凝り性の蕪
「もうちょっと、顔さえ良ければ……」
「いや、そういうもんでもねぇだろうさ」
左近次の呟きに、呆れたように平蔵が言う。
「それを言えば、冬吉っつぁんなんて、とっくに女房持ちだろうよ」
「いっ!?」
伊八の言葉に、冬吉がぎくりとした。
仕込みをしていた、小ぶりな蕪を落としそうになる。
「ば、馬鹿、そんなことでかい声で言ったら……」
平蔵が慌てて伊八の口を塞ごうとするがもう手遅れである。
「はーい、私で良ければいつでもっ!」
「いや、私、私だってばっ!」
「抜け駆けはなしーっ!そう言う約束でしょう?」
追っかけ娘たちが大騒ぎである。
本気で押し掛け女房を決めこうもなどという、思い詰めた娘たちについては、今までもお静がきつい説教をした上で追い出し、出入り禁止にしてきている。
追っかけ娘たちは、そこまで本気とは思われないのだが、こんな話をしてしまうと大騒ぎになる。
「お前も、冬吉さんに嫁ぎたいとでも言うのかっ!?お前に冬吉さんの女房が務まるわけがないだろうがっ!」
娘たちの騒ぐ様を見た、菊次郎が、語気を強めた。
菊次郎も、少し前までは草間でよく呑んでいたのだ。
冬吉は姿形だけでなく、人なりも、技も一流の男である。
若い居酒屋の店主という身分ではあるが、これほどの男に嫁げるほどに、娘を仕込んでいたつもりはない。
それだけではない。
菊次郎でなくとも、察しの良い常連は皆気付いている。
冬吉は、どこのかはわからないが、元は士分。
細かい所作や、言葉遣いにそれが現れている。
人の格が違いすぎる。
身分は今は町人だが、教養があり、技もあり、物事をよく知っている男だ。
普通の町娘であるお里などの手に負える男ではない。
怒鳴りつけられたお里は、一瞬だけ父親の顔を見てから、再びぷいとそっぽを向いた。
「そんなわけない。でも、心に決めた男がいるなら、嫁になど行かなくて良いと言ったのはおとっつぁんだよ」
目を合わせにずにそう言った。
菊次郎は二の句も告げなかった。
確かに、父親としての威厳や寛容さを示すためにそのように口にしたことがある。
『武士に二言はない』
などというが、武士道の考えというのは、江戸の町民にも浸透し、男性全般の倫理観にも影響を及ぼしていた。
職人である菊次郎も、『男に二言はない』と考えている。
しかし、先ほどの言葉は、お里がまだ十四の時に言ったことである。
まさか覚えているとは思わなかった。
驚きのせいか、菊次郎はお里の放った重要な言葉の意味を理解していなかった。
『そんなわけない』
つまり、冬吉と所帯を持ちたいわけではない。
しかし、『心に決めた男がいるなら……』なのである。
心に決めた男がいるにも関わらず、色男、冬吉の店にあしげく通うというのはどういうことか。
などと、遠くから聞いていた冬吉が考えても、わかるはずもない。
そもそも冬吉は、男前なのに女が苦手なのだ。
お里という娘は、追っかけ娘の最年長でまとめ役である。
もし、お里がいなかったなら、追っかけ娘たちはもっと過激な行動を取っていたであろうし、いろんな騒ぎを起こしていたかもしれない。
冬吉に群がる娘たちに秩序を与えるために働いた、そんな側面もあったりする。
だから、お静もお里のことはある程度認めているのだ。
冬吉の容姿を眺めて楽しむ事は他の娘たちと同様だが、あんまり騒ぐ方ではないし、むしろ他の娘がうるさくすると、注意する方だ。
なぜ、そんなことをしてくれるのだろうと思う。
そんなことを考えながら、冬吉の手は休むことなく動いている。
小さな蕪の上下を切り落とし、ヘタのあった方から中をくり抜く。
これを酒で蒸したものに、この店の名物である鰯のなめろうを入れる。
居酒屋としては少々凝り過ぎかもしれない。
江戸の居酒屋は手軽かつ安直な肴で酒を喰らう店である。
せっかちな江戸っ子の質もあり、田楽など簡単な料理を出す店が多い。
その田楽すら焼けるのを待つのが面倒だと、煮込んでしまったのが今日のおでんである。
そんな世相に、わざわざ手の込んだ料理を出す草間は、料亭に行くほどの金はないが、口だけは肥えた酒飲みたちにとって、桃源郷であった。
