127.最低
「……来ると思った」
スライゴは酒のグラスを傾けながら今来たばかりのクリスに声をかけた。
学生の頃から通っている馴染みの店。
スライゴはよくこの店に来る。
最近はバタバタしていてクリスはこの店に来るのは久しぶりだった。
「今日はご主人様はいいのか?」
いつも飲んでいた酒とはグラスが違う。
最近は酒の好みが変わったのだろうか。
クリスはマスターに同じものを注文し、隣の席に着いた。
「……今日の出来事を見せてくれないかな」
クリスは申し訳なさそうに尋ねたが、スライゴからの返事はなかった。
「……スライゴ?」
強めの酒で酔ってしまったのだろうか?
この酒は竜族にはちょうど良いが人族のスライゴにはキツイだろう。
クリスがスライゴの肩にそっと触れると、スライゴは頬杖をつきながらクリスの方を向いた。
「……俺さ、あの子が卒業したら国に帰るわ」
クリスに会えるのはあと2年半。
国に帰ったらもう会うことはないだろう。
「……え?」
急にどうしたんだよ。とクリスが狼狽える。
スライゴは本当はもう国に帰っているはずだったとクリスに打ち明けた。
クリスに別れを言わないままこの国から消えようと思っていたが、友人の娘を助けてほしいと父に頼まれ、滞在を延期した事をはじめて告げた。
友人の娘とは、父の友人ウィンチェスタ侯爵が後見人を務めていたリリアーナの事だ。
「なぁ、クリス。あの子も国に返してあげなよ」
頬杖をつきながら酒の入ったグラスを持ち、飲むわけでもなくただ酒を揺らす。
結論が出ないときによくやるスライゴの癖だ。
「無理だよ。あの子は離れられない」
ジークハルトが離さないのだ。
最近は仲も良いし、何より『番』だしとクリスは言う。
「あの子はそれで幸せなのかな」
今はいいかもしれない。
あの子の方が年下だから。
でもあっという間に逆転し、彼女の方が年上になった時、あの子は耐えられるのだろうか。
同性の自分でさえ、周りが変わらないのに自分だけ年を取っていく状況に耐えられない。
夫よりも先に老けていく事を気にしない女性がいるだろうか。
『……リリアーナは……幸せになれるだろうか』
ふいにクリスは、ウィンチェスタ侯爵の呟きを思い出す。
「……きっと大陸が分かれているのはこういう理由だろうね」
スライゴはグラスの酒を揺らし、苦笑した。
竜族とドラゴンの住む荒地のノース大陸、
ドワーフの住む緑の多いサウス大陸、
獣人の住むウエスト大陸、
人族の住むイースト大陸。
そしてエルフが住むという世界の裏側。
昔はきちんと住むところが分かれていたのだ。
いつの間にか生活が豊かになり、陸を進み、海を渡り、種族が住むところが混ざってしまった。
このノース大陸は、世界中からドラゴニアス帝国にあこがれた若者が来てしまう。
イースト大陸には人族しかいないので、大陸から出なければ寿命の差など気にもしなかった。
「……スライゴ」
クリスは掛ける言葉が見つからなかった。
友人が悩んでいることも気づいていなかった。
自分に気を使わせないために言わないまま去ろうとしていたのだろう。
同じ思いをするであろうリリアーナに会ってしまったから、優しい彼はリリアーナのためにクリスに打ち明けたのだ。
「いつか、10年後か15年後か、あの子が帰りたいと言った時に帰れる場所だけは残しておいてくれないか?」
スライゴはグラスの酒を一気に飲み干した。
用意していた記録水晶をクリスに手渡し、泣きそうな顔で微笑む。
カウンターにお金を置き、店を出ていくスライゴの背中をクリスは無言で見続けた。
スライゴにもらった記録水晶には、クリスが確認したかった事がすべて映っていた。
彼が部屋に入ってきたときのリリアーナの様子、レオンハルトに指導している時の様子、泣きながら結界を作るリリアーナの姿、そして実践の結果。
スライゴはウィンチェスタ侯爵の息子が来ることを知っていたのだ。
ジークハルト、リリアーナ、ウィンチェスタ侯爵の息子。
3人の関係性を知っていて、魔術実践の授業を記録してくれたのだろう。
ジークハルトなら彼をこの国から追い出すことは可能だ。
それをさせないために、スライゴは悩みを打ち明けてくれた。
リリアーナが同じ悩みに苦しんだ時、クリスが慌てなくて済むように。
寿命の差に気が付いた時、リリアーナが亡くなった後のジークハルトの心配しか自分はしていなかった。
生きている間もリリアーナが辛い思いをする事は考慮していなかった。
スライゴが教えてくれなかったら、ずっと気づかないままだっただろう。
10年一緒に過ごし、急に引き離された2人。
番のジークハルト。
ジークハルトが昔の男だと言っていた騎士の動きも気になる。
『……リリアーナは……幸せになれるだろうか』
ウィンチェスタ侯爵の言葉がクリスに突き刺さる。
記録水晶を持ち、クリスは溜息をつきながら宰相室へと向かった。
「お嬢様、お食事はとらないとダメですよ」
侍女のミナは、リリアーナに暖かい紅茶を差し出した。
リリアーナが1番好きなアールグレイだ。
「ありがと、ミナ」
ジークハルトは帰ってこない。
リリアーナは豪華な食事が並んだリビングのソファーに小さくなって座っていた。
たくさん泣いたせいでまぶたが重い。
後ろから抱きしめられ、手を握られ、耳元に響くノアールの声。
思い出すとまた泣けてしまう。
ジークハルトが怒って出て行ってしまうのも当然だ。
テレビドラマで、元彼に『やり直そう』って言われて迷う女なんて最低! って思っていたけれど、まさにその最低な女だ。
ジークハルトの事は好きだと思う。
強引だけど優しくて、なんでもやらせてくれて、護ってくれて、強くて、暖かくて。
でも、ノアールの事も好きだと思う。
優しくて、小さい頃からずっと側にいて、いつか結婚できたらいいなと思っていた。
……最低だ。
2人とも好きだなんて、本当に最低だ。
「……ねぇ、ミナ……」
リリアーナの言葉はそのあと続かなかった。
ミナは聞き返すこともなく、辛そうなリリアーナを見守るだけ。
最近ようやく明るくなったのに。
やっと忘れて新しい幸せを手にしようとしていたのに。
どうしてもっと早く来て下さらなかったのですかノアール様。
「お嬢様、何か料理をしませんか? べっこう飴を作りましょうか?」
ミナの提案にリリアーナは、ありがとう。と微笑んだ。
「……マズイ展開だな」
皇帝陛下は綺麗な金髪の頭を抱えながら宰相へ話しかけた。
「そうですね」
宰相も一緒に溜息をつく。
溜息の元凶はジークハルトとリリアーナだ。
最近はようやくリリアーナもこの国に慣れ、ジークハルトとも仲睦まじく過ごしていると安心していたのに。
公務にも参加し画期的な意見を言い、大臣たちにも一目置かれ順調だと思っていた。
「まさか元婚約者が追いかけてくるとは」
皇帝陛下が溜息をついた。
2人の手元にはスライゴの記録水晶。
先ほどクリスが持ってきた物だ。
クリスは今からジークハルトを探しに行くという。
誤解をしたまま出て行ってしまったと困っていた。
おそらく迷宮なので騎士を借りたいと。
ジークハルトが朝になっても戻っていなかったらリリアーナは傷つくだろう。
「……無事に婚約発表できるのか?」
皇帝陛下の呟きに、宰相は眼鏡を押さえながら溜息をついた。