ピクニックの後
「大変申し訳ございませんでした...私が近くにいながら、お嬢様を危険な目に遭わせるなど...。」
「いや、私もエラのそばを離れるべきではなかった。私も問題だった。」
エラはひとしきり泣いた後、体力を消耗したためか、涙と鼻水で顔をぐしょぐしょにしたまま眠ってしまった。
モリーは3人から少し離れたところから、震える声で謝罪を再度繰り返した。
エラが湖へ落ちた後、モリーは慌てて湖へ入ろうとしたが、ばたばたともがくエラを見て少し入るのを躊躇していた。
そのすぐ後マルスは湖へと飛び込み、エラを下から持ち上げ、岸まで運んだ。
水の深さはマルスの腰ほどだったので、そこまで深くはなかったが、暴れている人間を助け出すのはかなり大変だ。
モリーの行動は判断としては悪いものではなかった。
「モリー、あなたはエラのポシェットを湖の底から拾ってきてくれたでしょう。それで許しましょう。ね?あなたに辞めてもらってもエラが悲しむだけよ。」
ミリアーナはエラの頭を撫でながら、そう返した。
モリーはポシェットの紐を握りしめて、泣きそうになるのを堪えながら、静かにお礼を言った。
翌日。
体力の消耗と、水の冷たさによる冷えから、私は風邪をひいてしまった。
寒気でガタガタと震え、鼻水が止まらない。
「ねえモリー、わたしきのうおふろはいってた?」
「...ええ、温かいお風呂に入っていましたよ。」
モリーの元気がない気がするが、私が風邪をひいたからだろうか。
あの後、気づいたら私はベッドの中にいたので、ピクニックの後のことは覚えていない。
お風呂には入れてくれたのかもしれないが、その前に体が冷え切ってしまったのだろう。
モリーが持ってきてくれた味の薄いスープを飲ましてもらっていると、コートと帽子を被った父がドアをノックした。
「エラ、大丈夫かい?」
「おとーしゃま。おしごと?」
「そうなんだ、具合が悪いのにごめんね。何か買って帰るからね。」
「うん、いってらっしゃい。」
「いってきます。」
父は私のおでこに軽くキスをすると、部屋を出て行った。
「おかあしゃまは?」
「奥様も少し体調を崩されて、部屋で休んでいますよ。ほらお嬢様、次はお薬です。」
「...にがい?」
「苦いかもしれませんが、そのあとりんごを食べましょうね。」
「うん...。」
苦い粉薬を口の中に流し込まれた後、りんごを食べさせてもらい、モリーも部屋を出て行った。
電気は消されているので、部屋は薄暗い。
時折窓のすぐ近くを通った鳥の鳴き声が聞こえる。
調子はあまりよくないが、ご飯を食べて少し目が覚めてしまったので、ごろごろしながらわかったことを考えることにした。
「(これ、夢ではなかったみたい。)」
1番の問題はこれだ。
てっきり夢だと思っていたが、そうではなかった。
そうなると、だいぶ話は変わってくる。
夢ならば、流れに身を任せ、父や母との楽しい生活を満喫すればよかったが、もし過去に飛んでいるのだとすれば、このままだと待っているのはあの苦しい日々と絶望だ。
母の日記に色々書いてあった気もするが、内容を思い出すことはないので、私の薄い記憶からどうにか思い出すしかない。
どこかに書き出したいが、当時特に勉強も何もしていなかったので、今紙とペンを用意したところでうまく書けるかわからないし、持っているとも考えにくい。
「(考えたことを何度も思い出して、忘れないようにしないと。)」
字を書く練習をしたら、どこかに記録しておき、今は記憶に留めておくことにした。
「(まずは私の人生を思い出さないと...。)」
今、私は3歳の誕生日を迎えたばかりだ。
母は5歳で亡くなった。
5歳のいつ頃だったかは思い出せないが、その頃はあまり母と話した記憶もない。
マリアと出会ったのがお茶会で、その後、8歳の時に継母が義姉たちを連れてやってきた。
10歳の頃に父は隣国へ仕事へ行く機会が増え始め、13歳の時に父は亡くなった。
そして舞踏会に招待されたのが16歳の時。
つまり、父が亡くなる残り10年の間に、私がこの家以外で生きていく方法を獲得しなければ、私の人生は変わらずあの生活に戻ってしまう。
「(大事なポイントがどこかにあるはずよ。)」
父の死後、私に残されていなかったのは、お金と爵位だ。
