182.露天風呂
ジークハルトと大叔父が露天風呂に入っている間に、第1騎士団長はタオルと飲み物を取りに領主邸へ。
リリアーナは少し魔力を使いすぎてしまったため、大きな岩に座って休憩だ。
クリスは手帳に書かれた絵と先ほど完成した露天風呂を比べ、確かに間違ってはいないけれど……と溜息をついた。
「クリス兄様、ここは帝都と近いの?」
地理0点のリリアーナのために、クリスは手帳の次のページにドラゴニアス帝国の簡単な地図を描いた。
「ここが帝都、先日リリーが書いた道路がこうで、ここがドロス、道路の最初の案がこの道で、ここが現在地です」
リリアーナが聞きたいことがわかったのだろう。
クリスはなぜ大叔父が道路について不満を持っているのかわかるように書いてくれた。
最初の案では、この領地を通るのだ。
リリアーナの案では通らなくなった。
不満に思うのは当然だろう。
「この道路からここは遠いの?」
一番近い道路からは隣の領地を通って馬車で1時間半程度だとクリスは教えてくれる。
領地内を道路は通らないが、そこまで遠いわけでもない。
「帝都からは?」
「馬車で3時間程度でしょうか」
クリスが馬車で来たことがないので目安ですが。と付け加える。
「すごくきれいな所だから、みんなに景色を見に来てほしいね」
馬車で3時間。
山がきれいな温泉地。
リリアーナの頭の中のイメージはお金持ちの別荘だ。
ふふふと上機嫌に笑うリリアーナに、クリスはほどほどにしてくださいと心の中で突っ込んだ。
露天風呂は体の芯から温まるような不思議な感じがした。
乳白色で身体は見えない。
匂いもなく、湿った蒸気が心地よい。
大叔父の突然の謝罪に驚いたジークハルトは、聞き間違いかと顔を大叔父に向けた。
大叔父はジークハルトを見ることなく白竜クレムの翼や足を撫でながらゆっくり話し始めた。
「……お前がまだ幼い頃、黒髪は皇太子にふさわしくないと最初に言ったのは私だ」
黒竜を手なずけ、黒髪で、2代目アースハルトのように強い男になるのだと周りに言い、孤立させた。
そのせいで皇帝陛下も随分と悩ませた。
皇后も心を痛めただろう。一時期は思い悩み寝込んだと聞く。
ジークハルトは幼い頃から周囲に避けられ、自身もできるだけ人と関わらないようにし、いつしか世界中から大陸を壊すと噂されるようになってしまった。
小さい頃は黒竜の世話をしながら1人で泣いている姿を見たこともある。
だが、皇帝陛下とギルバート以外は誰も手を貸さなかった。
今も補佐をしている宰相の息子以外、子供の頃に一緒に遊ぶ姿は見たことがない。
学園でも友人ができたという話は皇帝陛下からも聞かなかった。
背が高く体格に恵まれているので強いと皆には思われているが、幼い頃からギルバートに教わりながら、騎士よりも長い時間、剣を振っていた事も知っている。
宰相の息子も優秀なため、彼が暴君を支えているように見えてはいるが、書庫の本はほとんど目を通していることも知っている。
宰相の息子との遊び場所は書庫。
ギルバートとの遊びは剣の練習。
黒竜の世話。
学園に行く前にジークハルトができることはこの3つしかなかったからだ。
それを知らない大人たちは、黒髪の見た目で差別をし、畏怖し、避けた。
毒も何度か盛られたと皇帝陛下から聞いた。
必死の看病のお陰で回復しても、その度に毒も効かないと恐れられた。
騎士より強くても、学園で成績がよくても、皇太子だから贔屓されている。彼を怒らせてはいけない、国の1つや2つ簡単になくなると囁かれた。
「すまなかった」
きっかけを作ったのは自分だと大叔父が謝罪する。
今更だがと苦笑しながら。
