135.二股
わかっていたはずなのに。
手に入れた物をなくす方が辛い事を。
エスト国では、みんなに護られて、魔術も抑えて、自分からは何もしなかった。
この国では学園でみんなと一緒に魔術を練習して楽しかった。
友達はライしかいないけれど、クラスメイト、冒険者、ギルドの受付嬢、店のおじさんと、話が出来る人はたくさんできた。
冒険者になって依頼を受けて、お金を稼いで、街で買い物をして料理を作って。
前世では当たり前だった『自分で稼いだお金で物を買う事』がこの国ではできた。
ケガを治したり、チョークや水車など、自分が誰かの役に立つ事を知ってしまった。
もう護られるだけの生活には戻れない。
ノアールの事は好きだ。
5歳からずっと一緒にいてくれた大切な人。
前世を含めても誰よりも1番長く一緒にいてくれた人。
でも、ジークハルトの事も好きだ。
何でもやらせてくれて、前世なんて変な事を言っても全て受け止めてくれる優しい人。
リリアーナは繋いでいない左手で顔を押さえた。
「……リリー、泣かないでください」
困らせているのはわかっている。
でも諦める事もできない。
ノアールは困った顔でリリアーナを見上げた。
あぁ、変わっていない。
できるだけ声を我慢して泣く所も、泣き顔を見せないように俯く所も。
「リリー……」
繋いだ手を強く握るとリリアーナはますます俯いてしまった。
静かに扉が開き、お辞儀をする茶色の髪が見えた。
黒髪・金眼の青年がスライゴの研究室へ入る。
スライゴは慌てて立ち上がりお辞儀をした。
仕立ての良い真っ黒のジャケットがよく似合う長身の男性。
輝くような曇りのない金の眼は皇族の証。
ただ髪をかき上げただけでも絶対王者の雰囲気、威厳がある風貌、色気がありすぎる仕草。
ノアールは立ち上がり、ゆっくりリリアーナの手を離すと1歩下がりお辞儀をした。
「……リナ」
泣いているリリアーナを後ろから抱きしめ、耳元で名前を呼ぶ。
低く、甘く、切ない声。
「愛している。ずっと一緒だと約束しただろう? 絶対に離さない」
リリアーナの身体の向きを変え、ジークハルトは優しく抱きしめた。
「婚約者は俺だ」
ジークハルトの言葉にリリアーナは頷く。
「予定通り婚約発表するぞ」
ジークハルトはリリアーナの返事を確認すると、顔を上げノアールを見た。
「これは俺の女だ。奪うつもりならドラゴンを倒すつもりでかかってこい」
威圧を飛ばし、威嚇する。
睨むように細められた金の眼は獲物を狙うドラゴンそのものだ。
いつでも相手になるとジークハルトは唸るようにノアールに告げた。
「お前の名は?」
恋敵の名前くらいは聞いてやるとジークハルトが言う。
ジークハルトが名前を聞く事は珍しい。
クリスは驚き、スライゴと顔を見合わせた。
「ノアール・ウィンチェスタと申します」
ノアールはゆっくりと顔を上げ、真剣な目でジークハルトを見た。
「……お前が『ノア先生』か」
リリアーナとの会話で何度か出た『ノア先生』が元婚約者だとようやく繋がる。
魔術の家庭教師だった男だ。
サイドで束ねた緑の髪は男にしては長い。
おそらく魔力を高めるためなのだろう。
人族でありながらドラゴニアス帝立学園の講師になったということは、相当優秀な男。
「お前をこの国から追い出す事も、この世から排除する事も可能だ」
唸るように告げられた物騒な言葉にレオンハルトは目を見開いた。
クリスもスライゴも何も言えずに固まる。
残酷な言葉にリリアーナの身体がビクッと跳ねた。
ノアールだけは無礼を承知でジークハルトを見続けた。
もともとそんな事は覚悟の上でこの国に来たのだ。
命が惜しいのなら、追いかけて来たりはしない。
何もせずリリアーナを諦める事はできない。
ジークハルトは涙を流し続けるリリアーナの頬を優しく撫でた。
「だが、そんな事をしてもリナの心は手に入らない」
上を向かせ、触れるだけの口づけをする。
「……俺を選べ、リナ」
切なそうな金の眼がリリアーナの黒い眼を見つめる。
この眼はリリアーナがノアールに会いたいと言った時と同じ眼だ。
リリアーナは嗚咽を上げて泣き出した。
クリスはリリアーナが壊れてしまうのではないかと思った。
もう心は限界だ。
2人の男に挟まれ、追い詰められている。
真面目で優しい彼女がこの状況に耐えられるはずがない。
スライゴもリリアーナを心配そうに見つめる。
「レオ、付き添いさせて悪かったな。助かった」
ジークハルトの言葉にレオンハルトは首を横に振った。
「役に立たなくてごめん」
「いや、お前のおかげでリナは今日ここに来れた」
これからもリリアーナの相談に乗ってやってほしいと告げる。
「2人きりでなければ今後も会えば良い。ただし、必要以上に触れる事も、黙って国に連れ去る事も許さない」
細められた金の眼がノアールを睨む。
「……ありがとうございます」
まさか今後も会って良いと言われるとは思っていなかった。
ノアールの肩にスライゴが手を置く。
まるで良かったなと言ってくれているかのようだ。
街でも学園でも冷酷な皇子と噂されていたが、全然違う。
リリアーナに無理強いをしている様子もない。
むしろ優しく、リリアーナの希望を叶えている。
権力もあり威厳もあり見た目も良い男。
だが、それでもリリアーナは譲りたくない。
会って良いと言われたのだ。
18歳までになんとかリリアーナを取り戻したい。
「リナ、一緒に戻るか? ……まだここにいるか?」
ジークハルトが尋ねると、リリアーナは小さな声で戻りますと答えた。
目の横が赤くなってしまっている。
濡れたまつげと潤んだ大きな黒い眼が庇護欲を掻きたてると本人に自覚はあるだろうか?
