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「母さん、少し散歩に行って来るよ」
「そう。寒いから暖かくして行くのよ? 気を付けてね」
「ああ、行ってきます。直ぐ帰るから」
屋敷を出るとグレイスは歩き慣れた道を辿り、砂浜へ向かう。
母である公爵夫人が療養する海辺の小高い丘にある屋敷から砂浜までは目と鼻の先で、グレイスは考え事をしたい時に何時も足を運んでいた。
公爵家所有の屋敷の直ぐ裏手とあって、漁村であるここの領民は気を遣ってこの一帯へは近付かない。この離島で一人になれる貴重な場所だった。
「……ふう」
グレイスは定位置の流木に腰をかけると、穏やかな海を眺めながらここ一月堪えていた溜息を吐き出した。
グレイスは離島である公爵領、ノークス家の一人息子だ。
ノークス領は鉱物資源――特に、生活に必要不可欠なエネルギー資源である魔石が豊富で、クラルティ王国の重要な領地の一つとされている。表面上は。
しかしその実態は、数百年も昔に無実の罪で島流しとなったノークス公爵家の監獄である。
鉱物資源と水産資源こそ豊富だが、一年を通して日照時間が短いため作物の育ちにくい土地で、その上特殊な海流に阻まれて他国との貿易も出来ない。
唯一島との安全な海路が確立されているのは本国だけで、本国の支援なしには立ち行かない、しかし捨て置くには惜しい場所。
元々は王家の直轄地として人員を派遣し、地道に開拓していたらしいが、不便な土地ゆえにどうしても人が居着かなかった。
そこへ目をつけた当時の王により、一方的に政敵として疎まれていたノークス公爵は領民諸共島流しに処された。
当主は実の兄弟であったにも関わらずだ。
他にも、時の権力者によって島へ送られてきた者は後を絶たず、ノークス家が囚われて九百年を目前に控えた今では、領民もかなりの数に上っている。
その分、資源も安定して採掘できるため本国との交易は安定しているものの、いつの時代も主導権を握っているのは本国だった。
それでも、不思議なことにどれだけ採掘しても資源が枯れない島のお陰でノークス領の価値は年々高まり、一方的に搾取される立場から『交易』という名の譲歩を引き出すことが出来たのは数百年前のことだ。
しかし、こちらが命懸けで採掘した鉱物資源と引き換えに得られるのは、領民が最低限の生活を送れる物資。余裕などありはしない。
公爵家は長年に渡り、本国に頼らずとも領民が不自由なく安定した生活を送れるよう島の開発に尽力してきたが、厳しい環境により政策はことごとく失敗に終わっている。
今も領主代行を務める叔父とグレイスを筆頭に知恵を絞っているが、ほとほと万策尽きていた。
数年後にはグレイスが領主となり、この島にノークス家が囚われてから九百年になる。自分の子に、孫に、自由で豊かな暮らしを残してやりたかった。
「とは言え、完全に手詰まりだな……」
海を眺めながらグレイスは独りごちる。
グレイスは月のほとんどを島の中心にある領主邸で過ごしている。
母が病を患い別邸で療養を始めてからというもの、叔父家族に支えられながら叔父と共に内政に励んできた。
母の見舞いに来るのは一月に一度だ。
療養を始めて母の容体が落ち着いてからは見舞いの頻度を減らそうとしたものの、叔父の配慮で現在も毎月顔を見に来られている。
母の元へ来るこの日だけは、重すぎる責任から解放されて束の間の羽休めが出来る。きっと、そういう意味でも必要な時間だと叔父は気を遣ってくれているのだろう。
十八のグレイスに島の未来は重すぎる。
領主であった父が鉱山の崩落事故で早世したことで、兄であった父の分まで叔父はグレイスの面倒を見てくれているのだ。ありがたかった。
まあ、結局のところ時間が出来ると島の未来について考えてしまっているため、休みになっているのか怪しいところだが。
