045.戦場を照らし出す乙女たち-08
セリシールは白いシーツを跳ね上げ、慌てて身を起こした。
「お目覚めですか。ご気分はいかがでしょうか?」
ヨシノだ。彼女はベッド脇の椅子に腰かけていて、挨拶とともに本を閉じた。
なぜかいつものメイド服ではなく、汚濁の罪の作業員たちと同じ迷彩柄のジャケット姿になっている。
「ここはゲートの向こうのメディカルセンターです」
静かだ。ベッドの周りはカーテンで仕切られている。
薬くさいのは相変わらずだが、血や土ぼこりのにおいは感じない。
「わたくし、どうして……」
記憶をたどれば、全裸中年男が脳裏に現れた。ぶらんぶらん。
そうだった。フロルへの心配で動揺したところに、あれを見てしまって昏倒してしまったのだ。
ヨシノが言うには、汗と鎖の戦士たちが奴隷や捕虜を取り戻しに来て、救護所付近でかなり大規模な戦闘が発生してしまったということだ。
双方ともに死者や負傷者がかなり出たという。
「アラさんとリョージさんは?」
「おふたりとも少し怪我をされましたが、自分のことよりもほかの人のことにかかりっきりですね」
胸をなでおろす。「わたくしも行かないと」
再び戦地に戻ろうとベッドを出ると、病室に医者らしき白衣の男が入ってきた。
彼は興奮気味で、ヨシノの手を取って「医学の大進歩だ」とか「難病の人が救われる」などと騒ぎ立てた。
「わたしの血なんかでよければ、樽いっぱいでもご用意しますよ」
「ははは。本当にありがとう。あなたには感謝してもしきれない!」
何やらセリスが寝ているあいだに、ヨシノは自身の身体を調べてもらい、医学に役立ててもらったとのことだ。
そういえばヨシノは、昔から身体が丈夫だった。
フロルのいたずらに引っ掛けられてよく怪我をしていたし、トラベラー活動にも参加し続けているが、傷跡のひとつもないすべすべの白い肌をしている。
「いくつか質問もされたのですが、ひとつ回答に困ったことがありまして」
「なんですの?」
「わたしの出自をどう答えたものかと。今では女神の枕が故郷なのは間違いないのですが、生まれた世界がどこなのかはっきりしなくて」
ヨシノは続ける。
「先ほどのような白衣のかたや、ここの白い廊下や病室を見ると、何か思いだすような気がするんですけど……。キルシュさんのようにはいきませんね」
「生まれのこと、お気になさってるの?」
「ええ、多少は」
「でしたら、過去をたどれるアーティファクトや魔術などがないか、今度探させてみますわ」
「いいんですか?」
「もちろんですの。ヨシノさんには普段から、お世話になりっぱなしですから」
「ありがとうございます。ところで、セリシールお嬢さまは、どうしてお倒れに? お医者様は心配ないとおっしゃっていましたが」
セリスは足を止める。
ヨシノにも伝えておいたほうがいいだろう。
「女神様の影響力が薄い世界?」
「はい。フロルさん、お怪我をなさってなければいいんですけど」
セリスは窓の外を見て友を想い、ため息をつく。
すっかり汚れ切った空気。戦場とは違ったかたちで息のつまりそうな景色。
「心配ありません。フロルお嬢さまは大丈夫ですよ」
ガラスに映ったヨシノの顔が、少し笑った。
セリスは救護所に戻ると、再び女神の慈愛を振り振り、人々を癒しにかかった。
アラは頭に包帯を巻いてこそはいたが、相変わらず患者を叱り、ほかの看護師に檄を飛ばして働き続けていた。
リョージも、眼鏡のフレームが少し曲がっているほかは元気そうだ。
セリスは癒し続けた。
アーティファクトや宣誓を行使するたびに聞こえるミノリ神の『セリスちゃん負けるなソング』が聞こえないほどに集中し、多くの生や死と出逢い、すれ違った。
それでもやはり、友人への心配は思い消すことができず、看取りという行為がまた、自世界に残してきた父母を思い出させるのであった。
死体は多く積み重なった。
比喩ではなく、並べられずに粗雑に扱われる遺体が現れ始めたのだ。
そのどれもが、首輪か毛皮の者だった。
襲撃に呼応して叛乱を起こした捕虜が多数いたせいで、医師や看護師にも彼らの治療を拒否する者が現れ始めていた。
味方側の怪我人の増加も後回しに拍車をかけた。
それでもセリスは、意地になって捕虜のテントに近づこうとしたが、目を血走らせた見張りの兵士に銃口を向けられてしまった。
「こいつらは俺たちの仲間を殺したんだ。助けてやってたのに、見逃してやってたのに! 命令が無きゃ、今すぐ全員撃ち殺してやりたいくらいだ!」
