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知りたくなかった。
世界が終わった瞬間なんて。
「ざ、残念ながら……オフィーリア様は称号を授かりませんでした……」
「っ……」
微かに震える神官の言葉を耳にした瞬間。
オフィーリアは、崩れ落ちる地面と共に奈落の底へ吸い込まれていくかのような錯覚を覚え、力なくその場へ座り込んだ。
全身から血の気が失せ、頭の中は真っ白になって何も考えることが出来ない。
監視するように背後で自分を見ていたはずの母が、一体どんな表情をしているのか――そんなことを考える余裕すらなかった。
オフィーリアは【聖女】の娘だ。
今から二十二年前、聖女マナミ・セラは異界より降臨した。
世界は当時、数百年に一度訪れる大災厄の渦中。
大地を蝕む瘴気と、その気に当てられ凶暴化した魔物によって人々は苦しめられ、世界は混沌とした闇の時代を迎えていた。
瘴気とは人の営みより生まれ落ちる。
魔力や魔石の消費、魔物の討伐が主な原因とされているが、今や暮らしに必要不可欠なエネルギーを人々が手放すことなど出来るはずもなく、歴史は繰り返されてきた。
特に、魔力と魔石の消費が著しい大規模な戦争が起きた後の大災厄は、前回からの間隔が短く、瘴気も濃くなり魔物の凶暴化が顕著である。
そのため、瘴気の悪化は魔力と魔石の消費以外にも理由があるはずだと推測されているが、瘴気により度々文明が停滞ないし衰退する影響もあって、未だに詳しいことは判明していない。
瘴気に関して唯一ハッキリと分かっていること。
それは、【聖女】の称号を持つ者しかその気を浄化出来ないということだ。
【大神官】の称号を持つ者が結界を張り、【賢者】や【聖騎士】、【剣聖】といった特別な称号を持つ者達が一時的に瘴気を押し戻すことは可能ではあるが、それは気休めでしかない。
瘴気そのものを無害化することは、聖女にしか出来ない御業であった。
不運にも、今回の大災厄は稀に見る規模の瘴気が溢れ出し、賢者や大神官といった称号を持つ者が不在の国は瞬く間に闇へ飲み込まれていった。
大陸の主要国家であるクラルティ王国は、幸いなことに大神官を始めとする稀有な称号持ちが複数いたため、大災厄が始まり二年が経過しても事なきを得ていた。
しかしそれも、時間稼ぎに過ぎない。
聖女の称号を持つ者が現れなければ、遅かれ早かれ世界は滅びる。
神の慈悲なのか大災厄の折には必ず聖女が現れていたのだが、今回は前回の大災厄から間隔が短かった上に瘴気が一際濃かったこともあり、中々聖女が見つからなかった。
人々は危機に瀕して祈ることしか出来ず、絶望の淵でひたすらに救いを求めた。
そんな只中に現れた希望の光、それがマナミだった。
王城の庭園に眩い光と共に現れたマナミは、その神秘的な光景を目撃した多くの城仕えの証言と、当時王太子であったアダン――現国王の働きかけによって、瞬く間に聖女と認定された。
そうしてマナミは、王太子で【賢者】のアダンを始め、【聖騎士】【剣聖】【大神官】といった称号を持つ仲間達と共に、瘴気と魔物から世界を救う旅に出たのだ。
三年間にも渡る旅路では、様々な困難が一行を待ち受けていた。
だが、愛おしい仲間達と過ごす時間はマナミにこの世界で生きる決意をさせるには十分すぎるほど、キラキラと輝いた日々だった。
世界を巡り瘴気を完全に浄化したマナミは、その後、どんな時も側で守り、支えてくれたアダンの熱烈な求婚を受け入れて王太子妃となる。
翌年には第一子であるオフィーリアが誕生。
マナミとアダンの良いところばかりを受け継ぎ、淡い金の髪と桃色の瞳、天使のように愛らしい容姿を持って生まれたオフィーリアを、マナミは目に入れても痛くないほど可愛がった。
それから二年後には弟のジェイドが、さらに二年後には妹のアンネリーゼが誕生し、マナミは誰もが羨む幸せを手に入れた――はずだった。
