078.恐怖!処女の生き血と吸血鬼の城-04
アーコレードの向かいの席で、セリスお姉さまが崩れ落ちるのが見えた。
背後についていたふたりのメイドが彼女を支え、アコは「お姉さまに触れるな食人鬼どもめ」と、こころの中で叫び、魔力を練り始める。
「これは失礼した。異界のかたには少々刺激が強過ぎたようだ」
ラムス王が慌てて席を立ち、脱力したセリスの背後へと向かおうとしている。
――お姉さまは渡さない!
魔族と同類の王を屈服させるのは気持ちがいいだろう。
アーコレードは椅子を下げ腰を浮かせる。
「だから、わたくしは申し上げたのに」
同席していた若い女性のひとりが声を上げた。
王に最も近い席のひとつに座り、頭にティアラ。永遠の若さを持つ王妃か。
「セリシール様、アーコレード様。こちらの器は、作りものですわ」
供された生首シチューを検めると、器は陶器製だとすぐに分かった。
薄暗さと先入観が本物に見せていたらしい。
セリスも気絶には至らなかったようで、メイドに礼を言うと器を触って「おっしゃるとおりですの」と言っている。
王も、客人が意識を持ち直したのを知ると席へと戻った。
「申し遅れました。わたくしはペロドン・ブランストーカ。ラムスの妻です」
続いて、王妃の向かいの女性が「長女の“フォンテ”と申します」と挨拶をする。
「次女の“ローラ”です」
長い黒髪の彼女は、こちらを見てうっすらと笑った。
挨拶が終わってもアコから視線を外さない。
どういった種類の興味だろうか。吸血鬼に見つめられると、背筋が寒くなる。
「それは長男のカルンスだ。不愛想ですまない」
ローラの向かいの青年の紹介。ラムス王が代理で名乗った。
「あたしは、ラムス様の忠実なるしもべのレミミでーす」
先ほどセリスを支えたメイドの片割れが、この場にそぐわない明るい声で言う。
「フララだよー」
もうひとりも同じく。
背後に控えたままの大声だったため、セリスはびくりと肩を弾ませていた。
「おまえたちの自己紹介など求めておらんわ」
ぴしゃりとポリドの声がアコの真後ろから聞こえ、同じく心臓を縮み上がらせる羽目になる。何かにつけて驚かせてくる城だ。
「料理のほうも、界外から取り寄せた人間用の完成品を温めさせただけですから、ご安心して口になさってくださいまし」
王妃が勧め、アコとセリスは互いに目配せをしてからスプーンを手にした。
チープとグロテスクのあいだから漂うシチューの香りは、悪くない。
ひと口流しこむと、じっくりと煮たてた葡萄酒の風味と――恐らくはフォン・ド・ボー――ウシ系の生物のコクが舌を喜ばせる。
アコは、素直に「おいしい」と口にした。
向かいのセリスも、「お肉もほろほろと溶けるようですの」と頬を押さえている。
「レトルトパウチという驚くべき保存技術らしい。吾輩たちの技術では、乾燥させるのが関の山ゆえ、鮮度を求めると、どうしても殺したてか生きたまま……」
「あなた!」
王の解説を王妃が遮る。
「仕方なかろう。長年やってきた食事習慣を変えて間もないのだから。客人をもてなすのだって、慣れておらぬし」
精悍な肉体を持つ王者が小さくなった気がした。
「お気遣い感謝いたします。わたくしたちの世界でも、長期保存は乾燥か塩漬けですの。アーコレードさんの世界では、どんな保存方法がございまして?」
セリスから話を振られる。
アコは「乾燥と塩漬けに加えて、凍結の魔術による冷凍保存が一般的です」と答えた。
それからも会話は続く。
話題は「技術や産業の輸出入について」に移り変わり、常夕の月では、ほかの文明社会に勝る点が少ないことが課題としてのしかかっていることが話された。
「精々、畜産や皮革加工業くらいしか発展しておりませんでな。なにぶん、吸血行為が快楽と実益の大半を占めて……」
「あなた!」
ラムス王はまた怒られている。
「それを手放されるのは、たいへんなことかと存じます。生きるために他者を狩ることを運命づけられているのは、わたくしたちもある意味では同じですので」
「ご理解感謝する。といっても、この模造人血は味も鮮度も、現物を上回っておる。足りぬのは、牙が柔肌を通す感触と、耳を撫ぜる苦しみの吐息のみ」
