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012.うら若き乙女は湯気がお好き-04

 異世界で迎える心地よい朝。

 わたくしは客間のベッドから出ると、すっかり曇った窓ガラスを拭いました。

 ヘロン市は本日も雪。

 打ちつけるような昨日とは違って、雪は優しくふわりと舞い降りてきています。


 雪が降り続くというのに、並ぶ屋根では錆止めの赤銅色が輝いています。

 積もった雪が落下すると危険ということで、屋根を温め雪を融かし、パイプで地下の水道へと流す仕組みがあるとのことです。


 道には雪かきをするかたがいらっしゃります。

 わたくしも、小さなころに雪が積もって、遊びがてらに体験したことがありますが、あれはとてもたいへんな労働です。

 市民のみなさまの毎日のご苦労、察するに余りありますわ。


 わたくしたちの世界では、冬場も雪は滅多に積もらず、一年を通してなんらかの作物が育てられる温暖な気候です。

 このように厳しい暮らしをなさっていたら、蒸気のぬくもりを手放せないのにもうなずけます。


 シリンダさんいわく、


「蒸気ってさ、なんか生きてるって感じがする。呼吸みたいじゃない?

 ブリキや鉄のかたまりなのにね。街から湯気が上がってるのを見ると、

 ああ、今日もみんな、元気に生きてるんだなーって思うんだ」


 とのこと。


 たまに晴れると、遠く続く屋根や煙突から立ち上る蒸気がきらきらと輝いて、とても美しいそうです。


「お嬢さま」


 雪に鎖された厳しい世界にも、ならではの美しさがございます。

 見てくださいまし、あのお庭に生えた木を。

 枝葉を凍てつかせる氷はまるで、鳥の羽毛のようになっています。

 風で揺れるのを見つめていると、氷のささやきが聞こえてきそうです。


「お嬢さま!」


 ヨシノがうるさい。


「何よ? 今、物思いに耽ってるところなのに」

「耽るのは結構ですが、服をお召しになってください」


 お嬢さまは、控えめなるも華やかな下着姿である。


「部屋が暖かいとはいえ、そんな格好でぼんやりしてると風邪を召しますよ」


 フロル・フルールは着替えを忘れるほどにメランコリーであった。


 昨日、フルール家の人間として、シリンダたちに何か力添えをしようと試みたのだが、ことごとく失敗に終わっていた。


 まずは、世界に関する知識の交換。

 ルヌスチャンが口を挟み、べらべらとフルール家やアルカス王国について語ってしまった。技術的な知見においても、彼はフロル以上のものを持ち合わせており、出番を完全に奪われたのだ。


 次に、私物のアーティファクトを使って何か手伝えないか。

 フロルの愛用する“破滅のつるぎ”は、使用者の破壊的なヴィジョンに合わせて姿を自在に変える。剣や鞭はもちろん、ハンマーややすりにだってなることができる。女神サンゲに誓えば、斬れぬものも砕けぬものもない。


