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草の星・・二

作者: 瑞雲

 草の星・・とは、地上に生きる私達の事です。その毎日は、沢山の出来事に出会い、沢山の人に出会います。私達の命は、消えてゆきます。しかし残像は・・いつ迄も輝いて居るんです。心の中に生きて居て、私の理想の人になります。後の事は、残された人の役目と云うものでしょうか。人生は、辻褄が合う(合うべきところがきちんと合う)ようになって居るのなら。蒔いた種は、刈り取らなければならないのなら・・。物事を、長い目で捉える事にして、慌てないで下さい。若い頃悩んだ事など、愛おしくなります。努力して居ると・・花・蝶・風・虹・・自然界に守られて居る事に気が付きますよ。

 草の星とや・・

 信江従叔母さんは、3月下旬・・桜の花がちらほら咲き初めた頃、黄泉の国へ旅立たれました。白寿・・99歳と云う事です。最後にお見舞いしたのは・・その日より20日前でしたか。取り寄せた美味しいジュースと、美味しいと評判の・・ケーキ屋さんのプリン!!従叔母さんに是非召し上がって頂きたいと思いました。前回、1月にお見舞いした折、施設は昼食時でした。ベットの上に座って、自らスプーンを使い、綺麗に完食して見せていました。「詩ちゃんも食べんさい。コーヒーか何か貰いんさい」など言って、私を気遣って居ました。小母さんはいつもと同じです・・何かご馳走が出て居たから。ここでも、何かをと思っています。「下の喫茶店で、何か買ってきます」その店でプリン二つと私の昼食にピザを買い求めて、部屋で一緒に頂きました。「美味しいね、初めてよ!・・此処で売っとるん!」信江従叔母さんは昔と同じように、普通のお話が出来て居ました。ですから、今度もプリンをお土産に持って来ました。ジュースは、スタッフさんが(誤嚥防止に)少し固めて下さるようです。この日少し、小母さんの様子違いました。声に艶はありましたが、聞き取れない事もありました。舌が口の奥の方で、丸くなっているんです。ベットの傍に、立って見て居るから・・かも知れない。「私が結婚する時、小母さんに買って貰った食器棚・・まだ使って居るんよ。小さくて使い勝手が良いから、ウフフ・・」「ほうじゃったかいの・・忘れたよ、ウフフ・・」三男叔父さん、1月に亡くなった事は言えませんでした。気落ちするかも知れない・・お互いに頑張って生きていたから。「信子は?・・家はどうしとるかの~」「元気でしたよ!秋に行きましたよ。孫の幸男君来ているん?世話をしてくれるんでしょ。私も今度・・家に寄って見ます」「行って見てね・・」と、信江小母さんは、流し目で詩子を見て言うのでした。身体も顔も動かす力がないからか・・。その視線には、強く気持ちが入って居ました。あのがみがみ事件に関係するんでしょうか。それを、克服しなさいと云う意味なんでしょうか。克服して逞しくなれ!と・・私も若くないから、度々行く事は出来ません。信子ちゃんの為に、何か役立つ事を教えて上げる事が出来るかも知れない。提案なら出来ます。気心は一番よく分かります。子供の頃から、お揃いのマフラーを作って貰って、仲良く育ったからです。あの、がみがみ事件が起きたのは・・誰かさんの嘘と、誇張から来たものでした。そして十数年間・・関係する家には行かなくなりました。信江従叔母さんと、詩子のわだかまりは・・只それだけです。娘の信子ちゃんには、何の事だか分からないでしょう。ですから、がみがみ事件は、そのままにさせて下さい。疎遠にした時間・・いろいろな事が出来ました。詩子には大切な時間でした。孤独でなければ、ものを書く事は出来ません。その事を見つけて居るんです。ありがたいと思って居るんです。

 ②

 訃報の知らせは、姉・麗子からのメールでした。従叔母さん・・とうとう、やっぱり亡くなられたんですね。と、返信しました。覚悟はしていましたが・・流石に哀しいものです。お通夜は遠いので失礼させて頂きました。

 その日空は青く澄んでいて、北の空に薄く筋雲が掛かっていました。式は10時30分・・家を朝8時には出なければなりません。なのに・・30分遅れました。斎場を探して居ると、遅れるかも知れません。どうしよう・・街に入って、まだかな?まだかな・・と思いながら、コンビニに入って、道を聞くと・・すぐ近くに来て居ました。一安心です・・式に間に合います。

 静々と斎場に入りました。信子ちゃんに、お悔やみの言葉も言えず、式は始まりました。3人の孫の家族・・ひ孫さんが沢山並んで居られました。信江従叔母さんのお手柄です。剛力です・・。

読経の最中にも、従妹とか、はとこの懐かしい顔を見ると・・つい、幸子姉ちゃん・・〇〇ちゃん・・。幸子姉ちゃん若くなって・・と、思って居ました。そっくりな娘ちゃんでした。お母さんは?と聞くと、施設に入所しましたという。あぁ~そうですね。皆そういう年頃です。つるべ落とし(つるべを井戸に落とすように、垂直に速く落ちる)の秋の夕日。・・私を含めて、年寄り皆に当てはまります。しっ!と、自ら口に人差し指・・。80歳前後のお祖母さん達が、場所を弁え(わきま)ず、はしゃいで居ました。徐に(おもむろ)式章と聖典を出して、読経・・。一切(いっさい)業繋(ごっけ)ものぞこりぬ・・・・・・南無阿弥陀仏・・南無阿弥陀仏・・南無阿弥陀仏・・

順次ご焼香をお願いします。係りの者が、ご案内いたします。南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・・如是我聞 一時仏在舎衛国 祇樹給弧独園・・・「念珠は一連でないといけんのよ。不幸が重なると云うてね。葬式は一連に白い房よ。これはね水晶よ。普段のお参りとかには、色の房でいいらしいよ」姉麗子が一連のキラキラ光る・・水晶の念珠を見せながら言うのでした。「そんな事ないよね。娘の念珠を買う時にね、店の人から聞きましたよ・・嫁ぎ先の宗派を聞いて下さい。と云うので、浄土宗と告げて・・一連の念珠を買い求めて、持たせましたよ。娘は私と同じ二連が欲しかったらしいけどね。浄土真宗は二連よ。一連でもいいらしい。その時に聞きましたよ。ご導師さんの念珠を見て下さい。白い房で水晶の、三連も四連もの念珠を持って居られる。(それに私・・気に入って居るんです。無理して買いましたから)葬式で念珠無くす人、多いらしいから、しっかり持って居ますよ」お経は、しめやかに・厳かに執り行われました。七日参りのお経も済みました。そして、お別れの義・・信江従叔母さんは、綺麗にお化粧をして貰って沢山の花に囲まれて、そして沢山の孫や、ひ孫に囲まれて居ました。「小母さん、綺麗ですよ。これまでありがとうございました」私は、繰り返しお念仏して居ました。

 会場の外に出て、車に乗ろうとした・・その時、見ると受付で貰った志の袋の中に、一連の水晶の念珠が引っかかって居るのでした。「どうしたんじゃろーこれ!どうしよう・・」私より後ろに座っていた人かも知れない?姉麗子かも知れない?姉かな・・ちょっと頭をよぎりました。今の内に、皆が居る時に聞かないと・・落とし主を探すのに、手間が掛かります。そうして近くにいた、会場の人に預けました。「落とし物です・・この家の式場で拾いました。預かって下さいますか」

 信江従叔母さんの魂は、もうすぐ桜が咲き初めると云う日、県北の空を高く高く昇っていました。市内ではちらほら咲き初めていました。空から見えますか・・。その間、参列者は昼食を頂きます。念珠の落し主はやっぱり、姉・麗子でした。「念珠は葬儀社さんに預けましたよ。道路の入り口に立っていた人よ」「帰りに取りに行きます」と、姉を乗せて来た姪が言うんです。「この頃は母の後ろをついて歩いて居るんよ・・何か落として居るから」お姉さんも娘に怒られています。「水晶でね・・高いんよ」またもや姉は金額の事を言って居ます。態と落としたのではないですか?と言ってしまいそうです。詩子が欲しがると思って居るんでしょ。姉さんはお金で釣るんでしょ!その気持ちが、嫌いなんですよね。詩子は、愛想良くしたくないから、そのままです。スルーして居ると、話は進まないし、広がらないから。(だから、可愛らしくないと云われるし、今でも貧乏をして居るんです)

 「凄くご馳走じゃね・・美味しい・・」「美味しいね・・」「お宅はどちらさんですか?」姉麗子は向かい合って座っている人に尋ねています。「私は(しも)の家の者です」「あ~そうですか・・お世話になって居ます」そのお隣さん・・「お宅さんは、どちらの親戚の方ですか・・」「私は分家の家の者です・・」「あ~そうですか・・母がお仲人した家の方ですか?」とかなんとか色々と・・姉・麗子は話をしています。「いえいえ・・あの方とは違います。私は・・」「・・・・・」「・・・・」「こういう事でないと、皆様にお会い出来る機会が無いですよの~。よぉお参りくださいましたの~」「1月の三男叔父さんの葬儀・・もうちょっとね・・如何思った?冴えんかったね」お世話になった叔父さんですから・・と云う姪の気持ちが入ります。麗子は、詩子の隣に座っている、従弟(70歳前後)と話し出しました。詩子は、通夜と葬式にお参りして・・火葬場には体調不良にて欠席しました。「葬儀社さんに因るんじゃないん?」と、詩子が言うと・・「いやぁ~お金をケチったのよ。お棺にしても、骨壺にしても、叔父さんあれ程頑張ったのに(姪の気持ちです)・・大きな家を建てて貰って居るのにねえ!お棺は小さいし、白いペンキで塗ったような・・貧弱じゃった。骨壺も小さいし、ねえ!」隣の従弟は口数は少ない。「うん・・まぁ・・」「あんまり・・人に言わん方がええよ!親戚の人が笑って居ますよ」「男性が思うぐらいじゃけ~小さいよね。人に言うたらいけんよ!」「あんたが、自分で言うよぉ・・ふふ」姉より若い従弟に言われて居ました。姉は、べらべら喋りだすと止まりません。場所を弁えて下さい。三男叔父さんの娘・・房子ちゃんは、疲れていたんよ。お母さんも介護が必要なんだから。一人で世話をしていたんだから。(お姉さん・・もう少し大人になって下さい。ここらで言うと、陰口になります。相談に乗って上げても良い立場でしょう。年齢で云うと、従弟・従妹達の一番上ですよ。年長として・・お手本になって、相談を受けたり、皆の気持ちを伝えたり、世話をして上げる立場ではないんですか!母美子の従兄、二三(ふみ)従伯父さんには、私達は大変良くして貰いましたよ。お手本にしませんか。

