032.悪夢
真っ暗な空間にリリアーナは一人で佇んでいた。
暗くて周りは見えない。
ひんやりと冷たい空間。
ここは何処だろう?
手がかりになる物は何もない。
一歩足を動かそうとした瞬間、自分の足が何かに引っかかっている事に気がついた。
紐?
暗くて見えない。
リリアーナは足に巻き付いた紐を退けようと手を伸ばした。
手で掴んで引っ張ってみると、それは紐ではない。
……植物の蔓。
この蔓は見覚えがある。
フォード侯爵の……。
あの神託の日の蔓だ。
リリアーナは息を呑んだ。
怖い。
この蔓は怖い。嫌だ。助けて。
誰か助けて!
「いやぁぁぁ!」
リリアーナは飛び起きた。
荒い息を繰り返したあと、周りを見る。
そこは寮の部屋。ベッドの上。
……夢?
リリアーナは胸を撫で下ろした。
よかった。夢で。
ベッド横のランプは小さな明かりを灯している。
あの日以来、明かりを消して眠ることができなくなってしまった。
もう何年も経つというのに。
リリアーナは大きくゆっくり息を吐くと、水を飲もうと布団を退けた。
「え……?」
リリアーナは目を見開いた。
足首が赤くなっている。
まるで先ほどの蔓がそこを絞めてつけていたかのように。
夢なのか、夢ではないのか。
嫌だ。怖い。
立ち上がるのを止め、布団で足を見えなくした。
どうしよう。怖い。
フォード侯爵は来るのだろうか。
もう来たのだろうか。
私に何をさせるつもりなのか。
また蹴られるのだろうか。
ガタガタと震える身体。
もう眠りたくない。
絶対に寝ないと心に決めたはずなのに、いつの間にかまた眠ってしまった。
「リリーちゃん、何そのひどい顔!」
朝、寮を出て学園へ行こうとしたリリアーナを寮長が呼び止めた。
「眠れなくて。でも寝ちゃったんですけど」
頭が回っていないリリアーナがよくわからない事を言う。
「今日は休みなさい」
一人で居たくない。
朝、明るくなってから足首を見たが、まだ蔓の跡はしっかりついていた。
昨日は赤いと思ったが、アザのように赤黒くなっている。
そんなに強く絞められていたのかと思うと怖い。
あれは夢ではなかったのだ。
「……いってきます」
「あ、リリーちゃん!」
寝不足でぼんやりふらふら歩き中庭へ。
教室はもっと向こうだ。
リリアーナはおぼつかない足取りで高等科と中等科の間の中庭を歩いた。
歩いても歩いてもなかなか着かない。
亀のような速度はみんなの邪魔だろう。
下を向きながらリリアーナは出来るだけ壁側を歩いた。
「リリー?」
聞き慣れた声にリリアーナは顔を上げた。
顔を見たエドワードがギョッとする。
「ちょっとそこで待ってて!」
窓から声をかけたエドワードが慌てて渡り廊下から中庭に出る。
リリアーナに駆け寄ると、まずおでこに手を当てた。
熱はなさそうだ。
どうしたの?
そう聞く前に、リリアーナから大粒の涙が溢れた。
「ち、ちょっとリリー!」
これではエドワードが泣かせたみたいではないか。
エドワードは泣きじゃくるリリアーナを木の下のベンチに引っ張って行き、無理矢理座らせた。
理由も言わず泣き続けるリリアーナ。
金髪のイケメン高等科生徒と黒髪の小さい少女。
どう見ても兄妹とは思われないだろう。
通学中の生徒がチラチラ見てくる。
エドワードは溜息をついた。
「おい、エド。授業……」
授業が始まるぞと声を掛けようと近づいた茶髪の友人は、小さくなって肩を震わせている少女に気がついた。
「おい~、兄妹喧嘩かよ」
呆れたように茶髪の友人は頭を掻いた。
「違うって! 会ったら泣き出して。あぁぁ。もう! 寮に連れて行くから今日休むって先生に言っといて」
疑いの眼差しで見る茶髪の友人と、チラチラ見てくる生徒たち。
エドワードはリリアーナの手を引いて初等科の寮へ向かった。
エドワードはリリアーナの部屋に行った事がない。
どんな所で生活しているのか、ちゃんと食事をしているのか見るのは初めてだ。
「リリー、部屋は何処?」
何階のどこ? と聞きながら寮の入り口をくぐる。
とぼとぼ泣きながら歩くリリアーナの手を引き、寮長室の前へ行くとエドワードは立ち止まった。
「え?ちょっとリリー、あれ誰??」
怖い顔をしたオネエが廊下で仁王立ちしている。
「誰はこっちのセリフ! あんた何? なんでリリーちゃん泣かせてんの??」
派手な服のオネエは、ほうきで今にも殴りかかってきそうだ。
「あ、兄! 兄です!」
後退りしながら訴えるが全く信じてもらえない。
見た目が違いすぎるのだ。
「ちょっと、リリー! 泣いてないで言って!」
エドワードはリリアーナを寮長の前にぐいっと押した。
やっと寮長に気づいたリリアーナが目を見開く。
「あれ? 寮長?」
リリアーナが驚いた顔をした。
どうやら寮まで来た自覚はなかったようだ。
「兄のエドワードです」
リリアーナが普通に当たり前のように紹介すると、今度は寮長が驚いた顔をした。
「リリアーナの兄、高等科のエドワード・フォードです。妹がいつもお世話になっています」
エドワードが頭を下げると、寮長が引き攣った顔でマジで兄? と呟いた。
「はぁ~、ビビったぁ」
リリアーナの部屋の床にボンッと座りながらエドワードは大きく息を吐いた。
マッチョなオネエが寮長って怖すぎるだろ!
