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聖女の娘  作者: 相月志月
4/8

 見知らぬ天井が視界に飛び込んできて、今度こそ本当に目覚めたのだとオフィーリアは悟った。


 王城や別邸の真っ白な自室とは違う、シンプルな木目の天井。

 母の趣味とはまるで異なる、質素な造り。

 そんなささやかな事実が、別荘での出来事が夢ではなかったことを意味すると同時に、自分を救った人物が母ではないという現実を突き付けてくる。


 どれだけ無能だろうと、自分は血の繋がった娘。

 あの場で過ちに気付き、探しに、助けに来てくれたのだとしたら……きっとやり直せると思った。どれだけ時間がかかったとしても。


 しかし、そんな淡い期待も虚しく散った。

 ふっと自嘲的な笑みを零し、オフィーリアは上体を起こす。


 感傷的な思考を払って室内を観察してみると、十二畳ほどの部屋には自分が寝ていたベッドの他に、看護用と思しき道具が並んだサイドテーブル、それと椅子が二脚ほどあった。

 スッキリと整えられた室内は、華美な装飾の施された城や別邸と比べて余程オフィーリア好みだった。


 神様いわく海龍が助けてくれたとのことだが、流石にここが海龍の家――というわけではあるまい。海龍に救われた後、更にオフィーリアを拾ってくれた人がいると考えるべきだ。

 であれば、このまま家人が来てくれるのを待つよりも自ら知らせに行った方が早いだろう。驚かせてしまうかもしれないけれど、手を煩わせるよりかは余程いい。


 オフィーリアはベッドから降りようと体を動かしたところで、ふと、枕元でカチャリと何かが擦れ合う音を耳にして視線を落とした。

 すると、枕元には幾つもの石――花を模った色とりどりの鉱石が並べられていて、オフィーリアはその一つを手に取ってみた。



「きれい……」



 室内の灯りで透かして見ると、半透明のピンク色の石がキラキラと輝いて、まるで朝露に濡れた薔薇のようだ。鉱石自体の美しさはもちろん、精緻な作りもあってつい見惚れてしまう。

 置物(オブジェ)のようなそれらは見ているだけでも心躍るが、何かしらの意図があって置かれていたのだろう。一体何に使用するものなのだろうと不思議に思いつつ眺めていたところ、不意に扉が開いて人が入って来た。



「ふんふ〜ん、ふふ〜ん♪ さあ、お嬢様! 今日も私が綺麗にして差し上げます、から……ね……?」

「あ……」

「え……」



 桶を小脇に抱えた侍女と思しき服装の女性は、ベッドに座るオフィーリアと目が合った瞬間、分かりやすく硬直した。美しい鉱石の花に気を取られていたオフィーリアも然り。


 二人は暫し無言のまま見つめ合い、どこか緊張感を孕んだ静寂が室内を支配する。

 が、そこは年の功。


 先に回復したらしい女性が不意に方向転換をして廊下へ出たかと思うと、扉を見て、室内を見て、という動作を始めた。

 察するに、部屋を間違えていないか確認しているらしい。


 ベタすぎる行動を目の当たりにして、少しばかり緊張の解れたオフィーリアが「あの……」と、声をかけたところ。なぜか、ビクッ! と大袈裟に肩を揺らした女性は、勢い良く扉を閉めた。