 ③

 二三従伯父さんは素敵な方でした。背も高く、ダンディーでした。地位もあり、財産も有り、子供さん達も立派になられて・・名実共に、恵まれた方でした。母の従兄です。・・祖父の姉は近くの村に嫁がれて居ました。その方の長男が、二三従伯父さんです。時々小父さんと云う字にしますね。小父さんは我が家を・・倒産して、貧乏して居る私達を親切にして下さり、そして導いて頂くのでした。小学生の私・詩子も、母と連れ立って二三従伯父さんの家を尋ねた事を思い出します。初めての訪問は・・新緑が眩しい頃でした。大きな楠木のあるバス停で降りて、小路を少し入って角から二件目・・門構えの家がありました。母は日頃の貧乏からの息抜きと、私へのお手本かな?暮らしの良い生活を見せたかったのかも知れません。「今は貧乏をしているけれど・・本当は、昔は、いい家の流れを受け継いで居るんよ。だから・・卑屈になったらいけんよ。希望を持つんよ」母・美子のいつもの言葉です。そして母は、従伯父さんを小さい頃から慕っていたんです。親切にして頂く為に大切なのは・・やっぱり、こちらの気持ちでしょうね。父と母が仲人をするという時の事・・黒留袖を貸して頂きたいので伺うと・・。詩子は、傍で話を聞いているだけですが・・豊かな気持ちになりました。長男さんは・・公社の部長さんになられたそうでした。学歴もあり、人脈もよく、早い出世です。長女さんの夫は、大企業のエリートサラリーマンでした。東京在住の次女さんの夫も、大企業のエリートサラリーマンです。殊の外美しかった・・三女さんは、修学旅行中にスカウトされて、女優さんになられたそうです。でも、一年も仕事をしない内に・・結婚されて、お医者様の奥様に・・。暗くて小さな借家に住んで居る私達とは、別の世界のお話です。何の苦労もないのでしょう。いいよね・・。私も大きくなったら、こんな風に生活出来るでしょうか。と、夢を見たものです。

 母の入院の折にも、お見舞いに来られて・・お金はあるか、と私に気遣って下さるのでした。お医者様にもよろしくと、頼んで下さいました。婿は○○医師です。よろしくお願いしますと付け加えて貰って居ました。

 私詩子の結婚式にも参列して頂きました。流暢なスピーチを頂き、ありがたい事でした。そして夫の上司と面識があるそうです。若い夫は、この地に身寄りもなく心強かったと言って居ました。二三従伯父さんの様に、志の高い人は・・私達の為に一生懸命に思って頂いて居るのが解りました。導いて頂いて居るのでした。麗子姉さん!・・お姉さんと私は・・同じ親の元に生まれました。同じ環境に育ちました。年が離れて居るだけですからね。・・視点が違うというか・・価値観が違うというか・・志が違うというのか・・。どうしてこんなにも違ってしまったのでしょうね。いつか二人で考えて見ませんか?

 余談ですが・・母の従兄の小父さん達、はとこ達の名前(男性)には・・数字が付いて居る事に興味を持ちました。どの叔母さんとかの、系列は分かりませんが。例えば・・二三(ふみ)小父さん・・一二三(ひふみ)小父さん・・三五(さんご)小父さん・・四六(しろく)小父さん・・五六(ごろく)小父さんとか・・語呂がいいと言うか。子供が7人も8人も生まれて来ると・・、名前を付けるのに忙しかったのでしょうか。語呂が良くて、面白い程ですよね。小父さん達は皆・・健康で仕事を成功されて、天寿を全うされたと云う事です。

 ④

 麗子・姉さんは美しい人でした。強いて非を言うとしたら・・美し過ぎて、冷たい感じになります。背が高すぎて、つり合いが取れない男性が多かった。蚤の夫婦とか言うらしい。(夫よりも妻の方が柄の大きい夫婦・広辞苑)だから・・詩子を敵対したのかも知れません。

 姉が、私・詩子に敵対し始めたのは・・多分あの頃でしょう。詩子は高校2年生でしたか。進学したいと願っていたんです。姉さんは大企業の支店OL、高給を貰っていたようです。父と母は、麗子の縁談を見据えて・・小さい家ながらも、一応黒板塀で門構えと云う処を借り受けて居ました。我が家から、歩いて30分余り・・母の従姉が住んで居ました。小柄で、白髪の小さな髷を、ちょこんと結って居ました。良家のご隠居風です。右上の犬歯が1本抜けて居ましたが、もお年寄りだから入れないと言いました。息子に気兼ねをして居るのでしょう。名前はお(あい)お婆さん・・80歳前後です。この人の家は、手広くお店を経営して居たんですが、ご主人を亡くされたんです。お店は畳んで、今は借家住まいと云う事です。息子の家族と、計6人と住んで居ると言います。我が家に来ては、仕立ての内職をしている母の後ろで・・嫁いで居る娘は洋装店を経営している。等その自慢話から・・雑貨店を手広くやっていた頃の思い出話・・ひとしきり話しては、帰るのだそうです。只それだけで、幸せ。話が出来る処があると云う事で、満足して居たのでしょう。血縁と云う事は、物事の前後の調べもなしに頼めたり、職探しのお願いが出来るんですね。お藍さんの孫が、京都の私立大学を退学して帰り・・その就職の紹介から、我が家に出入りするようになりました。名前は正雄といいます。身長は175㎝位か、中肉中背と云う処です。顔はイケメンの方に入ると思います。強いて言えば、初代貴乃花と云う感じかな?年齢は、詩子より4級上で姉麗子より、2級下と云う処です。母とお藍さんが、従妹の関係ですから、お藍さんの孫ですから、麗子・詩子とは、ふた従妹半と云う関係になります。しかし・・お酒をよく飲む人でした。我が家でも飲んでは、たわいもない世間話をして帰りました。「あ~ぁ・こんな小さい家なのに、これでは勉強出来ないよ。本当にもぉ!」何度か言って居ました。そんな正雄もようやく何とか、学校からの紹介で就職も決まりました。燃料の企業の駐在員事務所・・事務所は2人か3人位の社員だと言って居ました。主に営業担当と云う事でした。

 姉・麗子は、少しづつ正雄が好きになったのかも知れません。仕事が済んで、食事とか映画鑑賞のデート等して居たのでしょう。ところが急に正雄は、私・詩子を誘うのです。「ギターを教えてやろう・・」中古のギターを買ったのかな?ボロ~ンと爪弾きました。何でこの人・・格好を付けるんじゃろうか。「メロディー何か弾けるん?」詩子は冷ややかに言いました。「いいえ・・私はいいです。音痴なんです。音が分からないから、いいです」「簡単だよ・・ほれ!弾いてみな・・」正雄は簡単な1小節を爪弾きました。多分禁じられた遊びでしたかね?どうにか弾けていました。「いいです。それどころじゃないんです・・私、進路の事で悩んで居るんです」またの日でありましたか「スキューバダイビング教えてやろう。海の中の浮遊感がいいんだよ!酸素ボンベを背負って、ウエットスーツを着て水中メガネで海の中を見るんだよ。綺麗だよ海の中・・見せてやりたいよ」多分会社の取り扱い品だと思います。「ええっ!私・色が黒くなるから嫌・・絶対嫌です」詩子はそれでなくても色黒を気にして居たんです。何で私に?と思いました。お藍さんや家族の勧め?と云うか・・年下の詩ちゃんの方を選びなさい。と云う事でしょう。困りますよね。全然思っても居ない人でしたから。問題外のそと。外のそとの人です。姉さんが、詩子を恨むのは・・お門違いです!

進学は・・無理な事でした。家の経済状態・・それ以上に姉麗子の反対があるからです。麗子は、国立大学を望めるほど、成績が良かったそうです。母美子の古い考え方がそうしたのです。夜学もあるし、通信教育も有るのに、何故そんな風に考えるのかと思います。「麗子は成績良かったのに可哀そうに、親戚に借金があったから、進学を諦めて貰った!だからね。詩ちゃんもね。それに詩子は何になりたいん?何を専攻したいんね」「家庭科の先生よ!中学校の時の担任・・A先生の様になりたい」こっそり試験だけは受けて見ました。一番の原因は、私の成績でした。(魔力を持っていると信じていたのに、効かなかったです)A先生は、詩子が進学出来るように、何かと計らって下さいました。だからA先生の様になりたいんです。「詩子さんは集中すると・・凄く成績を上げるんです。だから今からでも間に合います」高校の担任に、中学の時の成績の推移を見せて、後押しをして下さいました。母のパート先も紹介して下さいました。母も麗子の事を気遣って、苦しんでいたと思います。「詩ちゃんばっかり・・内はな~んもして貰えんかった!」姉・麗子の決まり文句!口癖なんです。いつ迄も・・今でも言って居ます。だから・・私は姉と、遠ざかって居るんです。

 ある日曜日の事・・私は炬燵に入って、就職試験用に撮った写真を見ていました。写真の詩子は、陰気な表情をしています。撮り直したい位です。2~3社の試験に応募して居ました。私・詩子は、何か出来そうなのに、その何かが分からないんです。自分は何をするべきか、分かっている人も居れば・・あ~でもない、こ~でもないと模索して、探し当てる人も居る。詩子は後者なのでした。人生最終章、この年になってようやく解りました。

 姉・麗子が言うんす。「この写真を頂戴・・」「あ~いいよ。あんまり良く写ってないんよ。何に使うん?どうするん?」この就職用の証明写真と、もう一枚は写真集から、父母が仲人をした折、三三九度のお神酒を注ぐ、稚児をした時の写真。高校1年生でしたか・・着物を着て緊張して居ます。この写真も良くないんです。この2枚を頂戴と云うんです。他にいい写真も有るのに・・どうしたんかね?普通写真を貰う時は、人の綺麗に写って居る写真を貰いたいですよね。それなのに、陰気な顔をした証明写真と着物を着て緊張している写真・・何に使ったのか?分からないまま40年位過ぎた頃でした。娘が姉の家を訪ねた折に、奥から出て来たのでと言って、その2枚の写真を返して来ました。何に使ったのでしょうか。姉・麗子は覚えていないんです。覚えていないから、平気で返して来るんです。当時テレビ番組で、必殺仕事人シリーズを放映して居ました。そのように・・多少のお金を払えば、恨みを晴らして呉れる仕事があったと思います。副業でして居るんです。調査か何かの本業のついでに、副業が出来るんでしょう。殺しはしませんが、引っ掛けるんです。データーを残しておいて何年か後、幸せに暮らして居る時・・証拠写真か何かをチラッと見せる・・引っ掛けるんです。引っ掛からないなら、しこりは残りますが・・そのままです。あの時・・姉と喧嘩した時(原因は忘れました)姉さんは言って居ました。「もお頼んだから・・お金払ったよ!」この言葉を言って置くのは、約束事かも知れません。他でも1件聞いた事があります。自分の思うようにならないなら・・お金を払って迄も、恨みを晴らす。迷惑な人達です。人柄としては、大した事は無いですね。お断りして良かった!闇の仕事人が居たのは、60年位前の事です。その仕事、今あるかどうか分かりません。

 人と人が出会うと云うと・・何故、戦いになるんでしょうか?服従させて、思うように人を使う?それが幸せですか?不思議ですね。何の為に、生きて居るんでしょうか。お互いに小さいながらも、満足する仕事をして、自ら光りましょうよ。

 その後姉さんは良い人に巡り合い、結婚しました。お藍お婆さんは・・亡くなられたでしょう。正雄さんは転勤になったりしたそうですが・・肝臓の病気で、30代後半で亡くなったそうです。風の噂で聞きました。お酒の飲み過ぎでしょうね。体を壊して居たんでしょう。現在、姉麗子は80代・・私詩子は70代後半になっています。何年過ぎた事になりますか??忘れてしまいそうです。

 ⑤

 麗子姉さんとの思い出は・・。私がもの心ついた頃から、絵本を読んで貰って居た事です。戦後育ちですから、沢山の絵本はありません。カラフルで綺麗な絵本でもありません。姉さんが小さい頃何度も読んだ、茶色くなって、本の端が擦り減って居る絵本でした。昔話の定番・・かぐや姫・桃太郎・浦島太郎・カチカチ山・さるかに合戦・等々。とりわけ、かぐや姫のお話は何度読んで貰った事か・・。「この本読んで」と小さな詩子が頼むと・・お姉ちゃんは、いつも抱っこして読んでくれました。「またかぐや姫?・・もお覚えたでしょうに!」「ウフフ・・覚えたよ。ほいでも読んでね。かぐや姫のお話、好きなんだもん・・昔々あるところに・・ねぇ、ウフフ」「昔々あるところに・・竹取の翁という・・」