引くしかなかった。彼の気持ちを踏みにじる大義も勇気もなかった。
そして、翌日……。
じっさい、そういうことが起こった。
捕虜の、それも奴隷が撃ち殺された。奴隷側が先に手を出したという。
撃った兵士は、セリスに縫ってもらった手で引き金を引いていた。
ヨシノは慰めるとともに、一足先に帰るかと提案してきた。
セリスは確かに傷ついていた。だが、礼を言うも、断った。
いくら治しても、ゲートの向こうに送り返しても、つぎつぎと捕虜と怪我人は送られてくる。きりがないのも承知だった。
こういったことに慣れてきたのもあったが、助けてやった者の安堵の顔が愛おしく、手放しがたいものに思え始めていたのだ。
それでも、人の生き死にで、こころを千々に散らすことがなくなってきた自分に、若干の侘びしさを感じるところもあった。
「無理はしなくてもいいさ。すでに充分助けてもらってるからね」
アラすらも帰ることを勧めた。
「うちが保証してやるよ。あんたはよくやった。そっちの神様や王様にだって、文句を言わせない」
「わたくしは、女神様や国王様に命じられたから続けるわけではございませんの。最初こそはそうでしたけど……」
「よその世界にそこまでしなくてもいいだろ? ただ働きだし、この前みたいにまた襲撃があるかもしれないよ?」
「承知しております。危険はこれまでも何度も経験してますし、これはスリジェ家の……いえ、わたくしの信念の問題ですの。わたくしがおのれに問い、そうすべきと感じたから、ここに残っているんですの」
「見かけによらず頑固で自信家なんだね。嫌いじゃないよ」
「まだ、自信はございませんの。自分を信じることは大切。でも、もっと大切なのは、自分自身から信を得る努力を続けることかと存じますの」
セリシールが幼稚さを捨て、真剣にことに向かったすえに出した答えだった。
アラはこちらをしげしげと眺めると、手を差し出してきた。
「握手。うちの世界じゃ挨拶とか、親交の証としてやるんだけど」
「わたくしの世界にもございますわ」
硬く握りあう手。
「できれば、あんたのことは忘れたくないね」
「お忘れにならないかと存じますわ。お手紙も書きますし、戦いが終わったら是非、わたくしの世界にも遊びに来てくださいまし」
新たなともがらに、ほほえみかけるセリス。
ところがアラは、「あ~」と言いながら頭を掻いた。
「ダメなんだわ。うちら全部、忘れちまうんだ」
「どういうことなんですの?」
「リョージは教えてくれなかったんだね」
汚濁の罪では、戦場へ征く者は志願かつ、期間を設けた交代制を取っている。
戦争では極度の緊張や臨死体験、凄惨な場面の目撃により、生還しようとも精神に大きな爪痕を残すことが珍しくない。
元の暮らしに帰ったさいに、フラッシュバックによって支障が出ないように、戦地にいたときの記憶は、完全に消去されるという。
「完ぺきとはいえないけど、神経のほうも薬で治してしまえるからね。時間を掛けて培養すれば手足だって生やせる。医学様々だよ。さっきみたいに軍規違反をしたヤツも、罰せられるんじゃなくって、忘れさせて送り返して終わりさ」
アラはバツの悪そうな顔をしている。
「ごめん」
「お謝りになることはないかと存じますわ」
「怒らないの? だって、みんな忘れちゃうんだよ? うちらのこともそうだけど、怪我人だって。あんたが手を握ってやったことも、治してやったことも」
寂しいことだとは思う。だが、
「わたくしが憶えておりますから。それに、忘れると知っておられても、アラさんや、みなさまがただって、一所懸命になさってるでしょう?」
「まあね。どうしても身体が動いちまうのさ。自分は自分だからね。元の暮らしに戻っても、この性分は変わらないんだろうな」
「戦争がアラさんを変えてしまったんですのね」
「いや、もともとだよ。この性格は」
アラは乾いた笑いを上げて席を立ち、休憩用テントをあとにしようとした。
「そちらは、救護所ですわ。アラさんはおやすみの時間じゃなくって?」
問いかけに、看護師の女は背を向けたまま手を振って答えた。
セリスも、もう一働きするかと席を立つ。
本当はヨシノに休めと口酸っぱく言われているのだが、じつはヨシノのほうがほぼ不眠不休で雑用をこなしたり、お茶を振る舞ったりと働きづめで、セリスはちょっとした対抗心を燃やしていた。
救護所は静まり返っている。心なしか、うろつく兵や作業員の姿も少ない。