そんな幸せに綻びが生じ始めたのは、オフィーリアが六歳になり受けた洗礼――能力鑑定がきっかけだった。
この世界ではいつの時代も、【称号】や【術技】といった神の恩恵とされるものを持つ者が一定数いる。
術技とは、例えば料理、鑑定、剣技、火魔法というように一芸に特化した能力で、貴族を筆頭に一般人でも持つ者がいる能力の総称だ。術技を持たない者よりも技術力が高く、扱いも上手い。
一方で称号は、術技よりも圧倒的な能力を有する。
例えば賢者なら、光と闇属性以外のあらゆる魔法を扱うことが可能で、魔力量も桁違いに多い。剣聖ならば、あらゆる剣技に加えて身体能力を強化する術技も付随する。
そして聖女ならば、この世で唯一瘴気を祓い、どんな怪我や病をも癒す奇跡の力を持つのだ。
称号を持つが故に成り上がった者もいれば、長い年月をかけて血を取り込んできた家も多く、貴族の子供はその傾向が顕著だ。
特に恩恵を得やすいとされる、六歳、十二歳、十八歳のいずれか一度、あるいは二度三度と、神殿にて能力鑑定を受けることが貴族の通過儀礼となっている。
何故その年齢なのか、理由は明らかになっていない。
ただ、先人達の事例からその年齢が得やすいとされているだけだ。
オフィーリアが初めて鑑定を受けたのは、六歳の時。
称号や術技を持つものの大多数は六歳の時点で発現していることが多いため、オフィーリアもマナミや護衛騎士達に連れられて神殿を訪れた。
しかし、結果は未所持。
称号もなければ術技の一つも持たなかった。
とは言え、称号や術技を持たない貴族は大勢いるし、過去の王族にも持たざる者は多くいたという。
マナミもまた、元の世界――日本では何の力も持たない一般人に過ぎなかったため、オフィーリアの結果を責めることはなかった。
ただ、称号や術技を得られれば箔がつくことは間違いない。
しかも、第一王女であり人並み外れて容姿の優れたオフィーリアは、十中八九他国へ嫁ぐことになる。
そのため、いずれ他国へ嫁ぐオフィーリアの自信になればと考えたマナミは、少しずつ勉強や魔法の訓練を始めさせた。
王家はその血筋により魔法の素質が高く、称号や術技がなくとも魔法を使える者が多い。オフィーリアも称号持ちほどではなかったが魔法の素質はあったため、両親が喜ぶならと勉強も魔法も頑張った。
それが変わり始めたのは、弟が六歳になり能力鑑定を受けた時。
二歳年下の弟は初めての鑑定で、【賢者】の称号が認められたのだ。
賢者の称号は二人の父でありマナミの夫である、アダン――クラルティ国王が持つ称号と同じ。
王家は代々【賢者】の称号を持つ者を輩出し続けていたため、立て続けに賢者の称号を持つ者が現れたことに国中が歓喜した。
そして、弟が称号を得られたのだからオフィーリアもきっと得られるはずだと、マナミは娘の勉強と魔法の訓練量を増やした。
オフィーリアは遊ぶ時間が極々僅かになってしまったものの、これは王族としての責務であり、称号や術技を得ることで国民が――何より母が喜んでくれるならと、勉強や魔法の訓練にも益々打ち込んだ。
それでもまだ穏やかだったオフィーリアの生活が狂い始めたのは、さらに二年後。
妹が六歳になり鑑定を受けた日である。
四歳年下の妹に【聖女】の称号が認められたのだ。
聖女は数ある称号の中でも特別貴重で、大災厄の際に一人現れるかどうかとされている。
過去には中々聖女が現れず、瘴気と魔物によって文明が滅びかけた記録があるほどで、同時期に二人いた例は長い歴史を振り返っても一度としてなかった。
一人いるだけで世界が救われる。
そんな聖女が二人も現れたのだから、世界中が沸き立ち、マナミとアンネリーゼを讃えたのも当然だろう。
この時、オフィーリアは初めて己の無才を嘆いた。
弟よりよほど勉強量の多いオフィーリアは、既にこの時母と共に公務もこなし始めていたし、訓練の成果もあって【賢者】の弟にこそ敵わないものの、魔法の扱いは同年代の者達より頭一つ分は飛び抜けていた。