 小学校入学前から、字を教えて貰ったのもお姉さんでした。母は内職をして居たから・・手が取れなくて、母は姉・麗子に頼んだのです。「こくごの練習ノート買って来たよ。何度も何度も・・書いて覚えるんよ。1回では覚えられないよ。お手本書くね。よく見て、同じように書くんよ」「はーい!こお?お姉ちゃん・・」「あっ・・向きが反対よ、何で間違うんじゃろね・・をの字とまの字。他の字は良いよ。〇付けて上げるね」「ありがとう。お姉ちゃん・・嬉しい!」「をの字とまの字も直したよ・・〇つけてね」「大きな5重〇上げるね。一人でも練習するんよ。返事は?」「は~い・・ありがとう」

 「空豆炒りましたよ・・」台所から母の声がします。今日は、外に女を囲って居る父も帰って居ます。「はーい・・お待ちどうさま・どうぞ!」炬燵の上に新聞紙を敷いた籠を置きました。空豆を焙烙(ほうろく)で炒ったもので・・硬いです。「詩ちゃんには、硬くて食べられないね・・」母はそら豆を噛んで、指で取って詩子の口に入れました。途中まで噛み砕いて貰うんですん。「ハイ!あぁ~ん」「あぁ~ん、美味しい・・」「今度はお父ちゃんから・・ハイ・あぁ~ん、ありがとう」「今度はお姉ちゃん、あぁ~ん、フフ・・美味し・・ありがとう」昔ですから、虫歯菌が移る等・・まだ言わない時でした。お陰です。私・詩子の歯は丈夫です。そして顎も健康です。

 「この前の義兄さんの法事での、姉さんが沢庵を食べとったよ。その音・・姉さんと家の奥さんの音・・そっくりじゃった!えぇ音をして居た!」「えぇっ!音?・・まぁ・アハハ・・アハハ・・こぉ?・・ポリ・・ポリ・・ポリ・ポリ・ポリポリポリポリ・・いつでも教えて差し上げますよ」「わしは、出来んよー。歯が弱いんか?顎が弱いんか知らんが‥あ~ように早うは噛めない。出来んの~」

 ⑥

 麗子姉さんは、詩子が小学生になっても、中学生になっても一緒に遊んで呉れました。お友達に紹介すると・・その時皆が言って呉れるんです。「麗子ちゃんの妹?あっ・・可愛い!!似てないね」「可愛いの後に、似ていない・・はどういう意味?」笑って、ちょっと抗議をしていました。父に似ている姉・麗子です。母に似ている妹・詩子でした。でも性質は反対に・・母に似ている麗子で、父に似ている詩子なのでした。母美子はくも膜下出血で、若くして亡くなりました。父と二人で小さな借家に住んで居る時、姉夫婦は提案して呉れました。「詩ちゃんの縁談に差し障るから・・お父さんはどうされるんですか?と言われるよ。私の貯金と詩ちゃんと父さんの貯金、3人の貯金を出して頭金にしよう。家を建てませんか」と言って呉れました。私達は田舎の家を畳んで、市内に出て来ているんです。殊更家には思い入れがあります。家の無い事で、辛い思いをしましたから・・。郊外の団地に土地も見つかりました。その土地は、父と姉夫婦も気に入りました。車が無ければ不便な処でしたが、ローンが払える金額で父と義兄の通勤にも便利でなくてはなりません。家の間取りは、義兄の言う通りにしました。詩子は嫁入り前に、ちょっと住むだけです。意見は何も言いませんでした。そして権利の事は何も言わないで嫁に行く事でした。月々の生活費は、父と義兄で半々に出して、姉麗子がやり繰りしました。家のローンと食費にしたのです。幼稚園の月謝とか、お酒とか、洋服とかはそれぞれが好きなように、自分たちで払う事にしました。私・詩子の月謝と小遣いは、仕立ての給金が入ります。洋服は、OLの時の服で間に合います。父も義兄も、中古の軽の車を買いました。先ずは一段落・・姉夫婦と父と私の、新しい生活がスタートしました。家の名義は銀行さんの指導で、共有ではなく父の名義になりました。その時義兄は、薄給でした。それと、ローンの頭金は、こちらの預金から出て居たからでしょうか。

 ⑦

 しかしながら・・ほっと、したのも束の間です。姉麗子の第二子出産予定日が近づいて居ました。通って居た和裁学校を休んで、詩子が世話をすることは約束して居ました。只・・1ケ月以上も休むと、お友達が心配して電話をして来ます。そうすると、姉・麗子は言うんです。「友達に態と電話をさせて、学校へ行きたそうな格好をする!」辛い言葉でした。大体産後の世話は、1~2週間くらいと思いますよね。中将湯を(漢方の婦人薬)飲んで居ました。ホルモンバランスの乱れにより起こる、生理周期に伴う諸症状を治す薬・・と云うのでしょう。

 父は、娘には内緒で年増の女性を紹介して貰って居ました。これまた心痛の種です。「家のローンがあるのに、どうするつもり!それに、定年後の協力会社はあと何年勤められるんですか!私が先に結婚してこの家を出ますから・・」と猛攻撃しました。父は思い付きで行動をする人なんです。家も車もある事はありますが・・ピーピーですからね。相手さんに、そこの処をちゃんと言っておかなければなりません。後にその女性は、他の人と結婚されたそうです。父はその後、思う人には巡り会えませんでした。96歳の生涯でした。母の生涯の2倍生きて、姉と私を見守りました。

 家の用事は沢山ありました。休みの日には・・二人の姪の子守から、食器洗い・・姉の着物の仕立てから、洋服の仕立て、姪の毛糸のワンピースを編んでも・・「あんたの為よ!嫁に行っても、産後にも、盆・暮れにも泊まりに来るんでしょ!可愛らしくしときんさい!あんたの為よ!」姉はいつもこの言葉を言うのでした。(産後には来ないから・・盆・暮れにも来ないから・・この家には私の休まる処は無いですよ)口には出さないが、思って居ました。

 そうこうして、1年もすると小姑は居辛くなるものです。「和裁なんか辞めて、働いたらええのに」義兄は平気で言うんです。「折角会社を辞めて、志したのに今になって止める訳には行きません。和裁教室を開きたいと希望して居るんよ。子供が小さい時は、家に居てあげなさい。いつも母が言って居たからね」

「義兄さんの従弟に年頃の人が居るらしいよ・・」このお話は姉の反対で断って呉れました。「姉妹で親戚に嫁に行くとなると・・いい時は両方がいいけれども、反対に一方がこじれたりすると・・一方も気まずいから、止めた方がいいよ。お断りするからね」「ありがとう。よろしく言って置いてね」初めて意見が合いました。その後は親戚の紹介で、数回お見合いもしました。希望した生活が出来そうな人は・・後に出会った、夫・治夫だけでした。自営業者さん・社長さんは、夫と二人三脚で仕事をする事になるから、詩子には向いていないと思います。詩子は集中すると、何か出来るものを持って居ると思って居ましたから。それを探すのに・・何年も掛かりまして、ようやく見つけた処です。

 部屋で仕立ての仕事をした後に、時々母の形見の着物を出しては、洋服の上に羽織りました。そして、姿見に映すんです。母が傍に居るようで、不思議に安らぐのでした。何があっても頑張ります、お母さん!見ていて下さいね。

 ⑧

 そして2~3日後の、日曜日でしたか・・。

「あの着物・・貰ったから!」姉・麗子は、引き戸を顔幅だけ引いて言うんです。「えぇっ!どうして!どうしたん!返して!」慌てて箪笥の引き出しの中を見て、確かめました。ありません。引き出しの、何処を探しても、やっぱりありません。何という事を・・「お母さんの遺言の着物・・形見じゃから!返してや!遺言よ!」父に言っても、義兄に訴えても返しては呉れませんでした。いつ迄、此処に居る気なんか!という見せしめでしょうか。暗号でしょうか。義兄は姉に注意もして呉れませんでした。頼りにする人は居ません。私にとって、これ程哀しい事はありませんでした。着物は普段に着る訳ではありません。母の年頃ですから、今の詩子には地味でした。しかし遺言の着物を箪笥から抜き取る姉・・どうしても考えられませんでした。家を出ようにも、お金もありません。この家の頭金の一部になりました。何もかも無くなりました。結婚出来る人もありませんでした。どうする事も出来ない・・部屋で一人になって泣いていた詩子は、ふと母の友人が言って下さった事を思い出しました。「悲しい時は、お母さんの墓にお参りしてみんさい。お参りするんよ」と・・。次の日思い立って、誰にも言わずに母の墓にお参りする事にしました。朝はいつもの様に、父の車で家を出ました。教材は少なめにしています。午後から早引きをして、お墓にお参りするつもりです。バスセンターから1時間半は掛かります。バスを降りて、村の入り口から墓迄の出来事は・・何度も書きました。あの光景は・・未だに書き尽くす事は出来ていません。夢の中のように、光に包まれて・・不思議な出来事に出会いました。それは・・村の入り口に来た時の事です。・・高い木立から・・ボロロ~ンとメロディーと共に・・2頭のモンシロチョウが降りて来たんです。そして、目の上少し高い処で・・おいでおいでをしています。「えぇっ!こんな事あるん?」2頭のモンシロチョウは、上になり下になり、必死に詩子を招くのでした。母の魂なのでしょう。「お母さん~」・・涙が自然に溢れ出ました。年頃の娘が泣きながら歩いてはいけません。いけない・いけないと思いながらも・・涙は溢れて来るのでした。途中・・白い軽トラックが、傍を猛スピードで走り抜けました。あっ!蝶々が行ってしまう・・!蝶々は少し吹き飛ばされましたが、また戻って来て・・必死に、おいでおいでをして居ます。辺りの風景は、頭を垂れた稲穂・・夕日に抱かれて黄金に輝いて居るのでした。幸い人影もなく田んぼ道を歩いて、墓の入り口に来た時・・2頭のモンシロチョウはス~ッと・・高く青い空に吸い込まれて行きました。「お母ちゃん~」ありがとうございます。ありがとうございます。感謝の涙になっていました。小さなモンシロチョウは、この世に何日の命を頂いているのでしょうか。儚い命でしょうに、私・詩子の為に、尊い命を捧げて貰ったのでした。あの蝶は、その後何処へ、そしてどうなったのでしょうか。時々思います。そしてこの事は忘れられない、大切な出来事になりました。この世の中は、人間だけではなく、蝶や、小鳥や、動物、花や木にも・・光や風、雲、虹、山、海・・大自然に支えられて居る事に気が付きました。

 その後は、姉の神経を逆撫でしないように、気を使いました。なるべく学校に居残って仕立物などをして帰りました。半年くらい後でしたか・・主人とお見合いをして、結婚しました。帰る家が無い事は・・産後も、盆も暮れにも遠慮して居なければならない。まっぴらごめんです。帰る家が無い事は、

