120.16歳
学園から帰ってきたリリアーナは驚いた。
朝までそこにあったはずのクローゼットがないのだ。
ジークハルトの執務室から、食事をしているリビングを通って、寝室へ。
そこまでは同じだったのに、なぜかクローゼットが消えている。
代わりに見知らぬ扉が1つ。
クローゼットでこの扉が隠されていたのだろう。
「リナ。誕生日おめでとう」
ジークハルトに耳元で囁かれ、リリアーナは真っ赤になった。
自分の誕生日を気にしていなかったが今日は6月30日だ!
ウィンチェスタ侯爵にショコラをもらって、すっかり自分の誕生日が終わった気でいた。
ジークハルトはリリアーナの背中を押し、扉を開けるように促す。
ゆっくりとノブを回し、ドアを押した。
隣にも部屋があったなんて知らなかった。
薄い水色の壁紙は、建国祭のドレスのような色。
フォード家の水色に近い色だった。
ドアのすぐ横には見慣れたクローゼットがあった。
リリアーナの服や荷物もある。
その隣には、今までなかった鏡台。
窓側には豪華なキッチンがついている。
「……キッチン?」
絶対こんな場所にあるはずがないものだ。
リリアーナはジークハルトを見上げた。
「誕生日プレゼントだ」
気に入ったか? とジークハルトは金の眼を細めて笑う。
料理がしたいと言ったから作ってくれたのだろう。
甘やかしすぎだ。
「ありがとうございます」
リリアーナが黒い眼を揺らしながらお礼を言うと、敬語! と笑われた。
「……ありがとう、ジーク」
リリアーナはジークハルトに抱きついた。
身長差40cm。
背伸びして顔を上げてもキスは届かない。
でもきっと気づいてくれる。
リリアーナは腕を伸ばしジークハルトの首へ手を回した。
「……お取込み中、申し訳ありませんが……」
眼鏡のブリッジをグィと押し、気まずそうに声をかける。
クリスがいたことに驚いたリリアーナが慌てて離れようとするが、ジークハルトはしっかりとリリアーナを掴んで離さなかった。
「道具の注文をしたいので、リリーをお借りしても?」
急いでキッチンは準備したが、まだ道具が何もないのだ。
このままでは料理が作れない。
お皿すらない。
キッチンの隣に設置された棚は空っぽだった。
「道具は次の火曜日に街へ買いに行く」
ジークハルトがそれでいいか? と尋ねるとリリアーナは頷いた。
「あとは、12月の夜会のドレスの採寸とデザインの相談をしたいと父が」
誕生日を迎えられたので、夜会に参加できる年になりましたねとクリスが笑う。
「あぁ、婚約発表か」
「こ、婚約発表?」
まるで芸能人みたいではないか。
しかも初めて参加した建国祭ですらあんな騒ぎになったのに、いきなりハードルが高すぎる!
「ダンスは踊れるか?」
ジークハルトの言葉に、リリアーナは全力で否定した。
「……ダンスは壊滅的……」
リリアーナは顔面蒼白になった。
明日から7月。
12月の夜会ということはあと5ヶ月。
ダンスができるようになるとは思えない。
「では、ダンスの講師を手配しましょう。授業のない月曜日と木曜日の午後ですね」
クリスは手帳にサラサラと予定を書き込んでいく。
「クリス兄様、あの、本当にダンスだけは無理で、過去に教わった事もあるんですけど、できなくて」
一生懸命説明するがセンスのなさがうまく伝わらない。
大丈夫ですよ。教えるのが上手な先生をご用意しますと微笑まれてしまった。
「最低1曲は踊らないといけないからな。本当は3曲だが」
ファーストダンスから続けてもう1回、そしてラストダンス。
婚約者と踊るのは3曲が一般的だ。
今回は、婚約発表を兼ねている。
ファーストダンスは2人だけで踊ることになるのだろう。
「……無理……」
リリアーナは魂の抜けた顔でつぶやいた。
◇
今日はリリアーナの誕生日。
ノアールはリリアーナの指輪と腕輪の魔道具を見つめながら薄暗い部屋にいた。
1年前の誕生日は、一緒に街へ行ってカバンを買った。
そのカバンは寮に残されていたので、今はノアールの手元にある。
カバンに入っていたリリアーナのバインダーも、鉛筆もそのままだ。
毎年誕生日を祝えると思っていた。
ずっと。一生。
「ノアール? 入るよ?」
ウィンチェスタ侯爵は薄暗いノアールの部屋を覗き込み、本を持って入ってきた。
机に1冊の本を置き、緑の眼を細めて笑う。
「私は読んでしまったからね、貸してあげるよ」
ドラゴンの生態についての本だ。
どう見ても自分向けではない。
フレディリック殿下なら喜びそうな内容だ。
「相手が違うのではないですか?」
ノアールは本を手に取りパラパラとめくった。
「ドラゴニアス帝国で12月の終わりに開催される夜会で第1皇子とリリアーナの婚約発表があるそうだよ」
ノアールは小さな声で、そうですかとつぶやいた。
10月からドラゴニアス帝立学園の講師になり、リリアーナを奪い返すまで3ヶ月の猶予ということだ。
「彼が世界で1番強いからね」
相手の情報は必要だろう? とウィンチェスタ侯爵は困ったように笑った。
ドラゴンに関する本や竜族に関する本を何冊も現地で見たが、それでも選びきれずに10冊程度買ってきた。
その中で1番ノアールに必要だと思った1冊だ。
ドラゴニアス帝国でリリアーナに会った時、エドワードとフレディリック殿下には自分の近況を伝えるために入学テストを渡してきたが、ノアールには無かった。
渡すことは可能だっただろう。
フレディリック殿下をドラゴン好きと言い、直接的な言い方をしなかったのだ。
ノアールを家庭教師と言えばよかったはずだ。
それをしなかったということは、リリアーナの中で、ノアールの事はまだ気持ちの整理がついていないという事だろう。
きっとノアールとは会わない方がいい。
新しい環境で新しい幸せを見つけた方がいい。
それでも息子の初恋を応援したい気持ちを抑える事ができない。
嫌いになって別れたわけではないから余計に。
ごめんね、リリアーナ。
君が迷うとわかっているのに、ノアールをドラゴニアス帝国へ行かせる私を許してくれるかい?
「リリアーナは13年生。9年生の魔術回路と12年生の魔術実践の授業を受けているそうだよ」
ウィンチェスタ侯爵は切なそうに微笑んだ。