称号や術技がなくても、自分は王族として役に立てている。愛されている。そう思えていたからこそ頑張ってこられた。
しかし、オフィーリアには残酷な現実が待ち受けていた。
長男に続き次女までもが貴重な称号を得たことで、マナミの中で燻っていた欲望、その枷が外れた。
聖女として、王妃として、賢者の称号を持つ次期国王の母として。そして、聖女の母として――マナミは女として、この世の全てを手に入れたような全能感を覚えたのだ。
そんなマナミの唯一の欠点。
それがオフィーリアになってしまった瞬間だった。
翌日からオフィーリアの自由は消えた。
起きている間は常に勉強か魔法の訓練を強いられるようになり、自由に過ごす時間どころか休憩時間さえなくなった。食事も自室や訓練場で食べることが増え、家族と顔を合わせる時間もなくなって距離が開き始めた。
それでもオフィーリアは、母と教師陣の「称号さえ得られれば」という言葉を信じて、次の機会である十二歳の誕生日まで頑張り続けた。
そうして迎えた、二度目の能力検査。
扱える魔法の種類や精度、魔力量が確実に増えていたこともあり、オフィーリア自身はもちろん、毎日教師陣の報告書に目を通していたマナミも今度こそ称号を得ているはずと確信していた。
血筋という大きなアドバンテージに加え、確かな才能もあるのだ。
これだけ努力して得られないはずがないと、オフィーリアの周囲は信じて疑わなかった。
しかし、オフィーリアに称号は与えられなかった。
術技の一つさえも。
この結果にマナミは激昂した。
マナミは人目も憚らずに怒鳴り散らし、オフィーリアを引きずるように城へ連れ帰ると、教師陣にこれまでの倍の訓練を課すように指示をした。
その日から、オフィーリアは人間らしい生活を送れなくなった。
食事は一日に一度か二度、一人分食べられれば良い方で、それも時間が不規則であるため使用人達の残り物しかないことが多かった。
勉強量はもちろん、魔法の訓練量が増えたことで度々魔力切れを起こして気を失い、目覚めるまでにロスした時間を睡眠時間から捻出せざるを得なくなった。
マナミの崇拝者が多い城では、オフィーリアをかばってくれる者はいない。
寧ろ、こんな出来損ないの娘を持ってマナミ様がお可哀想だと陰口を叩かれるようになった。
弟妹にも見下されるようになり、ごく稀に顔を合わせれば嫌味を言われ、嫌がらせを受ける。父は父で、何故かオフィーリアのみならずマナミ達からも距離を置くようになっていた。どうやら側室を迎えようとしているようだと風の噂で聞いたものの、気付けばそんな話もいつの間にか消えていた。
マナミが不出来な娘を人前に出すことを嫌い、行動範囲や会う人間を制限されたことでオフィーリアの世界はどんどん小さくなっていった。
なまじ広い世界や愛される喜びを知っていただけに、その絶望は計り知れなかった。
指一本動かせないほどヘトヘトに疲れているのに、何故か目が冴えてしまって眠れない夜。オフィーリアは何度一人で泣き明かしたことか分からない。悲しくて、寂しくて、辛くて、苦しくて。いっそ消えてしまいたいと思ったことは数えきれない。
それでも希望は捨てられなかった。
称号を得られれば、きっと元通り家族と仲良く出来るはずだと、その一心でここまで頑張ってきたのだ。
しかし、結局オフィーリアは称号どころか術技の一つも得られなかった。
今日、オフィーリアの世界は終わったのだ。
今後自分がどのような処遇になるかは分からない。
ただ一つ確かなことは、もう二度と、血の繋がった家族から必要とされることも、愛されることもないということだった。
奈落の底へ引き摺り込まれそうになったオフィーリアの意識を辛くも繋ぎ止めたのは、高らかに『カツン』と鳴った足音だった。
シンと静まり返った石造りの神殿に、高いヒールの音はよく響く。
カツン、コツン――
ゆっくりと近付いて来るその足音が誰のものかを思い出した瞬間、体温を失っていたオフィーリアの全身からどっと汗が噴き出した。
(……おかあ、さま……)