大変幸せな事でした。なぜなら・・嫁ぎ先が我が家です。居場所、くつろげる居場所を造らなければなりません。そして頑張る事が出来たからです。ここしかないのですから、ありがたい事でした。長男出産の時は・・病院に訳を言って、少し長く居ました。第2子・長女出産の折は・・長男治彦の幼稚園、入園式の準備の為に早く帰りました。入園式は父に参列して貰いました。(当時、ガムシャラに働いて居た時代で、夫は会社を休めない)産後も何とか出来るものです。

 お姉さんは、産後うつになって居たのでしょう。姉の嫁ぎ先の事は(父に財産が無い事や、役職が無いからと腐す夫)心から満足していなかったのでしょうか?姉の努力が足りないのでしょうか?妹としては、どの様にして上げるべきか!と思います。只・・我が家は、守らなければなりません。嫁いでからは、別の家です。一緒ではないのです。そんな訳で、なるべく波風立てないように、近寄らないようにして居ました。姉さんとの事は、未だに分からない案件です。

 ⑨

 嫁入り支度は、目立たないように、一人で揃えました。着物は母が結構揃えて居ました。洋服は新婚旅行に着る洋服を一着、仕立てて貰いました。他はあるもので済ませました。食器は頒布会で月々購入したものがありました。他にもコツコツ月々揃えたものがあり、結構な嫁入り支度になりました。父があれこれ心配して、一応の電化製品を揃えて呉れました。嫁入り箪笥一式は、父と夫と私、三人で見立てたものでした。暗黙の内に、姉は居ません。「内の箪笥より、詩ちゃんの方がええ!というで・・」父も分かって居るんです。工場から直接アパートに運んで貰いました。母が生きて居ましたら、どんなにか喜んで居るでしょう。姉の時も、これ程の支度が出来ましたと喜んで・・人に見て貰って居ましたから。

 長男治彦が生まれて・・2歳半位の時に、再びあの家に入りました。父名義の家を売って、姉夫婦の家を建てるのだと云うのです。条件のいい公社の団地が当たったそうです。新聞広告に売りに出されて、その値段で買う事になりました。建てて5年、建てた時の倍の値段になるんです。交渉したのは父です。利益分は貰えると思ったのでしょう。それとも思わせただけかも知れません。義兄は薄給でしたから、父名義の家になって居ました。その家に夫は、18年の銀行ローンを組みました。組んで下さいました。(ありがたい)OLの時の貯金を差し出したその家を、倍の値段で買い取り、父の世話をすれば・・文句ないんでしょ!これで姉さんとは、終わりですよね。これでもう・・来ないで頂きたい。口では言いませんが・・そお思って居ました。父と一緒に住む事を、夫の実家は快く承諾して下さいました。遠い事もありますが、何か別の折に恩を返したいと思って居ました。

 ⑩

 その家で、長女・詩織は生まれました。父とも皆で、仲良く暮らして居ました。不便な団地ですから、買い物には大変でした。先ずバイクを買いました。ペーパー試験で免許が取れるからです。当分の間バイクが生活の手段です。自動車免許を取得したのは・・娘が幼稚園に入園して、時間が出来てからでした。近くにある自動車教習所にしました。練習には近くて便利ですが・・試験は遠くの試験場で、試験官は警察官です。上がりまくって、試験を受けました。何回も落ちました・・お陰で事故もなく今日があります。教習所出のドライバーですと自慢しました。

 娘が6ケ月位の時でした。積算の仕事をしていた父も65歳になっていました。子会社から、孫会社に移って居ましたが・・退職の声が掛かりました。その後は、1ケ月はぶらぶらして居ましたが・・。ハローワークで探した、タウン街の刃物店の店員のパートの仕事がありました。年金もあるのですが、食費としてローンを手伝って呉れました。とてもありがたい事でした。そして慣れない仕事、接客業ですから申し訳なく思いました。その店で、刃物の研ぎを研修しました。でもその店でも、長くは続きませんでした・・。「若い人に、ケチケチ使われるのは嫌じゃ!辞めさせて貰う」と云うんです。「まぁ・・どうしたもんじゃろう。折角いい処があったのに」「砥ぎ屋さんをするんじゃ。車に砥石の器械を積んで、回ろうと思う」と言い出したんです。驚きました。「嫌ですよ!いけません。お金は何処から出すんですか?」「あるよ」「嘘ぉ!何処に?お父さんは商売には向かないよ。止めて下さい!どうせ長くは続きませんよ。車に器械を積んで回るん?お父さんが?考えられません!どうせ・・今日も仕事は無かった。明日も多分無いじゃろう。と言って家でゴロゴロ寝とるよね!それは困るから!小さくても良いから、連絡先のある、お店を持って下さい。刃物だけの専門店として、研ぎ屋をして下さい」と必死で頼んで、お店を持つ事になりましたが・・。しかし肝心な「お金が無いんじゃ。ぱぁよ!」と、父は言い出すんです。「無いから銀行に行って、100万円貸して貰えるように頼んで来た。詩ちゃんと麗子のハンコを貰って来るように言われた」「あると言ったじゃないね!どうしてこんな事になるん?」多分ですが・・家を売った時の利益が半分入ると思って居たんでしょう。姉達はそお思わせて置いて、全部頂きです。親だから言わなかったのか?ちょろまかされたのか?分かりません。このお金は、父の人生最後に、施設入所に使われる事になります。世の中は辻褄が会うように出来ています。父は昔から、お金を借りる事に関しては、上手に悪知恵が働く人なんです。払うのは母でしたから、可哀そうに思いました。仕立ての内職をしていた母が、どんなに苦労したことか・・。傍で見ていましたから分かります。それでも、父の人生、最後位は店主と云う事にさせて上げたいと思いました。父は家もない、地位もない、財産もない人ですから、何とか手助けをして上げたいと思いました。しかしながら・・父が見つけた店は北区、電気屋さんと同じフロアーの一角の、一坪を借りていました。我が家から1時間も掛かります。もうちょっと別の物件を探したらいいのに。まぁ・・いい人に巡り合えて、その地に住むと云う事もありかな?品物の仕入れ先は・・知人の紹介でした。店に陳列する、最初の商品を「見繕って送って下さい」と言って居ます。なんと、情けない事でしょう。根性が入って居るんですか!品物は、自分で選ばなければ!と思います。送られて来た荷物は・・専門店向けに、良い商品もあるんですが。見るからに、形式の古い売れ残ったような商品迄仕入れて居ました。これでは、先が思いやられます。でも私・・3歳の長男・治彦と6ケ月の長女・詩織、二人の子供を抱えていましたから・・父の店の一部始終は、見て上げられませんでした。遠い店まで行って、世話をする事は出来ないんです。

 「チラシが出来たよ・・見てくれ。明日の朝刊に入れるんじゃ!」「あれ!清潔感があって、いいじゃない・・」B5の白い用紙にブルーの文字で、刃物専門店の広告がありました。包丁研ぎ・・○○円ハサミ砥ぎ・・○○円。開店記念特価・・裁断バサミ。包丁。等々・・「印刷屋さんのデザイナーに頼んだ・・」「良かったね・・先ず先ずです」「明日は早う行ってみる」どうにか漕ぎつけて、父も嬉しそうにして居ました。地域の皆様に浸透して、店が長く続きますように念じました。

「お帰りなさい・・チラシの効果はどうじゃった?」「うん・・チラシを持っての、こ・この広告はお宅ですかいの!言うて、来てくれた人があった・・。近くの病院の奥さんが、3本研ぎを持って来ての~喜んで貰ったよ」「良かったね・・頑張って下さい」しかし・・2週間もすれば、客足も徐々に減ります。客の要望に・・「ありゃあ、ありません。これもありません・・と、いう小さい商売じゃけぇ~」父はまた弱音を吐き出しています。店に行って、目を瞑って座って居るんでしょ!どうにかする気持ちはないんですか。この家に帰って、商売は出来ないんよ!店の開店資金、100万円借りて居るんよ!どうするつもり!!と、言いたくなります。

 ⑪

 先日カットに行った美容室で・・情報を得ました。「カット鋏の研ぎは如何されて居ますか?」カットをして貰いながら、四方山話の中です。「私は安い鋏を買いまして、切れなくなったら捨てるんです。研ぎ代高いからね・・。理容室さんに頼んだりする友達もいるけれど・・送ったりして、手間が掛かります。店を回って見て下さい。喜びますよ」「ありがとうございます。この地区の美容師会の会長さんは、どなたですか?挨拶に伺います」「・・・・ですよ」「ありがとうございます。本当にありがとうございます。1~2週間後にも伺ってみます。先ず近くのお店で、納得して貰います」

 と言う事で、父の名刺を持って・・近くの美容室を回って見ました。娘をおんぶして、バイクに飛び乗りました。後には引けないんです。必死の思いです!寒い日でした・・バイクの私と娘に吹き付けるかの様に、粉雪が舞い始めました。背中の娘・詩織は良い子にしています。あるお店の先生は・・「粉雪の舞う寒い日に、家に居なさいよ!」詩織の足をさすって下さいました。鏡に映った詩織のほっぺ・・リンゴのように赤くて、可愛いと思いました。あるお店で、父の名刺を出して「カット鋏を研がせて下さい・・」接客中の先生は・・「あなたが砥ぐの?」年恰好を見て・・怪訝そうな声です。「いいえ父が砥ぎます」「北区?遠いね」「家はこちらですから・・店に行く前に頂いて、帰りにお届けします」「そお、では・・1本お願いします」「ありがとうございます。ありがとうございます」小さな請書を書く手が震えて居ました。寒さで手が凍えて居たのかも知れません。そして、嬉しかった!感激です、感激して居たんです。私の初めての営業出来ました。1本仕事を頂きましたので、家に帰りました。1本あれば・・仕事が気に入って頂くと、また1本、包丁の研ぎも・・と、なるかも知れません。先ず、仕事が気に入って頂かなければなりません。「ありがとうございます。父をよろしくお願い致します」

そろそろ幼稚園から、息子・治彦が帰って来る時間です。

 次の週・・美容師会、会長さんのお店に伺い説明しました。店に行く前に研ぎを貰って、帰りに届けて居る事。そして喜んで頂いて居る事を伝えると・・美容師会の会長さんは、即・・「明日理事会がありますから・・来てみて下さい」「ありがとうございます。父が挨拶に伺います」明日とはまた、段取りの良い事でした。先生も仕事が早いなと思いました。その日の夜です「お父さんの仕事を、皆様に紹介して下さるそうですよ。良かったね。先生たちはしっかり者よ・・上がるかも知れんよ、落ち着いて挨拶するんよ」と、母親のような気持になって、心配して言いました。その日から、店に出る前に仕事を頂いて、帰りに届けて帰るという毎日になりました。父が信頼している人の助言もありました。「いつ迄も娘さんを頼って居たらいけませんよ。娘さんには、ご主人様、家庭がありますからね」と言って、父を励ましてくださいました。

 春になると・・娘・詩織も歩けるようになりました。バスに乗って・・詩織の手を引いて、以前から気になって居たお店を訪ねました。繁華街にある、洋裁材料店を手広くされているお店です。デザイナーの先生に厚く信頼されています。詩子もOL 時代・・夜間の洋裁学校に通って居ましたから、よく知って居ます。例えばボタンも、生地に合わせて染めて頂くように注文出来ます。服地に合わせて、芯地、裏地の相談、スカートの脇線が綺麗に揺れる様に、おもりを薄く潰して入れる。等・・オートクチュール(高級仕立て屋)さんがお客さんなんです。そのお店は、以前よりも繁盛して居る様に思いました。あれから、10年以上過ぎています・・社長さんには、会えませんでしたが、お元気でしょう。あの頃40代後半でしょうから。店員さんも以前の方とは違います。てきぱきと機敏に接客をされています。跡取りのお嬢さんかなと思う程です。