今なら捕虜のテントに近づいても平気だろうか。
テントの裏手に回ると、いやなにおいと羽虫の羽音が出迎えた。
積まれたままの遺体だ。本来なら、袋に詰めて相手側との協定で決めた区域に持って行かなければならないのだが、ここのところは遅れがちだった。
「おや、セリシール嬢じゃないか」
遺体のそばで座りこんでいたのは、医師のリョージだ。
彼はカップを傾け、コーヒーを飲んでいるようだ。
「こんな場所でお飲みにならなくても」
「どこだってこんな場所さ。それに、宿舎のほうには近寄りたくないからね」
リョージは言っておきながら、しまったという顔をした。
「宿舎で何が?」
「お嬢さまは知らなくていいことさ」
テントの表のほうで何かが聞こえた。短い悲鳴。「騒ぐな」という男の声。
リョージは黙って立ち上がり、駆けて行った。
あとを追うと、彼は首輪をした若い女性に肩を貸していた。
それから、逃げるように去っていくふたりの兵士の背を見た。
「何があったんですの?」
「奴隷の子を捕まえて悪さをしようとしてたヤツがいたのさ」
リョージが首輪の娘に戻るように促すと、彼女は礼を言ってテントに引っこんでいった。
セリスは状況を理解し、憤怒に腹が煮え始めた。
「なんて卑劣な。先ほどのふたりを捕まえましょう!」
「無駄だよ。それに、放っておいたほうが彼らのためさ」
「何をおっしゃるの!? 今、なさろうとしたことは……」
言いかけて気づく。
「あれも、あのようなことをしても、忘れさせられて終わりなんですの?」
「知ってたか。ここではどんなに酷いことが起こっても、生きて帰ればチャラだ。手足をもがれようと、誰かを犯しても、殺してもね。軽蔑するかい?」
「理由は存じております。でも、こころと身体が癒せても、穢れたたましいまでは戻らないかと存じますわ」
「たましいか。僕らの世界じゃオカルトだな」
リョージはなぜテントの裏にいたのだろうか。隠れるようにひっそりと。
まだ疑いに傾いていたが、彼を信じて訊ねてみた。
「正義の味方ってわけじゃないけどね。宿舎にいたら始まったから、二人目の犠牲者が出ないようにって、見張ってたんだよ」
――二人目!
セリスは顔をかっと熱くして、ブーツを踏み鳴らしながら宿舎へと向かった。
リョージが止めるのも聞かず、ただ怒りに任せて進む。
「止めようなんてやめてくれよ。男だって危ないんだから。ヨシノくんにも、夜はゲートの向こうに帰って休むように言われてるだろ?」
セリスはリョージの男性用宿舎の前に来ると、懐に手を入れた。
「汝の願いは吾の願い。吾は誓わん、女神ミノリの名のもとに!」
虹色に光るカードを投げる。それはドアに刺さり、宿舎全体を虹色に照らした。
「魔術か!? 何をしたんだ?」
「魔術ではございませんの。これは、女神様の願いのお力。宿舎にいる方々に、“相手をおもんばかる気持ち”を植えつけました」
しばらくすると、宿舎の中から男どもがむせび泣き謝る声が聞こえてきた。
深夜に響く懺悔の合唱は、不気味ともいえた。
「きみは、残酷なことをするんだな。良心なんてあったら、正気でいられなくなる」
「それもどうせ元通り。お忘れになられるのでしょう?」
きっぱり言ってやると、ため息が返された。
「処置がされても、トラウマが百パーセント消えるとは限らない。こころはそこまで単純じゃないからね。まったく、戦争や魔法よりも手に負えないよ。女神様も、きみもね」
「非難なさいますの?」
セリスはもう一度懐に手を差し入れる。
リョージも男だ。無遠慮に自分の手を取って、アラに釘を刺されていたことも忘れていない。
「僕は無実だよ! 送り返されるなんて勘弁だ!」
彼は両手を振って拒絶をした。
「信用しておきますわ。そういえば、戦地への駐留には期間があると聞きましたけど、リョージさんは長くいらっしゃるとおっしゃってましたね?」
「オーケー。信用との交換だし、話すよ」
リョージは自身の身の上話を始めた。
ここに赴任した当初、彼は任期の半年で元の暮らしに戻るつもりだったという。
多くの治療をおこない、彼もまた心身に傷を負っていた。
同時に、医療の重要さを再確認し、元の世界へ戻ったら腐らせていた資格を使って医者になろうと決意し、その決意を忘れず持ち帰れないかと画策していた。
「そんなときに、ある獣人と奴隷に会ってね。もちろん、どっちも捕虜だ。
獣人のほうは、もう助からない怪我だった。
奴隷は黒髪の綺麗な人間の女の子で、魔導士だったんだ。
