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025.羽ばたけ振袖、芽吹けよ大樹-02

※本日(3/21)2回目の更新です。

 スリジェ家の令嬢セリシール・スリジェは、アトリエの窓から、朝の陽射しに包まれた庭園を眺めていた。

 白玉の石が描く川と、苔むした岩に囲まれる池。それから風を教える小枝。

 雅なる景色であったが、嗅ぎ慣れた絵の具と石粉のにおいが障る。


 ――絵や彫刻という気分ではありませんの。


 今朝から小一時間眺めていた肖像画のきみに布を掛け、桜の瞳に別れを告げる。


 こんな気持ちのときは、陽のもとで歌ってみるのがいいかもしれない。

 だが、我がこころの内が音色に乗って、聞きつけた誰かに気づかれてしまうのではないかと思うと、喉は栓をされたかのように閉じてしま……。


「ひょあっ!?」


 変な声が出た。

 振り返れば、アトリエの出入り口に燕尾服の青年が棒立ちしていた。


「おはようございます、セリスお嬢さま」


 自分と同じ黒髪黒瞳の若き執事、ザヒル・クランシリニである。

 今朝から挨拶は三度目である。

 セリスは、そのみたびの挨拶のすべてを無視していた。


 今回も、挨拶の代わりに棘を返す。「いつから見ていたのですか」


「セリスお嬢さまが、フロル・フルール様の肖像を眺め、かのかたの名を呼びため息をつかれていらっしゃったときからです」


 聞かなきゃよかった。セリスは「セリスではなく、セリシールとお呼びになって」と突っぱね、ブーツを鳴らしながら音楽室へと向かった。


 ぽろん、ぽろろん。

 才に溢れし十七のおとめの指が、ピアノのキィの上で踊る。


 弾む指を、かの怪盗になぞらえ、妖しげな旋律を紡ぎ出す。

 スカートひらり、鞭しなり、ポニーテールとリボンがふわり。


 ……じゃじゃーん!


 セリスは力任せに鍵盤を叩きつけ、立ち上がった。


 ひと月ほど前、スリジェ家の宝物殿に、名の知れた怪盗が侵入した。

 当主不在のおりだったため、腕利きの客人にも頼み、自身も出張って迎え討たんとした。


 怪盗ブラッド・ブロッサムは、悪人からのみ奪う義賊で、よこしまなるものを鞭打ち、居丈高におのれの正義を示して「おほほ」と笑う怪傑だという噂。

 いくつもの法を破ってはいるが、世間には好意的にみられており、セリスが芸術や勉学を教えにいく屋敷の令息令嬢たちも、いつもその話をするから、自分も同じく好印象を持っていた。


 ところが、悪のいわれとは縁遠いはずの我が屋敷に手を伸ばしてきたわけで、評価は反転、憎悪の対象へと転じた。


 それだけならまだしもだ。


「ばっっっればれですの! あれでお隠しになっているつもりなんですの!?」


 お嬢さまの指が「ドミソ」のキィを連打する。


 印象深い破廉恥な衣装、仮面で顔は半分とくれば、見知らぬものから隠すには充分かもしれない。

 しかし、幼馴染にとっては半分でも顔は顔、癖のひとつや手足の挙動のどれをとってもフロルはフロルであった。

 しかも、この数年のあいだずっと、会いたいと恥ずかしいほどに焦がれて肖像と妄想を行き来していたのだから、なおさら間違えようもない。

 なんなら、目で見ずともにおいを嗅いでも言い当てられる自信がある。


「セリスお嬢さま」


 また来た。余計なことしかしない男が。


 新任執事のザヒルは名門クランシリニ家の末息子で、スリジェ家の次期当主であるセリスの側杖として宛がわれている。

 当主不在のおりは、ほかの召使いたちと連携を取り、代理をよく助けていたのだが、怪盗に侵入された夜から、彼の評価は階段を転がり落ちるかのごとしだ。


 ――せっかく仲直りのチャンスだったのに。


 怪盗のことが引っかかっていた最中だったが、フロルは不意のゲート出現に駆けつけ、自分の重傷を見て明らかな怒りと心配を見せてくれていた。

 たとえ足を失っても仲直りできるならばと、もうろうとしながら手を伸ばそうと思ったのに、ザヒルはフロルに対して失礼な態度で離れるように言ったのだ。


 それだけならまだしも、治療に専念するさいも、あるじの心配よりも、そのあるじが想いを寄せる恩人への悪口を優先したのである。

 苦言を呈すると「お嬢さまへの忠義ゆえに」と言い訳をされたが、焼け石に水だったのは言うまでもないだろう。


 次に評価を落としたのは、ジュウベエの遺体を魔導世界のフーリューの国に届ける手続きの「邪魔」をしたときだ。

 邪魔は言い過ぎではない。失意のセリスにつけられたフルール家の敏腕執事ルヌスチャンが些事を取り計らい、ゲート通過の許可や先方への連絡などの手はずもすっかり整えてくれたのに、「他家の事務方が口を出すな」と、わざわざキャンセルの連絡をほうぼうに入れたのだ。

