116.空
真っ暗な空には月も星もなく、風もほとんどない。
黒竜メラスと赤竜の羽ばたく音が時々聞こえる程度で、辺りは静まり返っていた。
黒竜メラスの背中は大きく揺れる事もない。
大阪のテーマパークにある恐竜のアトラクションみたいな激しい動きは一切ない。
リリアーナはジークハルトの口づけでようやく自分の状況が理解できた。
身体の震えは治まりそうにないが、大パニックだった頭はやっと働き始める。
ジークハルトはリリアーナが落ち着いた事を確認するとようやく唇を離した。
「大丈夫か?」
リリアーナは小さく頷く。
身体はまだ震えたままだ。
自分の身体ではないくらい制御できない。
ジークハルトのお日様のような匂いを嗅ぎ、首元に擦り寄る。
もっと抱きしめて欲しくて、リリアーナはジークハルトの背中に腕を必死で伸ばした。
黒竜メラスが小さくグゥと鳴く。
もうすぐ着くという合図だ。
「着地は揺れるぞ」
リリアーナを抱え込み、着地の体勢をとる。
再び内臓が浮くような感覚がリリアーナを襲った。
「ひっ……」
声にならない声が思わず出る。
ジークハルトの肩に顔を埋め、背中にしっかり腕を回してリリアーナは恐怖心に耐えた。
スッと綺麗な着地。
もっと振動があると身構えていたが、全くそんな必要はなかった。
「着いたぞ」
ジークハルトの声にゆっくりと顔を上げる。
そこは以前行った事があるドラゴン厩舎だ。
赤竜に乗った第1騎士団長が降り、赤竜を褒めるかのように首をポンポンと叩く。
すぐに、厩舎から出た数人の世話人が手綱を外し、赤竜に水をあげている様子が見えた。
ジークハルトもリリアーナを抱えたまま黒竜メラスから降りる。
黒竜メラスの前にリリアーナを置くと、リリアーナの頭をくしゃっと撫でた。
リリアーナの黒眼と、黒竜メラスの金眼が合う。
あまりにも怖がっていたので心配してくれたのだろう。
「ごめんね」
メラスが怖いんじゃないんだ。
「迎えに来てくれてありがとう」
黒竜メラスはグゥと返事をし、顔を下げリリアーナに頬を撫でさせた。
ジークハルトは手綱を外し、水と餌の準備をする。
赤竜は3人で世話をしているのに黒竜メラスはジークハルト1人だ。
『メラスはジーク兄しか触れないもんね~』
ラインハルトが言っていた事は本当だった。
ジークハルトは毎日リリアーナが眠っている時間にやっているのだ。
公務も黒竜メラスの世話も、そして私の世話まで。
リリアーナは目を伏せた。
「……姫君、荷物をどうぞ」
赤髪の第1騎士団長がリリアーナに学園のカバンを手渡した。
「ひ、姫?」
全然そんなんじゃないです。とリリアーナは首を横に振った。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「ご無事で良かったです」
第1騎士団長は一礼をすると赤竜の方へ戻って行く。
赤髪の第1騎士団長は見た目は35歳くらい。
大きくて強そうだ。
「リナ、部屋に戻るぞ」
もうジークハルトからピリピリした空気は感じない。
リリアーナはジークハルトにも、迎えに来てくれてありがとうとお礼を言った。
2人が去ったドラゴン厩舎の話題はもちろんリリアーナの話だ。
どうして黒竜メラスに乗れたのか。
どうして黒竜メラスに触れる事ができるのか。
すごい、すごいと大絶賛だ。
乗る時はどうだったのか、すぐに乗せたのかと質問が相次ぐ。
「あ~、姫は怖がって乗りたくないと言っていたのにジーク様が抱き上げたまま無理矢理乗せたな」
黒竜メラスは嫌がっていなかったと赤髪の第1騎士団長が当時の様子を思い出す。
いや、それよりも。
「空の上でずっとイチャイチャ、イチャイチャ」
目のやり場に困ったと第1騎士団長は頭をガリガリかいた。
「俺、ジーク様の片想いだってウワサ聞いたけど?」
「あー、俺も!」
「だから婚約発表してないのか?」
勝手なみんなの憶測が飛び、また噂となって広がって行く。
「いや、次の夜会で発表だろう」
さぁ、仕事! 仕事!