今のうちに父から全て譲り受けたいところだが、父が死ぬまでの年齢でねだったところで、流されて終わってしまうだろう。
「(あとは私の価値がない。)」
父の本を読んでいて思ったのだが、以前の私にはあまりに教養がなかった。
秀でた芸もなければ、技術も何も持っていない。
今から独学で学んだところで、いつか限界が来る。
「(そういえばお母様が、花言葉を知っているってお父様が言ってた...。他にも何か知っているかもしれないわ。)」
正直母のことは何も知らなかった。
縁を切られたとのことで、父方や母方の親戚がおろか、祖父や祖母にも会ったことがない。
母がどこの出身なのか、父との出会いはどこなのか、会社を興したきっかけは等々。
だが以前マリアから、私の髪と瞳の特徴が隣国の人に似ている、と言われたことがあった。
父の仕事は隣国との商品の輸出入及び販売なので、母は隣国出身であっても不思議ではない。
「(でも聞いてみないことにはわからないわ。)」
色々と小難しいことを考えていたからか、だんだん眠くなってきた。
「げんきになったら、おかーしゃまに、おべんきょうを...」
考えがまとまらないうちに、私は睡魔に負けて眠ってしまい、起きたのはお昼を少し過ぎたあとだった。
カタリ、と何かが外れる音がして目が覚めた。
「うーん、なあに?」
眠い目を擦っていると、床の上で何かがもぞもぞと動いているのが見える。
風かと思ったが、ドアも窓も開いていない。
「うーん?」
見ていると、何かもこちらに気づいたのか、とことこと近寄ってきた。
すると、ドアをノックする音がして、ガチャリと開いた。
「お嬢様、お食事は摂れそうですか...きゃー!!!ネズミよ!誰か!」
モリーがお盆を落としそうになって、慌ててがっしりと掴んだ。
ネズミはモリーの大声に驚いて、ベッドの下へ入っていったが、モリーにはしっかりその様子を見られていた。
モリーの大声を聞きつけ、トーマスが慌てて棒を持ってやってきた。
「ネズミ!どこですか!」
「べ、ベッドに下に!」
「えい、ネズミめ!出てこい!」
モリーは部屋の隅で怯えて、トーマスがベッド下を覗き込みながら棒を突っ込んでいる。
私は以前仲良くしてくれたネズミたちを思い出し、慌ててベッドから降りた。
「ねずみさん!」
「お嬢様!降りてはだめです!」
モリーはぶんぶんと首を横に振るが、ネズミが怖いのか部屋の隅から動かない。
モリーの声を聞いて、トーマスが私を止めようと立ち上がったが、慌てていたのでベッドの木枠に頭をぶつけてうずくまってしまった。
その隙に床に降り立つと、ネズミがベッドの下から私の足元にやってきて、手のひらの上に登ってきた。
「ネズミめ!お嬢様から離れろ!」
トーマスが棒を振り上げているが、私はネズミを見て気づいた。
「ふたりともまって!このねずみさんは、わたしのおともだちなの!」
「おともだち、ですか...?」
思いがけない私の発言に、二人の動きはぴたりと止まった。
ネズミの尻尾にはリボンが巻かれている。
この頃ネズミと友達だった記憶はないので、おそらく魔法で一緒に飛ばされてきてしまったのかもしれない。
私に登ってきたということは、きっと私のことを信頼している故の行動だろう。
「その、お嬢様はいつからそのネズミとお友達なんですか?」
トーマスが怪訝そうな顔で見ている。
確かに突然ネズミを友達などというのはあまりに不自然だ。
「ちょっと、ちょっとまえから!」
「お名前はつけてあるんですか?」
「なまえ...」
以前はネズミが多すぎて「ネズミさん」としか呼んでいなかったが、この流れで「ネズミさん」と言えば、咄嗟の嘘判定間違いなしだ。
この部屋にいるのがこのネズミだけだと考えると、おそらく他のネズミたちはいないのだろう。
私は彼にぴったりの名前を思いついた。
「にゃくそん!だくそんだよ!」
「にゃくそん?」
「ジャクソン、ですか?」
「そうそれ!ねずみのきしにゃくそん!」
喋り慣れていないのか「ジャ」がどうしても言えないが、モリーはわかってくれたようだ。
ネズミの騎士ジャクソン。
以前父が買ってくれた絵本の主人公だ。
小さいネズミのジャクソンが、大きな怪物に小さな体を活かしてやっつける話。
この絵本が好きで、モリーに週1回は読んでもらっている。