 憂国の剣士の亡骸を一刻も早く郷土に返してやりたいと願っていたセリスの想いは無碍にされた。


 というわけで、もうザヒルとは口を利かないと決めている。

 あとで両親に会ったら、彼をお手洗いの掃除係にするように頼むつもりだ。


「セリスお嬢さま」


 無視! 無視ったら無視!


「“チエリ”様がお呼びですが」

 執事は付け加えた。「今朝からずっと」


「早く仰ってください!」



 ……セリスは音楽室をあとにし、母の私室へと急いだ。



 母チエリは赤々としたストーブの前で、ロッキンチェアを揺らしていた。

 待ちくたびれたか、ノックに返事はなく、覗けばひざ掛けが落ちかかっていた。


「お風邪を召されますわ」

「……あらセリス。忙しいところ悪いわね」

「忙しいなんてとんでもございません。ザヒルの不手際ですの」

「そう、まだまだ教育が必要ね」


 チエリはほほえむも、その頬は青白い。


「あなたに伝えなければならないことがあるの」

「なんでしょうか」


 返事をしつつ、胸が凍るのを俯瞰する。

 予感めいたものは、ずっと感じていた。


 セリス、よく聞きなさい――。


 耳を塞ぎたい思いだった。目の奥から熱い雫が溢れてくる。


 もう長くはないでしょう。私も、あの人も――。


 両親は異界の毒に当てられ、身体を弱らせていた。

 毒そのものは破壊の医師によって取り払われたが、毒の爪痕はまでは癒えず、ふたりは出歩けぬ身体となっていた。

 魔導の世界の治療師を呼んでもみたが、肉体の回復を促す魔法も応えず、科学眩しき世界より来た学者の見立てでも、ふたりの肉体はみずから治す力も、あらゆる毒に対する耐性も失ってしまっているとの昏き絶望であった。


「これを、あなたに授けます」


 母が差し出したのは“具現の絵筆”。

 描いたものが画面より飛び出して具現化する創造のアーティファクト。


 ……チエリが三十年近く愛用してきた家宝である。


「これがないと、お母様はお困りになりますの」


 わがままだろうか。セリスは絵筆を持った手を押し返そうとする。

 母は首を振った。


「私が持っていても、もう意味がないのです。ミノリ様が応えてくれなくなってしまったから。おのれの血肉すら創造できなくなった者には、寵愛を授かる資格はないのでしょう」


 悟り切った顔。娘は母にすがり、声をあげて涙にむせぶ。


「ああ、ミノリ様! お怨み申し上げます!」

「女神様を怨むなどと、口にしてはなりませんよ」

「ですが、御神の願いに応え続けたお母様に、あんまりなお仕打ちですの!」


「これまで受けた恩寵に比べればたいしたことはありません。

 悲しきかな、創造の価値は、滅びこそが高めるのは事実。

 誰しも、滅びをもってして一人の人として完結するものですよ。

 さあ、私のいちばん愛おしい作品!

 お父様からも、あなたにお話がありますよ。長く待たせてはお身体に毒です」


 セリスはずっと泣きすがったままでいたかった。

 形あるものは、いつか壊れる。胸にこびりついたワード。

 いつか自分も経験することだと、理解はしていた。

 だが、十七にしていまだひな鳥の乙女には、まだ酷というものだった。


 両親が死に、友は破廉恥窃盗犯で、側近が便所掃除なら、いったい何にすがればいいのか。


 ――やはり、わたくし独りで立つしかありませんの。


 母が無理に椅子を離れようとしたのを感じ、セリスはそれを押しとどめるために立ち上がった。ここで背でもさすられてしまえば、本当に子どもに返ってしまう。

 気丈とは言い難くも、ハンケチで顔を整え、一礼して父“アモンド”の待つ隣へと向かった。


 父の部屋でも、同じく引継ぎの儀式がおこなわれた。


 父の容態は母よりも重く、日々、目に見えて悪くなっていく。

 慇懃で近寄りがたかったころの面影も無残、最近は全身が火傷をしたかのように、皮がめくれ、肉が赤く腫れあがっていた。

 少し苦手だった煙管の紫煙と混じった父のにおいは、今や有機的で不快なにおいに取って代わられていた。


 ――ああ、哀れなお父様!