第1騎士団長の声を合図にみんなが散らばって行く。
第1騎士団長は厩舎を後にし、今日の報告をするため宰相室に向かった。
執務室へ戻った瞬間、リリアーナは侍女のミナに怒られた。
クリスにもだいぶ心配をかけてしまった。
リリアーナがいない事、ジークハルトが出て行ってしまった事。
心配事が2倍だ。
本当に申し訳ない。
「ごめんなさい」
リリアーナは3人に頭を下げた。
その後、いつも通り侍女のミナに湯浴みを手伝ってもらい、ジークハルトと夕食を頂く。
そしていつも通り本を読んで寝ようと、ベッドへ本を持ち込んだ。
いつものようにうつ伏せで本を開くと、今日はなぜか寝室の扉が開く。
「今日はメラスのところに行かないのですか?」
リリアーナが首を傾げた。
「さっき水と餌をやったからな」
ジークハルトも湯浴みをしたのだろう。
濡れた髪はいつもよりツヤツヤ感が増している。
はだけた服もセクシーすぎる。
リリアーナは目のやり場に困り視線を本へ移した。
「何の本だ?」
ジークハルトがベッドに手をつき、上から覗き込む。
俺より本かとでも言いたそうな声だ。
「ライから借りた歴史の教科書です」
0点だからと、リリアーナは何気なく顔を上げた。
左側にジークハルトの手がある。
ベッドに手をついている状態だ。
だが、右側を見てもジークハルトの手がある。
本を見ていたので気づいていなかったのだ。
自分が逃げられない体勢だと。
もし仰向けだったらベッドに押し倒された状況だ。
歴史の教科書がヒョイと取り上げられ、サイドテーブルへ置かれた。
左耳をペロリと舐められる。
「ひゃっ」
リリアーナは思わず声を上げた。
耳たぶを甘噛みされながら、色気のある吐息が耳に掛かる。
リリアーナは一気に真っ赤になった。
「……どうして空が怖い?」
耳元で囁くように聞かれた質問にリリアーナは驚いた。
説明できるわけがない。
前世で飛行機が海に落ちて死にました?
こんな事を言ってもわからないだろう。
何も言わないリリアーナの首に軽くチクッとした痛みが走る。
「白いからすぐに痕が付くな」
ジークハルトは赤く跡がついた首をペロッと舐めた。
「あ、痕?」
キスマークと言う事だろうか?
リリアーナは慌てて手で首を隠した。
首を隠したはずの手はあっさりとジークハルトに掴まれ、枕の上に持ち上げられる。
「ひゃっ」
そのままリリアーナの身体が反転した。
あっさりとうつ伏せから仰向けに変えられ、ジークハルトの金の眼と目が合った。
細められた金の眼はまるで捕食者のようだ。
ジークハルトは軽く舌舐めずりをすると、リリアーナの手を枕に押し付けたまま、再び首に口づけをし始めた。
「……ドラゴンに乗ったことがあるのか?」
質問をしながらも、首を舐め、吸い付き、多くの赤い痕を残していく。
「ない! 乗った事ない!」
リリアーナは真っ赤な顔で答える。
「ではなぜ怖い?」
鎖骨を舐められ、今度は反対側の耳へ上がっていく。
「お、落ちたの!」
「どこから?」
そう聞かれるのは当然だ。
うまく説明できない。
色気のありすぎる吐息にぞくぞくする。
だんだん考える力も無くなってきた。
もうジークハルトには意味のわからない単語で言ってしまおうか。
飛行機から落ちたって。
そうすれば解放されるだろうか。
「そ、空から、海に」
鎖骨の下にまでキスマークを付けていたジークハルトの動きがピタリと止まった。
「……空から海?」
ジークハルトはリリアーナの手を離すと、肘で体重を支えながらリリアーナに覆いかぶさった。
金の眼がリリアーナを捕らえる。
どういう事か正直に言わないと離さないぞという無言の圧力を感じたリリアーナは、泣きそうな顔で微笑んだ。