた。私と再会してから、ずっと服の裾を掴んで離さなかった牡丹は、馴染みの部屋にリラックス出来たようで、やっと私から離れてソファに座った。そして私にも自分の横に座るように促してくる。それを無視して向かいのソファに座ると、頬を膨らませた牡丹が隣に座ってきて、私の腕に手を回して寄りかかってくる。学生の頃と変わらぬ押し問答が懐かしくて、くすりと笑った。
私が程よく沈み込む、上質な皮で誂えたソファに静かに感動していると、部屋専属の執事から飲み物を勧められた。牡丹と同じものを、と当たり障りなく答える。少しして、軽食が運ばれてきて、傍で執事が香り高い紅茶を入れてくれた。
好きに飲んで食べてね、と牡丹は言った。高そうなカップで紅茶を飲む姿は、とても様になっていて美しい。どこからどう見ても上流階級の奥様だった。
私たちは取り留めもなく話をした。私が何も言わずに引っ越した後、牡丹がどれだけ私を探したのかも聞いた。会長のツテを借りて探してもらっていたらしいが、私の足取りを追うことは難しかったのだ、と項垂れる牡丹を他所に、私は外の景色を眺めながら紅茶を飲む。
牡丹が私を自力で探していたとは思わなかったけど、どうやら最も頼ってはいけない者を頼ったらしい。たとえ私が隣人であっても、きっと見つからなかっただろうよ、と思わず失笑するのを、紅茶を飲むことで隠す。『彼』にとって、私ほど邪魔な者はいなかっただろうから。
それで、どうやら彼は邪魔者のいない間に、牡丹を手中に収めることに成功したらしい。財閥夫人となった牡丹は、世話人を付けられ専属の車と運転手を与えられ、財布を持たなくても良い生活をのんびりと送っていた。
私を忘れたことは1日もなく、生まれた子供に私の名前を付けたのだという。旦那が嫌がらなかったのかと思ったが、私が想像する以上に牡丹に甘いらしい。嫌だという本心はうまく隠し続けているのだろう。ご苦労なことである。
牡丹は生徒会長と高校卒業と同時に結婚し、直ぐに子宝に恵まれ、今や二男一女の母だという。第一子の長男はもう18歳になる。牡丹のすらりとした体格と年齢を感じさせない美貌から、そんな大きな子供がいるとは誰も思わないだろう。
「それで、光梨ちゃんは?」
私のことを尋ねられた頃にはもう外はとっぷりと暮れていた。新幹線の時間もあるから、と席を立つ。牡丹は慌てて立ち上がり、追いすがってきた。
「行かないで光梨ちゃん!ずっと私の側にいて!また光梨ちゃんと離れるなんて嫌っ!」
髪を振り乱し、腕に縋り付いてくる牡丹を見て、私はその必死さを初めて異様だと感じた。
腕を振り払い、部屋の外に出ようとした時、体に衝撃が走り、私はその場に倒れた。ずるずる、と体を引きずられる。痛みに呻きながら目を開けると、絨毯の敷き詰められた床とルブタンのハイヒールが見えた。顔をどうにか上げると、かすむ視界で牡丹がこちらを見下ろしているのが見えた。
「ごめんね光梨ちゃん。でも、光梨ちゃんが悪いんだよ?私から離れようとするから……」
そして、牡丹の付き人が私に拳を振り下ろす。私の意識はそこで途切れた。
次に目を覚ました時、私は見慣れぬ部屋にいた。起き上がろうとすると、腕に違和感が。見ると手首に手錠がかけられ、もう1つはベッドに繋がっていた。
ザッと血の気が降りていく。誰か!と叫ぶと、すぐにドアが開いた。入ってきたのは牡丹だった。
「光梨ちゃん、起きた?さっきは付き人が乱暴してごめんね?」
牡丹は何食わぬ顔で私に微笑む。その白魚のような手で私の頭を抱きしめ、自分の胸へと押し付けた。頭を撫でるその姿は正しく聖母のようであっただろう。
「光梨ちゃん、これからはずぅっと一緒よ」
頭を撫でられるのを呆然と受け入れていた私は、その言葉に我に返る。どういうことかと問えば、牡丹はなんでもない事のように言った。
「光梨ちゃんが居なくなってしまって、私、思ったの。大好きな人は絶対に絶対に手を離しちゃいけないんだって。片時も目を離さないようにしないと、いなくなっちゃうから。だからね?光梨ちゃんはずっとここで私と暮らすのよ」