「まあ、お嬢様がそう言うなら...。」
トーマスは持っていた棒を静かに下げ、モリーも肩の力を抜いた。
「わかりました。お嬢様のお友達なら、この屋敷の滞在を許します。ですが、綺麗とはわからないので、一旦ジャクソンには退出してもらいましょう。」
私はネズミさん、もといジャクソンを見る。
ジャクソンは不安そうにこちらを見ていたが、「お風呂だよ。」と伝えると、私の手をするすると降りていった。
モリーは突然近寄ってきたジャクソンに及び腰になりつつ、お盆の上に乗ってもらってそのまま部屋を後にした。
私はベッドに戻ろうとして、トーマスに手を洗うように止められてしまったので、彼に連れられて手洗い場へと向かおうとすると、モリーの大声を聞いて心配してたのか、母が部屋から顔を覗かせていた。
「エラ、どうかしたの?」
「おかーしゃま、エラね、おともだちができたの!」
「そう、元気になったら紹介してね。」
「うん!」
ネズミというのもわかっていたからか、少し不安そうな表情だったが、私の様子を見て、後で詳しく聞くことにしたようだ。
3歳の子どもが、突然部屋に出てきたネズミを友人と言い張るのは、流石に理解し難いのだろう。
だが、私の以前の人生を知る唯一の存在であることは確実だ。
家族にとってはあまり好ましい動物ではないかもしれないが、ここは3歳という年齢特権を使って、ごり押しさせてもらおうと思う。
翌朝、元気になった私は、早速朝食の場で家族に新しく友人になったジャクソンのことを伝えた。
流石に食事の場には連れて行けないので、朝食後、部屋の机の上に緊張した面持ちで立っているジャクソンを紹介した。
両親には、「いつ友達になったのか」「この子は安全なのか」「どこで過ごしてもらうのか」など、優しくではあったが、多くのことを聞かれた。
最後に私は父に抱っこをせがみながら、「絵本みたいなネズミのお友達が欲しかった」とわがままを言うと、父は「エラには敵わないな。」とため息を吐いて、私の頭を撫でた。
「わかった。ジャクソン、かな。エラの友人として我が家への滞在を許そう。」
「おとーしゃま!」
「でも突然廊下を走り回れるとみんなびっくりしてしまうから、ジャクソンの部屋を用意してもいいかい?」
「いいよ。」
そう言うと、モリーがカゴを持って部屋に入ってきた。
「鳥籠が屋根裏にあるのを見つけてね。エラがいない時はこの中で過ごしてもらってもいいかい?」
以前のジャクソンは屋敷中を走り回っていたので、狭いカゴの中に閉じ込められて嫌ではないかと心配したが、彼は了承したように軽く鳴いた。
まるで会話が成立しているかのような反応に、父はやや驚きながら鳥籠を机の上に置いた。
「ではエラ、ジャクソンと仲良くね。仕事へ行ってくるよ。」
「いってらっしゃい。」
父は仕事へ行くギリギリまで一緒にいてくれたのか、足早に部屋を出て行った。
「それでは私も部屋へ戻ろうかしら。」
母の顔色は依然あまり良くない。
昨日寝ただけでは体調が回復しなかったかもしれない。
が、ここで母を見送れば、おそらく以前の人生と同じ流れになってしまう気がする。
母が亡くなるのも以前と同じであれば、残された時間は後2年ほどしかない。
母には申し訳ないが、可能な範囲で一緒に遊んでもらわなければ。
「あのおかあしゃま。エラ、おかあしゃまとあそびたい。」
「お嬢様、奥様は...」
モリーも気づいていたのか、私を止めようとした。
が、止める前に母が返事をした。
「いいわよ。」
「奥様!」
「せっかく娘が誘ってくれたのに、遊ばないだなんてお互いに寂しいわ。」
母は私の横にしゃがみ、頭を撫でてくれた。
「エラは何して遊びたい?」
私はとりあえず声をかけることの必死で、何をしたいかは何も考えていなかった。
もう元気なので庭で走り回りたいところだが、母を走らせることはできない。
うんうん考えていると、唐突に紙とペンのことを思い出した。
「おかあしゃまのおへやで、おえかきしたい!」
「私の部屋で?」
「うん!」
まずはペンを持つことに慣れておきたい。
勉強はそれからだ。
それに母と話しながら自然な流れで、自宅で勉強をする流れを作りたい。
「はやくいこ!」
私は母の手を引っ張りながら、ゆっくりと母の部屋へ向かった。