 こころのほうも毒で蝕まれたか、彼は母とは違い、おのれの早過ぎる退場を惜しみ、まだ見ぬ花婿への恨みごとや、式で咲きほこるであろう娘の姿は全世界で一番美しいのだとまぼろしを語った。


「セリスよ、あれをやる」


 赤く腫れあがった指が、帽子掛けのそばに立てかけられた杖を指す。

 創造の国宝級アーティファクト、“時戻りの杖”だ。


「我が最愛の妻チエリの後を継ぎ、家名に恥じぬおこないをせよ」


 セリスは返事をしなかった。しかしアモンドは、突き放すように続ける。


「さっそくだが、国王陛下より、異界への支援要請を給わっておる。そなたには、女神の枕の代表として、ある異界の滅亡を食い止めてもらいたい」


 セリスは黒髪を振り、父の枕元に塩辛き染みを拡げる。


「わたくしに、できるはずがございません」


 絵空事に思えた。こんな小娘に世界を救え?

 まるで子どものおつかいのように言ってくれる。

 だが、父母はそれに準じる善行をいくつも積んできた。


「あの娘は、そなたの友は、よくやっていると聞いているぞ。亡き盟友の忘れ形見、フロル・フルール。そなたも、若き勇者のあとに続くのだ」


 父はそう言うと息をつき、静かに寝息を立てはじめた。


 ――ごめんなさい、お父様。わたくしはまだ、あのかたのようにはなれません。


 セリスは時計を模した飾りのついた杖まで歩み、恐る恐る手に取った。

 そして、女神の杖を父の頭上にかざした。


()の願いは()の願い。()は誓わん、女神ミノリの名のもとに!」


 第二の宣誓、杖が応え、虹色の渦が巻き起こって父の眠る病床を包みこみ、渦は一度停止すると、急速に逆回転を始めて消えた。


「……む、セリスか。いかに娘とて、断りもなく入ってきてはいかんな」

「申しわけございません。ノックをしてもお返事が無くて、心配になって」


 娘は背に杖を隠すと、こともなげに言った。

 痛々しかったはずの父は、顔色こそは悪いが、元の面影を取り戻しており、豊かな髭を撫でて首をかしげた。


「わしはまだ元気だが……まあよい。用向きは何か」


 父に問われ、「大切な話がございます」と答える。


 死に淵に立たされ狂いかかった父ではなく、正気のうちに伝えたかったこと。

 娘は白髪交じりの髪を掻き抱き、しわの寄った額におのれの額を重ね、「大好きなお父様」という、これまで一度も言えなかった言葉とともに頬へとくちづけた。


「……」


 怒られるだろうか。父はしかめっつらで固まり、頬に手をやった。


「ママーーーッ!」

 アモンドがなんぞ叫んだ。

 それからベッドから弾きだされるよう飛び出し、部屋を出ていってしまった。


「ママ聞いて! セリシールが! セリスちゃんがキッスをしてくれたぞ! 十一年と三カ月ぶりだ!」

「あなた、起きても平気なんですの!?」

「愛娘のキッスで異界の毒もどこかへ行ってしまったようだ! わっはっは!」

「どうなさったの? もう、そんなにはしゃいじゃって」


 隣の部屋から明るい声が聞こえてくる。


 セリスは時戻りの杖を胸に抱き、涙をこぼした。


「ああ、女神様! ありがとうございます……!」


 この杖があれば、ふたりはまだ死なずに済む。

 もっと力をつければ、異界の毒を受ける前にまでも遡れるのではないか。

 たとえ、この使い方が国法に触れるものであろうと、女神が認めた父母を想う願いを、いったい誰が裁けようか。


『あ~あ! しょうがない子ですね~』


 声がした。

 聞き覚えのある声が、頭の中で響いている。


「ミノリ様……!」

 創造の眷属たる娘はひざまずき、姿なき神を見上げた。


『家を継いだ途端に、法律に背くようなことしちゃダメですよ~』


「も、申しわけございません。なにとぞご容赦を」

 両手をつき、頭を下げるセリス。


『なんてね。嘘です』「へ?」


『セリスちゃんのお気持ちはと~っても、よく分かります。見てて胸がきゅんきゅんしちゃいました』


「は、はあ……」

 ミノリ神が割と気さくな性格ということは神話で有名だったが、じっさいに声を受けてみると、なんだか妙な気分である。