「えっ、」



 流石に訳が分からず困惑していると廊下から、



「おっ……、ぉおお、お、お嬢様がお目覚めになられたわ―――――!! 先生! セバスチャン! 早く来てっ!!」



 だだっ広い王城でさえ、端から端まで届くのではないかと思うほどの声量で女性が叫び、オフィーリアは目を白黒させた。

 花型の石を手にしたまま呆然と扉を見詰めていると、直ぐにバタバタと廊下を駆ける音が聞こえてくる。

 かと思えば、今度は勢い良く扉が開け放たれて男性が二人、慌てて入って来た。そうしてオフィーリアを認め、驚愕したように手で口元を押さえる。



「おお、何という奇跡だ……!」

「ええ、本当に……。一刻も早くグレイス様にお伝えしなくては」



 執事と思しき服装の男性は直ぐに部屋を去り、白衣を纏った医師らしき老齢の男性は驚愕に言葉を失いながらも、ゆっくりとオフィーリアの元へやって来る。

 男性は暫く、眼鏡の奥からオフィーリアの様子をじっと観察していたが、やがて落ち着きを取り戻したのか。穏やかな口調で話しかけてきた。



「お嬢さん、話せますか? 気分はどうですか?」

「あ、はい……とても良く眠れたようで、スッキリしています。こんなに爽やかな目覚めは久し振りです」

「ほほう……。どこか調子の悪いところはありますか?」

「そう、ですね。特に……ないみたいです」

「はっはっは! そうですかそうですか! これは大物ですね!」

「?」

「しかし、念のために検査をさせてもらっても宜しいですか? 私は医師でして、お嬢さんのことは私が診ていたのです」

「はい。お願いします」



 再び横になるよう指示を受けて、オフィーリアは素直に従う。恐らく治癒魔法使いが使う、患者の体を検査するための【スキャン】を行うのだろうと、力を抜いて目を閉じた。


 すると、直ぐに温かな魔力が全身を包み込む感覚を覚える。


 スキャンは使い手の練度によっては体を探られる不快感を覚えるが、先生の光魔法はとても温かくて心地が良い。微睡みに身を委ねていると、あっという間に終わってしまった。



「もう起きて構いませんよ。ふむ、本当に問題はないようですね……まさに奇跡としか言いようがない」

「あ、あの。そんなに私の状態は悪かったのでしょうか?」



 先程から家人が揃いも揃って幽霊でも見たかのような反応をするため、オフィーリアは心配になって尋ねた。



「ん? ああ、いや。不安にさせて申し訳ない。状態は全くと言っていいほど悪くなかったのですが、お嬢さんは随分長いこと眠っていたのですよ」

「どのくらいでしょう?」

「かれこれ二年になりますか」

「そ、そんなに……!?」

「ええ。ですから私達も驚いています。原因が分からぬまま眠りに就いておりましたので……正直、この先目覚めるかも全く分かりませんでした」



 そうしてオフィーリアは、ヘクターという老齢のその医師からこれまでのことを聞いた。


 ここがクラルティ王国公爵領の島であること。

 オフィーリアが瀕死の状態で島に流れ着いていたこと。

 そんなオフィーリアを見つけたのが公爵家の嫡男であるグレイスだということ。

 グレイスとヘクターの処置により命を繋ぎ止めたものの、二年もの間、昏昏(こんこん)と眠り続けていたこと。


 想像以上の衝撃だった。



「まさか、二年も眠っていたなんて……」



 オフィーリアは唖然と自分の体を見下ろす。


 眠りにつく前と今とで、体の感覚は何一つ変わっていない。痛いところもなければ動かし辛いところもないし、何なら久し振りに爆睡したお陰で前より余程調子がいいくらいだ。


 しかし、これが普通の人間であったならとうに衰弱死していてもおかしくはなかったはずだ。


 治癒魔法の一つである【チャージ】は、任意の相手へ魔力をエネルギーとして分け与えることが出来る魔法だが、生命維持に必要なエネルギーをそれだけで補い続けることは難しい。

 仮に点滴と併用したところで、あれにそこまでの栄養はないと聞いている。脱水などで不足した水分を補うのが精々だと。


 つまり、どれだけ延命を試みても精々数ヶ月が限界だったはずだ。

 飲まず食わずで寝たきりだった自分がこうして無事に生きているのは、神様が言った通り肉体が魂に適応してきたお陰なのだろう。


 そういえば、この数年は満足な食事も睡眠も取れていなかったにも関わらず、容姿の変化があまりなかった。

 もちろん多少は痩せたし、肌や髪の色艶も悪くなったが、幼い頃に街で偶然見かけた浮浪者のように痩せこけることはなかった。


 そのせいか、アンネリーゼとたまに顔を合わせては酷く嫌味を言われたものだ。無能なくせに食事は人並みに取っているなんて図々しい、と。

 まあ、実際は全然食べていなかったのだが。


 今にして思えば、それもこれも魂のお陰だったのだろう。



「二年もの間寝たきりで生き永らえたこと自体もそうですが、普通は一週間程度昏睡していただけでも目覚めて直ぐに話したり体を動かすことも無理ですからね。本当に奇跡ですよ」

「そう、ですよね……」



 しきりに「奇跡だ」と呟くヘクター医師に、オフィーリアは苦笑いを零す。


 二年もの間、赤の他人である自分の面倒を見てくれたのだ。十分信用に値する人々だとは思う。

 しかし、理由を告げたところですんなり信じてもらえるかと言えば怪しいし、自分が神だと告げるのはまだ怖かった。何より全く実感がないため、夢での神様との邂逅が本当にただの夢であった場合、自分は凄く痛い人間になってしまう。


