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08. エルレスト王国の王太子


 エルレスト王国。


 かつて『永遠の国』と呼ばれていた。

 そんな時代も、何代か前の王で廃れてしまった。すべては――“ある病”のせいだ。


 まあ、そんなことはどうでもいい。




 いつものように空いた時間を一人で過ごすため、温室庭園へとやってきたアドルフは、前からやって来た見慣れぬ人物たちに目を細めた。


「おや? 君たち、どうしてここに?」


 アドルフと歳の近い男女が彼を見て、慌てて頭を下げた。男は女をその背に隠すように礼をしたまま答える。


「花の手入れをするために参りました、庭師でございます。――王太子殿下」


(何だ……庭師か。ならば後ろの彼女はその付き人といったところか。――ん?)


 出ていこうと背を向けた二人の足もとに薄紫色のハンカチを見つけた。アドルフは「ねえ、君」と女の方に声をかける。


 ゆっくり振り返った彼女はうつむいたまま小さく「はい」と返事をした。

 そんなに怯えることもないのに、と少し肩を落して、アドルフはハンカチを指差す。


「これ、落としたよ? 君のじゃない?」


 彼女はハッとしたように慌ててそれを拾い上げると、「あ、ありがとうございます!」と礼を言い、足早に立ち去っていった。


 アドルフは遠くなる二人の背中に向かって小さな溜息を吐いた。




 いつもそうだ。当たり前のことではあるが。

 自分が許可をしないかぎり、誰も声をかけてくることもなければ、頭も上げない。


 アドルフの心の中は、いつも空っぽだった。


 そんな彼の話し相手は、婚約者であるアーネスト侯爵令嬢ウィステリアだけだった。

 お互いが幼い頃に決められた婚約者。それでも、彼女と過ごす時間はアドルフにとって大切だった。


 親である王や王妃でさえ、まともに顔を拝めないというのに、自分と顔を合わせ、目を見て話せる、唯一の相手。それがウィステリアだったのだ。


 ただそれも月日が経つと“当たり前”に変わる。


 ウィステリアはアドルフに対して、いつも何かに怯えるように接していた。まるで、先ほど出会った庭師の付き人である彼女のように。


(そういえば、ウィステリアもあのハンカチのような薄紫色の瞳をしていたな……)


 ふと彼女の綺麗な瞳を思い出す。しかし、同時に同じ瞳を持つもう一人の女性を思い浮かべた。

 ――彼女の妹である、ローズマリーを。


 ギクシャクしたウィステリアとの関係にアドルフが虚無感にとらわれていたとき、突然現れた眩しい光。花のように愛らしい笑顔を向けるローズマリーと出会った。


 彼女は王太子であるアドルフにもまったく物怖じせず、鈴音のような声で楽しそうに話す。アドルフが好感を持つのに時間はかからなかった。


 アドルフは自分の運命を呪った。ローズマリーはウィステリアと同じアーネスト侯爵家の令嬢だというのに。なぜ自分の婚約者がローズマリーではなかったのか、と。


『アドルフ殿下ぁ……』


 ローズマリーの悲しげな声とひそめられた眉に、アドルフは思わず駆け寄る。


『どうしたんだい? ローズマリー嬢』


 今にも瞳からあふれそうになっている涙をそっと拭ってやり、近くのベンチへと導く。並んで腰かけると、ローズマリーはホロリと一筋の雫で頬を濡らした。


『お姉さまを悪く言いたくはないのですが――』


 さらにもう一つの頬も濡らす。泣くのを我慢するかのように引き結んだ唇が愛おしい。自分が救えるのなら、救い出してあげたい。アドルフは胸が締めつけられるのを感じた。


 しかし、アドルフも王太子である。ローズマリーの言うウィステリアの行動や言動と、今まで自分が見てきたウィステリアが重ならないことに、疑問を抱いていた。

 それに万が一、そんなことがあれば、王家がウィステリアにつけている“護衛”が報告を上げているはず。


 ただ、そんな懸念は見事に現実と化した。


 定期的に呼ばれていたアーネスト侯爵家の席で、ウィステリアはローズマリーのドレスにわざと茶をかけたのだ。

 アドルフは目の前で起こった出来事を処理しきれずに、ただ呆然としていた。


『あら? ローズマリー、ドレスが汚れてしまったわね。着替えたらいかが? そして、もう戻らなくていいわよ。何を勘違いしているのか分からないけれど、アドルフ殿下は私の婚約者様ですわ。二人の時間を邪魔しないでいただけるかしら?』


 初めて見るウィステリアの冷酷な薄紫色の瞳に、アドルフの心がぶるりと震えた。


 ウィステリアのローズマリーに対する仕打ちは、それだけでは留まらなかった。


 彼女のドレスをズタズタに引き裂き、気に入っている装飾品を捨て、学園で使っている課題ノートを破り捨てる。――そして、どれも楽しそうに笑いながらやっているのだ。


 アドルフが今まで一度も見たことのないウィステリアが、そこにはいた。


『ウィステリア……君はまたローズマリーに嫌がらせをしているの?』

()()? ローズマリーはアドルフ殿下に何をお伝えしたのです?』

『君が……彼女のドレスを引き裂く、と。だから、新しいものを僕から贈ることにしたよ』


 王太子から贈られたものであれば、ウィステリアも安易に手を出すことはできないだろうとアドルフは考え、ローズマリーに新しいドレスを贈った。


(あの時、ウィステリアは微笑んでいたな……)


 あの微笑みは、恍惚なものでも、嫉妬してそれを強がって隠しているものでも、ましてや、心からのものでもなかった。


 あれは――そうだ、どこか悲しそうな笑み。




 学園を卒業するとすぐアドルフとウィステリアの婚約は解消された。

 決め手は、ローズマリーを階段から突き落としたことだった。彼女は酷い怪我を負った。そのため、ウィステリアはアーネスト侯爵家から除籍され、家からも追放された。


 それ以降、彼女とは会っていない。


 神の加護を受けたアーネスト侯爵の強大な魔力を欲している王家は、何が何でも侯爵家との縁を結びたがり、彼の血をひくもう一人の娘ローズマリーとアドルフを婚約させた。

 通常、考えられないことではあるが、アーネスト侯爵の溺愛するローズマリーからの懇願もあったというのが大きかった。


 念願かなったというのに、アドルフの顔は冴えなかった。そして、今この場所に()()()きている。


「皆、忘れてしまっている――」


 先ほどまで誰かが座っていたかのようなソファにチラッと目をやると、フッと息を漏らした。


「所詮、中身のない飾りだけの王太子だってこと」


 アドルフは目にしていたソファにごろりと横たわり、天井からキラキラと降り注ぐ太陽の光を浴びながら、そっと目を閉じる。


 ソファに接した背中が――少し、温かかった。




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