新しい生活
そこからの生活は、以前のものとは似ても似つかないものだった。
私の部屋が変わった日、屋根裏部屋を整理すると、昔住み込みで働いていた使用人が使っていた家具が見つかったので、使えるように軽く掃除をし、寝具を洗った。
家のことなど一切やったことがなかったため、使用人たちの仕事の様子の記憶を頼りに、見よう見まねで行った。
洗濯洗剤の量がわからず、全身泡まみれになったが、どうにか干すことができた。
部屋に戻り、窓を開け、部屋にあった掃除用具で掃き掃除やら拭き掃除を行ったが、記憶の中の彼らのように部屋を綺麗にすることはできなかった。
窓の建て付けを見ていると、開けていた部屋の戸がノックされた。
振り返ると継母が立っていた。
「夕食を用意なさい。」
「夕食...?でも私、お食事を作ったことがないわ。」
「私もないわよ。貴方、何もせずにこの家にいられる思っているの?早く用意なさい。」
彼女は何を言っているのだと思いながら、腕を引っ張られ、しぶしぶ階段を降りて行く。
台所へ着くと、床にも水が飛び跳ね、何かのソースが壁につき、野菜の破片が落ちていた。
置いてある鍋の底には、スープが焦げた跡がある。
明らかに朝に来た時よりも汚い。
「あの...」
「材料はあるものを使いなさい。足りなければ買いに行きなさい。そこにお金は用意してあります。私たちは今から街へ行き、昼食を食べ、買い物に行ってきます。帰宅したら夕食を摂るので、用意なさい。」
惨状について聞く前に、継母は矢継ぎ早にそう言うと、そのまま自室の方へと戻って行った。
「どうしよう、困ったわ...。食事だなんて作ったことないもの...。」
食材の保管庫を覗くと、歯型の残ったりんごが転がっていた。
大方、三人の誰かが優雅に朝食を作ろうとしたがうまくできず失敗し、諦めて生で食べられるものを適当に食べたのだろう。
時折お菓子を作っていた経験はあるので、多少は火の扱いや食材を切る程度の作業はできる。
だが、料理はしたことがなく、味付けも調味料がどれかすらもわからなかった。
「どうしましょう...。」
どうしたらいいかわからず、立ち尽くし、ただかまどを見つめていると、同じ型の色違いのドレスを着た義姉達がひょこりと顔を覗かせた。
「今日から貴方が食事を作るのだってね。」
「お母様から聞いたわ。不味いの作ったらお皿を投げてやるわ。」
「あら野蛮。まありんごを齧るだけあるわね。」
「あら、貴方みたいに鍋を強火で焦がすほどではないわ。」
「なによ!」
「そっちこそ何よ!」
二人の義姉が取っ組み合いの喧嘩をしようと、お互いの胸ぐらを掴もうと手を伸ばした時、玄関の方から二人を呼ぶ声が聞こえてきた。
「ルイーゼ!アリエッタ!何してるの!早く来なさい。」
二人は手をスッと下ろし、顔を見てお互いに睨んだあと、こちらを見て小さく微笑んだ。
「ではごきげんよう、エラ。よろしくね。」
「ではごきげんよう、エラ。夕食を楽しみにしているわ。」
彼女達は何事もなかったかのように、しずしずと玄関へ向かって行った。
「遅いわよ、早くなさい。」
「違うのよ、ルイーゼが台所へ行こうって。」
「違うわ!アリエッタがエラを...」
三人の話し声が消え、馬車のガラガラという音が完全に消えると、あたりは一気に静かになった。
時計を見ると、12時を少し過ぎたところか。
起きてから1日の半分が終わったが、自分を取り巻く環境の変化を考えると、昨晩のことが数年前のことのように感じる。
「私もお昼ご飯を食べなくちゃ。」
もう一度保管庫へ入り、すぐに食べられそうなものを探す。
白い粉、おそらく小麦粉だろう、干した肉、野菜、果物、瓶に入った飲みかけの牛乳、パン、少し切られたチーズ、あとは卵が数個。
「とりあえずパンと、チーズでいいかしら。」
朝と同じメニューだが、仕方がない。
パンとチーズを保管庫から引っ張り出し、ナイフで切り分ける。
やはり綺麗には切れない。
台所に置いてあった椅子に座ろうとして、保管庫転がっていたりんごを思い出す。
「あとは、私もりんごを食べたいわ。」
ついでにあのゴミを捨てなくては、ともう一度保管庫に戻ると、食べかけのりんごがゴロゴロと転がっているところだった。
よく見ると3匹ほどのネズミが必死になって引っ張ろうとしている。
「ひ!ネズミ!」