 色々と試してみてから真実を話そうとオフィーリアは思った。


 そんな時、軽快なノック音の後に男性が入って来た。

 先ほど直ぐに出て行った執事風の男性だった。



「失礼致します」

「おや、セバスチャン。グレイス様への連絡を終えたのですか?」

「ええ。お嬢様が目覚めた際には緊急用を使用するようにと厳命されておりましたので、そちらで。夜にはご到着されるでしょう」

「そうでしたか。ふふ、グレイス様の反応が今から楽しみですねえ」

「ええ、本当に。……お嬢様、グレイス様はお嬢様がお目覚めになる時を心待ちにしておりましたので。お覚悟なさいませ」

「えっ……!?」



 ヘクター医師に聞いたところによると、グレイスはオフィーリアの目覚めを信じて待ち続けてくれていたらしい。

 多忙な身にも関わらず、オフィーリアの見舞いは欠かさなかったのだという。


 その証拠が、オフィーリアが手にしたままだった花型の鉱石だ。


 この島は日照時間が短く草花が貴重であるため、見舞いの花もろくに用意出来ない。美しい花に代わり慰めになればとグレイスが見舞いの度に置いていったのが、枕元を埋め尽くす石の花の数々なのだそう。

 鉱物資源が豊かな島だからこその見舞品だった。


 てっきり治療に使うための魔石か何かかと思ったが、まさか見舞品だったとは。


 改めて色とりどりの石の花を眺めてみると、胸がぽかぽかと温まってきて、オフィーリアは知らず知らずのうちに微笑んでいた。

 そんな自分へ温かな眼差しを向けるヘクターやセバスチャン、そして――廊下で腰を抜かしたままのマーサへ順に視線を向けると、オフィーリアは深々と頭を下げながらこれまでの感謝を述べるのだった。







 公爵家はとても素晴らしいところだった。


 主人である公爵夫人のローザは、水色がかった銀の髪に緑色の瞳を持つ美しい女性だ。

 持病により何年も前からこの屋敷で療養しているローザにとって、オフィーリアの境遇は他人事とは思えなかったらしい。自分のことはそっちのけで、侍女達にオフィーリアの世話を頼んでくれていたのだと、復活したマーサから聞いた。

 心優しく愛らしい性格で、使用人達はもちろん、領民にも慕われているのだそう。


 オフィーリアの世話をしてくれていた侍女頭のマーサは、栗色の髪に黄緑色の瞳を持ち、明るく朗らかな性格で、屋敷のムードメーカーと言える人物だ。

 普段は主にローザの世話をしており、まるで姉妹のように仲が良い二人の会話は、聞いているだけでも楽しい。


 執事のセバスチャンは、灰色の髪に濃紺の瞳を持つダンディな男性だ。

 常に冷静沈着で、長年の付き合いであるマーサ達でさえその笑顔を見ることは稀だという。

 しかし、家政全般はもちろん、月一で訪れるグレイスの補佐も完璧にこなす敏腕ぶりはみなに信頼されており、常に忙しくしているのだとか。


 医師のヘクターは、白髪に紫の瞳を持つ優しげな老人だ。

 元は島の中心にあるアダマースという街で、長いこと病院勤めをしていたらしい。

 が、ローザの移住を機に専属医としてこちらへ共に来たのだという。オフィーリアが今こうして目覚めることが出来たのも、ヘクターの尽力あってこそだろう。


 他にも数名、屋敷には使用人がいるが、みなオフィーリアの目覚めを喜んでくれる心優しい者達ばかりだった。


 そんな公爵家の人々と一日を共にして親睦を深めたオフィーリアが、マーサに手伝ってもらい就寝前に湯浴みを済ませたところだった。


 何やら屋敷の中が慌ただしい。

 玄関の方から微かに話し声が聞こえることから、来客でもあったのかもしれない。

 多少気にはなるものの、家人ではない自分が出る幕はないだろうと大人しくベッドへ入る支度を続けていたところ、凄い勢いで足音がこちらへ近付いて来た。



「えっ、」



 まさかの事態に慌ててマーサを振り返れば、何やら訳知り顔で扉の方をニヨニヨと見ている。どうしたら良いか分からずオフィーリアがオロオロしている間に、足音の主は客間の前まで辿り着いてしまった。


