表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
剣客居酒屋 草間の陰  作者: 松 勇
凶賊非情始末
7/56

格上の菜飯

「いらっしゃい!」


 元気よく、凛とした心地よい声で若い娘が客を迎える。


「はい!菜飯と田楽一丁!」


 菜飯屋(なめしや)の看板娘、齢十七のお(なつ)は働き者で気立てもよい。

 別嬪(べっぴん)というわけでもないが、凛とした声と、柔らかい物腰、色黒だが花咲くような笑みを浮かべる。

 近所では男からも女からも人気がある。

 看板娘は吉原の太夫(たゆう)などではないから、色気や気品よりも元気で心地よい喋り方が何よりも大事だ。

 お夏にはそれがあると見えた。


 菜飯屋は本所からは少し離れた田畑が広がる辺りにあり、


菜飯(なめし)田楽(でんがく)


としか書かれていない看板を挙げている。


 菜飯とは、『菜』を入れた飯、要するに炊き込みご飯や混ぜご飯のことである。

 最初、江戸から上方などに向かう街道の山茶屋などで出していたものが、旅人の口コミで江戸でも流行るようになった。

 特に菜飯と田楽、味噌汁を合わせて出す菜飯田楽、今日で言う定食が人気を博していた。


「先のお客さんの菜飯、持っていってくれっ」

「いっしょの田楽も上がったぜっ」


 店の奥から立て続けに威勢の良い声が上がる。

 最初の声は元気だがそこそこの老いの気配は感じられる。

 後の声は四十ぐらいの壮年と思われた。


 この店の主人は老いた方で、名を小助(こすけ)と言った。

 如何(いか)にも好好爺(こうこうや)と言ったていで、ニコニコしながらどんぶりに菜飯を盛り、味噌汁を用意する。

 右の(ひざ)が悪いようで、引きずって歩いていた。


 田楽を焼いている壮年の男は丈吉(じょうきち)

 目の下のくまが濃く、鼻が大きいため、イタチのようなユーモラスな顔立ちだ。

 お夏はどちらにも、笑顔で「あいよ」と答えて運んでいった。


 菜飯と田楽が運ばれた客は、背筋を伸ばし、手を合わせてから食い始めた。

 すらりとした見目の良い男で、箸の使い方も美しい。

 たいていの女なら見惚れて頬を染めてしまいそうだが、お夏は慇懃(いんぎん)に接客をする以上には、関心は持っていない。

 仕事中には余計なことは考えないという性格らしい。


 見目の良い客、冬吉はこの店をすっかり気に入ってしまった。

 菜飯も田楽も美味い。

 接客も心地よく、台所から聞こえてくる声も威勢いい。


 居酒屋など飲食店をやっていると、同業の店にはなんとなく入りにくい。

 しかし、自分の店しか知らないのでは、商売を続けるにも上手くない。

 冬吉は時々、こうやって少し足を伸ばした先で知らない店に入ることにしていた。


 元々、美味い物が好きだから料理人をしている。

 美味い物なら自分でこさえられるが、他人が作った物というのはまた別なのだ。


 草間を出すときに世話になった料亭の主人にも、他所の店で食事をするのは修行の一貫だと言われている。

 他人の用意した食い物から得られる発見というのものがあるのだ。


 己の中にある知識と技術だけに頼っていては、新しいものを生み出すのは難しい。

 工夫を続けるための糧として、食べ歩きは不可欠のものなのであった。


『菜飯に一仕事』


 まずそれに気づいた。

 大根の葉を炊き込んでいるが、それとは別に胡菜(なのはな)を混ぜてある。

 胡菜は飯と一緒に炊き込んでは火が通り過ぎて色味が悪くなり、苦味も出てしまう。

 なので、大根の葉を炊き込むのとは別に軽く湯がいて塩をしたものを、後から混ぜて蒸らしたのだろう。


 豆腐の田楽も良い。

 焼き加減も程よいが、のせている味噌にもいろいろ工夫がある。

 菜飯についている香の物もなかなかだし、味噌汁にも刻んだ大根が適度に入っている。


『これは負けたな』


 菜飯は草間でも出しているが、素直にそれを認める。

 草間は居酒屋なので、どうしても酒の肴にばかり頭がいってしまうが、例えば火頭改与力(かとうあらためよりき)山根十内(やまねじゅうない)のように、酒よりも飯の方を求めて来る客もいる。