ずっと謝ろうと思っていた。
だが、自分とジークハルトが不仲だという噂のせいで、ジークハルトに近づくことはできなかった。
近づけばまたジークハルトが悪く言われてしまう。
できるだけ関わらないようにするしかなかったと大叔父は目を伏せた。
「素直な良い嫁を見つけたな」
大叔父がようやく白竜クレムから、ジークハルトへ視線を移す。
婚約おめでとうと大叔父が言うと、ジークハルトは驚いた顔をした。
「……まさか祝福されるとは思っていなくて」
思わずジークハルトから本音が漏れると、そうだろうなと大叔父が笑った。
「皇太子をレオンハルトに譲って、北の砦でギルバートの後継者になろうと思っていないか?」
ひげを触りながら、ジークハルトを見る目はなぜか優しい。
まるで祖父のようだ。
「ダメだぞ。皇太子はお前だ」
「……世界とリナだったら、俺はリナを取る。だから皇太子は無理だ」
ジークハルトは今まで誰にも言った事がない本心をつい告げてしまった。
先ほどからなぜか本音を漏らしてしまうのは、この綺麗な景色のせいか、温泉という物のせいなのか。
「初代ドラゴニアス皇帝はなぜ妻を助けられなかったのだろうな。あれは納得がいかん。惚れた女一人守れなくて世界が守れるか! 全部守ってみろ! 最強の男だろう」
大叔父がニカッと笑う。
大叔父の顔はギルバートが笑った顔に似ていて、やはり親戚なのだとジークハルトは苦笑した。
ジークハルトと大叔父が温泉から出ると、岩の上ではリリアーナがクリスの手帳に何か落書きをしていた。
「あ! ジーク! 見て見て!」
リリアーナは嬉しそうに見せてくれるが、独特な絵はやはりよくわからない。
困った顔でクリスを見ると、クリスもわかりませんと首を横に振った。
「あのね、大叔父様。この露天風呂の横に宿泊できるところを作ると、綺麗な景色も見れるし、お風呂も貸し切りだし、家族で遊びに来るとすごく良いと思うの」
クリスには『別荘』では伝わらなかったので、『別邸』と言ったが、領地以外に別邸を持つことはないと教えてもらった。
「貴族用の宿泊施設にしてはどうかと言うのですが……」
クリスが困った顔で言う。
貴族は遠出するとき、別の貴族の屋敷に宿泊させてもらう。
領主は食事で持て成し、宿泊する方は手土産を持っていくのが一般的だ。
「帝都じゃない所に遊びに行きたいけれど、他の貴族の家には泊まりたくない場合もあるでしょう?」
リリアーナが首をコテンと傾ける。
他の貴族の家に泊まるのが当たり前なのに、泊まりたくないと言う。
また不思議な事を言い出したとクリスは溜息をついた。
「どのくらいの屋敷を建てればよいかの?」
リリアーナに大叔父が話しかける。
「4人? 5人? が眠れる……あ、そうか。貴族は侍女とかいるんだ。えーっと……」
一般常識がないリリアーナが御付きの者の人数が分からず首を傾げる姿に大叔父は声をあげて笑った。
「お前たち2人が宿泊できるスペースと、従者の部屋だな。食事も作れて、数日過ごせるくらいの」
作ってやるから2人で泊まりに来いと大叔父はひげを触りながら笑った。
リリアーナは真っ青な顔で黒竜メラスに乗り、大叔父の領地から飛び立つ。
あの子は飛ぶのが怖いのに、ジークハルトはわざと黒竜メラスでこの領地へ連れてきたのだろう。
道路建設自体には反対しなかったが、なぜここを通らないのかと文句を言った自分を説得するために。
宰相が建設費や設計図を持って説得にくるかと思ったが、まさかジークハルトが来るとは。
だが、話せてよかった。
「あまりいじめるなよ」
大叔父は孫のような2人を見送ると、白竜クレムにもう1度会いに露天風呂へと向かった。