母は今、一体どんな表情をしているのだろう。
六年前でさえ母は烈火の如く怒った。
それは、優しかった母の思い出が全て掻き消えるほどに強烈な出来事で、同時にオフィーリアの中に鮮明な恐怖が植え付けられた瞬間であった。
あの恐怖が再び降りかかるのだと思うと、脱力したはずの体がカタカタと震え始める。
「オフィーリア、」
錆びついた機械のように、ゆっくりと顔を上げる。
オフィーリアの視界いっぱいに映り込んだ母の表情は――驚くほど凪いでいた。
「帰りましょう」
「……ぇ、あ……で、も……」
「もういいのよ。あなたは良く頑張ったわ。さあ、帰りましょう?」
「……は、い……」
母の手を借りてどうにか立ち上がったオフィーリアは、優しく歩みを促され出口へ向かって歩き出した。
その後のことは、よく覚えていない。
気付いた時には数年振りに見る綺麗なドレスを身に纏い、お忍び用の馬車の中で揺られていた。
車内には母や弟妹もいて、それこそ十年振りくらいに見る光景にオフィーリアが驚いたことは言うまでもない。
弟も妹もまともに顔を合わせたのは十歳の頃が最後で、十二歳で人間らしい生活を送れなくなってからはほとんど会うこともなかったのだ。
ごく稀に城内ですれ違っても、嫌味を言われ、罵られ、虫の居所が悪ければ手を出されることもあった。
まあ、日々疲れ切っていたのでほとんど聞き流していたのだが……。
三人で仲良く過ごした記憶など、遠い過去のことでしかない。
だというのに、そんな二人が大人しく自分と同じ馬車で揺られていることが不思議で、それでいて少し怖くて。
オフィーリアは行き先も分からぬまま、何日も馬車に揺られ続けた。
そうして辿り着いた先は、幼い頃に何度か来たことのある別荘だった。
母の友人である伯爵家の領地、その岬に建てられた別荘は、心地の良い波音と絶景を独り占めすることの出来る贅沢な場所だ。養生するには最適で、出産を終えた後や公務で疲れた母に連れられて来た際は、とても穏やかな時間を過ごした思い出の場所であり、オフィーリアが大好きな場所でもあった。
馬車の中で息を殺して過ごす間、オフィーリアはこの旅の終着地を想像しては一人絶望していた。
いつの日か侍女達が面白おかしく話していた通り、母にとって用無しになった自分は、きっと直ぐにでも他国との政略結婚に使われるか、国内の有力者の後妻か妾にでも贈られるのだと思っていた。
無能でも容姿だけは良いから、そのくらいの利用価値はあるだろうと、侍女達が笑ってそう言っていたから。
こうして数年振りに美しいドレスを着せられたのもそのためなのだろうと考えれば、とても納得がいく推測だったと思う。
しかし、蓋を開けてみれば辿り着いた先は家族との思い出の場所。予想外の展開に、別荘へ足を踏み入れたところで唖然と佇んでいたオフィーリアは、
「当分ここで過ごすのだから、まずは旅の疲れを癒しましょう。何日も馬車で揺られてクタクタだわ。貴女は特に顔色が悪いし、とりあえず一眠りしていらっしゃい。夕食の時間になったら呼びに行かせるから」
ニコニコと上機嫌で語る母の言葉に、小さく頷き返すのが精一杯だった。
そうしてオフィーリアは、侍女の案内で幼い頃に自室として与えられた部屋へやって来た。
着替えを手伝ってもらって楽な服に着替えると、侍女はすんなりと去って行く。
改めて見回した室内は、母の好みにより白を基調としており、相変わらず管理が行き届いているようで塵一つ見当たらない。大人が優に三人は横になれる大きなベッドも見るからにふかふかで、横になれば直ぐにでも夢の中へ誘われそうだった。
もう何年も満足な睡眠を得られていないオフィーリアの体は、何時だって休息を求めている。
欲求の赴くままオフィーリアの足はベッドへ向かいかけたものの、微かに残る理性がそれを押し留める。
本当にこんな時間から寝てもいいのか?
もう何日も勉強や魔法の訓練をしていないのに?
自分は何か試されているのではないだろうか?