 レジの順番を待って・・「お忙しい処、申し訳ございません。父が砥ぎの店を出しまして・・。ご挨拶に伺いました。お試しに、1本お願い出来ないでしょうか」「ハイハイ・・少しお待ちください」すんなりと1本の裁ちバサミを出して頂きました。ありがたい事でした。丁度、研ぎ屋の欠員が出来たのかな?それとも、よい業者を探して居られた処かも知れません。ありがたい事でした。次の日、砥いだハサミを父が届けましたら、次の砥ぎも頂きました。仕事は合格ですね。父はとても丁寧に仕事をして居ました。先ず、ハサミの錆を綺麗に取ります、それから砥石を替えて、ハサミを砥いで居ました。仕上げをすると綺麗になります。お客さんは一瞬、誰のハサミ?と思ったそうです。「ビックリ・・!綺麗になりました。よく切れる!ありがとう、ありがとう」父は・・皆様に喜んで頂くので、とても嬉しいと言うのでした。良かった!お店続くかも知れませんね・・。その後は、たんたんとお仕事を頂いて居ました。半年後でしたか、1年後位でしたか・・県の仕事も出来るように、入札業者の資格も申請したようです。小さな渦巻があったから。1が出来たから、次の2が出来た・・。そんな感じでしょうか。父に奥さんが居たならば・・。一緒に仕事ができる、後継ぎが居たならば、店は続くでしょうが・・。

 ⑫

 その後、私達家族は転勤になりました。「一人でご飯炊けますか?東京に一緒に行きますか?」「出来る出来る・・心配せんでもええよ」父は一人で住むから・・心配せんでもええと言います。「家賃入れて呉れたら助かるんだけど・・この家のローンを払って、うち等の家賃を払う事になるから、頼みます。主人に申し訳ないから・・」「うん・うん・・」軽くうん・うんと言いましたが・・その気は無いんです。そんな私の父です。転勤になって5年経ち、帰って来て5年社宅に住みました。そしてようやく・・私達の家を建てました。希望の処に、希望の注文住宅です。(しがらみ)のない私たちの家です。あの家を出て10年目の事です。「お父さんの部屋、造ってありますよ。8畳の和室に、小さい流し台を付けて居るんよ!」父は、やっぱりあの家に住み続けると言うんです。私が働く事にして、2軒分のローン(父の住む家に20年、私達の家に25年)を組みました。仕事は住宅営業です。前もって宅建の資格を取って居ました。営業成績は良かったです。(父の店を宣伝して回りましたから・・コツを掴んでいた。という事かも知れません)娘の学費を送らなければなりません。営業頑張りましたよ!建売住宅ですから・・新米住宅営業でも、成績良く契約に取り付けました。そして、最後の学費を払い込んだ頃の事です。

入社して、5年過ぎていたと思います。団地の販売事務所で退職願を書かされました。契約した営業成績を課長に譲らないと言った!からでしょう。成績の無い、課長の面子がない?と言う事でしょう。逆に可笑しいでしょうに!今で言うパワハラですね。ばかばかしいから・・すんなり辞めました。不動産屋さんは、近くにもあります!と思って居ました。家のローンを抱えて、大変でした。腰痛で思うように働くことが出来ませんでした。主人は早期退職をして、企業の資格認証審査員とコンサルタントの資格を取りました。10人位の資格認証審査員がいる会社に在籍しました。そこから仕事を頂くという組織でした。審査員もコンサルタントも何でもですが・・営業感覚と根性が必要です。夫は向いて居ないと思った事です。元勤めた会社の株を売りました。娘・詩織にも一度無心しました。カードで借りて、家のローンを払いました。我が家は、どうなる事かと不安でした。その後夫は、コンサルタントの資格を持って、会社に勤めました。あの家(父の住む家)の家賃は入りません。要求したのは、父に2万円姉に2万円でしたのに。父はローンが払えないなら、この家を売ってもええ!と迄言いました。それでも、父の住みたい家を売る事は、出来ませんでした。父名義の家を、詩子夫婦に売って・・姉夫婦の新しい家の為に頭金を作り、詩子夫婦の為に食費と云う形で払い、この家を残す。そうする事で、娘二人に家が残る・・と言って居た父でした。利益分の半分を父は貰って居ない。胡麻化されたんでしょう。だから・・姉に、父の世話をしたいなら、家賃を要求してもいいと思いました。しかしながら・・あの、がみがみ事件が起こりました。誰もが頭が高いからです。父は母の弟・三男叔父さんに頼みました。(多分ですが)「詩ちゃん達が、高い家を買うての・・ローンが払えんらしい。麗子に少し出すように言ってやって呉れんかの」と言う事でしょう。叔父さん叔母さんは、麗子の家に行って、事情を言って頼んで下さったらしい。そこで姉は、一気に不満が爆発したんでしょう。「可愛らしくない!来るなと言った!」それはずっと前の(18年のローンの時)5年間の転勤中に、姉麗子は父の世話をする為に、あの家に平気で出入りしていたからです。何度も言いました。少し家賃を入れて下さいと・・。そうでないなら、来ないで下さい。あの家には、私の涙が落ちています。姉さんに会いたくないから・・会わないで、姉さんの希望した価格で買いましたよ。社宅でも家賃は要ります。税金も払わず住む事が出来るのは、主人のお陰ですから。申し訳ないです。姉はその、家賃が気に入らなかったんでしょう。父は平気でその家に住めるんでしょうか。要求したのは、2万円づつ・・。姉麗子は「お父さんに貰いんさい・・」と軽く言いました。その時、三男叔父さんは言って下さった筈です。「お父さんは、金を払う人ではない。お母さんの苦労を見とるじゃろうが・・」家賃の事は、口に出すのも嫌になりました。私はその後洋装店に勤めました。そのころから・・ローンは何とかなるようになりました。企業年金が始まりました。20年のローンも、もう少しですから。息子・治彦の食費も入り、助かりました。(20年と25年)2軒の家のローンは、時が解決して呉れました。

 ⑬

 小さな小さな父のお店でしたが、17年位続いたと思います。計画道路の工事が始まると云うのです。82歳の頃でしたか・・父は店を畳んで、あの家に帰りました。プレハブの倉庫を建てて、研ぎの仕事をしていました。仕事を送って貰って、出来たら送るという方法です。88歳まで、一人で住みました。圧迫骨折をして、入院する迄、仕事もボチボチして、趣味の園芸の菊を育てて・・。値段の高い肥料や薬品や材料を買っては、置き忘れて・・また買って居ました。その薬品や肥料は、未だに我が家にあります。次の興味は電動の工作器械を買って、いろいろ工作をして・・。それから発明をして、図面を描いて、鉄工所に造って貰った土の篩い分け機。上の段の箱の網に、土を入れると・・大きい順に、4段階の網の篩に掛けられて、一番下の箱には、小さな顆粒です。それが一度に出来るという機械でした。2台もありました。(これでは家賃も払えないです)趣味の菊を育てる為に考え付いたのでしょう。売れるかも知れないと思ったのでしょうか。良く出来て居ましたから、(夫の提案で)植物園に寄付させて頂きました。我が家には置き場所もないし、個人で使うのは勿体ない!公に使って頂きたいと思いました。土を篩う作業は、我が家の家庭菜園でも必要な作業です。力は要るし、とても手間が掛かります。木箱の底に金網を張り付けて、下にパイプを置いて、ゴロゴロと揺する。簡単な道具があります。この道具も、以前父が作ったものです。この道具から発展して、土篩い分け機が出来たのだと思います。

 後日の事・・植物園の人気のカレンダーを送りますと言って下さいました。いえいえ、お花見方々伺いますと云う事で・・「機械はお役に立てそうですか」と担当者さんに聞くと、大変喜んで頂き・・「これから、あの全部の鉢の土をやり替えます。とても助かります。内の場合、土の大きさは3段階でいいんです。網をやり替えました」「良かったです。父も喜びます。有難うございます」植物園の入り口から、はるか向こうまで・・大きな植木鉢が整然と並んで居ます。お父さん見えますか。あの鉢の土を篩にかけるそうですよ。お父さんが設計した土の篩い分け機、とても喜んで頂きましたよ。整然と並ぶ植木鉢の向こう・・高く青い空に、ふんわりと白い雲が浮かんで居ました。私達は、一幅の絵画の中に居るかのようでした。お父さん!私の心の中に居て・・私の理想のお父さんになりましたよ!

 ⑭

 ここで一つ、書き留めて置きたい事があります。夫・治夫は、1年間程姉夫婦創業のA社で、雇って貰った事があります。60歳になる前の、1年間です。どう云う経緯なのかは分かりません。多分・・企業の資格認証の審査員の仕事をして、帰る処でしたか。駅で義兄にばったり出会ったそうです。そこで、審査員の仕事の帰りという話をすると・・うちの会社に来て呉れないかという話になったようです。夫は、元気溌剌という顔では無かった、貧乏そうな顔をして居たんでしょう。夫・治夫はその話に飛び付きました。履歴書を書いたら、電話する事を約束して居ました。私は反対しました。行くなと言いました。頼みました。それでも夫は、A社に勤めると言い張りました。甘くないよ!私が知って居るよ!と迄言ったのに。夫・治夫は、仕事に・自分に・限界を感じていたのでしょうか。ローンを抱えて、心身共に疲れて居ました。私・詩子が、働く事が出来なかった時です。酷い腰痛を抱えて居ました。我が家の経済状態は・・最悪です。国民年金の払いも遅れがちでした。

 姉夫婦創業のA社では、高給で雇って頂きました。ありがたい事でした。

仕事は、工作機械を造る会社の・・最初は設計部に配属されました。しかしこの頃は、全てコンピューターで設計でした。夫・治夫はコンピューター操作の練習からです。配属先の人が手間取ると言われました。部品を発注する部署に配属されると・・注文書の字が横にずれて、単位の間違いをしました。会社に損失。弁償しますと言ったけれど・・。機械を作る工場に回されると・・ネジの締め方が緩いと言われて。(夫は、いろいろ愚痴をこぼして居ました)そのA社では、使いものにならないらしい。夫は逞しくないんです。社員さんは少数精鋭の熟練した人達でした。義兄が(あの家に居る時)40歳前後で操業して、30数年になります。無借金、黒字経営の続く、会社になって居ました。流石ですね!   

