002.救いの手
「5歳……ですよね?」
家庭教師ノアールの確認にエドワードは頷いた。
「部屋へ連れて行きましょう」
「あそこが部屋だと思うけど、僕も行ったことがなくて」
庭から玄関へ回り、エドワードが扉を開ける。
「リリーの部屋はどこ?」
「に、二階です」
掃除をしていた侍女は抱きかかえられたリリアーナを見ても心配する様子もなく、近づく気配もない。
侍女の態度にエドワードとノアールは顔を見合わせた。
「こちらです」
侍女が扉を開けたのは殺風景な部屋。
「ここがリリーの部屋?」
エドワードの問いに侍女は気まずそうに目を逸らした。
ノアールはリリアーナをそっとベッドへ。
家具はそれなりに良い物だが、焦げ茶色の木のベッドに白いシーツ。
掛け布団も白くシンプル。
小さな女の子が喜ぶとは思えない。
「熱もありませんし呼吸も安定しているので大丈夫だと思いますが、医師の手配をお願いします」
「旦那様に連絡します」
侍女の回答に頷くノアールを横目に、エドワードはクローゼットに手を掛けた。
「え? これだけ?」
勝手に開けたエドワードも、見るつもりがなかったノアールもあまりの少なさに愕然とする。
「なんで?」
クローゼットの中は質素なワンピースと寝間着のみ。
ドレスどころか装飾品や可愛い物は一切ない。
「本当にここがリリーの部屋?」
思い返せば、妹が綺麗なドレスを着ている姿を見たことは一度もなかった。
2階の窓からいつも似たような色の服を着て庭を見ていたが気にもしていなかった。
髪を結っている姿も見たことがない。
なぜこんな状態に?
「ねぇ、父上は知っているの?」
娘がこんな状態だって。
「旦那様がこちらにいらっしゃるのは半年に1回で……」
侍女はスカートの裾をぎゅっと握った。
「昨年、庭でお茶をしていたお嬢様と侍女達をご覧になった旦那様がほとんどの使用人をクビに」
以前は料理人と一緒に食事を作ったり庭に花を植えたり、明るくて皆に慕われていたお嬢様。
だがクビになることを恐れた使用人達はお嬢様に近づかなくなった。
「お嬢様自身も私達とは距離を置いていました」
できるだけ顔を合わせないように気を遣っていたと侍女は目を伏せる。
「リリーは何の病気なの?」
「ご病気……ですか?」
まるで心当たりがないという様子で侍女が答えると、エドワードは悔しそうにぎゅっと両手に力を入れた。
「父上はリリーが病気だから王都より空気が綺麗な別邸にいるって」
病気ではないなら、なぜ家族と離れてここに住んでいるのだろうか?
まだ5歳なのに。
「病気が悪化するといけないから会うなって」
病気ではないから体調を聞いた時にリリアーナは変な顔をしたのだ。
どうして妹がこんなに冷遇されているのだろうか?
なぜ今まで気づいてあげられなかったのだろうか?
「エドワードくん、今日は帰りましょう」
「でも、」
こんな状態の妹を置いて?
俯いてしまったエドワードの肩をノアールはポンと叩いた。
「焦ってはダメです。最善を考えましょう」
「……はい、ノア先生」
エドワードは小さく息を吐くとベッドで眠るリリアーナの顔を心配そうに見つめた。
「彼女の目が覚めるまで付き添いをお願いします」
「お嬢様は嫌がると思いますが……」
「何か言われたら私の命令だと言ってください」
ノアールの言葉に侍女は頷く。
エドワードはノアールに背中を押され、渋々別邸をあとにした。
帰りの馬車の中、頬杖をつきながらエドワードは窓の外を眺めた。
妹はまだ5歳。
乳母がいて、何不自由のない生活をしているのだと勝手に思っていた。
母はすでに他界している。
妹が生まれたときに亡くなったと聞いているが、母の最期は覚えていない。
「……無詠唱でした」
「ムエイショウ?」
窓の外を見ていたエドワードはノアールの方を向いた。
「私たちは祈りを唱えることで魔術が使えます」
エドワードもそれは知っている。
初等科の基礎魔術の授業で習った事だ。
「ですが、リリアーナ嬢は火を出すときに何も言いませんでした」
初めは詠唱が聞こえなかっただけだと考えたが、水の精霊ηをイータアーと間違えて発音した彼女が、少し発音が難しい火の精霊Θを正しく発音できるだろうか?