そんなことばかりをグルグルと考えてしまう。
もしかしたら、身内の恥を晒すまいと結婚させることさえ厭うて、この別荘へ押し込めておくつもりなのかも知れない。
オフィーリアにしてみれば、見ず知らずの男へ売り飛ばされるも同然である結婚を強制されるよりよほど有難い処遇ではある。
しかし、仮にそうだとしてもオフィーリア一人をここへ送れば済む話だ。
母はもちろんのこと、都会での華やかな生活を気に入っている弟と妹まで来る必要はない。
だとすれば、今回わざわざ四人で別荘へやって来た理由。それはーー本当に単なる休養、なのかも知れない。
あれだけ苛烈だった母が急に変わるとは到底思えないが、他に妥当な理由も思いつかなかった。長年の努力を労うため、オフィーリアの大好きな別荘へみんなでやって来たのだとしたら。
許して、もらえるのだろうか。無才な自分を。
(……分からない)
いくら考えても答えは出なかった。
そうして、すっかり日が沈んだ頃。
再びやって来た侍女に促され一段と豪華なドレスに着替え直すと、案内され食堂へ赴く。
すると、豪華な料理の数々が並ぶ食卓を、母と弟、妹が囲んでいた。
「ああ、来たわね。よく眠れた?」
「あ、……はい」
本当は一睡もしていない。出来るはずもない。
しかし、馬車の揺れから解放されただけでも顔色が良くなったのだろう。母はオフィーリアの顔を一瞥して納得したように頷くと、自分の隣にある空席を示して言った。
「早くいらっしゃい。お腹が空いたでしょう? 今日は貴女の好物をたくさん作ってもらったのよ。冷めない内にさっそく食べましょ」
とっくに三人で食べ始めているものだと思っていたのに、まだ手を付けていなかったらしい。よく見ればどの料理も美しく盛り付けられたままだった。
自分の到着を待っていた。
それだけでも驚きなのに、まさか同席を許されるなんて。
呆気に取られたままのオフィーリアは、侍女に促されてどうにか食卓に着く。そこは、海側に面した食堂の中で海を一望できる特等席だった。
クラルティ家ではマナミの習慣が色濃く反映されているため、料理は全て最初に運ばれてくる。
並べられた料理の数々を眺めてみると、どれも本当に幼い頃の自分が好きだった料理ばかりで、オフィーリアは益々混乱した。
(こんなに豪華な料理を前にしたのは、いつ振りだろう……。それに、家族と食卓を囲むなんて――)
オフィーリアが着席したことで、ようやく食事を始めた三人から遅れること数分。
本当に一緒に食事をしても良いのだと理解したオフィーリアは、まずは少し温くなってしまったスープを恐る恐る口へと運ぶ。
瞬間、野菜の優しい甘味と旨味が口いっぱいに広がって、とても幸せな気持ちになった。
ほんの少し温度があるだけでこうも違うのかと、久し振りの感覚に内心驚愕する。
と同時に込み上げてきた涙で鼻の奥がツンとしたものの、この場で泣いてはならないと口の中を小さく噛んで堪えた。
「っ……」
僅かに表情の曇ったオフィーリアに何を思ったのか。
「美味しい?」
「は、い……」
「……そう。それは良かった」
母はニコっと笑ってそう答えると、再び食事に戻った。
三人にとってはこれが何時もの食事風景なのだろう。豪華な料理を楽しみながら、三人は他愛のない会話を交わす。
同席を許されたとはいえ、特別話を振られることもないオフィーリアがその会話に混じることはなかったが……それでも、自分の分として出された料理があるだけで。それらをゆっくりと味わえるだけで。同席させてもらえただけで。十分に幸せな時間だった。
そうして何事もなく食事は進み、十五分ほどが経った頃。
「ああ、そうそう。今日はお酒も用意してもらったのよ。貴女はこれまで飲んだことがなかったでしょう? 十八になったんだし、少しくらい嗜んでおかないとね」
母の合図で酒が運ばれてきた。
ワイングラスで揺らめくそれは美しいピンク色の液体で、知識だけはあるオフィーリアは恐らくロゼと呼ばれるものなのだろうと思った。
父も母も酒はそこそこ嗜む方で、オフィーリアが小さい頃にも飲んでいた記憶がある。二人が美味しそうに飲むものだから、自分も飲んでみたいとせがんだことがあったほどだ。
もちろん、飲ませてもらえなかったけれど。
この国では十五歳から飲酒が可能だが、まともな生活を送っていなかったオフィーリアに酒を飲む機会などあったはずもない。
今更興味はないのだけれど、母に勧められては断れるはずもなく、グラスを手に取る。
母とジェイドは当たり前といった風に。年齢の達していないアンネリーゼは、「今日は特別よ?」と母の許可をもらって嬉しそうにワインを口にした。
オフィーリアもおずおずと口を付ける。
フルーティーで軽やかな味わいだが、微かな苦味もあって素直に美味しいとは思えない味だ。正直、この一杯だけで十分かなと思う。