 直後、控え目なノックが室内に響く。



「……夜分遅くに申し訳ありません。グレイスです。少しだけ、お時間よろしいでしょうか?」

「!」



 少し息の上がった、男性の声。

 すっかり忘れていたと、オフィーリアは内心頭を抱える。

 そう言えば、自分が目覚めた直後にセバスチャンがグレイス様に連絡をしたと言っていたのに、と。


 慌てて出迎えようと扉へ向かいかけたオフィーリアを、何故かマーサが引き止める。そして、人差し指を唇に当てて「しぃ〜」と告げた。何だかとても楽しそうな顔で。



「んんッ、こほん。……まあまあ坊っちゃま! こんな時間に女性の部屋を訪ねるなんて失礼ですよ! お嬢様はお目覚めになられたばかりでお疲れでしょうし、明日になさってはいかがです?」



 言い切ってニヨニヨしながら答えを待つマーサに、オフィーリアは思わず苦笑いを零す。どうやらちょっとした悪戯を仕掛けているらしい。

 こんな可愛らしい悪戯が出来るのも、主従の関係が良好だからこそだろう。自分の――母の周囲では考えられないことだった。


 やはり公爵家は素敵なところだとオフィーリアは思う。


 もちろん、オフィーリアに対する気遣いもあるのだろう。

 ピンピンしているとは言え、事実、オフィーリアは二年もの長き眠りから目覚めたばかり。普通の人間なら起き上がるどころか話すこともままならないはずで、会いに来たところで無駄足になるだけだった。

 まあ、セバスチャンからオフィーリアの状態を聞いているからこそやって来たのだろうが。


 しかし、



「…………そう、だな。申し訳ありません、少し気が急いてしまったようです……」



 数拍の間を置いて返ってきた答えに、二人は顔を見合わせる。

 明らかに気落ちしたような声に思わず胸が痛んだオフィーリアとは裏腹に、マーサは口元を押さえて肩を微かに震わせていた。反応が面白かったらしい。

 どうしたものかとマーサと扉を交互に見ていたオフィーリアだが、



「それでは、また明日伺います。……夜分遅くに申し訳ありませんでした。お休みなさい」

「!?」



 グレイスが本当に戻ってしまいそうになり、慌ててマーサを見る。と、苦笑いを浮かべながらも仕方なさそうに頷いたのを見て、オフィーリアは扉へ駆け寄った。



「お、お待ちください!」

「!いや、しかし、」

「私なら大丈夫ですので……どうぞお入りください、グレイス様」

「あ、ああ……」



 オフィーリアが自ら扉を開けた瞬間、自然と二人の目が合った。

 そうして暫し、無言のまま見つめ合う。


 公爵夫人は儚げな雰囲気のあるとても美しい人だ。その息子であるグレイスもきっと美しいのだろうとオフィーリアは考えていたが、実際、グレイスは美しい青年だった。


 水色がかった銀の短髪に浅葱色の瞳を持ち、透明感のある白い肌が母譲りの整った顔立ちを引き立てている。それでいて上背があってスタイルも良く、まるで物語に出て来る王子様のようだとオフィーリアは思った。


 社交界にも出ず勉強と魔法の訓練に明け暮れていたオフィーリアは、男性の知り合いなどほとんどいない。

 父や弟は整った容姿をしている……と思うが、二人の印象は少々キツめで、王子様というよりかは騎士という言葉の方が似合う。

 しかし、柔らかな雰囲気を纏うグレイスはまさに王子様という風貌だった。


 そのグレイスはといえば、未だにオフィーリアを見つめたまま固まっていた。


 それも当然だろう。

 何せオフィーリアは二年もの間、眠りこけていたのだ。永遠に目覚めない可能性さえあった人間が、ある日なんの前触れもなく目覚めた上に元気に動き回っている。驚くなという方が無理な話だろう。

 とは言え、このまま見つめられるのも恥ずかしいし、立ちっぱなしも何だ。対面の衝撃から先に回復したオフィーリアは、改めて声をかけた。



「……あ、あの、グレイス様。中へどうぞ」

「…………」

「グレイス様?」

「――っ! あ、ああ……、申し訳ありません。失礼します」



 何度か呼びかけると、我に返った様子のグレイスは慌てて室内へ足を踏み入れる。そのまま真っ直ぐ椅子へ向かうかと思いきや、オフィーリアの手を優しく取ってベッドまでエスコートしてくれた。



