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剣客居酒屋 草間の陰  作者: 松 勇
凶賊非情始末
8/56

湯豆腐と芥子

 その晩、草間にはお静の姿がなかった。

 

 最近の忙しさで疲れもあったのか、風邪をこじらせてしまい寝込んでいる。

 医者を呼んで見てもらったところ、大事ではないとのことで、住んでいる裏の長屋で休んでいた。


 運が良いのか悪いのか、夕刻から降り出した雨のせいで客は少ない。

 わざわざ合羽(かっぱ)を被ってやってきた伊八も早々に引き揚げてしまい、早仕舞いして一人で呑もうかなどと思っているところで、入り口の引き戸がガラガラと開いた。


「らっしゃい」

「ふう、酷い目に会いました。まだ大丈夫でしょうか?」


 濡れ鼠になって入ってきたのは、山根十内(やまねじゅうない)である。

 この男が来るのは御用のついで、だいたいはこの辺りの見回りだが、この時間なら張り込みをしていたのかもしれない。

 浪人を装うための着流が、雑巾のように絞れるぐらいに濡れそぼっている。

 おそらく(ふんどし)まで染みていることだろう。


 冬吉は乾いた手拭いを渡し、火鉢(ひばち)炭団(たどん)を入れて竈門(かまど)の火を移した。

 春とは言え、雨に打たれては体を冷やして風邪を引きかねない。

 火鉢を置いて暖を取れるようにした。


「何でしたら、上の部屋で体を拭いてください。着替えも用意しますから」

「いやいや、暖が取れれば十分。そのうち乾くでしょう」


 そう言いながら、顔をぬぐい、冬吉がたらいを持ってくると、身に付けたままの服をあちこち掴んで絞っていった。


 時間も時間だった。

 冬吉はとりあえず、のれんをしまい、今日はもう十内と二人で呑もうという気になっている。

 何なら泊まっていけばいい。


 火鉢も出したのだから、体のあったまる鍋物でもと、湯豆腐を準備することにした。


「お腹はいかがですか? 菜飯は用意がないのですが」

「いやいや、夕餉(ゆうげ)は早めに済ませたので、たまには酒であったまろうかと思いましてね」


 珍しいこともあるものだと思いながら、(かん)をつける。

 どうも十内も、今日は冬吉と呑みたかったのではないかと思えてきた。


 冬吉の湯豆腐は鍋底にこそいだ大根をしき、出汁にはいりこ(・・・)を使う。

 十内と初めて会った晩、清水門外の火頭改方(かとうあらためかた)の役宅で出た湯豆腐もなかなかの物であったが、出汁の取り方では冬吉にかなうものではなかった。


 あちちと舌を軽く火傷しながら、十内は豆腐を口に入れる。

 体の芯から温まり、熱燗を舐めると冷え切った体がぽっぽとなり始めた。

 これなら風邪を引くこともあるまい。


「いやいや、昼間からこの辺りを見回っていたのですが、少し遠くに足を伸ばしたところで、降られてしまいまして。慌てて走ったはいいが、このざまです」

「遠くというと、どちらに?」

「ほれ、あちらに真っ直ぐの、もう畑が広がっている辺りですよ」


 行儀悪く箸で指し示すが、十内がやると不躾(ぶしつけ)には見えないから不思議である。


「ああ、それなら私も昼ごろにその辺におりました。畑の中にポツンとある菜飯屋に入ってみましたが、なかなかに美味くて。あれを食べた後だと、うちの菜飯ももっと工夫が必要だと、今日は仕込むのをやめてしまいました」


 笑ってみたところで、十内が驚いた顔をしているのに、冬吉は気づいた。


「いかがされましたか」

「いやいや、まあ、今日は他に人もいないし、冬吉さんになら話しても問題ありますまい。珍しく酒を呑もうと思ってやってきたのも、何かの巡り合わせかもしれませんな」


 そう言って、ずずずと湯豆腐の椀をすすり、熱燗をグイと煽った。

 すかさず冬吉が酌をし、それ返してから、十内は淡々と語り出した。



 十内はもう十五年ほど火盗改(かとうあらため)の役についている。

 今のお頭である長谷川平蔵がその任つき、大盗『真刀徳次郎(しんとうとくじろう)』をお縄にして名をあげたのは、寛政元年(かんせいがんねん)の昨年のことである。

 山根は元々平蔵の父、長谷川宣雄(はせがわのぶお)の時代にその組下となった。

 その頃、長谷川宣雄も火盗改方頭かとうあらためかたかしらの任についていた。

 長谷川家は二代に渡り、御先手組弓頭おさきてぐみゆみがしら火盗改方頭かとうあらためかたかしらに任ぜられている。


 若き十内は敏腕の与力として、いくつもの功績をあげた。

 その後は頭が変わっても、その実績を買われて新しい頭に貸し出される形で残り、経験を積んで行ったのである。


「若い頃、どうしても捕まえたいと思った盗人がいましてね」


 少し顔を赤らめながら、酒を嘗めて続ける。


「元々流しの一人働(ひとりばたらき)で、どんな屋敷も音もなく入り込み、気づくと金子とともにいなくなっているというので、隙間風の小助などと呼ばれていました。私がこのお役目についた頃には、二十人ぐらいを纏める本格派の頭でした」


 冬吉は『本格派』の意味するところを知っている。

 江戸だけの話ではなく、冬吉の生国にも盗人にはその区別があったからだ。


「小助の一の子分は、イタチの丈吉。これがまた息のあった二人で、丈吉が目当ての屋敷を嘗め、段取りをする。小助は子分たちをまとめ、イタチの段取り通りにことを運ぶ。実際の仕掛けの際に丈吉は錠前(じょうまえ)も破ったそうですが、とにかくその手口は鮮やかのものでした」