王は銀色のパックを封切り、グラスに注いだ。
どろりとした深紅の液体。
「その欠けた感触が、恋しくなることはございまして?」
問いかけるセリシールの眼は鋭い。
「ある。だが、同族同士でも愛情表現として噛み合う習慣があるのでな。家族や友人がいれば満たすのは容易い。あなたがたもお試しになってはどうか?」
王はそう言うと、牙を見せ笑った。
「首元に噛みつく……」
セリスはいっしゅん忘我の顔を見せたあと、顔をふるふるとやった。
――お姉さまはご葛藤なさってるんだわ。
連中を信じるか否か。自分にはできないことだ。魔族に似た彼らを、それを抜きにしても悪名高かった吸血鬼を、信じるなんて。
――だったらあたくしは、「お姉さまの信じたもの」を信じましょう。
「吾輩たちも一枚岩ではないし、全員が全員、人間の血を啜っているわけではない。至上のひとときを手にすることができるのは、一部の権力者のみなのだ」
ラムス王が話を続ける。
吸血鬼の世界でも、通常の文明社会と大差のない暮らしが営まれている。
王が君臨し、地方領主が統治し、法と兵が裁き、農工商が励む。
だが、異界から連れてきた人間の生き血を口にできるのは、腕っぷしに自信のあるものや権力を有する者のみで、ほとんどの住民は野生生物や家畜の血で渇きを満たしているのだという。
「ゆくゆくは、この代用品を下々の者にまで行き渡らせたい。
実現には、多くの対価と長い時間が必要だ。
われらが異界へ与えられるものは限られておるゆえ、
せめてもの姿勢として人道連盟への参加を希望したのだ。
しかし、異界へ居を移して久しい者は、もはや吾輩には従わないだろう。
連盟でも話したが、もしも貴世界でわれらの同族が狩りをおこなっているのを発見した場合は、遠慮無く裁いてもらって構わない」
王の武骨な顔からは、苦渋がありありと感じられる。
アーコレードは手にした匙を見つめた。
曲がった自分の顔がうつりこみ、食卓の燭台の光が揺れている。
自分の世界でも、ラムス王のやったような駆け引きは当たり前だ。
だが、これまでのやり方を変えて譲歩するというのは、とても難しいことだ。
やはり父が掲げていた魔族との融和は正しかったのではないか。
ラムマートンのやり方は肯定できないが、それもお互いへの不信がさせたことではなかったのか。
今やマギカでは、魔族を知的生物とすらみなさない風潮が高まっている……。
「しかし、われらのほうが狩られる側に回るのは想定していなかった。異界のヴァンパイアハンターならともかく、まさか城内にバケモノが忍びこもうとは」
すっかり忘れていたが、これが本題だ。
「食事が済んだら、城内を案内させよう。そなたらはわれらが扱えぬ魔力や神通力を操ると聞く。共に力を合わせ、彼奴を捕縛し、恨みを晴らす手伝いをして欲しい」
王が頭を下げた。
食事を終えると、アコとセリスは二手に分かれて城内を探索することとなった。
アコには次女のローラ、セリスには長女のフォンテが案内役としてつく。
王を含めた何名かの吸血鬼たちも、ペアを組んでの本格的な捜査体制だ。
「よろしくお願いしますね、アーコレードさん。わたしはあまり荒事は得意ではないので、怪物に遭ったら足を引っ張ってしまうかもしれませんが」
ローラは、にこりと笑うと手を差し出してきた。
「わたしのことは、気軽にローラと呼び捨ててください」
「では、あたくしのこともアコと」
握手を交わす。柔らかく温かな手。暗がりでも分かる、まっしろな肌。
どこからか、ふわっと甘い香りがして、姉役とのお茶会を思い出させる。
第二王女の長い黒髪をカールさせた頭は、ちょうどアコとセリスのものを足して割ったような印象だ。
――仲良くなれるかな。
せめて彼女たちとは。アコもローラへと笑顔を見せる。
「わたしたちの担当は城の西側二階。主に城に住む者たちの寝室が配置されています」
カンテラの灯りを頼りに、部屋をひとつひとつ見て回る。
長女フォンテの部屋。
赤や黒を基調とした絨毯やカーテン、古めかしい木製の調度品。
丁寧に整えられた寝室は、実家の自室やフロルの私室とどこか似ている。