手錠は私が万が一にも逃げないように。誰かが私を攫いに来ないように。
それは監禁という犯罪だと言えば、牡丹はキョトンと目を瞬かせ首を傾げる。
「光梨ちゃん、犯罪ってね、露見なければ犯罪にはならないんだって」
そう言って笑う牡丹は変わらず美しいのだけれど、中身のない人形のようで――。その瞬間、私は牡丹がかつての純粋無垢な少女ではないことを悟った。いや、ある意味純粋無垢のままであるのかもしれない。ただ、彼女は塗りつぶされたのだ。純然たる闇の色に。
誰が牡丹を変えてしまったのか。
私か。それとも、彼女の夫か。はたまた、私の知らない第三者か。それとも、私が知らなかっただけで牡丹は初めからこのような性質だったのか。私にはもう分からない。
私が暴れるのを抑えるために、と薬を注射された。それが打たれると頭にモヤが掛かったようになり、考えがまとまらず、体の力も入らなくなる。
牡丹はそんな私の世話を甲斐甲斐しくする。その時の牡丹はこの上なく幸せそうで、私は臓腑が焼け付くのではないかと思うほどの吐き気を覚えるのだ。実際、吐いた。その吐瀉物の片付けも、吐瀉物で汚れた私の体を洗うのもすべて牡丹がやった。
更に牡丹は言うのだ。
「私、子供の頃から何度も何度も、どうして私は男の子に生まれなかったんだろうって思ってたの。だって男の子に生まれてたら、光梨ちゃんのすべてを私の物にできたでしょう?」
手荒れなど知らないであろう白魚の手がそうっと私の胸やお腹を撫でていく。発言の意味を考えれば、鳥肌しか立たない。
「女同士だってセックスはできるけど――私は男のように光梨ちゃんを抱きたかったの。私にペニスがあればって、何度も何度も思ったのよ」
牡丹は性的な成長を始めた思春期の頃からそんな妄執を抱くようになったという。何も知らない純真無垢だと思っていたのは、どうやら私の勘違いだったようだ。牡丹は、1人前に欲のあるただの人間だったのだ。その方向性はともかく。
子供の世界は狭く、自分の欲望を叶えるにも限界があった。
けれど今は。
財閥夫人となり、莫大な資金力を手に入れた今であれば、欲しいものはすべて手に入るのだろう。たとえそれが犯罪であろうと。現に、私の尊厳は踏みにじられ続けている。牡丹は私を傷つけ続けている自覚など皆無なのだろうが。
監禁されてから何日経っただろうか。その日は、牡丹が珍しく不在だった。とはいえ監視役が付くのだが。そんな私の元に、ある人物が訪れた。それは牡丹の夫である、生徒会長だった。最後に会ってから20年振りだったが、こちらも年齢を感じさせない容姿を維持しているので、すぐに誰か分かった。
とはいえ、髪を後ろに撫で付け、素人目にもわかる上質なスーツに身を包み、学生の頃よりも精悍な顔つきにはなっているが。
流石に妻の所業を見咎めたのだろうか。私を救い出しに来てくれたのだろうか。そんな一抹の希望は、彼の表情を見て崩れ去る。
「……二度と、その顔を見ることはないと思ってたんだがな」
牡丹の夫は、私に憎悪を向けていた。なぜ私に、と意味が分からなかったが、続く言葉で納得した。
「牡丹はお前のことなどとっくに諦めたものだと思っていた私が甘かったな。いっそお前を殺し、永遠に牡丹の目に触れないようにしてしまおうか……」
男の目に宿るのはただの嫉妬だった。愛しい女の心を占める私を、殺したいほど憎んでいるのだ。気狂いの女に気狂いの男。実にお似合いの2人だ。永遠に2人の世界にいてくれればいいのに。私は笑いを堪えきれなかった。
「何を笑っている?」
キチガイ男が私を見る。笑われていると思うと気に食わなくて反応するんだな、と思うと益々笑えた。この男からしたら、私など牡丹の爪の垢程度の価値もないのだろうが、如何せん私は彼の愛おしい妻の心を独占してしまっている。扱えを間違えれば爆発しかねない不発弾のような存在となっているのだろう。さぞ不愉快なのだろうとその心情を察して、私はまた嗤った。
「お前ごときが私を嗤うな!」