 ……が、それを繊細に扱う手先の問題が邪魔をした。

 いくら剣術が得意とはいえ、職人は針の先レベルの精度で仕事をしている。

 そもそも、既存の技術で加工できないものなど扱っていないだろう。


 しかし、破壊の才だけがフロルの存在意義ではない。

 貴族として培った社交力や立ち振る舞いがある。

 大黒柱とその次代を失った家庭へ、名家の女の愛とほほえみを。


 シリンダの母や弟へ紹介され、おしゃべりに花を咲かせた。

 それから、街のはずれにある氷湖で釣られた魚の煮つけや、寒さに抵抗するためにたっぷりと太った根菜や雪牛の肉を使ったシチューを頂いた。


 要するに、逆にもてなされてしまった。たいへん美味しくて笑顔になった。


 シリンダは、街では「圧力計が恋人」と揶揄されており、友人も少ない。

 異界からの来賓ということも合わさり、彼女の一族はお祝いのごとくにはしゃいでいたのだった。


「あの圧力鍋というのは便利でしたね」

 ヨシノは立場上、屋敷の調理室にも出入りをし、料理もたしなんでいる。

 短時間で一晩煮こんだような料理が作れる道具に御執心のようだ。

 フロルは彼女のために導入の検討を約束した。


「コーヒーという飲み物は苦手でしたけど……」

 熱き霧の世界では茶葉は育てられておらず、花の根や豆を煎じた苦みのある飲み物が常飲されている。


「わたくしはけっこう好きよ、あれ」


 言うも、フロルはいまだに口の中に残る酸味に舌を巻いた。


 一番こたえたのは、シリンダの母の病のことだった。

 彼女は家業の金属加工職人の娘で、幼少期から旋盤の回る作業所に出入りをしていた。

 金属の細かな塵を吸いこんでしまい、それで肺を傷めたという。


 ――わたくしに任せて、なんて言っちゃって。


 破壊の女神の描かれたカード。誓いに応じて小さな願いを叶える。

 フロルが願ったのは、「肺に巣食う金属の粒の消滅」。

 破壊の力とはいえ、建設的な使いようはある。

 王立騎士団やトラベラーは、破壊のカードを身体に残った矢じりや異界の弾丸を消すときにも用いている。


「異物が取り除けても、それによって変質してしまった肉体までは治せませんからね。わたしも、毒などでダメになったら、すぐに切ってしまいます」


 ヨシノは「コーヒーの苦さに舌を生えかわらせようかと思いました」と不死者ジョークを付け加える。


「調子が少しよくなったって言ってくれたけど……」


 フロルは背中からベッドへと飛びこんだ。

 中に仕込まれたスプリングなるものが押し返す感触が心地よい。


「慣れないことはするもんじゃないわね」

「あまり気を張られないほうがいいと思いますよ」

 マットの隣が沈みこみ、白い手が髪を掻き、額を撫でてくれた。

「お嬢さま、いつもおっしゃってるでしょう? わたくしはわたくしって」


 フロルは「そうね」と同意し、すっかり体重をベッドに預けた。


「スプリングの導入、これも検討ね」


 ここはフロルの部屋よりも快適だ。

 ベッドに派手さや華やかさはないものの、獣の毛をたっぷり封じ込めたふとんは暖かで、マットには金属を巻いたバネが仕込まれている。

 フロルの寝室に備えつけられた暖炉は、煤を生んで空気も乾かしてしまうが、ここの蒸気の熱は常に潤いを与えてくれる。

 薪のぱちぱちという音も好きだが、加湿器が静かに湯気を吹く音に耳を澄ませるのも悪くない。


 ヨシノに撫でられていると、まぶたが重くなってきた。

 朝は家事や工房が忙しいからゆっくりしてくれといわれている。

 フロルは、まぶたも沈むに任せ……。



 扉が、がちゃりと開いた。



「お嬢さま、大事になりましたぞ!」


 失礼執事のルヌスチャンだ。昨日さんざん邪魔をしてくれた上に、今の発言にもどこか、あるじに対する非難を帯びている気がしてムカつく。


「ぐう……」

「寝たふりはおやめください。あれほど怪盗業は、相手を選ぶようにと申し上げたのに!」


 ――は?


 何も盗ってなどいない。慌てて起き上がる。

 怒り眉の執事が一匹。それから、コーヒーカップの乗ったトレイを抱えた男の子がひとり。


「あっ……」


 目が合った。シリンダの弟、手先の器用な少年タービンくんだ。

 彼の顔はみるみるうちに熱され、

「ご、ごめんなさい!」

 トレイを置くと、慌ただしく廊下を駆けていった。


「なんと破廉恥な。服をお召しになってください!」

「彼がいたなら先に言ってよ!」


 と、言いつつもフロルは下着姿のまま再びベッドに転がったのであった。



 さて、ルヌスチャンの話した大事。

 彼の言葉から推測できるように、屋敷にある神工物が盗まれてしまったらしい。

 破壊の女神サンゲのあつらえた芸術品、太陽の舌。

 アルカス王国の定める神工物の等級でも高位で、フロルとの相性も抜群だ。


「わたくし、盗ってませんわよ。昨晩はここでヨシノとぐっすりでしたもの」

「うむ。シリンダ嬢も別の者を疑っております」

「だったら、チャンはどうしてわたくしを疑ったのよ……」

「慣例でございます」


 このクソジジイが。ヨシノの手があるじの口をそっと塞いだ。


「ぜったいあいつだ。兄貴が盗ったんだ!」


 シリンダは装填されたボウガンを構えて床を踏み鳴らしていた。

 盗難に気づいたのは、彼女が早朝に修理依頼の品を届けた帰りに屋根裏部屋の窓が開いていたのを見つけたからだ。


「鍵はちゃんと掛けてたし、窓だって閉めてたのに。太陽の舌だけやられてたんだ。知ってるやつにしか盗めない。ボイランさんに言われたか、彼のためにやったに違いないよ!」


