030.胃袋を掴む
リリアーナの寮部屋の前、ノックをしようと手を伸ばしたノアールはいい匂いに思わず止まった。
寮長の部屋からと思ったが、違うようだ。
「おかえりなさい。ノア先生」
扉を開けたリリアーナの姿に驚き、ノアールが目を見開く。
長い髪は邪魔にならないように後ろで三つ編みにし、腕まくりをしたワンピース。
そしてだいぶ大きめの白いフリルの多いエプロン。
「……その格好は?」
「寮長が汚れるからエプロンしなさいって」
あ! と急いで鍋に戻るリリアーナ。
ノアールはあまりの可愛さに死ぬかと思った自分の胸を撫で下ろした。
週末に別邸から鍋や食材、調味料まで譲ってもらい、キッチンの使い方は寮長に教えてもらった。
本気で料理するのね。と寮長がエプロンをくれたが、寮長のサイズはかなり大きくて、リリアーナは少し縫って肩が落ちないように改造していた。
「トマトスープですか?」
部屋の前で嗅いだいい匂いはこの部屋からだった。
ノアールは荷物を置き、簡易キッチンのリリアーナの近くへ行く。
「今日の夕飯はミネストローネとポテトサラダです!」
ニコニコと嬉しそうにリリアーナが言うが、ミネストローネが何かわからない。
トマトスープの名前だろうか。
ポテトサラダはすでに出来上がっているようだが、知っているポテトサラダと全然違う。
レタスの上に乗り、ハムやきゅうりのようなものが混ざっているように見えた。
味の想像がつかない。
パンもすでに薄く切られており、見慣れない板に乗っていたが、リリアーナは板の上からパンをお皿に移すと、当然のように板を洗って立てかけた。
「この板は何ですか?」
「まな板ですよ?」
普通に言われたが、まな板が何かわからない。
ノアールは首を傾げた。
この国には、まな板がない。
別邸の前の料理長も、今の料理長も手の上で器用に切り、そのまま鍋に入れていた。
リリアーナはまな板がないと切れないので、庭師に頼んで木を切ってもらったのだ。
別邸の外門近くの木を使って作ってもらったので、ヒノキのような良い木ではないが。
少し表面を焦がして、ささくれない様にしてくれたので意外に優しい人だったと先日知った。
そういえば、冷蔵庫の木の入れ物もとても綺麗な仕上がりだったし、すごく器用な人なのかもしれない。
「精霊の恵みに感謝を。いただきます」
「精霊の恵みに感謝を。いただきます」
2人だけの食事挨拶。
リリアーナは初めてノアールに振る舞う料理を何にしようかずっと考えていた。
この国は内陸で魚は取れない。
加工品はあるようだが、どう調理するかよくわからない。
肉でもよかったが、あれこれ考えた結果マヨネーズになった。
自分も食べたかったが、なんとなくマヨネーズの味をノアールに知ってほしかった。
「美味しい!」
ノアールがポテトサラダを食べ、感嘆の声を上げた。
初めて食べる味。
ミネストローネも口にし、嬉しそうに笑う。
「良かった」
きっと気を使って美味しいって言ってくれているのだろうが、食べられない味ではないと言う事だ。
リリアーナもつられて微笑んだ。
パンを取り、ポテトサラダを乗せてかじる。
「そんな食べ方があるのですか?」
すぐにノアールも真似して食べた。
「……困りました」
ノアールがスプーンとミネストローネをテーブルに置き、急にリリアーナに困った顔をする。
「えっ? 何か嫌いな物?」
どうしよう、嫌いな物が何か聞いていなかった。
普段、ノアールが好き嫌いをしているイメージはなかったが、嫌いな物が入っていないメニューをいつも食堂で選んでいたのかもしれない。
「侍女も料理人も雇えるだけの甲斐性はあるつもりです」
ノアールが真剣な顔でリリアーナの手を握った。
何の話かわからないリリアーナは首を傾げる。
「でもこんなに美味しいご飯が食べられるなら、結婚した後も、時々でいいのでリリーの作ったご飯が食べたいと思ってしまいます」
緑の眼を細めながら色気ダダ漏れでノアールが言う。
け、結婚!
リリアーナは真っ赤になった。
「あ、あ、ありがと」
握られた手が熱い。
顔も熱い。
うわー、料理パワーすごい。
男を落とすなら胃袋を掴めって言うもんね。
恐るべしマヨネーズ!
「……リリー、13歳になっても私の……」
私の婚約者でいてくれますか?