ベッドサイドに置いてあった水差しを私に向かって投げつけてきた。直接当てることなどできやしないと分かっていたから、恐ろしくも何ともなかった。私に傷1つ付ければ、牡丹が黙ってはいまい。付き人が男に注意している。それ以上は奥様が……と。男は苛立たしげに、わかっている、と言って荒ぶる息を整えようとしていた。
だから私は本格的に男を嗤ってやった。莫大な財力と権力と地位を持ち、女神の如き美しさの女を妻とし、己でさえも恵まれた容姿と才覚を持ち合わせた、まさに選ばれし者であるというのに、私のような凡百に唯一の点で敵わない。憎しみを向けられれば向けられるほど、昏い悦びが湧き上がってくる。
完全なる八つ当たりであっても、これくらいは許して欲しいものだ。私は私のすべてを取り上げられ、自由を奪われ、尊厳を奪われたのだから。この男が、自分の妻の心を捕まえておけないばかりに。
この世の殆どを手にしているはずの男は、自分より遥かに劣る者から嘲りを受けることなど到底度し難かったのだろう。
付き人の静止を振り切り、私の首を絞めあげた。与えられた食事も殆ど取らず、暴れる度に薬を打たれてはベッドの住人となっていた私には、抗えるはずもない。
すぐに呼吸が苦しくなり、意識が遠のいた。
ああ、これでこの地獄から解放される。
苦しみが薄れ、視界が黒に塗りつぶされる――はずだった。
ドアが劈くような音を立てて開き、男に体当たりをして私を助けた者がいた。
一気に空気が流れ込み、咳き込む私の手首の拘束を、その人は外してくれた。私の様子を伺うその人を霞む視界で映し、一瞬息が止まりかけた。
「光梨さん、大丈夫ですか?」
美しい青年だった。清潔に整えられた髪、きめ細かな美しい肌、整った鼻梁と唇。瞳は黒檀のように黒々として、吸い込まれそうなほど深い。
誰が評価しても、類まれなる美貌を持つ青年だった。けれど、私にはそれ以外の印象が強すぎた。
牡丹。
彼は牡丹に生き写しのように似ていた。男女の差はあれど、血縁を強く感じさせるその風貌。彼が私に触れようとしてきたので、反射的に悲鳴をあげてその手を強く振り払った。
彼は一瞬傷ついた顔をしたが、すぐにもとの表情に戻り、私に話しかけてくる。
青年は牡丹の息子で、名を光河と名乗った。母親の所業を知り、牡丹の不在時を見計らって私を助けに来たのだと言う。まさか父親もここへ来て、しかも私を絞め殺さんとしているとは思わず、咄嗟に父親を殴って昏倒させたという。
「あの母の息子の言葉など信じられないでしょうが、貴女を助け出したいというのは本心です。僕なら貴女を母から隠して逃がしてあげられる」
母に似ている僕に触れられたくはないでしょうが、と躊躇いつつも手を差し伸べてきた。牡丹のものとは違う、細いながらもごつごつとした、男の手だった。
「僕の手を、取ってくださいますか?」
死ですら救いとなっていた私にとって、その手は神の御手の如く映った。たとえそれが、牡丹と瓜二つの青年の手であっても。
※※※※
「お兄ちゃん、またこの部屋にいたの?」
呆れを伴う声に、僕は振り返った。妹の光梨が、やはり呆れた顔で僕を見ている。なんの用かと問えば、父さんが呼んでいると言う。
この部屋は家族しか入れないようにしているから、使用人を寄越せず、光梨に白羽の矢がたったのだろう。
「それにしても……この部屋、また増えた?」
きょろりと部屋を見渡し、光梨は居心地悪そうに顔を顰める。この部屋は家族には周知されているが、入り浸るのは部屋の主の母と僕だけだ。父と弟妹は近寄りもしない。昔はこの部屋で遊んだりもしたのに。
「……じゃ、伝えたからね」
要件だけ告げて、光梨はさっさと出ていってしまった。僕は1人だけの時間を邪魔された分を取り戻そうと、ソファに腰かける。
天井を見れば、彼女と目が合う。天井だけでなく、四方はすべて彼女で埋め尽くされている。どこを見ても、彼女と目が合うことが出来る。
彼女――飯尾光梨は、母の忘れられぬ人だ。こうして部屋を埋め尽くす写真は、母のコレクションだったものをコピーしたり、引き伸ばしたりして貼り付けている。
母は飯尾光梨に、尋常ならざる執着があり、彼女と縁遠くなって20年経ってもその執着心は弱まることがない。