部屋のあるじも怪物もいない。窓の向こうも、静かな夕闇。
「次はわたしの部屋」
ローラの部屋は、フォンテのものよりも飾りけがなく、殺風景にも思えた。
彼女はベッドに腰かけ、「ふう」とため息をつく。
「お疲れになったんですか?」
「少し。じつを言うと、代替の血があまり合わなくって」
ローラが言うには、模造人血は低知能動物の内臓や血液をベースにトマトやヘマズの実、スッポンポ、ンゴーニャの皮を調合して作られているらしい。
人道連盟や高度科学文明の厳しい基準をクリアしたお墨付きなのだが、スッポンポの香りに敏感な体質らしく、それがどうしても苦手で困っているという。
「それは大変ですわ。血をお飲みになれないと、お身体に悪いのでしょう?」
アコはローラの隣へと腰かけ、自分にも苦手な食べ物があると励ます。
スッポンポがなんなのかは知らないが。
「発作を防ぐ程度には口にしています。他生物のかたと同様の食事も必要ですし、そちらはきちんといただいていますから」
言うもローラは目を閉じて、眉間にしわを寄せている。
「もうひとつ白状すると、次の部屋にはあまり行きたくなくって……」
長女、次女ときたら三女。
惨殺されたファニュ嬢の寝室。
本当なら、楽しい思い出ばかりが詰まった場所だろう。
哀れな娘の手は、巻いた髪をしきりに撫でている。
「ファニュさんのお部屋は、あたくしがひとりで見てきます」
アーコレードが立ち上がると、手をつかまれた。
「ひ、ひとりに、しないでもらえますか」
つかまれた手から、震えが伝わる。
アコは気づく。
外野が見れば彼女も怪物の一員だが、身内ではかよわい弱者なのだ。
「もう少しだけ休みましょうか。ほかにも、見て回っているかたはいますし」
アコは微笑して腰を落ち着ける。
それから、ローラを元気づけてやろうと、尊敬する姉役ふたりの英雄譚を話してやった。
「アコさんのお姉さまがたがは、素敵なかたなんですね」
「ローラさんのお姉さまのフォンテさんは、どんなかたですか?」
「えっと、姉のフォンテは……」
ローラが言葉に詰まった。
「どうなさったの?」
「あ、ええ。少し眩暈が」
肩に重み。寄りかかられてしまった。
ローラの熱を帯びた呼吸がコートの隙間から入りこみ、アコの胸を湿らせた。
――まさか!
慌てて身を離すと、ローラも同様にずってベッドの端まで下がっていた。
彼女は手で口を覆い、激しく首を振った。
「ごめんなさい! わたし、そんなつもりじゃ!」
あわや仲間入りだったアコ。責める言葉が喉元まで出かかる。
ローラの瞳も不気味に赤の光をたたえていた。
――だけど、泣いてもいる。
分かってあげなくては。アコは優しく首を振ると、「大丈夫ですから」と告げた。
「動いているほうが気が紛れるでしょう。捜索に戻りましょう」
「は、はい……。本当にごめんなさい」
一抹の不安を思い消し、再び屋敷の巡回を始める。ファニュの部屋はアコが簡単にチェックを済ませ、続いて長男カルンスの部屋の扉を開く。
「うわーーーっ!」
開けると同時に大絶叫。
身を固くし、思わず吸血鬼娘と抱き合ってしまう。
部屋のまんなかに棒立ちする吸血鬼の青年。
彼は首だけでこちらを見ると、にやりと牙を見せ……。
「なんちゃって」と言った。
「カルンス! 脅かすのはやめてください!」
ローラが震え声で抗議する。
「へへへ……。この部屋には何もいないさ」
「あなたはポリドと一階の担当だったでしょう? まじめに探してください!」
「へいへい、分かったよ」
と言いながらも、彼はベッドにごろんと横になってしまった。
「困った弟さんですね」
「あれでも一応は兄なんです。いっつも困らせるんだから。放っておきましょう」
ローラは廊下へ出て扉を閉めると、怒り顔を沈ませた。
「カルンスも、つらいんだと思います」
カルンスはあの通り、いたずら好きな性格である。
城の者を騒がせることも多かったが、つまりは活発だったファニュと、もっとも気が合っていた。
「なので、見逃してやってください。といっても、普段通り過ぎるので、わたしもあまり素直に同情できないのですけど」
「少し羨ましいですわ。あたくしのお兄さまは、ちょっとお堅すぎるので」