王子の物にはならないで。
ノアールが聞きたかった言葉は、寮長にあっさりと邪魔される。
「リリちゃ~ん、なんかすっごい良い匂いするんだけどぉ」
ノックもなく突然開く扉にノアールとリリアーナは慌てて手を離した。
「あら。お邪魔でごめんねぇ」
ニヤニヤする寮長にノアールは溜息をついた。
◇
王宮の煌びやかな廊下でリリアーナはウィンチェスタ侯爵にしがみついた。
「おとうさま、む、むりです。もう無理。帰りたい」
8歳の頃に1度来た事がある廊下を再び歩く事になるとは。
「ははっ、前回も同じような事を言っていたね?」
あれから3年経ち11歳になったが、何度来てもこの廊下に慣れる事はないだろう。
華やかな装飾。
端に寄ってお辞儀する人。
着慣れない豪華なドレス。
「着いたよ」
案内された先は中庭というには広すぎる豪華な庭園だった。
建物の中だと言うのに明るく、綺麗に手入れされた木々。
色とりどりの花。
豪華な噴水。
庭園の真ん中に真っ白なテーブルと椅子があった。
そこに優雅に足を組んで座る人物。
「来たか、リリアーナ」
第1王子が立ち上がった。
「ご、ごきげんよう。王子殿下」
ドレスのスカートを摘み、お辞儀をすると、ウィンチェスタ侯爵にそっと背中を押された。
ここから一人ですか!
おとうさまは来ないんですか?
不安そうな顔でウィンチェスタ侯爵を見上げると、爽やかな笑顔で送り出された。
「そんなに緊張するな、お前は毎回、毎回」
第1王子はリリアーナの頭をいつも通りぐちゃぐちゃにすると、手を取りエスコートする。
スマートな立ち振る舞いにさすが王子と感心する。
リリアーナはされるがまま、流れるような動作で椅子に座らせてしまった。
すぐに美味しそうなお菓子と紅茶が運ばれ、音も立てずに準備が整えられていく。
さすが王宮。優秀な侍女は仕事が早い!
一礼してすぐに去っていく侍女達。
なんだこの小娘! みたいな目で見られることもない。
侍女の服も可愛い。
豪華なメイド服だ。
「俺より侍女が良いか」
紅茶を片手に第1王子に笑われた。
「服が……可愛くて」
リリアーナが躊躇いながら言うと、ドレスより侍女のお仕着せを欲しがるのか。と大爆笑された。
第1王子はよく笑う。
ネコのように気まぐれで、話題もどんどん変わっていく。
でも不思議と心地の良いテンポで、話が上手いのだと実感せざるを得ない。
頭も凄く良いのだろう。
飽きさせないように話題には気を使ってくれている。
私が知らないとわかると、さりげなく説明を入れてくれたり、例えてくれたりするのでわかりやすい。
「……甘いもの、お好きなんですね」
何個目かのマカロンを第1王子が手に取った所で思わずリリアーナは突っ込んだ。
「……普段はバレないようにしている」
お前といると調子が狂う。と第1王子は少し照れながらマカロンを口に放り込んだ。
この国では甘いものは女性へ送る物というイメージがあるようだ。
男が甘い物が好きなのは恥ずかしいのだと言う。
前世はスイーツ男子なんて普通だったし、ワインにチョコレートとかメジャーだったのに。
「好きな物は『好き』で良いのでは?」
気軽に言ってしまったが、もしかして王子は我慢しなくてはいけないのだろうか?
第1王子は驚いて目を見開いた。
王子らしい言動。
王子らしい立ち振る舞い、マナー。
王子らしい発想。
そのような事では立派な王子になれません!
幼い頃から何度も教育係に言われた言葉が思い起こされる。
「……そうか」
好きでもいいのか。
第1王子はずっと胸につかえていた何かが、ふっと取れたような気がした。
「お前はコレが好きか」
第1王子がショコラを手に取り、リリアーナの口の前へチラつかせる。
あーんしろという圧力にリリアーナは小さな口を開けた。
「~~~!(やっぱり美味しい)」
ビターチョコレートのほろ苦さに思わず口元が緩んでしまう。
「俺もこっちの方が好きだ」
ミルクチョコレートよりビターが好きなのだと笑う。
マシュマロは少し苦手だとか、甘すぎるクッキーよりもサクサク派だとか、2人の意外な共通点に盛り上がった。
「お前はどうしてショコラを知っている?」
この国のお菓子ではないのに。と第1王子が素朴な疑問を投げかけた。
「……え?」
この国のお菓子ではない……?
リリアーナはテーブルの下で手をギュッと握った。