「目覚めたばかりですから、無理しないでください」

「あ、ありがとう、ございます……」



 ベッドへ腰をかけたところでグレイスの手が離れ、オフィーリアは内心ホッとする。物語に出て来る王子様のような紳士的な対応に、何だか鼓動が速くなってしまったからだ。

 心なしか顔まで熱い気がして軽く俯いていると、椅子に腰を下ろしたグレイスが穏やかな声調で尋ねてきた。



「体調はどうですか? 時間が経って、何処か痛い所や違和感が出てきた所などはありませんか?」

「いいえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

「そうですか、良かった……」



 オフィーリアの答えに、グレイスは安堵したように微笑んだ。

 それは純粋に身を案じていたのだと分かる心からの笑みで、オフィーリアは上げたばかりの視線を再びグレイスに縫いとめる。

 改めて見れば、前髪の隙間から覗く額には僅かに汗が滲んでいて、余程急いで来たであろうことが伺い知れた。


 どうして、そこまで――。


 たったの数分で垣間見えたグレイスの人柄に、オフィーリアの胸は何だかぽかぽかしてくる。目が離せなくなってしまう。

 そんな視線の意味を曲解したのか、グレイスは不意に頭を下げた。



「ああ、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私はノークス家次期当主のグレイスと申します。普段は島の中心にある街で執務を行っているので、此方へ来るのに時間がかかってしまい、このような時間に……。マーサの言う通り、こんな時間に押し掛けて本当に非常識でしたね。その、かなり気が急いていたようで……」



 そう言ってグレイスは手で口元を押さえる。

 見ればほんのりと頬が染まっていた。



「いえ、いえ! 会いに来てくださって嬉しかったです。私は…………っ、」



 自身の名を言いかけた瞬間。

 オフィーリアは、昼間にローザと対面した時のことを思い出した。


 その時も同様に自己紹介をするべく口を開きかけたのだが……家名を言いかけた瞬間、母のことを――殺されかけたあの日の記憶が蘇り、胸を締め付けられるような息苦しさを覚えて言葉に詰まってしまったのだ。


 あれから二年もの月日が流れているが、長らく眠っていたオフィーリアにとってはつい昨日の出来事である。

 今もまた同じ苦しみを思い出して、オフィーリアは口を噤んだ。


 そうして思う。


 自分はもう、あの家の人間ではないのだと。

 二年も前に捨てられた身なのだと。

 故に、家名などなかったものと思ってこれからは生きなければならないのだ。



「わたし、は……オフィーリアです。オフィーリアと……お呼びください」

「……分かりました。私の事も、どうぞグレイスと」



 家名を名乗らなかったことに、グレイスは何も言わなかった。

 ただ、ふわりと微笑み頷いただけ。


 彼らの対応を見る限り、ある程度こちらの身分を察しているのだろう。いくらグレイスが誠実な人柄であっても、平民相手にこうも丁寧な態度を取るとは考えにくい。

 分かっていて、あえて何も聞かずにいてくれるのだ。とてもではないが、自分の身の上を話す余裕のない今のオフィーリアには、その優しさがただただありがたかった。


 切り替えるようにオフィーリアは口を開く。



「あの、グレイス様。私のような見ず知らずの人間を救ってくださり、その上二年もの間、見放さずに看護していただいて……本当に感謝の言葉もありません」

「いえ、当然の事をしただけですから」

「そんなことはありません。ノークス家のみな様は本当に素晴らしい方ばかりです。私に何が出来るか分かりませんが……必ず、必ずこの御恩はお返しします」

「ふふ、ありがとうございます。しかし今は、ご自身の体調を第一に考えてください。二年もの間昏睡していた事を考えると、今後どんな影響があるか分かりませんから」

「……はい、ありがとうございます」



 何よりも体調を気遣ってくれるグレイスの優しさに、オフィーリアは胸が締め付けられるように苦しくなる。

 十二で生活が激変してからというもの、血の繋がった家族ですら自分の体調など気にも留めてくれなかった。それどころか、母以外は存在すら忘れていたに等しい。

 だというのに、見ず知らずの人々がこんなにも優しくしてくれるなんて……。


 オフィーリアは溢れそうになる涙を必死に堪えた。

申し訳ありません。5~8話は再来週、早ければ来週にアップします。

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