捕虜でも魔導を行使すれば射殺するルールだったんだけど、僕は見逃した。
彼女がやろうとしたのは攻撃ではなくて、主人への治療行為だったから」
だが、魔法の力は応えなかった。
「彼女は泣いてたよ。僕に助けてくれってすがってきた。
見張りに銃口を向けらているのにも構わずね。
でもけっきょく、彼女のご主人様は助からなかった。
あの子は奴隷なのに死後もあるじを悼んで、敵側である僕に礼を言って……。
そんな彼女に惚れてしまってね。それで……」
彼は肩をすくめる。手を出しちゃった。
「もちろん、相手の同意はあったよ。彼女の悲しみに付け込んだって言われたら、何も反論できないけど」
リョージはバツの悪そうな顔をしている。
セリスは意見をせず、ただ続きを待った。
「仲良くなってね、色々な話を聞かされたよ。あっちの奴隷は僕らの思うような暮らしをしていないことや、獣人たちは意外と気さくだってこととかね。きみも薄々気づいてたろ?」
リョージはふいに、悪人めいた顔になると、「でもこの事実は、うちの政府にとって不都合だ。忘れさせるのはきっと、相手の事情を国民に知られて戦意が下がるのを避けるためだ」と言って、自嘲気味に笑った。
「……こっそり彼女の魔術に頼った治療をおこなったこともあった。
本当にいい子だった。こっちの兵士のためにも泣いてくれたんだ。
彼女は同意して主人と戦地に来たのに、争いに反対するようになっていた。
そんな優しい子に戦場は似合わないだろう?
捕虜の交換の時期が近づいていたから、
もう戦場には出ないようにって釘を刺して、それでお別れするつもりだった」
ところが、リョージがある晩に目を覚ますと、宿舎が騒がしかった。
「それって……」
「けっきょく、彼女は元の世界に帰ることもなく、自分でいのちを断ってしまったよ。それ以来、僕はずっと彼女が忘れられなくて、志願してここに居座り続けてる」
「先ほどお助けになったのも……」
彼は「まあね」と、こともなげに答えた。
「忘れられるからほっとけるってもんでもない。理屈じゃないんだよ。
ここにいれば、またあの子に会えるんじゃないかと思ってしまうんだ。
魔法だってあるんだ、奇跡だって起こるんじゃないかってね。
僕は驚いたよ。きみの持ってきた包帯や針は、背理も背理。奇跡そのものだ」
彼の言葉尻はどこか恨めしげだ。
「女神様の奇跡は、願いの力ですの。それでも、完璧ではございませんの」
「願いの力、か。魔法より道理を無視してるよ。魔導は魔力という燃料を人が操作してるって知れば、まだ理解できなくもないけど。あの包帯なんかは、包まれた箇所の時間がまるまる元に戻ってるだろう?」
「おっしゃる通りです」
「その気になったら、死者を生き返らせたりもできるんじゃないか?」
理屈。女神の起こす奇跡に理屈というのも変だが、理屈の上では可能だ。
法を無視し、女神に通じる力が充分で、女神がそれを許せば、の話だが。
「ごめんよ、無理なのは分かってる。今のは忘れてくれ」
「忘れませんの。リョージさんの想い、たとえあなたが忘れさせられてしまっても、わたくしが憶えておきますわ」
リョージは礼を述べると、コーヒーを飲み干して「冷めちゃった」と言った。
「今回の任期いっぱいで、帰還しようと思う。今ので決心がついた」
リョージは言う。「あの子の死を受け入れる決心だ。きっと、あの子のたましいは、綺麗なままご主人のもとに逝ったんだろう」
言いつつも、こちらを見つめる瞳が惜しげに見える。
黒髪の少女、と言っていた。
思い上がりかもしれないが、自分に彼女を重ねているのかもしれない。
「ひとつ、頼みごとがあるんだけど」
セリスはただ頷く。
「僕が帰ったあとに、僕へこれを届けて欲しい。大事なことが書いてあるんだ」
渡されたのは手紙だ。
「あのかたとのことをお書きになって?」
「違うよ」
リョージは笑った。
「思い出せ、医者になれって、それだけだよ」
セリスは彼の普段の居場所を聞き、頼みを引き受けた。
リョージは礼を言うと、ちょっと照れくさそうにして、「もう寝るよ」とテントの裏へと引き揚げていった。
手紙を大切に帯へと仕舞いこみ、セリシール・スリジェは彼の言葉を反芻する。
「死を、受け入れる決心」
それから独りになった彼女は空を見上げ、おのれの神を呼び出した。
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