「お兄様ごめんなさい。大丈夫だから授業に行って」
リリアーナは荷物を置きながらエドワードに言った。
「どこが大丈夫なの??」
もう! いつも無理する! と、エドワードはあぐらをかいて座りながら腰に手を当てた。
初めて入ったリリアーナの寮の部屋。
騎士コースの寮とは全然違う。
騎士コースは男4人部屋なので、常に荷物がごちゃごちゃしている。
ここは1人部屋。
相変わらず荷物もあまりなく、殺風景だ。
部屋を見回すと簡易キッチンの横に見た事がある箱がある。
エドワードはハイハイしながら箱の横へ移動した。
「レイゾウコだっけ?」
庭師が木箱を作っていた気がする。
エドワードは冷蔵庫を開けた。
「おうぁっ! 何これ!」
中にはグラスや食べ物が詰め込まれており、ひんやり冷たい。
「お兄様、ミルクティー飲みますか?」
ひょいと横から凍ったグラスを2個取り、リリアーナはキッチンに置いた。
冷蔵庫の上の段から冷やして置いたミルクと紅茶を出す。
慣れた手つきで注ぐと、またミルクと紅茶を冷蔵庫へ戻した。
絶対、侯爵令嬢じゃない。
エドワードは溜息をついた。
小さい頃から何でも一人でやっていたのは知っているが、これは貴族の娘がする事ではない。
こんなに苦労させていたのかと心が苦しくなる。
「はい、どうぞ」
笑顔で差し出されるが、なぜ紅茶が冷たいのか。
普通は冷めた紅茶は飲まないのに、氷でさらに冷やされた物など飲んだ事がない。
エドワードは手に取り、一口飲んだ。
「何これ! めっちゃうま!」
氷で冷えて少しシャリシャリとするミルクと冷たい紅茶が喉を潤す。
一気に飲み干し、リリアーナにお代わりを要求した。
「いつも変だけど、コレはかなりスゴいね!」
うまいうまいと大喜びのエドワードは、うっかりリリアーナに普通ではないと言ってしまった事に気づいていなかった。
お兄様、心の声が漏れていますよ。
リリアーナは苦笑しながらお代わりを注いでエドワードへ手渡した。
リリアーナも床に座り込み紅茶を飲む。
本物の侯爵令嬢ならきっと行儀が悪いと怒られるのだろう。
「それで? 今日はどうしたの? ノア先生と喧嘩?」
軽い口調でエドワードはリリアーナに聞いた。
回りくどい言い方は好きではない。
ノアールと何かあったなら間に入ってあげるよと言う。
リリアーナは首を横に振った。
グラスをテーブルに置き、目を伏せた。
「……怖い夢を」
小さな声で呟くと、エドワードがなんだ夢か。とほっとするのが見えた。
まだ11歳。
怖い夢を見て目が覚めて不安になる事くらいあるだろう。
本来なら家族がいる年齢なのに1人で居させているのだ。
「……ごめん」
エドワードは謝った。
エドワードも寮に入らず別邸でリリアーナと一緒に暮らせば良いのだ。
高等科の騎士コースは寮でなくても良いのだから。
「お兄様のせいではないです!」
リリアーナは顔を上げながら自分の手をぎゅっと握った。
顔はまた泣きそうだ。
「……どんな夢?」
怖い夢なんて気にならないように笑い話に変えてやる。
エドワードは少しでもリリアーナの気持ちが楽になればと、夢の内容を聞く事にした。
リリアーナは躊躇ったが、エドワードの押しに負けて少しずつ話を始める。
暗い場所で、誰もいなくて。
うんうんと聞いてくれるエドワード。
蔓が足に絡まっていて。
お父様の居なくなった日に見た蔓で。
そこまで話すとエドワードの顔が強張った。
あの日の事はエドワードに話せていない。
どこまでウィンチェスタ侯爵から聞いているかわからない。
全く知らないかもしれない。
それでもリリアーナは話を続けた。
自分に巻き付いた蔓は何かわからない。
怖くて目が覚めた。と。
「……それは、怖いね」
思っていたような怖い夢ではなかった。
想像していたのは、誰かに追いかけられるとか空から落ちるとか、一般的な怖い夢。
でもリリアーナの夢はリアルに怖い。
怖い実体験から見た夢だから。
どう慰めれば良いのか悩むエドワードにさらに追い討ちがあった。
「それで、夜中に起きたらこうなっていて……」
リリアーナは黒いハイソックスを右足だけ脱いだ。
足首に赤黒く残るアザ。
エドワードは目を見開いた。