 もう少し、飯にも工夫の余地があると気づいたのだった。


「ご馳走さま。ここに置いていくよ」


 久々に良い店を見つけたと満足した冬吉は機嫌よく店を出た。


 もし、この時、冬吉がもう少し、せめて後から来た客が帰るまでの間、ゆっくりと茶でも貰っていればと思うのは後日のことである。


 しかし、いかに聡い冬吉と言えども、神通力(じんつうりき)を持つわけではない。

 この後の惨劇(さんげき)は避けようのないものであったと言えよう。



 冬吉が店を出て少したった。

 後から入った客は随分とゆっくり菜飯を食べている。


「お夏や、客も引いてきたし、今のうちに食べとけ」


 小助の言葉に、お夏が台所に入り、変わって丈吉が出てきた。

 丈吉はすでに済ましていたようだ。

 今日はいつもより忙しかったので、まかないは別に用意したものではなく、店で出している菜飯を握ったのと、香の物だけである。

 それでも、お夏は自分の店の菜飯が好物なので、にこにこしながらそれを口に運んだ。


「おい」

「どうかされましたか?」


 一人だけ残っていた客が声をかけてきた。

 答えたのは丈吉である。

 丈吉の目が見開かれた。今初めて、客の顔をよく見たことになる。


「イタチの丈吉ともあろうものが、たかが菜飯屋の下働きとはな。随分変わったもんだ」


 冬吉の後に入った一人客は、少々人相が悪かった。

 お夏も警戒はしていたが、今は顔つきまで変わっている。

 普段なら入り際に断るほどに。


「ま、マムシの……」


 言いかけた瞬間、その客が丈吉を手で払い除けた。

 腰掛けを派手に転ばしながら、壁まで飛ばされる。


 男はそのまま台所まで入ってきた。

 お夏には何が起こっているのかはわからない。

 台所で談笑していた小助が庇うように男との間に入る。


「これはこれは、隙間風(すきまかぜ)の小助親分じゃあありませんか。こんなところで菜飯屋の親父をやっているとはね」


 お夏には男の言葉の意味はわからない。

 ただ、小助も丈吉もどこか堅気ではなところがあるとは薄々感づいてはいた。


「マムシの剛三っ!畜生働(ちくしょうばたらき)で荒稼ぎしているお前さんが、こんな萎びた菜飯屋になんのようだ」

「もちろん枯れきった先代親分になんざ用はない。隠居したと言っても、五年やそこらであの(・・)イタチの丈吉の腕が鈍っていると思わんがな」


 小助の顔がさらに険しくなった。


「ろくに()めもしないで押し入って皆殺にする。そんなお前らには丈吉も必要なかろうがっ」


 お夏にはわからないが『()める』とはこの頃の盗賊たちの用語で、盗みの対象となる商家への事前調査を意味する。

 盗みの成果に直結する財産状況から、家の間取り、家人の生活時間帯までを事前に外から見とる役割を『嘗役(なめやく)』と言う。

 家人に気づかれることもなく、静かに盗みを働く『本格派(ほんかくは)』の盗賊ならば欠かすことのできない仕事だ。


 こうした下調べを省略して、財産状況だけ把握したら、強引に入り込んで盗みを行うのが『急ぎ働(いそぎばたらき)』、初めから家人を殺すことを前提にし、大量殺戮を当たり前に行う今日の強盗殺人を『畜生働(ちくしょうばたらき)』と呼ぶ。

 『本格派』の盗賊からは外道としか思われない非常識な行為とされていた。




 余談になるが、筆者は思う。

 江戸の昔、いや、それ以前から日本人というのは、宗教的な戒律の代わりに職業倫理を拠り所にして生きてきたのではないか。


 寿司屋は元々道端で行われる、今日のファーストフード店のような位置付けの安易な商売であった。

 それが晴れの日の御馳走になったのは、商売度返しで技術を追求した当時の寿司職人たちの『心意気』ゆえではないかと思われるのだ。


 他にも日常的な消耗品を商人からの請負で製造する職人たちが居た。

 彼らも必ずしも儲けにつながらない工夫と努力を積み重ね、今日では民芸品、芸術としての扱いを受ける仕事を残している。


 そうした職人の職業意識、職人道は仕事そのもののみならず、人格の形成、あるいは今風に言えばクオリティ・オブ・ライフを高める役割を果たしていたと言えるだろう。


 世界的に評価される浮世絵は商業的な広告で、言うなればチラシやブロマイドである。

 高値で取引される根付(印籠などに付けられた今日のストラップ)なども、何でもない消耗品の作者がそれを芸術の域まで高めた仕事であると言える。


 社会の敵と言える盗人にすら、この『職人道』の概念が存在し、『本格派』と呼ばれる盗賊たちは、『殺さず、姦さず、難儀させず』と言う三箇条を産み出した。

 決して社会に受け入れられない犯罪となる稼業ですらも、職人としての倫理を産み出し、心に救いを求めていたのである。


 しかし、マムシの剛三にはそんなことは理解できなかったであろう。

 実際にはその道の達者にだけ理解ができた、難解な思想であったのかもしれない。


「俺にだって嘗役ぐらいいる。だが、イタチの丈吉ほどの腕利きが必要になる仕事ってのもあってな。手伝ってもらうぜ」

「馬鹿を言うなっ。堅気になった者に。仁義ってもんがねぇのか!テメェにはっ」


 小助はすぐそばにあった包丁を掴んだ。

 体ごと剛三に向かっていった動きは、老齢と膝のことを考えれば目を見張るものであったかもしれない。

 しかし、まだ四十前で壮健な体付きの剛三に対しては、如何にも無謀であった。


「どのみちあんたにゃ、用はねぇんだよ。先代」


 お夏は声を上げることもできなかった。

 包丁を持って突きかかった小助を剛三は面倒そうに脇差を抜いて斬ったのだ。

 お夏が悲鳴を上げるまでは、数瞬の時を要した。


「お祖父ちゃんっ!」


 まだ、小助には意識があった。

 無念の表情とともに、涙を流すお夏への愛情が朦朧(もうろう)としながらも口から漏れた。


「お夏、丈吉は……」


 そこまでが限界だった。

 お夏には小助が何を言おうとしたのかはわからない。


「ふんっ、さて、丈吉、これでわかっただろ?この娘を小助の爺と同じにしたくなかったら、手助けしてくんな」

「この、親殺しがっ」

「しらねぇな。こんな干物から生まれた覚えはねぇし、古臭え流儀を押しつけられてお縄になりかけた恨みならいくらでもある」


 いつの間に入ってきたのか、剛三の手下に羽交い締めにされて連れてこられた丈吉の啖呵に、剛三は軽く嘯いて見せた。


「なあに、この娘に無体なことをしようって訳じゃあねぇんだ。丁重に扱うぜ。お前がちゃんと働いてくれるんならな」


 マムシはイタチを睨みながら、その舌をちろりして見せた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] あまり時代小説には縁がなかったのですが、ここまで楽しく拝読しました。なにか読みやすくなる工夫をされているのでしょうか? とてもテンポ良く読み進められます。 [一言] 続きも読ませて頂きます…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