105.チョーク
迷路みたい。
リリアーナは冒険者ハルの姿をしたジークハルトに手を引かれて暗い洞窟を進んでいた。
今日は冒険者の日。
畑を荒らすホーンラビットを退治するというGランクの依頼だったはずなのに。
ジークハルトの追うなという忠告も聞かず、逃げたホーンラビットを追い、林に入ったところで穴に落ちたのだ。
たぶんジークハルトは怒っている。
先ほどから何も言わずに、ただ手を引っ張られているのだ。
「……ここはさっきも通ったな」
洞窟の壁側の亀裂を見たジークハルトが立ち止まった。
「……ごめんなさい」
リリアーナが小さな声でつぶやくと、ジークハルトは溜息をついた。
この洞窟は冒険者ギルドには登録されていない未知の洞窟。
こんな所に洞窟があるとは長い間知らなかった。
未知のため何が起こるかわからない。
自分一人ならどうにでもなるが、危険な目に合わせてすまないとジークハルトが謝罪する。
リリアーナは首を横に振り、ジークハルトの腕にしがみついた。
「どっちに進んだか目印が残せると良いのだが……」
出口のわからない三叉路も小道もある洞窟で、現在2人は迷子中だ。
目印……。
岩にチョークなら字が書けるだろうか。
石灰だよね。形も大きさも想像できる。
鉛筆くらいの魔力で作れるなら意識を失わないはずだけど……。
リリアーナはジークハルトを見上げた。
「どうかしたか?」
「……指先を握って、冷たくなったら止めてくれますか?」
うっかり敬語で話しかけ、また注意された。
白いチョーク。
大きさも長さも思い出せる。
小学校にあった普通のチョークだ。
リリアーナの手が熱くなり、目から涙が溢れた。
手の上に薄く現れる円筒形の小さな棒は、すぐに実体を持ちリリアーナの手の中に握られた。
「どうしていつも泣く?」
目から溢れた涙をジークハルトは片手で拭った。
リリアーナは困ったように笑うと、チョークをジークハルトへ見せた。
「これで壁に字が書けると思う」
試しに足元に線を引くと、白い線がきれいにつく。
よかった。大丈夫そうだ。
「これはなんだ?」
書かれた白い線を指でなぞると、ジークハルトの指には白い粉がついた。
「チョークです」
あ、えっと、石灰岩? 石膏? えーっと。とリリアーナは説明に困った。
原材料は詳しくないのだ。
「この前のペンといい、不思議な奴だな」
ジークハルトはリリアーナの後頭部を持つと唇を甘噛みする。
嫌われていないか不安にならないようにだろう。
最初はずっとキスばっかりで戸惑ったが、最近はなぜかキスされると安心してしまう。
やっぱり単純な女なのかもしれない。
「借りるぞ」
ジークハルトは壁に矢印を書くと、リリアーナの手を握った。
道を進み、分岐でまた矢印を書きながらさらに進むと、やはり最初の場所へ戻ってきてしまった。
次は矢印と記号を書き進んでいく。
なぜだか何度も元の場所へ戻ってきてしまう。
不思議すぎる。
進んでいるはずなのに。
「やったー! 外!」
何度か繰り返し、ようやく外へ出たときには、辺りはすでに暗くなっていた。
「依頼は来週だな」
このままではホーンラビットの依頼が未達になってしまう。
制度的には1か月以内であれば問題ないらしい。
1ヶ月を過ぎてしまうと次の人へ依頼したいので、失敗となるそうだ。
「あっ! いた!」
林の中にラビットの耳が見えたリリアーナはまた走り出そうとした所でジークハルトに腕を掴まれた。
「お前はまた~~」
はっとしたリリアーナがピタッと止まった。
そうだ。こうやって追いかけて洞窟に落ちたのだ。
リリアーナは足をそろえて止まり、ジークハルトにもう追いかけませんとアピールした。
後ろから溜息が聞こえる。
学習能力がなくてごめんなさい!
依頼はホーンラビットの退治。
退治の証明はホーンラビットの角。
だから燃やさなければ大丈夫!
リリアーナは弓を弾くようなポーズで狙いを定めた。
エスト国の王立学園の演習室の的よりも少し遠いけれど。
フレディリック殿下に初めて魔術を見られた時は10歳だ。
あの時よりは魔力が上がっているはず。
リリアーナは氷の矢をホーンラビットに向かって撃った。
1発では心配なので、連続で3発撃つ。
「当たったー!」
1発目と3発目が見事に当たり、ホーンラビットが倒れる音がした。
あ~、えっと。
近づいていいのかな?
チラッとジークハルトの顔を確認すると、驚いた顔のジークハルトと目が合った。
ジークハルトは手をつないでホーンラビットの方へ連れて行ってくれる。
ホーンラビットの体には氷が刺さっただろう傷が2か所。
左足とお尻の辺りだ。
「これなら肉も買い取ってくれるな」
ジークハルトはホーンラビットの足4本を紐でぐるぐる巻きにし、釣り上げた。
あ、ワイルド。
茶髪のチャラい大学生のような見た目なのに、サバイバルが似合うのはガタイが良いからだろうか。
どうしよう。
かっこいいと思ってしまった。
どうしよう。
プロポーズされたから舞い上がっている?
綺麗な場所だったから?
創世記を読んでしまったから?
まだ知り合って2ヶ月ちょっとなのに。
軽い女かな。チョロい女かな。
うわー。どうしよう。
リリアーナは真っ赤になって顔を押さえた。
「……どうかしたのか?」
「な、なんでもない」
リリアーナは慌てて首を横に振った。
今は冒険者スズの姿。
ボブの長さの髪が顔にベシベシ当たる。
ホーンラビットはジークハルトが持ってくれた。
いつものように肩を抱かれて冒険者ギルドへ戻る。
完了手続きを1人でお願いしてみたが、すぐに肉の買い取り金と依頼達成報酬がドッグタグに入金された。
隣のカウンタでは、冒険者ハルの姿のジークハルトが新しい洞窟について報告をしていた。
中が迷路のようだと。
後日改めて調査をするまで、林には立ち入り禁止という張り紙がすぐにされた。
すごいな。
リリアーナがジークハルトを見つめていると、冒険者ハルの姿のジークハルトがリリアーナに手を振ってくれる。
その瞬間、ギルド内から色めき立つ声と、ざわつく声が聞こえた。
あ、やっぱりハルは人気なのね。
目の前の受付嬢も目がハートだ。
……そうだよね。
誰が見たってかっこいいよね。
これで地位と名誉まであるって知ったら、お姉様方は倒れそうだ。
「スズ」
優しく名前を呼ばれ、おいでおいでと手招きされる。
リリアーナは、お姉様方の殺気で背筋がぞわっとした。
「これを林の調査に持って行っていいか?」
ジークハルトの手の上にはチョーク。
これがないと洞窟で迷子になってしまうだろう。
リリアーナはもちろんいいよと微笑んだ。