 お中元の挨拶に、姉宅に伺うと・・姉は夫・治夫の事を「学者向きじゃから(内には向かない)」と言いました。「そうよねぇ・・」私は、無理に置いて下さいとは頼みませんでした。A社は、資格認証は取らないと言うのですから。何の為に夫・治夫を、貴社で働かせたのですか!と言いたくなります。資格認証の審査員を捕まえて・・機械の設計をさせて見たり・部品注文をさせて見たり・工場で使って見たりしたんですか。会社の後を継ぐ人材を探して居たのは分かります。でも夫は、御社の経営者には向きません。夫は、2軒の家のローンを払う為に、私達家族の為に修羅場の1年間を耐えて居たんです。私も何件か不動産屋さんを探して、面接を受けましたが・・腰痛が酷くて、不安が先立ちました。

 やっぱり姉夫婦と私は上手く行かない・・こうなる事は察して居ました。経験済みですから。姉夫婦は、自分の思うように人を使うんですね。その人の思惑は関係ないんだから・・。最初から行かないで下さいと言いましたよ!と、口に出そうになりましたが・・思っただけです。夫が可哀そうになりました。そうこうして1年が過ぎた頃、A社を辞める事になりました。「苦心してコンサルタントの資格を取りましたので・・その仕事を活かします」と云う事です。夫は60歳になって居ました。2ケ月位失業保険を頂いて、資格を活かせる会社に勤めました。そこで5年間お勤めする事が出来ました。ありがたい事でした。そして企業年金が始まって居ました。とても助かりました。私は、不動産の仕事を諦めまして・・洋装店に勤める事になりました。しかしそのお店も1年と半年位で、閉店される事になりました。パートの給料で高級服地を、沢山買い求めました。そのお店に勤めなければ、高級服地に出会う事は無かったでしょう。それから、デザイナーの先生の教室で洋裁を見て頂き、その生地を仕立てました。私が縫った・・オーダーメイドです。なんだか・・私へのご褒美のような気がしました。苦難の後に・・ご褒美もあるんです。

 夫・治夫は、姉夫婦創業のA社で働いた事で、方向転換をさせて頂いた事になります。あのまま、コンサルタントの個人事業主は続けることは出来なかったでしょう。方向転換、ありがたい事でした。

 ⑮ 

 50年以上前・・母が亡くなった後、詩子が心置きなく嫁ぐ事が出来るように・・姉夫婦と父と私は、話し合って家を建てる事になりました。貯金を出し合って、家の頭金にしたものです。しかし詩子にとって、そこに住んだ2年間は悲惨な事でした。何と言うのか‥姉は主婦の座に座って居ないというか‥、自分の若い時と詩子とを比べる・・。夫と父の不満を詩子にぶつけると言うか。。。産後鬱と云うものかも知れません。中将湯・・漢方の婦人薬を飲んで見せて居ました。「あんたの為だから、食後の片づけをしんさい。トイレの掃除も。その上、姉の為に着物を縫って上げるのも・・姪のワンピースを編んで上げるのも・・当たり前なんです。可愛らしくしんさい。産後には此処に来るんでしょ!盆・暮れにも泊まりに来るんでしょ!」(来ないから・・産後こんな処で、寝て居れないよ。遠慮しにわざわざ盆暮れに来ないよ)と心で叫びながら・・修羅場の2年間を過ごしました。そのお陰で、頑張りましたよ!結婚していい奥さんになるように。良い家庭を築くように。父を腐されないように、気を配りました。何もかも、あの時の修羅場の2年間の経験があるからです。頑張りの底力というものを頂きました。

 よく考えれば、別な生き方を選ぶ事が出来たんです。お姉さんの言う通りに・・素直にハイ・ハイ分かりました。可愛らしくして、際限なくお手伝いをする。会社に勤めて、休みの日には子守をして、洋裁をして、和裁をして・・。誰でも良いから、結婚して出て行く事。ご機嫌伺いに、盆暮れに来ること・・。出来ませんでした。姉は理想の夫婦では無かったからです。そして私・詩子は何か出来るものを持って居る!そんな気がしていたんです。その何かを探して居ました。その時は和裁でした。洋裁もしましたが・・そこそこ上手く縫えますが・・職業にはなりませんでした。 

 ⑯

 義兄は晩年・・女性が出来て、別宅に住んで居ました。胃癌が発覚して胃を、全摘出手術・・。その後は会社に出社しないで、家(別宅)から仕事の指図をしていたようです。入院もしないで、別宅で療養そして死亡・・。それには周囲の人の、それぞれの思惑があったようです。

 姉・麗子が言うには・・葬式が済んで、少しした頃・・その女性は、弁護士と一緒に来たそうです。10年間の愛人関係を、家1軒ぐらい買えるお金を要求したそうです。遺言もあったのでしょう。最後の1年間は、介護契約と云うもの迄結んであったそうです。愛人とは・・何もかも、お金で解決?するんですか。

 最期(さいご)の1日は・・義兄の弟達が別宅に乗り込んで来て・・。その女性には帰るように、暇を出して居ました。葬式には、顔を出さないで頂きたいとも伝えてありました。その後は・・二人の弟が、最期の兄に・・交渉?です。遺言書に拇印を押させたのです。弟妹5人分・・一人当たり、高級車が買える額でした・・そうです。姉・麗子から聞いた話です。「そんな事出来るん?ふ~ん・・」と、拍子抜けしたように詩子が言うと・・姉は「そうよね・・」弟妹の話を聞いて、詩子もいくらか請求するのか!と思って居たらしい。もしかして・・姉の挑発かもね!時々引っ掛け?しているようです。詩子は長年苦労したお陰で、大切なものは何か!と云う事が分かりかけて来た処です。幸せは・・お金ではなく、物ではなく、役職や権力でもなく・・それを得る為の過程ではないでしょうか!どのようにするかを見られている。神様仏様・閻魔様はどうするかを選ばせて、結果は自ずと付いて来ると云うのでしょう。と、詩子は思うんですよね。

 本妻の姉に連絡が入ったのは・・夕方だったそうです。朝、息を引き取って・・夕方でした。その間弟達は何をしていたんでしょうか。ちょっと考えられません。お金をむしり取る為に、集まった弟妹です。愛人もです。傍から見ると可哀そうな義兄です。哀れな人です。(本人はそう感じていない)姉さんも、そんな家族関係でよく耐えました。お金を沢山持つ事は、遠慮した方がいいかも知れませんね。可哀そうです。人が納得しないお金を取ると・・お金はありますが、穏やかな家庭が無い。愛人は居ますが、愛と云うものが無い。お金を誰かにむしり取られたりする。人生は辻褄が合うように出来て居るんですかね。蒔いた種は刈り取らなくてはならない。そんな諺が頭をよぎります。でも当事者には言えません。言ったらいけないです。失礼と言われます。この時でありましたか?次に訪問した時でありましたか・・姉・麗子から、小さな茶封筒を頂きました。「なに?これ・・」「夫の遺産が入ったから・・10万円よ」「えっ!どうして?いいよいいよ・要らないよ」「取って置きんさい・・旧友のKさんにもSさんにも上げたから。10万円じゃないけどね。口止め料よ。遺産の事を、人に言うたらいけんよ。取って置きんさい」「いいよいいよ・・」遠慮しいしい頂きました。「は~い・ありがとうございます」

 その後・・3年位経ちましたか、姉夫婦創業のA社は・・長年見て貰って居た税理士の計らいで、売られてしまいました。後継者にも社員にも、相談もなく。そして面識もない会社にです。この税理士は、会社を売る為に・・前々から(夫が在籍して居た頃から)準備をして居たようです。すんなり事が運ぶように、身内は辞めさせて置いた・・のかも知れない。しかしながら・・お金だけは手に入りましたから、姉さんは満足して居る事でしょう。

 ⑰

 父の事は・・あの家に88歳まで、一人で住みました。何度も言って居ました。「家にはお父さんの部屋、造ってあるんよ!そろそろ一人住むには、危ないよ!」「心配せんでもええ、大丈夫じゃけぇ・・詩ちゃんには迷惑かけんよ!」「施設に入るん?そんなお金がないよ・・家に来て、貯金をして下さい」「あるよ・・」「えっ!何処に?お父さんが貯金する筈ないよね。以前、お店を出す時にも言って居たけど・・結局、無かったでしょ。それで、銀行で借りたじゃないね。借りる事は上手じゃけど・・払うように働いて呉れんかった。私、心配したんよ!」月に何回か掃除に行くと・・父は趣味の菊を育てて居ました。若い頃から・・50代頃は、立派な三本仕立ての大菊を育てて、県知事賞を頂いた事もあります。その後は、年と共に上手く育てられません。菊の花造りにも、体力が要るんです。注意力、判断力、同じ時刻に水遣り、細心の注意も必要です。ですから今は、気ままに趣味を楽しんで居ます。一日中・・園芸そして工作・発明(土篩分け機など)時たま仕事・・一人住む事を楽しんで居るかのようでした。父には、一つ気になる事があるんです。親だから、姉・麗子の異常に気が付いて居たのでしょう。詩子の家に住む事は、麗子が異常に寂しがる・・上手く住んでいると、父を突いて来るんです。かと言って・・麗子は看て呉れる訳ではないですから・・だから一人、住むしかなかった。父はぎりぎり迄頑張りました。又は、詩子に相談して呉れていたら・・手立てがあったかも知れない。言えなかったのでしょう。姉の尊厳もあるし・・憶測で決めつけることになるから。父は「麗子と仲良うせぇ・・」とは、しきりに言って居ました。詩子は「仲良うしないよ!仲良うせんでもぇぇお金で、家を買って居るよ。それともお父さんは、麗子の回し者ですか?私達は交渉していない。お父さんの言う通りにしたから!」私も若い頃・・父に、こんな事を言った事があります。

 88歳の寒い夜中に、起きて(2月頃の1時か2時頃)ウイスキーを飲んで、トイレに行って・・元の椅子に、座ろうとした時・・後ろに椅子が無かった!!「痛い!・・」目から火が出る程の痛さであったと言います。その後は、気を失っていたそうです。朝方まで待って、我が家に電話をして来ました。私はお友達とランチの約束がありまして・・(気楽な人です)「そうか・・仕方ないの・・」力なく父は言いました。「アッ・・お父さん主人が行くと言っていますよ」と云う事で・・夫・治夫に迎えに行って貰いました。近くの病院で診察・・圧迫骨折と診断されました。中区の病院を紹介されて、入院と云う事になりました。2ケ月入院そしてリハビリを頑張って居ました。室内は伝え歩きで、歩く事が出来るようになり、退院という運びになりました。父は、我が家に、当然・やっと・帰る事になりました。主治医の若い先生は「おめでとう・・良かったね!」と祝福して下さいました。多分ですが・・看て貰える処があって良かったという事でしょう。と云う事で・・父の部屋にやっと主が住む事になりました。その後は、介護福祉士さんの説明を受けて・・介護保険を使って、電動ベットを借りました。お風呂の介護用椅子を買いました。要介護認定を受けた父が・・我が家で住めるようになりました。それからと云う日々は・・大変と云うか、楽しいと云うか・・夫・治夫にも息子・治彦にも快く迎えて貰って、穏やかな暮らしが始まりました。「20数年前と同じ感じ・・。子供が大きくなって・・お父さんが年寄りになっただけよ・・お風呂よ!入りんさい」「年寄りは毎日、風呂に入らんでもええ・・それに仕舞風呂がええ・・油分を取られる」と遠慮しています。先日治彦に抱えて貰った手に・・ウンチがポロッと・・。アハハ!極まりが悪いのかな。「まぁ・・そぉ言わんと、入りんさい!皆入るから」「治夫君には遠慮なけぇ・・治彦君に入れて貰う」「ハイハイ・・治彦に頼んだよ。力があるから、安心よね。それに治彦・・小さい時、お父さんに毎日入れて貰ったよね。思い出すね・・主人は仕事で遅く帰って居たから。遠慮せんのよ!」「祖父ちゃん・・来たよ。よいしょっと・・」「来た来た・・治彦ありがとう」

 お父さんお茶にしましょうか・・「食費は、前と一緒でいいよ!前と同じの4万円貰いますね。ウイスキーとか、薬代とかは別・・後は貯金して置くんよ!これから施設に入る時にも、葬式にもお金が必要じゃから。貯金して下さい」と云う事です。そうこうして居ると・・姉・麗子が、父のお見舞いに来ました。何故か姉さんは、初めて訪れた我が家です。詩子達が家を建てると云うのが、気に入らないのか?焦ると言うのか?社長の住まいとして手狭になった。時期が来たと云うか・・半年遅れて、姉夫婦は、立派に家を建て替えました。お祝いは、貰ってないから・・上げていない。(我が家とは、桁が違いますし)