「俺も、何も出来ないのか。奇跡が起こる事を願うくらいしか……」
口をついて出た言葉に失笑する。
奇跡なんて起こるはずもないのに。
何気なく見上げた空は、グレイスの心を表したかのような薄暗い灰色をしていた。
「……ん? あれは……」
そろそろ冷えてきたため、屋敷へ帰ろうと立ち上がったところだった。
視界の隅、少し離れた波打ち際に何かが打ち上がっているようだった。
この島の周りは特殊な海流によって外界と隔たれているが、漂流物が流れ着くことは多々ある。
そのほとんどが海水に浸ったり、岩礁にぶつかるなどして破損していることが多いものの、ごく稀に問題なく使えるものもある。
漂流物で特に嬉しいのは魔道具だ。
必要最低限の物しか手に入らない島では、漂流物もいい娯楽になる。壊れていても中には復元出来る場合もあるし、そこから新たに着想を得られることもあるからだ。
どうやら今回の漂流物は大きさからして魔道具の類ではなさそうだが、グレイスは沈んでいた心が少しだけ浮つくのを感じながら漂流物へ向かって進む。
領民の生活を少しでも豊かに出来る物だといいと思いながら歩み寄って行ったところ、
「っ! あれは……人じゃないか!!」
残り三十メートルほどの距離まで近付いたところで、その輪郭が人だと気付いたグレイスは慌てて駆け出した。
遠目では投網か布の塊のように見えていたそれは、どうやら海水を吸ってへたってしまったドレスだったらしい。そんな状態ですら布を贅沢に使用した高級なドレスであることは一目瞭然で、グレイスは痛ましい光景に胸を痛めながら側に膝を突く。
器物ですら近くの海域から流れ着いたものの大多数は破損しているのだ。人ではとても……と思いながらも、一縷の望みをかけて手首の脈を取ってみる。すると、
「! 生きてる……!」
体は限界まで冷え切っており、集中しなければ見落としてしまうほど微弱な脈ではあったが、女性は確かに生きていた。
続けて顔に手を寄せ呼吸を確認すれば、これまた非常に弱々しいものの自発呼吸がある。何処から流れて来たのかは分からないが、奇跡としか言いようがなかった。
グレイスは慌てて立ち上がり数歩離れると、両の掌に魔力を込める。
ノークス公爵家は代々【賢者】の称号を持つ者が現れる、魔法が得意な血族だ。グレイスもその例に漏れず【賢者】の称号を持っていた。
瘴気もなく魔物もいないこの島では採掘時くらいにしか役立たないが、いつの日か役立つかも知れないと幼い頃から魔法は属性に関わらず満遍なく鍛えてきた。
お陰で瞬く間に魔力を発動させたグレイスは、火と風の複合魔法である【ドライ】を使用して女性の体から無駄な水気を一気に飛ばす。
そして、同じく火と風の複合魔法である【ヒーター】で、時間をかけてゆっくりと女性の体を温めていく。急激に温めるのは良くないと、漁師の領民に聞いたことがあったからだ。
時折女性の手首に触れて確認しつつ体温をある程度戻したところで、ヒーターを維持したまま女性を抱えて屋敷へ走り出す。今日ばかりは砂浜からの距離が近いことに感謝をしつつ屋敷へ駆け込めば、一階にある未使用の客間へ向かいながら声を張り上げた。
「マーサ! セバスチャン! ヘクター! 来てくれ!!」
客間の扉を足で蹴飛ばすように開け、侍女であるマーサが何時でも使えるようにと整えてくれているベッドへ女性を寝かせる。しっかりと布団をかけてから魔法を解くと、丁度三人がバタバタと客間へ駆け込んで来たところだった。
「坊っちゃま! どうなさったのですか!?」
一番近くにいたであろうマーサを先頭に、血相を変えた三人が側へやって来る。温厚な性格のグレイスの稀な行動に、驚きを隠せない様子だった。
しかしそれも、ベッドへ寝かされた女性を見て別の驚きに変わる。
「グレイス様、この方は……!?」