私が入り口で立ちすくむと同時に、彼らも私に気付いたのか、バタバタとどこかへ消えた。
ネズミは食べられるものがあればなんでも食べる雑食である。
衛生観念がないため、病原菌を持っている場合が多く、感染病の原因になるとも聞く。
そんな生物が食材の保管庫にいるなどもってのほかだった。
とりあえずりんごを家の外へ出し、よく手を洗った後に、新しいりんごを自分のためにとった。
席に戻り、りんごとパンを食べながら、彼らネズミのことを考えた。
半分ほど食べた後に、ふと立ち上がり、先ほど外に出したりんごを見る。
するとやはり、りんごをごろごろと先ほどのネズミたちが家の方へ引っ張っていた。
「この家に住んでいるのかしら...。」
食事中にまたりんごを触りたくはないので、席へと戻る。
残りを食べようとした時に、ヂューヂューという鳴き声と、鳥のバサバサという羽音が聞こえてきた。
慌てて外を見ると、りんごを巡ってカラスとネズミが取り合いをしている。
カラスはネズミの天敵のはずだが、ネズミもしぶとく一向に引こうとしない。
「ちょっと、ここで喧嘩はやめてください!」
近くにあったフライパンを手に持ちながら外へ出て行くと、カラスが大きく鳴いて森の方へ飛んでいった。
こちらを用心深く見ている。
チラリと下を見ると、ぶるぶると震えたネズミたちがこちらを見ていた。
ここまでりんごに執着するのだから、何かあるに違いない。
私は小さくため息をついた。
「私ね、ネズミは嫌なの。汚いし、病気になるかもしれないわ。でも、もし、お風呂に入って、汚いところへ行かないと約束できるなら、この家にいていいわ。少しだけになるけれど、ご飯もあげる。言っていることがわかる?」
彼らを見るが、こちらを見つめてヒゲをひくひくと動かしただけだった。
「絵本のようにはいかないわね。」
小さく笑いながら、昔お母様に読んでもらった動物たちが出てくる絵本を思い出す。
彼らは人間と同じ言葉を話していたが、現実の世界で話せることはない。
言葉が通じているとは到底思えないが、なんとなく彼らのことを見殺しにはしたくなかった。
「ちょっと待っててね。」
カラスのことを警戒しつつ、先ほどの洗濯に使った桶の水を少しだけ掃除用バケツへ分ける。
そのバケツをネズミの前に持っていき、細い板を立てかけた。
「ここに入って、体を洗ってくれる?」
こんなことをしてると継母知られたら気味悪がられるだろうか、などとぼんやりと考えていると、ネズミたちがソロソロと板へ登ってきた。
見ていることが理解できず、驚いていると、そのままネズミたちはぼちゃんとバケツの中に入り、じゃぶじゃぶと泳ぎ始めた。
「私の言葉がわかるの?」
私への質問に返事はない。
だが、彼らは体を綺麗にする意思はあるらしい。
3匹ぐるぐるとバケツの中で泳いでいる様子を見てくすくすと笑う。
「ふふ、泳いでいるだけじゃダメよ。」
1匹を掴むと、指の腹で全身を擦るように洗う。
緊張したのか、ばたばたと暴れたが、すぐにおとなしくなった。
ネズミなので汚いかと思っていたが、そこまで汚れは出なかった。
残りの2匹も洗ったあと、バケツから出してやり、綺麗な水で洗い流した。
3匹はプルプルと体を震わせて水を飛ばし、そのままこちらをじっと見た。
綺麗になった以上、約束は守るべきだろう。
「いい?貴方たちは綺麗になったので家に入る権利を得ました。でも、トイレやゴミ箱入ったら、即追い出しますからね。食べ物の勝手に食べちゃうのもダメよ。わかった?」
彼らはやはり返事もせず、ただひくひくとヒゲを動かすだけだったが、これが肯定の意味なのかもしれない。
私は少し笑って、戸口を開けた。
「中へどうぞ。」
ネズミたちが家の中へ入るのを見届けたあと、バケツの水は捨て、りんごは回収した。
カラスはどこかへ消えていた。
中へ入ると、律儀にネズミたちが待っていた。
回収したりんごをよく洗い、ネズミたちの前へ置く。
あとは、義姉が飲んだのであろう牛乳を小皿に出し、一緒に置いた。
「この牛乳も捨てるしかないから、良ければ飲んで。今日開けたもののはずだから。」
そう伝え、手を洗い、再度席に着く。
彼らが牛乳を飲んでいる様子を見た後に、自分も残りの昼食を食べる。
食べ終えた頃には、空っぽになった小皿だけが床に残されていた。
お話しをすることはできないが、ひとりぼっちのこの家に、友人ができた気がした。