結婚して子供を設けても、未だにこの部屋に入り浸り、彼女との思い出に浸る。
幼い頃、この部屋の存在を知った僕は、母に光梨さんのことを問い、母は嬉しそうに語ってくれた。母は、この部屋の存在や光梨さんへの執着が異様な事だとは、露ほども思っていない。夫である父も、それを止めさせはしなかった。だから僕は、自然と母の話す光梨さんを受け入れていった。成長した今となっては、母の心を保ちつつ、見限られたくない父が、血反吐を吐く思いでいつつも母の所業を放置していただけなのだと知ったが。
弟妹は僕ほどはこの部屋に馴染まなかった。妹の光梨は、自分の名が光梨さんから来たことに寧ろ忌避感を抱いたようだ。光梨さんに、と言うよりは、母の光梨さんに対する尋常でない執着に。弟は僕よりやんちゃであったので、部屋の写真にイタズラをしてしまい、母の逆鱗に触れ殴り飛ばされたことで、この部屋も母もトラウマになってしまっている。成長した今は、母と顔を合わせもしない。
だから、真に母を受け入れていたのは家族で僕だけだった。それが母にも伝わっていたのだろう。母は僕にだけ、光梨さんとの思い出を語ってくれた。それこそ、眠る光梨さんに初めてキスをした時の事など――。
いつしか、僕はそんな母が心の底から羨ましく感じるようになった。僕には光梨さんのような存在はいなかったし、母から繰り返し聞いていた光梨さんとの思い出を、僕が母となって追体験するような夢を見るようになってから、何故僕は母ではないのだろう、と忸怩たる思いまでするようになっていた。
それなら、僕は僕で光梨さんとの思い出を作ればいいのだ、と考えるようになった。そう思ったら、行動は早かった。まずは光梨さんを探し出すところからはじめた。けれど、その頃はまだ子供であったので、父にバカ正直に話して見事に地雷を踏み抜き、計画は頓挫した。
それ以来、僕にとって父はただの敵でしかない。既に母が父を頼り、光梨さんの行方を探してもらっていたらしいが、あの父がいくら母の頼みだからといって、バカ正直に見つけ出すわけがないだろうに。母は頭が弱いから、父のそんな機微には気づかず、自ら動くという才覚もないので、父からの報告に毎回肩を落とすだけだ。
父の力を使えないのであれば自力でやるしかない。幸い、僕は頭の出来が人より優れていたので、資金を集めることは簡単だった。両親に勘づかれないように動き、数人の使用人を掌握。彼らに手足となってもらい、方々に光梨さんの行方を探らさせた。光梨さんを探すのに、時間はかからなかった。父は、何だかんだ光梨さんの居場所を突き止めていたらしい。僕の子飼いとなった者がその情報を仕入れてきてくれたのだ。光梨さんの居場所を知ったその日から、僕は人を雇い、逐一彼女の状況を把握するようになった。
母親と二人暮しであること。恋人は居たが、直ぐに相手の心変わりで別れ、それからは1人もいないこと。趣味は体を動かすこと。会社での評価は高く、近々管理職に昇進すること。一方で、結婚してほしいと願う母親との間に溝が生まれていること。出会い系アプリを始めたこと。そこで出会った男と、近々会うこと――。
僕は光梨さんと出会って嫉妬と焦燥という感情を知った。僕以外の男が光梨さんの視界に映り、特別な笑みを向けられ、その手に触れることを許されるなど、どうして我慢ができようか。
光梨さんの居場所を知るためと始めた資金集めと、人心掌握は、僕が想定していたよりも順調に進み、いつしか父ですらも凌駕するようになっていた。父の子飼いですら、僕の息がかかっている事を父は知らない。まして母など。
母が光梨さんに接触した。
偶然か、はたまた運命か。僕の描いていた計画の歯車が、音を立てて動きはじめた。
母の異常なまでの執着は、僕の想定内。僕と母は同類だから、行動原理や思考は読める。母を外に誘き出すのは簡単だった。けれど、父の行動は読めなかった。
光梨さんのことを快く思っていないことは分かっていたが、まさか縊り殺そうとするほどとは。子飼いが言うには、光梨さんが父を煽ったのだとか。