 嘗役はともかく、仕事の段取りは頭が行うものだ。

 それを一の子分とは言え、手下に任せるというのはなかなかできるものではない。

 それだけ信用できる腕であったのだろうし、それができることを器と思わせるほどに、小助の方も一廉(ひとかど)の親分であったのだろう。


「しかし、その小助と丈吉にも失敗することはあります」


 少しだけ、懐かしそうな顔に悲しげな影が入った。


 四谷のはずれにある呉服屋(ごふくや)の屋敷に忍び込んだ時、まだ若い手下の一人が、段取りを無視して先に押し入り、たまたま起きていた主人の息子を匕首で刺したのだ。


 小助はそもそも仕事の時には、仕掛けのための道具以外、刃物の携帯も許していない。

 その若造は二重三重に小助の言いつけを破ったことになる。


 十内はたまたま小助の次の狙いがその屋敷であることを、密偵からの知らせで感づいた。

 思えばそれもその横着な若造の失態だったのだろう。


 十内たちが屋敷を取り囲み突入したのは、若造の殺しを小助が見つけた直後だったらしい。

 烈火の如く怒った小助が若造から匕首をとりあげ、首筋にそれを突きつけていた。

 突入がもう少し遅れれば、小助は若造を粛清(しゅくせい)していたのかもしれない。


 ところが、捕方(とりかた)に気づいた小助は、その若造を背に庇うように、振り向いて匕首を持ったまま両手を広げて構えた。


『逃げろっ、このろくでなしがっ!』


 小助がこう叫んだのを十内は覚えている。


 十内は得意の万力鎖(まんりきぐさり)を若造に向かって飛ばした。

 若造の足にそれが絡み、引き倒すと思われた刹那、そこに小助の足が伸びた。

 万力鎖はその足に絡まることはなく、分銅が膝を直撃した。


 おそらく骨は砕けただろう。



「若造はその隙に、小助も仲間も置いて逃げてしまいました。一方小助は立ち上がれない。私が走り寄って縄をかけようとした時、丈吉に体当たりを喰らいました。私が怯んだ隙に丈吉は小助を背負って捕方たちのいる方に突っ込んで行きました」

「それで、捕らえられたのですか?」


 いやいや、と手を振って、ふと笑って見せた。


「丈吉は、まあイタチなんて呼ばれて風采(ふうさい)は上がらないが、実に用意周到でした。懐には目潰しの粉を持っていたんですね。芥子(からし)がたっぷり入った。それをぶわっと巻き散らかして、捕手どもが怯んだ隙に逃げ切ったんです」

「それはまた……」


 冬吉は軽く吹き出した。

 万が一、家人や御用の者に見つかった際にも、殺生せずに逃げ切るための準備だろう。

 小助の流儀を徹底しつつ、不測の事態にも密かに備えている一方で、そのやり方が実に面白い。


 その後、半分ほど捕縛した手下たちは大方島流しとなった。

 隙間風の小助は引退し、家人に手を掛けた若造を除く残党は、イタチの丈吉が引き継いで組織していたようだ。

 その後に捕まえた盗賊や。情報網を持つ密偵からの知らせで分かったことである。


 ただ、イタチの丈吉という男は、人の上に立つこと、つまり頭になるには向かない男だったようだ。


 密偵や捕縛した盗賊たちの話では、一、二年で手下たちは散り散りになったとのことだ。

 時々、イタチの丈吉の仕事と思われる盗みはいくつかあったが、仕掛けの見事さはともかく、一人働(ひとりばたらき)であろうケチな仕事だけになっていった。

 隙間風の小助が引退してから、五年ほど、つまり、今から五年前ぐらいには、イタチの丈吉も足を洗ったか、江戸近辺からはいなくなったようである。


「それが、つい半年前に見つけたのです。隙間風の小助とイタチの丈吉を。今日、冬吉さんが入った菜飯屋で」

「確かに台所には、年寄りともう一人男がいたようですが。じゃあ、あの菜飯もイタチの丈吉の仕掛けということでしょうか」


 冬吉でも敵わないと思われたほどの菜飯である。

 それを作ったのが、元盗人のイタチ(・・・)とは驚きではあった。


「そうでしょうね。丈吉が工夫したものを、小助がうまく商売にする。堅気になってもそれは変わらないのでしょう。うちのお頭は本格派の盗人が足を洗っていたなら、そのままにしておく考えですから、一度、顔を変えて店に入ってからは踏み込んだことはないのです。どんな様子でしたか?」


 十内はこれが気になっていたのだろう。


「気立ての良い娘さんと三人でやってましたね。飯もうまいし、雰囲気の良い店です。大きさの割には結構繁盛しているんじゃないでしょうか。ところで……」


 冬吉には何かが引っ掛かった。

 店に入ることがないのなら、今日はあのあたりで何をしていたのだろうか。


「あ、いやいや。今日は別の件であの近くに行ったので、昔話を思い出したのです。酷い畜生働を続ける、マムシの剛三と言う男を見たという密偵がいましてね。それが、どうも十年前に家人に手を掛けた若造に、人相が似ているのですよ」

「なるほど、それで気になってあのあたりに」


 堅気となった元本格派の頭とその腹心、そこに凶賊となった元手下が現れたらどうなるか。

 少なくともあまり良いことは考えられない。


 冬吉は嫌な予感がした。

 同じ予感が十内に雨の中の探索をさせたのだろう。



 ささやかな宴は終わった。

 冬吉は泊まっていくように勧めたが、翌朝早くには平蔵に状況を報告する必要があるとのことで、十内は傘を借りて帰って行った。


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