本当は元婚約者なんかに会わせたくない。
ジークハルトは困った顔をしながらそっとリリアーナを抱き上げた。
クリスはスライゴの研究室から先に出ると、当然のように扉を持った。
リリアーナを抱えたジークハルトが通り、レオンハルトが続く。
扉を閉める時、ノアールがクリスにお辞儀をしているのが見えた。
その横でスライゴが手を振る。
クリスもこっそりスライゴに手を振り返した。
「クリス、馬車で戻る。先にレオと戻れ」
廊下を歩きながらジークハルトがクリスに指示を出す。
「護衛がおりませんし、次の公務の時間もありますのでジーク様も黒竜メラスでお戻りください」
クリスが眼鏡のブリッジを押さえながら言うと、ジークハルトは眉間にシワを寄せた。
「メラスで戻りましょう? ……乗れるようになりたい」
空が怖いから馬車でと言ってくれたのだ。
ジークハルトはいつでも気遣ってくれる。
それなのに自分は、ノアールにごめんなさいと、別邸には戻れないと返事ができなかった。
返事をしたらもう2度とノアールと会えなくなるのではないかとズルい思考が働いた。
二股なんて最低だ。
でも言えなかった。
ごめんなさい、ノア先生。
ごめんなさい、ジーク。
レオンハルトは白竜アスプロに、クリスは誰でも乗せてくれる優しい灰竜に乗る。
ジークハルトはリリアーナを強く抱きしめながら黒竜メラスに乗った。
ガタガタと震え、恐怖で息すら忘れてしまいそうなリリアーナにジークハルトは大丈夫だと囁き続けた。
ドラゴン厩舎に着くと、ジークハルトはクリスと急いで帝宮へ向かって行った。
時間がない中、来てくれたのだ。
きっとクリスが無理矢理時間を作ってくれたのだろう。
リリアーナは黒竜メラスの頬を撫でた。
レオンハルトの白竜アスプロも頬を撫でさせてくれる。
灰竜も撫でると、ギュゥと嬉しそうな声を上げた。
「リリー、大丈夫?」
「ついてきてくれてありがとう。私ね、レオと同じくらいの兄がいたの。だから甘えてごめんね」
無関係なのにあんな場面を見せられて困っただろう。
リリアーナはレオンハルトに巻き込んでごめんねと言った。
「それってエドワードって人?」
「うん。金髪で背格好も同じくらい。お兄様は騎士だけど」
人族で鍛えたエドワードと、竜族で何もしていないレオンハルトが同じくらいの筋肉なのだ。
やはり竜族の方が強い。
「そっか。じゃ、リリーの兄になってあげる」
本当は兄上の嫁になるリリーの方が、姉になるんだけど。
「これからも研究室について行ってあげるからね」
レオンハルトがリリアーナの頭をぐちゃぐちゃにすると、リリアーナは泣きそうな顔で微笑んだ。
◇
「……ジーク様、リリーの怖がり方が異常だと思うのですが」
クリスはドラゴンに乗っているリリアーナの様子がおかしい事に気づいていた。
ドラゴン自体は好きでカッコいいと言うのに。
「あぁ、少し事情があってな。お前にも伝えていなかった」
空から落ちて死んだから怖いと説明などできるわけがない。
ジークハルトは今更ながらクリスに伝えておけばよかったと思った。
そうすれば今日は馬車で戻れたはずだ。
優秀なクリスの事だ。
馬車で戻る時間も計算して公務を開けてくれたに違いない。
リリアーナは今日も怯えて辛そうだった。
「乗れるようになりたいと言っていたが、おそらく難しい」
恐怖心はいつまでも消えないだろう。
「お二人で練習する時間を作りましょうか?」
クリスは歩きながら手帳を広げる。
もうすぐリリアーナは長期休暇。
昼間でもよければ予定は組みやすい。
「そうだな。頼む」
会議室へ入りながらジークハルトはクリスへ告げる。
「畏まりました」
クリスはお辞儀をしながら会議室の扉を閉めた。