殺されても構わないと思うほど、光梨さんの精神は限界だったのだろう。
なんて、好都合なのか。
そうして僕は、初めて光梨さんと相見えた。夢にまで見た邂逅――。光梨さんは、僕がどれだけ嬉しかったか、知らないだろう。
しかし母と瓜二つのこの顔は、殆どの人間には有効だけど、唯一効いて欲しいと思う人には鬼門でしかないはずで、これは賭けでもあった。
果たして――僕は賭けに勝った。
もぬけの殻の部屋を見て、母は発狂するだろう。父は、僕が光梨さんを隠していることを知っているが、母に告げ口などするはずもない。この時点で、父は僕に頭も上がらなくなったのだ。
そして僕は――。
「――あ、あぁ……ん」
光梨さんの肌を味わい尽くし、甘やかな声や痴態すべてを脳に刻む。
「光河……それ以上は、ダメ……」
蜜を垂らす秘やかな場所へと口付けようとすると、光梨さんが恥ずかしそうに身を捩った。快楽で蕩けた瞳は、本心でないことを伝えてくる。僕はくすりと微笑んで、ぐぷん、と舌先を蜜壷へと差し込んだ。
ここまでくるのに、どのくらいの時を要しただろう。光梨さんを母の監禁場所から救い出した後、自宅に帰りたがった光梨さんを僕は説得した。
母は光梨さんを死に物狂いで探すだろうこと。その時、光梨さんの母親と住む自宅は母の雇った者が張り込んでいるだろうし、少しでも光梨さんの気配を感じ取ったなら、母親を脅してでも光梨さんの居場所を知ろうとするだろうこと。光梨さんを再び手に入れる為に、母は犯罪も躊躇しないだろうこと。
母が異常者であることは、光梨さんが身をもって知っているので説得は案外すんなりといった。
行方不明となった光梨さんには失踪届がでていたがそれは父に握りつぶしてもらう。父は狂乱する母を宥めることに忙しく、眉を顰められたが、それくらいは働いてもらわねば。
こうして、光梨さんは僕が所有するマンションで生活することになった。僕は母のように光梨さんの尊厳を奪ったりなどしない。ただひたすら、光梨さんの傷ついた心を慰め、時にその傷を思い出させ、僕がいなければ心穏やかでいられないようにしただけだ。
母から救い出したというバフが効いているのか、光梨さんは初めから僕を比較的受け入れてくれていた。あとは、僕を男としても受け入れてもらうだけだった。
母の幻影に怯える光梨さんを慰めながら、キスをした。流石に初めは驚かれたけれど、受け入れて貰えた。僕を「光河」と呼び捨てするように言い、少しずつスキンシップを増やしていく。
男として受け入れてもらえた時は、心が悦びに震えたのを覚えている。軽い触れ合いも、キスも、その度に目が眩むような愛しさが胸に溢れたが、初めて夜を共にした時は筆舌に尽くし難い感情が迸った。
これが幸福感というのだろうか。その絶頂を味わえば、もう知らなかった時には戻れない。本懐を遂げたばかりだというのに、彼女を失うことを想像するだけで空恐ろしく、いっそ幸福の絶頂の今、全てを終わらせてしまった方がいいのでは、と昏い考えも浮かんだ。
けれど、失ったあとの喪失感に耐えられないのは分かりきっていて、第一僕は、母と違って自分さえよければいいという考えでは無い。最大限相手にも悦びを与えたいのだ。たとえそれが、見せたいものだけが見える世界の中であったとしても。光梨さんがそれに気づかなければ問題はない。
初めての夜、僕は光梨さんに一生母から守り通すことを誓った。光梨さんが受け入れてくれた時は、もう我慢などできなかった。光梨さんは妊娠を気にし、初めこそ抵抗を口にしていたけれどそれすらも受け入れるまでに時間はかからなかった。褥で僕に全てを暴かれることを恥ずかしがる光梨さんの姿は、あとで監視カメラのデータから抜粋して永遠に保存しておかねば、と頭の隅にメモしておくほど愛らしかった。
遠からず、彼女は孕むことになるだろう。子を作れば囲いはますます強固になる。もとより母に気取られるようなヘマは犯さないし、父はこちらの味方だから、この楽園が崩れる日は僕がいる限り来ない。
――こうして僕は、子供の頃から夢にまで見た愛おしい女を完全に手に入れることが出来たのだった。