 父の好きなもみじ饅頭(粒餡)とかタオル、バスタオル、パジャマ等・・「家にあるのを持って来たんよ、使ってね。それに、これを・・」「ありがとう。タオルも上等じゃね・・頂きますね。何・・これ?熨斗袋・・」「納めて置きんさい・・」「お父さん・・どうしょう?」「ありがとう麗子・・詩ちゃん貰って置きんさい」「本当?・・ありがとう」我が家は調度品も設えも、普通ですから・・姉・麗子には、物足りなかった事でしょう。今迄一度も来た事もない家ですから・・ゆっくりも出来ないのでしょう。「また来るから・・」「ハーイ、ありがとう・・」

「幾ら入っている?」・・「4万円よ!」「貰って置きんさい」「ありがとう。どういう風の吹き回しじゃろうね?また何かあるかね?」父から4万円、姉から4万円・・介護する者にとって・・ちょっと助かります。只・・2ケ月過ぎた頃の事・・。

 父・悟は、銜え(くわ)たばこで、トイレに行きました。その吸い殻が床に落ちて・・トイレのビニールシートを一点焦がしたんです。それで・・夫・治夫に怒られたものです。焦がした事よりも、銜えたばこで、家の中を歩いた事をです。父はそれを姉・麗子に訴えたらしいです。「一点焦がした言うて、こまい事を云う!」とかなんとかでしょうか。そこで姉・麗子の出番が来ました。いつもの、要らない世話をします。次に訪ねて来た時の事です。

 お土産など頂いた後の事です。「少し入院させます・・」と、姉・麗子が言うんです。「えっ!まぁ・・何で?」何で・・姉の指図になるん?折角上手く住めて居るのに。「ハイ・・タクシーチケット。一人で来るんよ北区の○○病院よ。明日10時に受付で待って居るからね。お父さん・・」圧迫骨折をして、2ケ月入院、退院して2ケ月療養・・88歳になる父を一人タクシーに乗せるんですか・・。姉流のムチャクチャナ考え方です。父が言う・・我が家の苦情を聞くのが辛いのか?父を・・世話をしたいのか?父と詩子の間に、割って入りたいのか?詩子はその意味を察しなければならない年頃なんですが・・時すでに遅しです・・手立てはありませんでした。若い頃から、気が付いて居れば良かったですが・・。

 その夜・・父に徐に話しました。「お父さん・・姉さんは、途中で投げ出す人よ!苦労が倍になって、私に帰って来るんじゃから!何回もね。内はもう迎えに行かないよ・・!今回も病院から突然連れて帰って来たのに、皆に歓迎されて居るのに!それにまた、入院とはね!我が家が(看て居る家)判断するべきですよ。姉さんの下働きではありませんよ!今・・此処を出ると、私は迎えに行かないよ。姉さんは送って来て、主人に頼んでくれると思う?それ位の礼儀はして欲しいですね。お金は払うつもりかも知れないが、お金では買えないですよ。親の世話をしてくれる人は・・尊いです!下働きではありませんよ!だから・・迎えには行きません。けじめとして、姉さんに送って来て貰いんさい!」

 明日から父の管轄が、姉になるんですから・・準備をしなければなりません。父が一人住んでいた、あの家から大事なものは持ち出して居ました。通帳・印鑑・保険証・介護保険証・住所録・他・・衣類は姉さんの財布の中身に似合う、ブランドのパジャマとかタオルを買って貰えるでしょうから・・1~2枚入れました。父の引っ越しは、小さな旅行鞄一つにまとまりました。そうそう・・あの振込用紙のコピーを入れて置きましょう。父名義の家を夫・治夫が、買い取った時の利益分は(酷い父と義兄です)、父と義兄が山分けした事になって居るらしいけれど・・父は貰って居ない。税務署には父の取り分として居て、後で下ろす。姉の旧姓の印鑑を使う。義兄の弟が務めている、島の銀行の義兄の口座に200万円振り込んで居た。姉の筆跡・山分け金額・日付も丁度思い当たります。姉達があの家を出た後に、見つけました。箪笥の引き出しの隅に、へばりついて居たんです。何もかも思い通りになり、有頂天で引越して行ったから・・忘れたのでしょう。いや・・態とでしょうか。引っ掛けですか?お金を奪い合う業を、詩子に与える為にですか?私・詩子は、お金を奪う業は嫌いなんです。工面して、始末して、思う人に差し上げる事(ボランティア等)。それが出来る事が喜びでした。ですから今迄黙って居たんですが・・父の鞄の底にそのコピーを入れました。何かに役立ちそうな気がしました。施設に入所するなどして、お金が入用の時・・父の取り分を思い出して貰いたいからです。渡していない、父の取り分ですから、仕方ないと思って貰えたらいい。足りない処は、姉さんの給料から、補って頂けると思いました。

 斜向かいの家の紫陽花が、殊の外青く咲いていました。毎年このお宅の紫陽花の花は、花首をフェンスの隙間に載せるんです。チョコンと顎を載せるようにして、通る人に見て貰っています・・青く可愛い花が見えました。その朝・・朝食を済ませて、父・悟は決心したようです。「やっぱり行く・・」と言いました。一晩・・麗子の事、詩子の事、じっくりと考えたのでしょう。「仕方ないね・・」詩子は力なく応えて言いました。「行くなら支度をして下さい。綿シャツか何か、楽な服装でいいからね。送って行きます・・タクシー券貰ったけれど、一人では行けないでしょ!病院まで付き添いします。私、帰りはバスで帰るから・・」

 そして、タクシーを待って居る時の事です。腰痛持ちですから・・花壇に寄り掛かりながら、父・悟は言うのでした。

「詩ちゃんは、もお・ええ!ありがとう。今度は、麗子じゃ!」「えぇっ!!」「治夫君に挨拶もせんで、行く事になった。よろしゅう言うてくれえの~。ありがとうの~」「えぇっ!」あの~今迄の事は芝居?態と?態とですか?何処から何処までが芝居なんですか?全~部?そんな事出来る?酷いですよ!お父さんの為に・・どんなに、心血を注いだ事か!態となんですか?お陰で、何があってもやり抜く、強い女になりましたけどね・・。もう少し子供や主人に寄り添って、看て上げたいと思って居ました。私・・もう少し穏やかに、日々を過ごしたかったですよ。本当よ・・。

 「辛いなら、横になってもいいよ」「ちょっと、腰が痛いのぉ、まだ無理じゃったかの~」タクシーの車内で、杖を突いて踏ん張って座っている父でした。そうこうして、1時間・・どうにか北区の病院に到着しました。姉・麗子が待って居る筈なんですが・・。見当たりません。何処かに居る筈です。

受付辺りで待って居ると、姉に出会いました。仕事を抜け出して来たんでしょう。「忙しいんでしょ?お願いして、いいんですか。それではよろしくお願いします。私・・これで帰るね」父と父の鞄を姉に渡して、バトンタッチしました。詩子は決心しています。「では、お父さんこれでね・・」父と姉に、お別れをしました。後ろを振り向かないで、帰りました。父・悟はこの日から、姉の管轄になったのです。その日から8年・・病院・ショートステイ・施設・病院・施設・病院とお世話になりまして、父は96歳であの世へと旅立ちました。姉・麗子は、何度か父を迎えに来るように、電話をして来ましたが「あっちこっちが一番いけない事よ!施設に入って居るんだから、手を取る事は無いでしょう。最期まで看て上げて下さい。あっちこっちは父が、可哀そうです」もう父の気持ちも、詩子の気持ちも揺るぎませんでした。

 ⑱

 この頃でしたか・・義兄は愛人を作って、別宅を構えて、家を出たのです。姉・麗子に取って、この上なく可哀そうな出来事でした。何故なんでしょうか?姉さんは、こんな性格だから・・夫に愛人が出来た?愛人が居たから・・こんな性格になった?原因と結果は巡り巡ります。

 父は生まれる前から、両親の離婚が決まって居ました。1歳迄は父の祖母の家で育ち、その後は育ての親の元で成長しました。その育ての親も、早く亡くなられて居ます。父は、親の縁の薄い、親の愛を知らない子供でした。海軍工廠時代に、遠縁に当たる母と結婚しました。真面目な父の放蕩が始まったのは、戦後から・・と聞いています。父の祖母の家を継いで、田舎に疎開して居ました。戦後私・詩子が生まれ・・いろいろ商売を始めたようです。戦後ですから、仕事も無かったのでしょう。決定的なのは・・村の旧家のお婆さんから借金をして、バタンコを買い、運送業を始めた事です。(そのお婆さんは、お祖母ちゃんかと思う程、詩子達を可愛がって貰って居ました。なのに・・)父も最初は景気よく、やって居ました。小学校入学前、詩子も一度だけ同行した事があるんです。街に出る時は、材木問屋さんで材木を積み、街の製材所に降ろす。その後仮眠・・。その間、詩子は叔父さん宅に、赤ちゃん(従弟)が生まれたので、お祝いを届けるという役目でした。帰りは新聞社と契約して居て、夜中に朝刊を田舎の販売店に運ぶと云う仕事でした。景気が良いなら、女が出来る。(決まり事かな?)女を囲って、家に帰らなくなったんです。そして冬の雪道で、事故をしたようです。顎のあたりの傷の痕、フロントガラスの切り傷か・・(晩年には薄くなりました)無理をして居たんでしょう。新聞社の仕事は、当然解約ですよね。一日も休まず、正確に新聞を届けなければならない仕事です。その後からだと思います。仕事は激減して・・実の父が住む村で、米や味噌を借りては女に貢いだのです。実の父の名を出しては、証文無しで貸して頂くのでした。実父への愛の要求も捻じれています。親戚も「家の近くに来て、借金して貰うんじゃあ~恥ずかしいけぇ~、うち等で立て替えて払うたよ・・」バタンコを売って、別の商売をするという時・・母は行動を起こして、止めました。父の技術を生かした仕事について貰ったのです。その為、詩子10歳の時・・街に住む事になりました。父が女に貢いだ米や味噌、証文の無い借金も・・母は内職をして、黙々と払って呉れました。バタンコの借金は、村のお婆さんに土地を差し出して解決しました。土地の名義は、父ではなく、詩子・私になって居ました。(父の放蕩からです)その土地は・・隣の家に、凄く高く売られたそうです。お隣さんには、いつも親切にして頂きました。その書類には、5年間の買い戻し特約を付けて頂いていた。と、子供ながらに覚えています。でも・・60年以上過ぎた今ても、買い戻すことは出来ていません。父と姉の協力があれば、遠の昔・・買い戻せているのに!父も姉も自分さえ良ければいいのですから・・悔しいです。世の中・・みんな、そんなものですかね?