「それ以前に、まだ5歳ですし」
高等科魔術コースに在籍しているノアールは、幼い頃から魔術が大好きだった。
魔術に関する本は発売されればすぐに買い、徹夜で読み耽るのは当たり前。
学園の教授とも議論できるほどの知識もある。
魔術は7歳で神託を受けると使えるようになると習ったのに。
「両親も、僕も『水』属性なのにリリーだけ『火』属性なんて」
「不思議ではないと思います」
きっぱりと言い切るノアールに、エドワードは安堵した。
「私のように複数属性という事もありますし、隔世遺伝という可能性もあります」
ノアールは『水』『火』『風』の3属性を持っており、とても珍しいと言われている。
「リリアーナ嬢が『水』と『火』を使えてもおかしくないと思います」
祖父母やもっと前のご先祖様の属性を受け継いだ子が急に生まれる事があるのは確認されている。
妻の不貞を疑ったある公爵が莫大な費用をかけて調べさせたというのは有名な話だ。
「私をリリアーナ嬢の家庭教師にしてもらいましょう」
「え?」
「もちろんエドワードくんの家庭教師も続けます。そうすれば別邸に滞在する時間が増えるでしょう?」
問題は5歳なのに魔術が使えた事を侯爵に話すかどうか。
本来なら倒れた理由を正直に話すべき。
だが、あの殺風景な部屋を知っているにも関わらず何もしないのであれば、むやみに話すのは避けた方が良いかもしれない。
「私の父に相談しても良いでしょうか?」
5歳でなぜ魔術が使えたのか。
それに無詠唱の秘密も知りたい。
だが、何よりもまずあの冷遇から助けてあげたい。
「リリアーナ嬢を今のままにはしておけないと思っています」
ノアールの言葉にエドワードは「お願いします」と頷いた。
王宮の一室、財政大臣の執務室にノックの音が響いた。
「どうぞ」
財政大臣ハインツ・フォード侯爵は目を通していた書類を机に置き、モノクルを外す。
少し開いた扉から見えた緑髪にフォード侯爵は驚いた。
「ウィンチェスタ魔道具大臣、申し訳ない。何か約束を忘れておりましたかな?」
モノクルを上着のポケットに入れながら立ち上がり、ソファーへと促す。
少し慌てたその様子に、ウィンチェスタ侯爵は敵意のない笑顔を見せた。
「約束はしていなかったが、今、少しいいかな?」
ウィンチェスタ侯爵はテーブルの上の魔道具のボタンを押しながらソファーに腰かける。
防音の魔道具。
今でこそ当たり前の魔道具だが、この魔道具の開発者はウィンチェスタ侯爵だ。
彼は昔から魔術の才能が飛び抜けており、そしてその才能に勝ると言われているのが彼の三男ノアール・ウィンチェスタだった。
「君の娘……」
「はい? アレがご迷惑を?」
月2回、息子エドワードがウィンチェスタ侯爵の三男ノアールに魔術の家庭教師をしてもらっている。
高等科の生徒が初等科の生徒の家庭教師をする。
それはよくある話。
優秀すぎるノアールが飛び級で高等科に通っていることが異常なだけだ。
そんなノアールに家庭教師をしてもらえる事自体が奇跡に近い。
リリアーナには「兄が来る日は庭に出るな」と言ってある。
言うことを聞かずに庭へ出て迷惑をかけたのか。
侍女は何をしていたのだ。
フォード侯爵はグッと膝の上で拳を握った。
「申し訳ありません。娘は叱っておきますので、来月も続……」
「あ、いや、そうではなくて」
ウィンチェスタ侯爵は、手のひらをフォード侯爵へ向けて言葉を止めた。
『フォード侯爵は娘を蔑ろにしている』
ノアールに相談された内容は同じ父親という立場から考えると、とても信じられない内容だった。
だが『娘』と言っただけで『叱る』と言った。
まずは何をしたのか聞いてから判断が普通ではないのか。
例え本当に何かしたとしても、まだ5歳であればほとんど笑って許される範囲の話だろう。
「うちのノアールを君の娘の家庭教師にしてくれないかな?」
「それはエドワードの家庭教師を辞めるという話でしょうか?」
思いもしなかった方向の話にフォード侯爵は焦る。
「いや、二人とも教えたいそうだ」
「ですが、アレはまだ5歳ですし、文字も読めないので優秀なノアールくんにお願いするわけには」
「おや? 文字が読めないのかい? 魔術の本を読んでいたとノアールから聞いたのだが」
柔らかい声だが、ウィンチェスタ侯爵の射抜くような視線にフォード侯爵が固まる。
ウィンチェスタ侯爵はジッとフォード侯爵の様子を伺った。
娘なのに名前も呼ばず『アレ』と言うのは何故だろうか。
息子は名前で呼んでいるのに。
視線も泳ぎ、落ち着きもない。
フォード侯爵が何かを隠しているのは間違いないだろう。
「ふむ、君の娘に私も直接会ってから言おうかと思っていたが、先に言っておこうか」
ウィンチェスタ侯爵は少し前のめりになりながらフォード侯爵を見つめた。
有無を言わせぬ圧力にフォード侯爵はゴクッと唾を飲み込む。
「ノアールに、君の娘をくれないか?」
口の端を上げながら微笑んだウィンチェスタ侯爵の緑の眼はまるで捕食者。
フォード侯爵は冷や汗をかきながら頷くことしかできなかった。