「シリンダ様、こんなものが落ちていましたが」

 差し出されたヨシノの手の中には糸のようなもの。


「釣り糸?」

 シリンダは糸を引っぱった。

「違う。バカみたいに硬い。異界の加工技術?」


「有機物のような味がしました。生物の出す糸を利用したものかと思われます」

「それをテグスにして、屋根にのぼったり窓を開けたりしたわけね」


 フロルの読んだ探偵小説にも、糸で窓を開けるトリックが書かれていた。

 ヨシノに頼んで髪を貰い、じっさいに怪盗稼業に役立てた経験もある。


「兄貴め! とうとう誇りにしてる鉄と蒸気も捨てる気なの!? 禁制品にまで手を出して! 母さんたちも捨てて!」


 シリンダは蒸気というかもう、マグマを噴火させている。

 ボウガンを担いだまま階段を駆けおりていってしまった。


「あっちも誤解だとマズいですわね。チャン、この糸に心当たりは?」


 ルヌスチャンが糸をかざし目を細める。


「魔導の世界に蔓延るクモを模した魔族アラクネが、このように強固な糸を出すと聞きます。東方に多く潜み、これを使った織物や道具はマギカ王国でも人気の品だと」


 どうやら今回の件も、いくつかの世界が絡む事件らしい。


「シリンダを止めましょう。ついでに、お兄さまと仲直りもさせないと」


 執事がため息をつく。「余計な口出しですぞ。我慢なさってください」


「シリンダはああでも、タービンやお母様は寂しがってたのよ。ヨシノ、あなたに仲を取り持つお手本ってのを見せてあげますわ!」


「セリシール様に会わせようとしたこと、根に持っていらっしゃるのですね」

 ヨシノにもため息をつかれる。


 もちろん、首を突っこむ理由はそれだけではない。

 お嬢さまは心の中で笑っていた。おほほほ。


 盗まれた品を盗みかえすのには正当性がある。

 魔物が相手なら容赦なく鞭でびしばしやっても罪にならない。

 怪盗に扮するチャンスが巡ってきた。

 怪盗活動に合わせて兄妹のあいだの誤解も解けるに違いない。

 物語とはそういうものである。

 まるでよく練られた小説のように、ぴたりと問題が解決し、わたくしも大満足。


「さ、行くわよ!」「お嬢さま、何か張り切ってませんか?」


 フロルたちは怒れる長女を追って屋敷を飛び出した。

 ところが、シリンダは門の前で立ち止まり、誰かと会話をしていた。

 その「誰か」は雪避けのために、まっかな紙張りの傘をさしている。


 ――あの傘!?


 お嬢さまはおったまげた。

 雪で足を滑らせ、お尻を硬いタイルにしたたかに打ちつけ、ふたりのほうへと綺麗に滑っていった。


「フロルさん!?」


 驚く女性は黒髪と黒い瞳、アルカス王国の国花模様のキモノ姿。

 セリシール・スリジェである。


「やっぱりセリスだ。どうしてあなたがこの世界にいらっしゃるの!?」

「どうしてって、わたくしは……いちゃいけませんの!?」


 セリシールは差し出しかけた手を引っこめ、あっちを向いた。

 フロルも負けじと口を結び、こっちを向いた。


「わたくしは、当家に支援が求められたために、この世界に参りましたの」

「屋敷はどうし……どうなさったのよ。ご両親は異世界ですのよね?」

「戻りました。ふたりに休んでもらうために、わたくしが代理で参ったのです」

「シリンダのところに?」

「確かに、シリンダ様への要件で遣わされましたが……。あなたには関係ないでしょう!」

「なくはないわよ!」


 反対を向いたまま話すふたり。

 シリンダが割って入る。


「それで、要件って何? キモノのあなた、フロルの知り合いなんでしょ? ちょっと頭を冷やしたいし、うちでお茶していかない?」


 ところがセリシールは「ご遠慮させていただきますわ」と冷たく言った。


「シリンダ様には、お兄上様にご返却なさるべきものがございましょう」

「は? あたしが兄貴に?」


「わたくしの祖母が、あなたがたに贈った太陽の舌です。こちらの先代様がお亡くなりになり、ピーストン様が当主となられたはず。正当な持ち主が返却を要求していらっしゃります」


 マズいと思い、フロルは顔を上げる。

 シリンダなら、使いのセリシールにも矢を向けかねない。


 ところが彼女は、首を反るようにして使いの娘を見やると、鼻で笑った。


「その太陽の舌が盗まれたんだよ。あんたを送りこんだピーストンが盗ったのさ。だいたい、西の作業場のかしらを引き継いだのは、あたしなんだよ? 太陽の舌の所有権は、あたしにあるのさ」


「どういうことですか。アーティファクトが盗まれた(・・・・)って……」


 ちらっ、セリシール・スリジェがこっちを見た。


 ほんの、ひとまたたきのあいだだったが、侮蔑の視線。

 スリジェ家に忍びこんだ晩に見せた、あの目だ。


「どうやら込み入った事情がおありのようですね。シリンダ様、お茶のほう、ぜひ頂戴いたしますわ」

「ゆっくりしていくといいよ。あたしも、あんたに聞きたいことがあるからね」


 ふたりは凍った火花を散らしながら、屋敷のほうへと歩いていく。

 フロルはほったらかされ、ただ地べたの雪が下着にしみゆくのを感じていた。


「仲を取り持つお手本、でしたっけ」メイドから手が差し伸べられる。

 意地悪執事も「今は耐えるときですぞ」と励ました。


 お嬢さまはふたりに立たせてもらうと、肩や背中をさすられながら屋敷へと引き返したのだった。


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