178.始まりの地
ジークハルトはリリアーナを抱えて黒竜メラスに跨った。
黒竜メラスの上は相変わらず高い。
背中に乗るだけで、すでに2階くらいの高さだ。
「飛ぶぞ」
「あ! 待って!」
リリアーナは昨日習った魔術をやるので待ってとジークハルトにお願いした。
昨日の練習の感じを思い出す。
安心する感じ。
暖かくて、起きた時のジークハルトの腕の中。
だが目の前にはジークハルト。
全然集中できない。
「できたか?」
ジークハルトに優しく聞かれたが、リリアーナは首を横に振った。
本人の魅力が強すぎて、想像で暖かい気持ちになれない。
「……できない」
リリアーナは困った顔で微笑んだ。
「飛んでからやってみるか」
言葉と同時に浮き上がる黒竜メラス。
内臓が浮き上がる感覚にリリアーナが真っ青になった。
「ほら、息をしろ。大丈夫」
耳元で優しく囁かれる言葉。
リリアーナは酸欠の魚のように口をパクパクしながら息を吸おうと頑張った。
吸っているのか吐いているのかもよくわからない呼吸だ。
口だけ開いていて、実は吸ってもいないし吐いてもいないかもしれない。
「大丈夫。死んでいないのだから怖くないだろう?」
リリアーナが目一杯ジークハルトにしがみつくと、胸の奥に何か暖かい感じを見つけた。
このまま魔術が発動できるかも……。
暖かさで身体を包む。
大きな何かに包まれているような暖かい雰囲気の中で、ようやくどうにもできない震えが止まった。
「震えが止まったか?」
抱きしめる腕に伝わる振動がなくなったジークハルトがリリアーナの顔を覗き込んだ。
真っ青だった顔はいつも通りとまではいかないが、だいぶ顔色はマシになっている。
「魔術か?」
聞かれたリリアーナは頷いた。
「そうか。すごいな」
細められる金の眼。
発動条件がジークハルトだと聞いたら驚くだろうな。
リリアーナもぎこちない笑顔を見せた。
黒竜メラスは15mほど浮き上がった。
大学生だった莉奈が住んでいたマンション5階の部屋くらいの高さに感じる。
怖いけれど、魔術のおかげだろうか。
頭は割と冷静だ。
「今日はうさぎちゃんの叫び声、聞こえないね」
狼族は竜族よりも耳が良い。
泣き声も聞こえないと言うと、周りの護衛達はホッとした。
「口塞がれているんじゃないの?」
「そーかもね」
不敬な雑談をしながら見上げていると、急に黒竜メラスが羽ばたく。
「だ、団長!」
まさか黒竜メラスが厩舎から飛び立つなんて。
護衛達は慌てて赤竜に手綱をつけた。
すぐに追いかける第1騎士団長。
リリアーナが乗っているので、追いつけないほどのスピードではないはずだ。
第1騎士団長は黒竜メラスが向かった方向へ急いで赤竜を飛ばした。
「大丈夫。もし落ちても一緒に落ちてやる。独りにしないから心配するな」
リリアーナは目を閉じたままジークハルトにしがみついた。
まだ景色を見る余裕はない。
時々、黒竜メラスが羽ばたくと揺れる背中に驚きながらジークハルトとリリアーナは空を飛んだ。
『独りにしない』
あぁ、私は寂しかったんだ。
普段は気にならなかったが、前世の入学式、運動会、授業参観、卒業式。
小学生の頃は祖母が来てくれたが、クラスメイトが羨ましかった。
校門前で写真を撮る家族、一緒にお弁当を食べる家族。
運動会の親子競技はいつも先生とだった。
中学生の頃には祖母に来ないでいいよと断った。
祖母も亡くなり高校生からは独り暮らし。
飛行機が落ちた時も独り。
この世界でも独りの時間は多かった。
「……どうした? 怖いか?」
急に泣き出したリリアーナにジークハルトは優しく声をかける。
リリアーナは首を小さく横に振った。
今は独りじゃない。
毎日ジークハルトが一緒にいてくれる。
「着地だ。揺れるぞ」
グッと引き寄せられた腕の中で、リリアーナは飛行機の着陸のような内臓が浮かび上がる感覚に必死で耐える。
ふわっとする浮遊感は魔術をかけていても苦手だ。
目を開けたリリアーナは驚いた。
辺り一面に青いドラゴンフラワーが咲いている。
近くを一周旋回して厩舎に戻ってきたのだと思ったのに。
「……ドラゴンフラワーの丘?」
ここに来たのは1度だけ。
プロポーズされた夜だけだ。
ジークハルトはリリアーナを抱えたまま黒竜メラスから降りた。
黒竜メラスの近くに赤竜ロズが着地する。
第1騎士団長が赤竜の首をポンポンと撫でているのが見えた。
一面に咲く青い花。
夜とは全く違う雰囲気だ。
丘から街や海が見える。
……海?
白いセカイに青い川と海。
絵具で塗分けたかのような綺麗な境界線。
「……ボールから青い液体が川のように流れて、奥に広がって、水平線になって、草原ができて、遠くの方には赤や黄色の花と山」
リリアーナは力が抜け、ガクンとその場に崩れ落ちた。
慌てて支えたジークハルトに腕を掴まれ、お尻の激突はなんとか逃れる。
「白い少女がいたのはあの辺り」
リリアーナが指を差すとジークハルトが驚いた顔をした。
「創世記の始まりの地はここなのか?」
始まりの地はわからないが、白い世界でこの景色を見たとリリアーナはジークハルトに伝えた。
「この後ろにトンネルがあって、そこから来たのだけど、振り返ったらトンネルはなくて」
今、振り返っても何もない。
あの時、白い少女はゆっくりと手を広げて、辺りを見回すように回転して。
『 ひ み つ 』
右手の人差し指を口元にあてて白い少女は微笑んだ。
「あっ! 秘密って言われたのに喋っちゃった!」
どうしようとリリアーナが焦る。
「秘密?」
誰との秘密だとジークハルトの眉が片方上がる。
「白い女の子が秘密ねって言ったのに」
「リナ、俺に秘密はナシだ。俺には話してもいい」
どこからどこまでが秘密だったのかよくわからないが、きっといつものように斜め上の発想なのだろう。
ジークハルトが自信満々に俺は特別だから良いのだと言うと、リリアーナは首を傾げた。
「リナ、あと覚えている事は?」
「魚が出て、生き物が出て……」
ノアの方舟だと思って。
それから、何かに似ていると……。
何だったか思い出せない。
「何かにこの風景が似ているなと……えーっと」
思い出そうとしても頭にモヤがかかっているようだった。
本当に何だっただろうか?
鳥も出て、ドラゴンも出て、人も出て……。
「思い出せない」
リリアーナは首を横に振った。
ジークハルトはリリアーナの頬に優しく手を添えると、無理するなと微笑んだ。
おでこに、まぶたにそっと口づけを落とし、最後は唇へ。
ドラゴンフラワーを1輪摘み、リリアーナの髪に挿す。
黒い髪に青白い花が綺麗に咲いた。
ドラゴンフラワーの丘は誰でも入れる場所。
街から少し離れているため多くの人がいるわけではないが、全くいないわけではない。
突然現れたドラゴンとイチャイチャな2人。
「そろそろお戻りを」
申し訳ありません。と第1騎士団長は頭を下げた。
「……また一緒に来よう」
帰りも頑張れよと言われたリリアーナは黒竜メラスに乗る前から真っ青になった。