「浜辺へ打ち上げられていた。奇跡的に息があったから、応急処置をしてから連れて来たんだ。ヘクター、彼女を頼む!」
「か、かしこまりました!」
「マーサとセバスチャンはヘクターの手伝いを!」
「は、はい!」
「承知しました」
ヘクターは母付きの医師だ。
この島一番の医師であり、治癒魔法にも薬学にも精通している。お陰でグレイスの母は療養を始めてから体調が安定しており、グレイスも彼のことを信頼していた。
ヘクターほどの医師ならば彼女のことも救えるだろう。
七十を過ぎて隠居がしたいと、母について来てくれた偶然に感謝した。
みな腐っても公爵家に仕える者達だ。
診察のためにヘクターが布団を退けた瞬間、女性の纏った服から身分を悟り、グレイスが三人を呼んだ意図を理解して的確に役割をこなしてくれる。
ヘクターの指示を受けて、セバスチャンは道具や薬を取りに。マーサは助手として彼女の介抱をする。特にマーサは日頃から公爵夫人の世話をしているだけに、とても手際が良かった。
こうなると自分は邪魔になるだけだなと、グレイスは静かに部屋を後にする。
きっと何が起きたか分からず目を白黒させているだろうと、グレイスは母がいる居間へ向かった。
「グレイス様、無事に女性の治療が終わりました。命に別状はないそうですよ」
「そうか、良かった……!」
母と共に女性の回復を祈ること暫し。
いつも通り落ち着き払った執事の言葉に、親子は揃って胸を撫で下ろした。
「様子を見に行くよ」
「ええ、そうなさいませ」
「私は後で見舞うわね」
「分かった」
公爵夫人は持病の影響で足が悪い。
日中は定位置である暖炉前のチェアからほとんど動かないほどだ。マーサ達侍女の補助がなければ移動も一苦労であるため、気の逸るグレイスは先に客間へ向かった。
「ヘクター、マーサ、ご苦労様。様子はどうかな?」
開けっ放しの扉をコンコンとノックしてから客間へ入ると、ベッドを囲んでいた二人がこちらを振り返る。
「グレイス様。【スキャン】で全身を隈なく検査しましたが、少々外傷があるのみでした。グレイス様が応急処置をしてくださったお陰で低体温も解消しましたし、直に目覚めるでしょう」
「そうか。それは何より、」
と、思ったのも束の間。
「それよりも坊っちゃま!!」
「うわ!? びっくりした……どうしたんだ?」
「私は驚きの余り腰を抜かしそうになりましたわ!」
「……だから、どうして」
偉く興奮した様子で詰め寄って来るマーサに、グレイスは首を傾げる。
「どうしたもこうしたも……こちらの女性――いえ、お嬢様のあまりの美しさに、坊っちゃまが海の女神様を攫って来てしまったのではないかと思ったのです!!」
「……女神? そんな大袈裟な……」
「いやあ、私も大層驚きましたよ」
「ヘクターまで? 美しい女性なら島にだって大勢いるじゃない……か……」
二人の言葉に小さく苦笑いを浮かべながら、グレイスは女性の顔へ視線を移す。
そして息を呑んだ。
マーサが体を清めてくれたのだろう。
長い金色の髪は肩の辺りで一つに纏められ、ありありと身分を主張していた豪奢なドレスは、母の物と思しきシンプルなナイトドレスに変わっている。
体も拭いてくれたのか、胸の辺りで重ねられた手には汚れ一つない。
しかし、それらは些末事だ。
綺麗な卵型の輪郭に、陶磁器のように白く滑らかな肌、すっと通った鼻筋、血色を取り戻した上品なピンク色の唇。そして、閉じた目を縁取る長い睫毛。
先程は応急処置に必死で、しかも女性の髪が海水で乱れ顔に張り付いていたため、確認する余裕もなかったのだ。
目を閉じていても分かる。
まるで人形のように整った容姿を前に、グレイスは言葉を失った。
「ほうら! 女神の如き美しさでございましょう!? 奥様も坊っちゃまも大変お美しくていらっしゃいますが、お嬢様の美貌は更に上を行きますわ!」
「そ、そう、だな。マーサが女神だと言うのも……うん、頷ける。だ、だが、人間大切なのは中身であって……」