 家は母の弟が、移築して住んで居ました。これは、差し押さえでしょう。60年過ぎた今は、朽ち果てて、更地になって居ました。その叔父にも苦難が降りかかりました。街に移り住む事になりましたので、その家を売りました。その後に若い女が出来て、家を売った代金も、貯金も根こそぎ持って行かれたんです。「生命保険迄、解約させられていた」最近になって、従弟が零して居ました。あの真面目な叔父さんも、この家族も、苦難を通り抜けて来ています。苦難の陰に・・女あり!何故なんでしょうね。奥さんは(母も叔母も)耐えて黙々と働いて借金を払い、子供を育てて居ます!母は強しです。全てを、全体を見て行動して居ます。この母あればこそでした。ありがたい事です。

 若い頃は父・悟は、捻じれた形で(放蕩をして)親の愛、妻の愛を求めて居ました・・。晩年は、一人で住んで居ました。何故なら・・詩子達と一緒に住めば、麗子が異常に反応するからです。長女という、立場もあるし・・。捻じれた形で、親の愛を求めて居る事に気が付いたのでしょう。詩子が家のローンを払い、家の掃除をすればいい・・。割が合わない話ですが、姉は病気かも知れないのなら、仕方のない事です。前々からそれが分かって居れば・・、父も相談して呉れたなら・・。私も対処できたと思います。私達は、もう少し穏やかに過ごせて居たような気がします。年を取ると見えて来るものがある・・。本を読むと、知識を吸収すると、感じるものがある・・。今私は、そんな風に思って居ます。

 父の最期は・・預けられて、幼少年期を過ごした処。60歳代に、小さなお店を出して、頑張りました街、思い入れのある街で亡くなりました。北区の大きな病院の一室です・・「治彦はええように、しとるかいの・・」痰が絡んで、聞き取れないけれども・・いつも言う言葉ですから分かります。「ええようにしとるよ!ありがとう・・」最期に・・孫・治彦を気にかけて言うのでした。父・悟は、もう愛を求めては居ません。子や孫に愛を、最後の力を振り絞って、精いっぱいの愛を与えているんです。

 そして息絶えたけれども・・「お父さん・・強かったね。よお一人で頑張りました。強かったね・・ありがとう・・」足を摩って上げました。「うん・・」「えっ!えっ・・」ちょっと、頷いたような気がしたんです。「お父さん・・ありがとう。一人で住んで、強かったね!」「うん・・」確かに、小さく頷いています。足を摩っては、言いました。「お父さん・・ありがとう!」「うん・・」その「うん・・」も、だんだん小さくなって行きました。朝方になっても・・小さな「うん・・」はありました。

 ⑲

 私・詩子が20歳の時でした。麗子姉さんは結婚しました。昭和40年代初めですから、この地では神前結婚式が主流でした。大広間で行なう披露宴も滞りなく行われています。麗子姉さんの一世一代の晴れ舞台でした。皆さんから綺麗なお嫁さん!!。と祝福して頂いて居ました。私は何故か・・金襴緞子の帯締めながら~花嫁御料は何故なくのでしょう・・。そんなメロディーを思いながら・・花嫁さんの所作を見て居ました。嫁ぎ先の父上は、村の教育長をされている・・小柄な方でした。弟妹は5人か6人です。思い出話も、大勢で楽しそうです。賑やかに華やかに、披露宴は進行しました。

 当時・・新婚旅行は船で宮崎へ・・と云うのがブームでした。ブームの始まりは、○○宮様が結婚されて、新婚旅行は宮崎に行かれたからでしょう。夕方・・波止場では、沢山の人達が、何組もの新婚さんを見送って居ました。船のデッキから、何十本という色とりどりテープが、送られる人と、送る人を繋いで居ます。出航しますの合図・・「どがぁ~ん」銅鑼がなりました。それに・・蛍のひかり・・窓の雪・・文読む月日~メロディーと共に、船は波止場を離れて行きました。母も私も、テープをしっかり持って、放しませんでした。その内・・テープは切れるんですが・・。そこかしこに、皆に祝福されて、万歳の声です。嫁ぎ先の皆様は、楽しそうに笑って居ました。詩子は・・何故か「お姉ちゃん・・お姉ちゃん・・行くな!」涙が出て来て、わぁんわぁん泣いて居たんです。甲板の姉さんも・・「詩ちゃんが泣いとる・・」と言って泣いて、お婿さんに慰めて貰ったそうです。

 その夜・・我が家は、3人とも無口でした。何かぼそぼそと話したけれども、何を話したのか覚えていません。話をしたからと言って、後戻りは出来ないんです。それに麗子姉さんは、当時の結婚適齢期を過ぎて居ました・・。姉さんは、納得して、飛び込んで行ける、家ではないと思って居たのでしょう。我が父を財産が無い・地位が無いと腐した家でしたから。昔は・・我が家の方が、余程上なのに。妹の私が言いたくなります。私は、一人になれる・・お風呂に入って、泣いて居ました。「お姉ちゃん・・ごめんなさい。喧嘩してごめんなさい。いろいろ思い出します。大事にしていたセーターを、黙って着て、ごめんなさい。いっぱい、いっぱいありがとう・・」

 「お姉ちゃん・・この本読んでね」「えぇっ!またかぐや姫のお話?もう・・覚えたでしょうに・・」「覚えたよ・・ほいでも読んで・・かぐや姫のお話、好きなんよ・・」「はぁ~い・・おいで」麗子姉ちゃんに、いつも抱っこをして読んで貰うのでした。「ありがとう・・お姉ちゃんは、何でも読めて、偉いね・・」小学校6年生の麗子姉さんは、成績優秀で、活発な少女でした。「お姉ちゃんみたいに・・賢くなりたいよ・・。これ読んだら、字も教えてね」「はぁい!書き取りは何回も練習するんよ」「はぁい~」

 お陰なんです・・詩子は国語の時間・・教科書は、すらすら読めて居ました。そして今・・文章が書けるようになりました。・・思いも寄らない事なんです。沢山の苦難に導かれて、題材を頂いて居ると思えてならないんです。ありがたいと思って居ます。

 ⑳

 私・詩子も年貢を納める時が来たようです。(物事をあきらめなければならない時)そうですよね。父・母にとって、姉・麗子も可愛い娘です。麗子の事を思って心配して居た事でしょう。私だけ、心配事も乗り越えて、人を非難する小説を書いて、過ごせる筈がありませんでした。お金の苦難を乗り越える事が出来た私に、課題が残って居ました。

 息子・治彦がゲサラが来ると言って、噂を信じて働かないんです。今日にも、明日にも、来ると言って居ます。「来ても良いから・・来る迄、働いて食費を入れて下さい。来たらどうするんですか?」「ゲサラ発動は、税金も年金も払わなくていい。月々お金が入って来るんだ!お金の為の、奴隷のような働き方は終わり。家を出て、納得出来る仕事をするのさ!」「そんな良い事あるん?あるなら、その仕事、探して置いてください。道理にかなう生活をして下さいよ。お金を大切にして下さいよ。有頂天になって・・失敗した人、沢山見ているからね。こんな息子を残して、親は死ねないね。私達、人生最終章なんよ。ちゃんとした生き方をして下さい」「お母さんの言う、ちゃんとした生き方とは、どうすること?」「ちゃんとよね!人に迷惑をかけない!とかね」・・どうしたら良いのでしょうね。ここでまさか、私に大作を書かす為の芝居?と、悠長な事は書けません。我が子の事です。責任があります。子育て・・何処が間違っていましたかね。神様・仏様・お父さん・お母さん・・教えて下さい。息子・治彦をお守りください。お願いします。

 一つ、心当たりがあるとしたら・・良い事だけしか、見せなかった事かも知れません。愚痴をこぼさず、一心に頑張った事かも知れません?夫と息子にも愚痴をこぼして、手伝って貰う事でしたかね。

 また一つ、心当たりがあるとしたら・・姉・麗子と仲良くして、いざこざも話し合って解決するべきでしたかね。高所に立って、姉を労うべきでしたか。これから仲良く出来るように、少し練習して見ます。娘・詩織が、お盆休みに帰って来た時・・姉宅に、一緒に遊びに行って見ます。息子・治彦が治るなら、苦手な事でも致します。息子の為なら、頑張ってみます。

 ㉑

 以前・・幼馴染の温子が、闘病中に言った事を思い出します。病室を探して、ドアを開けると・・いきなり言うんです。「あんた誰!ぶっさいくな!誰?」「えぇっ!詩子よ。どうしたん?」真っ白いシーツに埋もれるように、黒っぽい棒が・・喋っているんです。「あんた誰!ぶっさいくな!」「まぁ・えぇ!えぇっ!詩子よね、どうしたんね?」矢継ぎ早に喋るんですから、驚きました。若い頃よりは不細工だけど、年相応よね。と言いたい。でも、あんたこそ、ぶっ・・とは言えませんでした。あまりにも・・哀れな姿でしたから。小学校の頃より、体格も良く活発な温子でした。私・詩子はと云うと・・病弱な子供でしたから、余計に負けたくない気持ちがあるのでしょうか?血液のがんという病気になり、身体が痩せ衰えていく・・。遣り切れない気持ちを抱えて居たのが、爆発したんですね。対処できなくてごめんなさい!幸せは・・人と比べる事は、出来ません!幸せの項目はいっぱいあるから。例えば・お金が有る無し・学歴・背丈・歌が上手か下手か・等々切りがないから・・プラス、マイナスで大体ゼロになると思いますよ。だから、人は比較できないんですよ。

 三男叔父さん夫婦も・・小母さん達を代表して言った事・・「がみがみがみがみ・・可愛らしくない!」「がみがみがみがみ・・可愛らしくない!」私、可愛らしくしなくてもいい程・・良い事をして居ますよ。と、言って見たかったです。(それこそ、可愛らしくないから、言わない)誰かさんの嘘を見抜いて・・詩子を庇って下さったのも、三男叔父さんでした。「がみがみがみがみ・・可愛らしくない!」その後「弟は結婚したか?」「ええ・・しています」その言葉も時々付きました。夫・治夫の弟を娘にと望んでいたのでしょうか。娘に何かあったのでしょうか?どうしたものかと、私も悩みましたよ。

 姉・麗子も・・婚期を逃した娘を、息子・治彦にどうかと言うんです。私に言える?それだけは、ごめんなさい!お姉さんから逃れるようにして、生きて来たんだから・・ごめんなさい。それもまた、今の立ち位置の・・遣り切れない気持ちが、そう言うのでしょうか?妹を使う事は、容易いですか?姉さんは、問題に対して、手立てをして居ますか?努力して居ますか?

 ㉒

 私の窮地に、一つ手立てがあるとしたら・・。これから猛勉強をして(間に合うかな)ファンタジーな恋愛小説を書いたりして、皆様に楽しく読んで頂ける。小説家になる事でしょうか。その印税で息子・治彦は生涯を生きて行ける??

 もう一つ、手立てがあるとしたら・・。

いつか・・世界法・ゲサラという時代が来て、(今迄とは、価値観が違う時代)100年も200年も過ぎ、1000年も過ぎた頃・・あの○○草子のように・・あの○○物語のように・・。ゲサラ前の時代、その時代を生きた人達の様子を、興味深く読んで下さる事でしょう。人々は、人と比べて、驕ったり悩んだりしていたのか・・。人と比べて、負けたくないから・・戦っている世の中であったらしい。そして作者はと云うと・・貴族ではない、上流階級の人でもない、普通の人が・・80歳に近い女性が書いて居る。皆が普通に文章が書ける時代であると云うのか・・。(今はAIが全ての文章を書くが・・)とかなんとか、思って頂いて居る事でしょう。

 ㉓

 草の葉に落ちた朝露は、朝日を受けて一斉に光って居るように・・時空を超えて、人々は皆、愛おしく光って居るんです。  

 おしなべて 草の星とや 謂い居りぬ 時空を超えて 光り給うや

                         

                                       終わり                        















 心に残って居た事を書き終えました。草の星・・本当に何処かで読んだような気がして居ました。でも、夢で見たのかも知れません。年を取ると、見えて来るものがあるように・・このお話は、何かのお役に立つかも知れません。


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