安く呑めさえすれば良いという、ケチな輩はあまりいつかない。
支払いは居酒屋相応だが、どうしても肴が出るのに時間がかかることはあるし、お静の目が厳しいので、わりと上品な雰囲気でもあるのだ。
伊八も佐近次も、だからこそ毎日通うのだし、本来、もう少し高級な店に入り浸れる平蔵も、すっかり虜になっている。
そんな、味のわかる客ばかりではない。
本所には、常に新顔がいる。
この時代の居酒屋を描いた絵というのがいくつも残っているのだが、そこによく出てくる客というのがいる。
中間である。
中間とは、大名や旗本家に使える、武家奉公人と呼ばれるものの一種である。
揃いの半被を羽織り、脇差を腰に刺しているので、一眼でわかる。
武家というのは、幕府から格式を保つために、たいして必要もないような人員を雇うことを強制されているところがあった。
中間は、主人の登城時に行列に加わる以外、雑用程度の仕事しかないのがほとんどである。
少ないとは言え給金が支払われ、それとは別に衣食住が保証される。
つまり、暇はありあまり、金は少しはある。
人間、あまりに暇だとろくなことをしないものである。
中間は下屋敷で賭場を開帳したり、居酒屋で騒ぎを起こしたりと、大変素行の悪い連中が多かったのだ。
草間にもそんな中間たちが訪れることがある。
常連になる者は少ない。
素行の悪い者にとっては居心地が良くない店だからだ。
とは言え、渡り中間と呼ばれるように、年季奉公や臨時雇いの今で言う非正規雇用が多い。
武家屋敷の多い本所では、常に新顔の中間たちというのがいる。
草間で中間が飲んでいれば、まず、もぐりと見て良い。
今日もそんな客がいた。
入り口近くで呑む二人組で、おとなしく飲んでいたが、ずいぶん長居しており、すっかり出来上がっている。
声も身振りも大きくなってきていた。
自分の方が女にモテるだのモテないだの、くだらない話をしていたのが、なら、この場で酌してくれる女を口説いて来いなどとなったらしい。
なんとも無謀なことである。
二人とも小太りで、二目と見れぬとまでは言えないが、人並み以下の顔立ちである。
冬吉の店でこんなことをするというのは、もぐりももぐり。
草間の噂すら知らぬ新参者でしかあり得ない。
彼らが声をかけたのは、追っかけ娘たちであった。
「よう、楽しそうじゃあねぇか。俺たちも混ぜてくれよ」
出来上がってはいるが、まだ呂律は回っている。
「はぁっ?」
追っかけ娘たちは露骨に嫌な顔をした。
お呼びでない。
彼女たちは、見目麗しい冬吉を鑑賞しにきているのだから、小太りの醜男になど興味を示すわけがない。
なにより、お静との約束がある。
店の男性客とはあまり関わってはいけない。
見ず知らずの男と口を聞き、おかしなことになっては、彼女たちの父親に店が悪いと思われかねない。
これが、娘たちが草間に出入りをすることを許す、ギリギリの線引きであった。
お里がこれを娘たちに言い聞かせ、納得させたのである。
もちろん彼女たちは冬吉以外の男、まして醜男の中間になど興味はない。
「なんだよ、そう邪険にするなよ。居酒屋に出入りするような娘が、そんな身持ち硬いわけねぇだろ?こっちきて酌しろよ。面白い話でもしようや」
最初に話しかけてきたのとは別の男が、猫撫で声でそう言った。
こっちの方が酔ってはいる。
父親を侮り、反発して居酒屋に通う娘たち。
気が強くないわけがない。
「お呼びじゃありませんよ」
「よっぽどの色男でもない限り、口を聞くつもりもないよ。おとなしく飲んでな」
「せめて冬吉さんの半分ぐらいは男を磨いてから、声かけてきなさいな」
モテるモテないの話をしていた男に、これは容赦がなさ過ぎた。
二人とも顔を真っ赤にした。
「テメェらっ!下手に出たらつけ上がりやがってっ!」
「痛いっ!なによっ!離してっ!」
後から話しかけた方が、娘の一人の手首を掴んだ。
もう片方の腕が振り上げられる。
「おやめください。この娘たちは、他の客とは関わらないという取り決めで、居酒屋の出入りを許されているんです」
咄嗟に、振り上げられた方の腕を掴んだのはお里である。