「坊っちゃま。そんな真っ赤な顔で語られても説得力は皆無ですわ」
「ぐっ……!」
マーサに生温かい視線を向けられ、グレイスは狼狽えた。
ノークス領であるこの島は日照時間が短いため、みな色白だ。その例に漏れないグレイスも母譲りの中性的な美しい容姿に、本国の女性達が羨みそうな透明感のある肌を持っている。
交易の際に顔を合わせる本国の連中には陰で女のようだと揶揄されることが多いが、グレイス個人としては自分の肌の色など濃かろうが薄かろうが興味はなかった。
しかし、今ばかりはその薄い色が恨めしい。
自分でも真っ赤なのだろうと分かるほど、頬が熱を持っていたからだ。
人と人の繋がりが深いこの島では、外見よりも内面にこそ価値がある。他人の美醜に頓着したことのなかったグレイスは、そんな自分が一目見て心を奪われたことに動揺を隠せなかった。
救いを求めて視線を逸らすと、そこにいたはずのヘクターはいつの間にかいない。どうやら空気を察して逃げたようで、伊達に年は食っていないとグレイスは少しばかり恨めしく思った。
「さてさて。私は他に仕事がありますので、一度失礼しますわ。少しの間お嬢様のことをお願いしますね、坊っちゃま」
「あ、ああ……」
屋敷には最低限の侍女しかいないため、実際、マーサ達はそこそこ忙しい。グレイスもここへ来た時は自分のことは自分でするようにしている。
漸くこの居た堪れない空気から抜け出せると、ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、
「不必要な接触はメッ! ですよ?」
「す、するわけないだろう!?」
瞬時に意味を察し、グレイスの頬が更に熱を持つ。
生まれた時から側にいるマーサはグレイスにとって第二の母であり、身分が違っても遠慮がない。坊っちゃま呼びは止めてくれと何度言っても、十八の現在も改善される気配はなかった。
もう諦めているが……。
揶揄に珍しく過剰な反応を見せるグレイスに満足気な笑みを浮かべながら、マーサは客間を後にした。
「全く、マーサめ……」
グレイスは大きな溜息を零し、力無く椅子に腰掛ける。
父が早世し、幼い頃から叔父と政務に邁進してきたため、生まれてこの方色恋沙汰とは無縁だった。
いや、正確に言えば好意を向けられることは多すぎるくらいにあったのだが、グレイスに応える余裕がなかったのだ。これからも島の、領地のことで手一杯で、恋やら愛など知らぬまま行く行く適当な相手と結婚するのだろうと思っていた。
それが、こんなにも呆気なく覆る日が来るとは。
グレイスは現金な自分に少しばかりげんなりする。
しかし、やはり中身が一番大事なことに変わりはない。
目の前の女性がどれだけ美しかろうと、性格が悪ければ芽生えたばかりのこの気持ちも呆気なく萎れることだろう。逆に、これだけの美貌を持ちながら性格も良かった場合――自分はどうなってしまうのだろう。
幼い頃に見ていた、母を溺愛するあまり少々痛々しかった父のようになってしまうのだろうか。
それはちょっと勘弁願いたい。
子供の自分から見てもかなり痛々しかったのだから。
ベッドで安らかに眠る女性を眺めて安堵する一方で、早く目覚めて欲しいと、その瞳の色を見てみたいと心が急く。彼女に見つめられたら、笑いかけられたら、どんな気持ちになるのだろう。
「……早く、貴女の名を教えてくれ」
あれだけ豪華なドレスを身に纏っていたのだ。女性は高貴な身の上に違いなく、今頃は家族が必死に行方を探していることだろう。
きっと国でも有名な美姫に違いない。
だからこそ、監獄で生きる自分と釣り合うはずもないのだ。
グレイスは緩く首を振って無駄な思考を払うと、女性が目覚めた後の手筈を考える。
まさか、目覚めることのないまま二年もの月日が流れるとは夢にも思わずに――。