しかし、水以外の飲み物を飲んだこと自体が久し振りであったため、残すなんて勿体ないと料理の合間に少しずつ飲み進めた。
もう何年も余り物で腹を満たしていたオフィーリアにとって、一人前の料理を食べきるのは想像以上に大変な行為となっていたらしい。
半分を過ぎた頃からペースが落ち始め、少しだけ休憩をしようと食器を置いた時だった。
「――っ、……?」
ぐにゃりと視界が歪んだ。
久し振りに腹が満たされたせいか、眠気が酷い。
途中から眠気が顔を覗かせている自覚はあったのだが、せっかくのご馳走を前に食欲より優先すべきものはないと卑しくも堪えていたのだ。
しかし、酒も入ったからだろう。
あまりにも酷い眠気に襲われて今にも瞼が閉じてしまいそうだし、頭はボーっとする上にクラクラもする。体温もかなり上がっている、気がする。
このままでは座っていることすら難しそうだと感じたオフィーリアが、食事を切り上げて部屋へ戻ろう――と決めるより先に。
「あら、大丈夫? 何だか具合が悪そうだけれど」
母に声をかけられて、オフィーリアは必死に意識を繋ぎ止めながら答えた。
「……少し、眠くて……。お酒を、飲んだから……かも、しれません……」
「そう? あまり強いお酒ではなかったのだけれど、初めてだしね。顔も赤いし、少し夜風にでも当たったら気分も良くなるんじゃないかしら」
「は、い……」
「ジェイド、リゼ、手伝ってあげなさい。みんなで少し夜風へ当たりに行きましょう」
「はい」
「は〜い」
そうしてオフィーリアは、弟と妹に支えられてバルコニーへとやって来た。
食堂と繋がっている一階のバルコニーは、岬に建てられた別荘の中でも特に海へせり出すように造られていて、非常に景色が良い。明るい内ならここで食事を楽しむことも出来る、贅沢な場所だった。
少し冷たい海風に吹かれて、怠いほどの熱を持っていた体も少しは楽になる。
しかし、変わらず眠気は酷いままで足元も覚束ないため、オフィーリアは誘導してくれるアンネリーゼの手をぎゅっと握り締めた。幼い頃、そうしていたように。
途端、
「ちょっ、やめてよ!!」
勢い良く手を振り払われた。
と同時に、体を支えていてくれたジェイドも離れていく。
急に支えを失ったオフィーリアは、驚愕に目を瞠りながらフラフラと数歩彷徨った後、どうにかバルコニーの手すりへ縋り付いて三人を振り返った。
「お母様、もうイヤよ! こんな女さっさとやっちゃってよ!」
「俺もいい加減大人しくしてるのは飽きてきたし……もういいんじゃないですか?」
「……ええ、そのつもりよ」
三人は、何を言っているのだろう。
酷い眠気で鈍る頭を必死に働かせるが、状況が全く飲み込めない。
どうして、母は楽しそうな笑みを浮かべながら近付いて来るのだろう。
どうして、弟と妹は嬉しそうに笑っているのだろう。
どうして、どうして――
「おか、あ……さま……?」
「聖女に出来の悪い子供なんて要らないの。……さようなら、オフィーリア」
「っ……!」
まるで撫でるように優しく肩を押されただけで、平衡感覚を失いつつあったオフィーリアの体はいとも容易く傾いた。
そのままバランスを崩し宙に投げ出された体は、重力に従って暗い海へと吸い込まれるように落ちて行く。無意識に伸ばした手は虚しく空を切った。
風を切る音に混じって最後に聞こえたのは、母の「ああ、最初からこうしていれば良かった」という残酷な言葉と、弟妹の笑い声。
耳を塞ごうとした次の瞬間には、全ての雑音を掻き消す静寂が待っていた。
幸いにも頭から綺麗に入水したため、水面に打ち付けられることこそなかったが、そんなことは些末事でしかない。必死に水魔法で水面へ浮上しようと試みるも、意識が朦朧として魔力を練り上げることが出来ず、魔法を使うことが出来なかった。
事ここに至ってようやく、オフィーリアは薬を盛られたことに気が付いた。
通常、どれだけ眠気が酷かろうと魔法を使えないことなどない。
オフィーリアはもう何年もの間、常に寝不足の状態で訓練をし続けてきたのだから。
だからこそハッキリと分かった。
何らかの薬による影響で、魔力が練り上げられないのだと。
そしてそれは、料理かあの酒に混ぜられていたのだと――。
泳いで水上へ顔を出そうにもドレスが重たくて全く浮上することが出来ないし、そもそもオフィーリアは泳いだこともなかった。
療養を理由に別荘へ来たのも、これまで与えられなかった高価なドレスを着せられたのも、豪華な食事も、あの酒も……その全てが計算づくだったのだ。
オフィーリアを消す。ただそのために。
聖女で、王妃で、賢者の母で、聖女の母で。
そんな輝かしい存在の自分には相応しくない、出来損ないの娘を存在しなかったことにするために。
最期の瞬間は、思いの外すぐにやってきた。
意識が沈んでいく。深い深い海の底へ。
(もう一度だけで良い。お母様に抱き締めて欲しかった――)