他の追っかけ娘たちのことは妹分と思っているし、お静との約束もあるから黙ってはいられなかった。
「なんだテメェはっ!」
女の細腕で、どうにもなるものではなかった。
お里の手は振り解かれ、激昂した男に突き飛ばされた。
壁に強かに背を打ち付け、咳き込む。
「うちの娘に何をするっ!」
こうなっては菊次郎も黙ってはいられない。
まだ、追っかけ娘の手首を掴んでいる中間に掴みかかった。
江戸の人間は喧嘩っ早い。
火事と喧嘩は江戸の華などと言われる時代である。
暴力に弱く、舐められるような男では、人の上に立つことも難しい。
職人は特にそうだ。
「引っ込んでろっ!」
しかし、菊次郎ももう若くはない。
もう一人の中間に平手で引っ叩かれた上に、突き飛ばされた。
「おとっつぁんっ!」
お里が叫ぶ。
こうなると中間の方は引っ込みがつかない。
大人しく引き下がって呑むなどということは、もはやできなかった。
大暴れの上、居座り、逆に店に詫びを入れさせて、金を巻き上げて帰る。
そんな横暴も平気でやってのけるのが、タチの悪い中間である。
とは言え、草間でそんなことができるわけがないのだが。
騒ぎに気付いた冬吉は、下拵えしていた蕪を軽く握りしめた。
すぐ近くで飲んでいた長谷川平蔵は、刀を引き寄せて、腰を浮かした。
大工の伊八は、いつも持ち歩いている道具袋から、金槌を取り出したが、お静にお盆で頭を叩かれる。
そんなもんを使って喧嘩したら、死人が出かねない。
喧嘩慣れしていない者ほど、意気込んで危険なことをやりがちだ。
だが、冬吉も平蔵も動かなかった。
この二人よりも早く、追っかけ娘と中間の渦中に近付いて行った者がいた。
「あぢっ、あぢーっ!」
追っかけ娘の手首を掴んでいた男が、手を離して騒ぎ出した。
しきりに、背中に腕を回してはたいている。
後ろに近寄った佐近次が、自作のお気に入りのキセルから、男の奥襟の中に煙草を落としたのだ。
もちろん、つい今し方まで吸っていた、熱いやつをである。
「何しやがるっ!」
慌てて帯をほどき、半被を脱いで褌一丁になった男が振り向いた。
半被には穴が空いている。
振り向いた瞬間、佐近次は大上段からキセルを思い切り振り下ろした。
中間には当てていない。
その眼前でピタリと止め、静かに睨みつける。
キセルを作る職人は植木職人と違い、多くの弟子を指揮して、大仕事をしたりはしない。
腕っ節はあんまり関係ない仕事なのだが、仕事とは無関係にこの男は喧嘩に強い。
「兄さんら、この店で乱暴働いたとなると、この辺りにはもう顔も見せらんなくなるぜ」
褌一丁の中間は動けなかった。
眼力だけで震え上がってしまったのだ。
しかし、舐められては生きていけないと言うのは、職人だけの話ではない。
中間も、こいつらのような不良な連中は、ヤクザ者とも関係を持ち、賭場を開いたりする。
派手に喧嘩に負けたともなると、仲間には馬鹿にされ、侮られることとなる。
もう一人の中間の手が、脇差に伸びた。
「つあっ!」
ビュンッと言う音と共に飛来した何かが、脇差を抜こうとした手の甲に当たった。
冬吉が投げた、小振りな蕪である。
店の厨房からは離れているのだが、冬吉はそこから矢と言うよりは鉄砲弾のように、直線的な軌跡で蕪を投げたのである。
進行方向を軸に、捻るように回転を加えることで弾道を安定させ、威力も高める。
冬吉得意の手裏剣術の応用であった。
恐らくは手の甲の骨に、ヒビぐらいは入ったであろう。
痛がっている中間に、平蔵が飛びかかり羽交い締めにする。
褌一丁の方は、それを見て、その場にへたり込んだ。
「な、なんだこの店は。娘っこばっかりずいぶんいるなと思ったら、他は……」
ぶるぶる震える褌に、顔を近づけて、佐近次は言ってやる。
「この店の主人に喧嘩で勝てる奴は、この辺にゃ誰もいねぇんだよ。となりゃ、集まるやつにもそれなりのはいるさ」
キセルで自分の首をトントンと叩きながら、嘯いた。
そして、顔を離してから、言葉を続けた。
「勘定して帰れ。これ以上暴れるなら、冬吉さんが本気になっちまう」
佐近次の後ろで、冬吉がゴキリと拳を鳴らした。
褌男の背後では、平蔵がもう一人を絞め落とし、脇差を取り上げていた。