 しかし、女神からの一方的でない干渉は稀有なことだ。

 時戻りの杖も、父母から聞かされていた以上の効果を示していたし、これはミノリからの寵愛がいっそう深くなった証ではないか。


『ですが。今のあなたの力じゃ、あれが限界でしょう。

 近いうちにまた、あなたの父は心身を朽ちさせ、母もまた同じさだめをたどる。

 何度戻そうとも、そのたびに彼らはおのれの死に直面し、悲しみ、怒り、呪い、

 そして、覚悟を決めることとなるでしょう……』


 娘の手が杖を固く握った。痛いほどに。


「分かっております。わたくしのやったことは、罪深いおこないだと」

『そうね。でも、もっと力をつければ、あなたたちはその不幸の螺旋から抜け出すことができるでしょう』

「ミノリ様は、わたくしに第三宣誓を授けてはいただけませんの? あの、わたくし、そのためだったら、なんでもいたしますわ!」


『ど~しよっかなあ~。ミノリちゃん悩んじゃうな~』

 弾む神の声。


 セリスはツッコミをこらえ、繰り返し懇願した。どうかお力を。

 だが、必死に頼みながらも、どこかで確信めいたものを感じていた。

 女神様は、絶対にわたくしを助けてくれる。


『よーし、じゃあ、第三の文言まで唱えることを許可します! すでに記憶してるかもしれないけど、いちおう復唱しておきましょう』


 ふいに、おちゃらけた雰囲気が立ち去り、胸が痺れ肩が抱かれるような暖かな気配が立ちこめた。


 交わされる第三の誓い。


 セリシールは確かに、おのれの中で創造神の気配が濃くなったのを感じた。

 礼を言うのもおそろかに、すでに手は杖を握り、こころでは隣の部屋へと駆けこんでいた。


 ただし、と女神は付け加える。


『これは前借り、仮免許とします』


 びくりと身体が震え、足が釘付けになる。


『先ほど、お父様から与えられた使命がありましたね?』


 セリスは懐から手紙を取り出す。

 王家の赤い封蝋が、血のように光っていた。


『それを見事こなしてみせなさい。

 両親の死期がいつであろうと、いずれはスリジェ家を継ぎ、

 眷属として相応しい働きをしなければならないことには変わりはありません。

 異界を破滅から救うまで、第三の誓いを両親へ向けることを禁じます』


「……はい」


 お預けを喰らった形になったが、セリスの胸は温かなもので満たされていた。

 父母を救う手立てを得、おのれの独り立ちにも、願ってもいない存在からの助力を得られたのだ。


『さあ、ゆきなさい。我が愛しき娘セリシール・スリジェよ。その力を示し、あまたの世界に我が慈愛の願いを振りまきなさい!』


「はい!」


 背筋を伸ばし、袖が震えるほどに力強く返事。

 セリシールは王の書状と父の杖を手に、部屋をあとにしようとした。


『ちょっとお待ちなさい。その杖が無くなれば、騒ぎになるでしょう』


 女神がそう言うと、セリスの頭に、ごちんと何かが当たった。

 床に転がるのは時戻りの杖と瓜二つの品。


『時戻りの杖は心血を注いだ傑作ゆえ、見た目だけのレプリカですが……。どのみち、ふたりは私の声を聞けなくなっていますから、これで充分でしょう』


 セリスは「ありがとう存じます」と礼を言うと、偽の杖を帽子掛けのそばに立てかけておいた。


 ……すると、また頭にごちんと何かが当たった。

 床に転がるのは同じく模造品。


「あ、あのこっちは? ……痛っ!」


 また、ごちんした。


「痛っ! 痛っ! 痛い痛い!」


 ごちん、ごちんごちん、ごちんちんちんちん……。

 どこからともなく杖の雨が降る。


『あわわ、ごめんなさ~い! 力加減を間違えました。余分な模造品はそちらで処分しておいてくださいね! それでは、さようなら~~』


 女神は『うふふ』と笑いながら遠ざかっていった……。

 セリスは「はあ、ありがとう存じます」と頭をさすり、山盛りの杖の中、気配を見送った。


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