お互いに兄には苦労をする。ふたりは声を殺しながら笑いあった。
それから真顔に戻り、
「次は、お母様の部屋」「怪物が現れたという……!」
同時に、ごくりと唾を飲みこむ。
ふたりは一緒にドアノブに手をかけ、「せーの」の掛け声で扉を開いた。
「……」
なんのことはない。もぬけの殻だ。
窓が開いているらしく、カーテンが揺れいる。
「少し寒いですね。窓を閉めましょうか」
アコは部屋に踏みこみ、窓際へと近づく。
「わたしは暖炉に火を入れますね。お母様は寒いのが苦手で」
ローラの気配を背中に感じながら、カーテンをそっとめくってバルコニーに何もいないことを確認する。
きっちりと窓を閉じ、掛け金を止めて息をつく。
「きゃあああっ!」
ローラの悲鳴。アーコレードは振り返った。
「助けて! アコさん! 助けて!」
なんと、ローラが暖炉の中へと引きずりこまれようとしていた。
絨毯に立てられた彼女の爪が、ぱきりと剥がれ、身体がずるりと暖炉の闇へと進む。
「ローラさん!」
アコはローラの両腕をつかみ、全体重をかけて踏ん張る。
「あああ、いやああ! アコさん、ねえ! ねえ!」
呼びかけるローラ。
彼女の身体は床から浮き、腰から先を……見たこともない、なんとも形容できない、内臓のような、汚物のような、この世の醜いことをすべて詰め合わせたような物体が覆っていた。
それは、もごもごと鼓動するかのように膨れたりすぼまったりしており、動くたびに赤い液体をほとばしらせ、アコの鼻に鉄くさいにおいを届ける。
「ア、アコさん、ねえ。わたし食べられてる? 食べられてないよね?」
ローラは引きつった笑顔だ。しかし、涙がぼろぼろととめどなく流れでている。
「た、食べられてないよ」
なんの慰めか、アーコレードはそう答えていた。
しかし、バケモノは嘘を暴く。
血と粘膜に覆われた醜い口が、どくんと、ローラの腰よりも細くすぼまるのが見えた。
ごりっ。ぶつり。ぼとぼと。
アコは、あれに似ていると思った。
紙袋に欲張って食糧を詰めすぎたときに、底が破れて袋が剥け、中身がこぼれ落ちる、あの瞬間に。
ファニュ嬢の悲劇の再現。
ローラの瞳にとばりがおり始める。
彼女は引きつった笑いのまま、「アコさん」と呼んだ。
「わたしたち、友達に……」
アコは扉を閉めていた。
全身全霊で戸を押さえつけて、自分の苦しげな呼吸音を聞いていた。
――逃げてしまった。
最低だ。怪物を取り押さえるどころか、ペアを組んだ王女を食われてしまった。
せっかく、こころが通じ合いかけていたのに。
失望が白いシーツに落とした血のように広がるのを感じる。
自分の汗か、ローラの吐息の名残か、廊下を流れる風が身体を冷やした。
「……痛いよお、痛いよお」
――ローラさん!?
扉の向こうから声。腰から下を食い千切られていたのに、まだ生きているのか。
「すぐに助けを……」
助けを、どうするのだ?
呼ぶのか。悲鳴は充分に響き渡っている。すぐにでも誰かくるだろう。
「あああ!」
叫び声。
「なんで!? 足が! お腹も無いよお! 痛い、痛い! あああああ……」
咀嚼音だ。怪物はまだいる。でも、ローラはまだ生きている。
あんなことになっても、吸血鬼なら助かりうるのかもしれない。
無理だろう。いや、セリスの杖があれば、巻き戻してしまえるのではないか?
――で、でもミノリ様がお許しにならないと、他者へは向けられないって。
吸血鬼は魔族に似ている。じっさいに、多くの罪も犯している。
……言い訳だ。
行かないことへの。逃げることへの言い訳。
なんのために自分はここにいるのだ?
憧れの星を救うため、歩み寄りを肯定するため、外交の力を磨くため。
どれも大義だろう。
けれども、本当にアーコレードを動かすものは淡く小さくとも、こころから求めてやまないものであった。
友達。ローラの言ってくれた言葉がリフレインする。
少女は意を決し、扉を開いた。
……しかし、そこにあったのは、怪物が吐き散らし、もう動くことのなくなった残骸であった。
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